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Full text of "Minakami Takitaro zenshu"

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PL  Minakarai,  Takitaro  (pseud.) 

ゆ  Minakami  Takitaro  zensha 

15 

1931 
v.6 

PLEASE  DO  NOT  REMOVE 
CARDS  OR  SLIPS  FROM  THIS  POCKET 

UNIVERSITY  OF  TORONTO  LIBRARY 


Asia お 
Studies 


水 ふ 滋^,^ 仝 4 


V 


SEP  2  ( 1966 


ゃノ 


;ぉ 报 H —  十 二月 二 年 八 和 昭 


久しぶりで 芝居 を 見る の 記 

無名 會の 「夜の 潮」  

食卓の 人々  


倫 敦の宿 


第一 部 英京 雜記 


少佐の 家 

千 九 百 十四 年の 秋 柘植は 倫敦に 着いた。 

友 だち の 泊って ゐる 家の 主婦の 世話で、 ゥ M スト. ケン シン トン の 軍人の 家に 置いて 貰 ふ 事に 

なった。 最初 紹介され て、 窒を 見に 行った 時 は、 四十 を 半分 以上 は 確に ぎた 夫人が 扉 口に 迎 へて 

客間に 通した。 火の 氣の 無い、 寒い 椅子に 差 向 ひで、 言葉の 不自由な 爲 めに、 雙 方共厦 々手 持 無 

沙汰に 惱ん だ。 脊も 勝れて 高く、 充分 肉附 のい い 夫人 は、 贵 夫人ら しい 容體を 持って ゐた。 黑目 

勝の まある い 目と、 かなり 厚ぼったい 靡に、 横幅の 狹ぃ爲 めち ひさく 見える 紅い 唇が、 どうかし 

たと へば 

た 拍子に 娘ら しい 氣持を 浮かばせた。 異國の 人と 見れば 必す 出る 質問 —— 例 之、 何の 目的で 此の 

國には 来たの か、 幾年 位 居る つもり か、 如何い ふ 生活 をす る氣 なのか、 親 は、 兄弟 は、 姉妹 は、 

友達 は II 夫人の 極端な 早口が、 矢つ ぎば やに 來て 相手 を 困らせた。 語學の 才能, の 無い、 口の 重 

い 柘植の 英語 も、 夫人に とって は 難解だった。 

r 貴方の その 亞米利 加の アクセントが 聽 取りに くいので すね。」 


? S の敦倫 


「亞米 利 加に は ニ年ゐ ましたから 爲 方がない と 思 ひます。 けれども 私 は 貴方の 早 n に 驚いて ゐ る- 

の  です。」 

遠慮 の 無 い 柘植の 返事に、 夫人 は 上半身 を搖 つて 笑った。 

二階の 室 は 往来に 向いた ニ間績 で、 壁紙 や 絨毯 は 汚 なく よごれて ゐ たが、 彼に とって は 贅澤過 

る 位だった。 主人 は 陸軍 工兵 少佐で、 田舍の 兵營に 行って ゐて 留守 だとい ふ 事 だつ お。 二十 二、 

十九、 十六の 三人の 娘と、 十四になる 男の子が ゐ るから、 友達が あって 賑やかで いい、 語 學の勉 

強 を するならば 上の 娘が 喜んで 敎へ ると いふ 夫人の 話だった。 柘 植は滿 足して、 その 家に 置いて 

貰 ふ 事に きめた。 

三人の 娘が あると いふ 事 は、 流石に あだに は 聞かなかった。 その 娘 達の 美しい 事 を 希望して、 

いろく 

勝手な 想像から、 種々 の 場面 を 胸に 描いた。 .. - 

約束の 日に、 假 の旅舍 から、 少佐の 家に 引越した。 地下 鐵 道の 停車場 を 出て、 白揚の 並木の 下 

を、 飽を 提げて 步 いて 行った。 同じ やうな 構造の 古びた 煉瓦 造の 家の 並んで ゐるー 廓で、 霜に う 

たれた 落葉ば、 ぴったり 敷石に へばりついて、 腐って 行く 匂 ひが あたりに 漂って ゐた。 

入口の 呼 鈴 を 押す と、 夫人に よく 似た 娘が 出, て來 た。 


「お待ちして ゐ ました。 どうぞお 入り 下さい。」 

と 氣輕に 口 をき いて、 いきなり 柘植の 手から 飽を とった。 

「こちら へ。」 

と 5 

導かれる ままに 二階に 上った。 運送屋に 托して 出した 大飽は 夙に 來てゐ た。 此 間はなかった 寢 

臺も、 机 も、 本箱 も備 へて あった。 その 机の 上に、 ち ひさい 鉢に 植 ゑた 淡紅色の へ ザ ァが哚 いて 

ゐた。 

「今日はお 母さん は 留守です が、 外の 者 は みんな 居ます から 御用が 濟ん だら 階下に いらっしゃい 

まし。 突當 りの 客間です。 御存じで せう。」 

早口 迄 も 母親 似の 娘 は、 いひ 殘 して 出て 行った。 

スカァ 卜 

黑ぃ 袴に、 紫の 毛 絲の短 衣 を 着て、 ひっつめた 髮を 結った 頰邊の 赤い 娘 は、 柘 核の 期待 を 裏切 

つた。 男の やうな 口の きき 方で、 氣取氣 の 無い 物 ごし は氣 持が よかった が、 密かに 描いて ゐた小 

說的 想像の 如何なる 場面に も ふさ はしくない ものであった。 柘植は 自分の 虫の よさに、 人知れ す 

苦笑した。  -  • 

手 廻りの 物 を 整理して しま ふと、 折角 降りて 來 いと 云 はれた のに、 一人で 寒い 窒に玆 つて ゐ ケ. 


宿の 敦倫 


のも變 だし、 さう かと 云って、 まだ 知らない 人間の 集って ゐる ところに、 のこのこ 入って 行く の 

も氣 になった。 

L ぱ らく 

暫時 は躊蹂 したが、 結局 はお づぉづ 階段 を 下りて 行った。 足音 を 聞いて、 客間から 顏を 出した 

さっき 

の は 先刻の 娘だった。 

ー步踏 入った 時、 室の 中には 暗い 程豫 期しない 人數が 居た。 その 人々 の 緊張した 視線が、 一時 

に 自分の 全身に そそがれた 氣 持で 拓植は 佇んだ。 

「此の方 は …… 」 

娘 は みんなに 紹介す るつ もり で 口 を 開いた が、 彼の 名前 は 知らなかった。 

「貴方のお 名前 は。」 

「柘 植。」 

r 柘植 さんです。 これ は 私の 姉。 これ は 私の 妹。 これ は 私の 弟 …… 」 

順々 に 引合され て、 雙 方が 固くなって 握手した。 外に は 若い 軍人と、 ー曆 若い 美少年の 客が 居 

た。 

きれ^し 

煖爐に は 火が 燃え、 飲み 荒された 紅茶 茶碗 や、 喰べ かけた 麪麴の 切 端が ちらかって、 かへ つて 7 


家庭ら しい 景色 だ つ, た 。 長 い 間 下宿 住居ば かりして ゐた柘 植には 珍しかった。 

「さあ 音樂は 如何な つたので す。」 

と 今迄の 話に 昃っ たらしく、 軍人が 姉 娘 を 促した。 

「でも 私 は 駄目 だ わ。 それよりも、 此頃は ジョォ ジのバ ンヂョ ォが大 變進步 したんで すよ。」 

「それで は 合奏しょう。」  . 

ひょろひょろ 脊の. 高い、 また 半 短 袴の 弟 は、 惡 びれ もしす に、 傍の 樂器を 取って 膝に かかへ た。 

「何 を 合せる め。」. 

姉 娘 も 別段 担ます に、 洋琴の 前に 構へ た。 

「『今宵 隊商 は 何處に 宿る』 がいい。」 

「あ、、 あれ は ジョ, ォジ のお は こだわ。」 

末の 娘 は 弟 をから かふ やうに 註釋 した。 直に 二人 は彈き 始めた。 それ は、 柘植が 亞米利 加に ゐ 

た 時、 素人下宿の 娘: が.. よく 彈 いた 曲であった。 亞米利 加から 英吉利に、 大西洋 を 横切る 船の 中で 

知合に なった 娘も彈 いた 曲であった。 

次女 は 新しくお 茶 を 入れ, て拓植 にす すめた。   


8 


宿の 敦倫 


「貴方 は音樂 お好き。」 . 

「え、、 よく はわから ない けれど 大好きです。 殊に 此の 曲 は 私に は懷 しい 氣が します。」 

彼 は その 話 をしながら、 つい 一 週間し かたたない うちに、 全く 違 ふ 世界に 見出した 自分自身 を 

新鮮に 感じた。 

合奏が 終る と 一 同 拍手した。 柘植も 一 緒に なって 手 をう つた。 次女と 末 娘が か はるが はる 洋琴 

を彈 いた。 美 少年の.. 客 は 娘 達に しつつ こく すすめられて 歌 をうた つた。 往来で 兵隊のう た ふ 軍歌 

だった。 .  . 

騒ぎ 疲れて 座が 白け か、 つた 頃、 夕暮は 霧と 共に 窓の 外に 迫って 來た。 燈火 がっくと、 軍人 は 

歸 ると 云 ひ 出した。 みんなと 握手して 客間 を 出て 行った が、 姉 娘 だけが 見送りに 立った。 

しばらく 

暫時して 叉顏を 出して、 

「お母さん は 今日は ほんと に遲 いの。」 

と 弟妹 達の 誰に ともなく 訊いた。  - 

「遲 いって 云って てよ。」 

末の 娘が. 一番 先に 答へ た。  . 


9 


一 さう, そんなら ね、 私 A さんと 一 緖に 行く わ。」 

「何處 に 行く の。」 

「何 處 だか 知らない けれど。 たぶん 晩の 御飯 は 濟んで 来る わ。」 

云 ひ 捨てて、 姉 娘 は窒の 外に 出た。 外出の 支度 をし に 行く ので あらう,. 階段 を驅 上る 音が して、 

やがて 客間に ゐる 者の 頭の 上の 二階に、 微かな 靴の 音が 閜 えた。 次女と 若者 は 目 を 見合せ て 笑つ 

た。 

「吾々 も 活動 寫眞 にで も 行かう かしら。 僕 は チヤ ァ リイ • チヤ プリ ンが 好きなん だ。」 

「ほんと に 行く。 私 を つれて 行かない。」 . 

次女 は 自分の 方から 促して 直に 立 上った。 

「けれども ねえ、 今から 出かける と晚 めし は 如何なるんだ らう。 僕 はこれ つきり お 小 遣が 無 いん 

だ。」 

5 ちぶと ころ 

內 懐から 蟇 口を出して、 銀 金具の 口 を 割って 見せた。 

r 晚 の御釵 なんか 喰べ なくた つてい いわ。 それにお 金なら、 私のと こに もちつ と はあって よ。」 

「よし、 行かう。 ララ ララ ララ ララ。」 


10 


宿の 敦^ 


若者 は 美しい 顔に わざと 變な皺 を 寄せて、 此の頃し きりに 人氣の 出た チヤ プリン の 身ぶ りで 室 

の 中 を步き 廻った。 

入口の 扉が 音 高く しまったの は 姉 娘が 軍人と 一 緖に 出て 行った ので あらう。 次女 も 身支度 をレ 

て來 ると、 若者と 肩 を 並べて 遊びに 行って しまった。 黑 つぼい 外套に、 男の やうな 釜 形の 飾りの 

ない 帽子 を 目深に かぶった 無雜 作な 風が 面白かった。 

末の 娘と 弟 は、 ちらかし っぱなし にして 出て 行かれて、 ぶつぶつ こぼしたがら 茶道具 を 片附け 

てゐ たが、 やがて 二人とも 何處 かに 行って しまった。 煖爐の 側の 長椅子に、 柘植は 一 人錢 された- 

彼 は 此の 家の人々 の 姿 を、 囘 想して ゐた。 

しなやかな 體 つきの 姉 娘 は 綺麗に 見えた。 母親に は 何處も 似て ゐな かった。 病身ら しい 胸の 薄 

いのが、 立っても 坐っても 少し 前屈みに 見えた。 近眼ら しい、 目ば たきの 頻繁な、 瞳の 碧い 目と- 

心 持 上 齒の出 過て ゐ るち ひさい 口元が、 赤 坊の面 ざし を 殘 して ゐた。 他の 弟妹 達と 違って、 物 ご 

しの 柔 かいの が 一番 心 を ひいた。 しかし、 最初から 距 なく 口の きき 易 いのは 次女だった。 母親 を 

二 廻り 位ち ひさくした ばかりで、 肉附 のい いまる まるした 體 格から、 大きい 目 や、 尖端の まある 

い 鼻 や、 厚ぼったい 癖に ち ひさく, 滞った 紅い 唇が そっくりだった。 ただ、 ゆったり と 構へ た 母親 


と は反對 に、 見榮 も嬌. ^も 無い、 男の やうな 樣 子が、 きびきびして 枭 持が よかった。 末の 娘は脊 

ぶかつ かう  スカ アト  と 

の 低い、 出 尻の、 不格好な 女だった。 膝つ きりの 袴の 下から むき 出しに なって ゐる脚 は、 此の 年 

齢 頃の 女性に 特有の 生理的 變 化が、 近いうちに はどうしても 袴の 丈 を 長く させなければ 置かない 

一  I  にきび 

とい ふやう に 見えた。 顔の 生地 も 脂肪で 汚れて、 細かい 面皰が 吹 出して ゐた。 その か はり、 會話 

の 時の 聲の. 美し さは. 珍しかった。 まるみの ある 笑聲は 殊に 可愛らしかった。 男の子 は、 まだ 發育 

し 切らない うぶな 體で、 しかも 大人よりも 脊が 高い ので、 肩に も 腰に も 蹄り が 無く、 自分自身の 

頭 を 支へ 兼て ゐる やうに ぐにゃぐにゃして ゐた。 一 番 上の 姉に 似た ところの ある 女性的の 顏 だち 

で、 色白の 頰邊に 深い 罌 があった。 

^食の 用意が 出來 たと ジョ ォジが 呼びに 來た。 壁一重 隣が 食堂だった。 I: 時 も は 母親の 坐る 場 

席 を 占めた 末の 娘 は、 薄汚ない 女中の 運ぶ 肉汁 をよ そったり、 大きい 燒 肉の 塊 を 薄く 切って とり 

しろめ; A ち 

わけながら、 今宵の 食卓の 主人ら しく 振舞った。 日本人の 珍し さは、 その 白 服 勝の 目に も ありあ 

り 見えた。 此の頃 は. 小間使が 居つ かないで 料理番ば かりだから、 諸事 不行 届で 困るな どと、 母親 

の いひ さうな 事 も 口にした。 

す ざ 

「それ はお 母さんが やかまし 過る からさ。」 


宿の 敦淪 


と 弟が 相槌を打った。 

何處 から 連れて来た のか、 老齢の 爲 めに 毛艷の なくなった 茶色の 犬 を、 自分の 隣の 椅子の 上に 

フ 矛ォク 

坐ら せて、 M の 前の 皿の 底に 殘 つた 肉汁 をな めさせたり" 喰べ かけの 馬 鈴 薯を肉 叉の まま 口に 入 

れて やったり、 その 肉 叉 を 洗 ひもし すに、 叉 自分の 口に 運んだり しながら 喰べ てゐ た。 時々 鼻 を 

あたま  , 

すする 癖が、 頭腦 のよ くない 子供ら しかった。 

「ジ ョ 才 ジ。」 

娘 は、 弟が 鼻 をす する 度に、 怖い顔 をして とがめた。 

r チャック はもう 十一 一三 年う ちに 居る のです が、 此の頃 は 老いぼれて 吠える 事 も出來 なくなり ま 

した。」 

と 娘の いふ 通り、 老犬は 目 やにの たまった 目から 淚を こぼしながら、 氣 力の 無い 居陲 をして 居 

た。  - 

食後 は 叉 客間で、 ジ ョォジ はしき りに バ ンヂョ ォを彈 き、 娘 は 編物 をしながら、 もてなす つも 

りで 拓植に 話しかけた。 上の 姉の 名 は クリスティンで、 次の 姉 はヂン II ヂンは 蘇 格 蘭の 名前で 

珍しい、 自分 は カザ リン、 弟はジ ョォジ だが、 父親 もジ ョォジ だから、 うちで は 弟の 事 を 、單に 


13 


ボ才ィ と 呼んで ゐる などと 云 つた。 

さっき  . 

「先刻の 人達 は責 方が たのお 友達?」 

上の 姉妹と その 男 達の 親し さに 輕ぃ疑 を かけて 訊いて みた。 

「若い 方の はう ちのお 父さんの 同僚の 子で、 先に はう ちで 預かって ゐ たのです。 今 は 保 險會瓧 に 

勤めて ゐ ます けれど、 もう 直き 兵隊になる つて 云って ゐ ます。 もう 一人の 人 も、 先から S つてる 

人です。」 

銀 針の ぴかぴか光る 手 を 止めて 一 寸 ためらつ たが、 

「たぶん 姉さんと 結婚す るんで せう —— 私の 想像です けれど。」 

こ つち 

;> ひ 足して 目元と 口元で 笑った。 弟 は、 ふと 此方に-目 をつ かった が、 子供の 關與 して はなら な 

い llK だと 思った 風で、 自分の 方が どぎ まぎして、 又せ はしな く バン ヂョォ を 鳴らしつ づチ た。 

姉 娘が 歸 つて 来た 頃 は、 流石に ジョ ォジも 音樂に 疲れて、 椅子の 背に よっか、 つて 居陲 をして 

ゐた。 

r ジョ ォジ、 もうお やすみなさい。 一 

ゆすぶ 

姉 は 外套 も 帽子 も 身に つけた ま、 で、 弟を搖 振り 起した。 


14 


宿の 教倫 


「何 處に 行った の。」 

「御飯 を 喰べ て散步 した だけ。 寒かった わ。」 

無關 心ら しく 妹の 間に あへ ながら 煖爐の 側に 行った。  , 

r ヂン は?」 

r ウイ リイと 一 緖に 活動に 行った の。」 

「そんな 事して 又お 母さんに 叱られる に 違 ひ 無い わ。」 

姉 は 自分の 事に は 頓着な く、 妹の 事を考 へて 眉 を ひそめた。 

「さう すると 今日はう ち は 三人き り? 如何でした 御馳走 はありました か。, 一 

柘 直の 方に 話 を 向けて、 さいて ゐる 椅子に 掛けた。 何から 話 を 始めて い、 のか 見當の 付かな V 

樣 子で、 旅人の 目に 映る 英吉利 並に 英吉利 人 は 如何 だと か、 英米 ニ國の 比較 をして みろ とか、 存 

外 知 !s 的な 質問 をした。 さう して、 自分自身 も 長い間 歐羅巴 大陸 を 旅行して ゐ たと 云って、 獨乙 

ゃ怫蘭 西の 文化に ついても、 多少 批評が ましい 言葉 さ へ もらした。 

二 年 前に 日本 を 出た 時から、 抦 のち ひさい 爲 めか、 言葉の 不自由の 爲 めか、 何時も 子供 极 ばか 

りされ 勝^った 石植 にと つて、 初對 面の 其の 曰から、 大人ら しい 話 をし かけられた 事 は、 すくな 


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からす 嬉しかった。 兎角 通じ 兼る 拙劣な 會 話を氣 にしながら も、 それから それと 話して ゐた。 

次女の 歸 つて 來 たの は 大分 遲 かった。 

「お母さん は? まだ?」 

入って 來 ると 直ぐ 心配 さう に 訊いて、 まだ だと 確め ると 胸 を 撫で 下して 見せた。 

「活動 は 面白かった の。」 

「面白い つてい へば 面白かった し、 つまらな いっていへば つまらなかった わ" ただ 私 は" ST 外に 出 

るの が 好きなん だ わね え。」 

「さう ねえ。 うち はほんと に氣が くさくさす るんで す もの。」 

上の 姉妹 は 暫時の 間、 家庭の つまらな さと、 母親に 對 する 不平 を こぼし 合って ゐた。 

「ああ、 お腹が 空いた。」 

次女 は 突然 大きな 聲を 出して みんな を 笑 はせ た。 

「御飯 は?」 

「喰べ やしない わ。 ウイ リイ も 私 も懷が 寒い のに、 一等 席に 入つ ちゃった でしよ。 あと は 愈々 心 

細くな つち やって、 お茶 を 一 杯飮ん だきり だ わ。」 


16 


宿の 敦^ 


さう いひながら 窒の 外に 出て 行った が、 間も無く 麴麴 のかた まりに 牛 酷 をな すり つけたの を 持 

つて 來て、 細かい 粉 を ぼろぼろ 胸に こぼしながら 嚙 つて ゐた。 

r ジョォ ジ.、 おやすみなさい。」 

姉 は 叉居陲 をして ゐる弟 を 呼 起して 促した。 

「では 私達 も寢 ませう。 責方は 未だ 起きて ゐ らっしゃる の。」 

「私 は 宵 張りなん です。 これから 故鄕の 親に 手紙で も 書き ませう。」 

「それで はお やすみ。」 

「おやすみ。」 

「おやすみ。」 

居陲に 疲れて 體の 自由 を 失った 弟 を 取 園んで、 やがて 姉妹 は 二階の 寢窒に 上って 行った。 

煖爐の 火 はま だ 燃えて ゐた。 柘植は 一 人 其 處に殘 つて 手紙 を 書いて ゐた。 宿所の 變 つた 事 を 先 

づ 知らせなければ ならなかった。  .  . 

此の度 は 陸軍 少佐の 家に て、 主人 は 兵營に 起居して 留守に 候 得 共、 夫人 も 三人の 娘 も、 一人 

の 男の子 も • みなよ き 人に て 親切に 致し くれ 候 …… 


17 


お前 は 人好きが 惡 いから、 西洋に 行ったら 殊に 氣を つけなく てはいけ ない と、 繰返して 心配し 

て ゐた母 を 安心させる 爲 めに、 彼 は 何時でも、 外國 人の 親切な 事 を 書 V. 事に きめて ゐた。 紐 育に 

ゐた 時、 宿の 主婦 は 猶太 人. だった が、 日本 譯の沙 翁 全集 を 愛 IS して ゐた母 は、 シャイ ロックから 

想 ひ 浮べて、 心配して 來た 事が あった。 今度 は 軍人の 家庭 だから、 父 も 母も滿 足す るに 違 ひ 無い 

と考 へた。 

しかしながら  すぎ  おも はれ 

乍 然 窒もニ 間つ^き にて、 小 子に は 分に 過る やう 被 思、 宿料 もこれ 迄より は 高く 候 間、 月 

.  ぞんぜ られ  • 

々銀行より 受取る 金子 も 多少 は 嵩む 事と 被存候 …… 

機會さ へ あれば 小 遣の 足り 無い 事を兩 親に 知らせよう とする さもしい 心 持 を、 彼 はぬけ 目な く 

芋 紙の 文句に 入れた。 

玄關の 扉の 開く 氣 配が したと 思 ふと、 厚ぼったい 毛皮の 外套に 着ぶ くれ、 眞黑 な獸の 皮の 襟卷 

に顏を 埋め、 同じ 手 套に兩 手 を 差 入れた 夫人が、 流行の つば 廣の 帽子 を斜 にかぶ つた ままで 窒. S 

に 入って 來た。 何處 から 見ても 立派な 貴 夫人だった。 

「おや、 責 方お 一 人。」 

驚いた 表情 をした が、 つかつか 進んで 手 を差延 した。 禮儀 正しい 挨拶 をした 後で、 自分が 留守 


13 


宿の 敦倫 


にした 事を^び、 留守中 不行 届が 多かった らうと 氣づ かって、 

「此の頃 は將校 夫人 會の 役員と して、 毎 曰 毎日 戶別 訪問 をして 步 くので す。 夫の ある 者 は 夫 を、 

子供の ある 者 は 子供 を、 國 家の 爲 めに 戰 場に 送らなければ ならない の ですから :••: 」 

主として 象 庭の 主婦 を說 いて、 あらゆる 壯 年の 男子 を 兵隊に しょうと する 運動 だと 云 ふ 事 だつ 

L ばらく 

た。 步き 疲れた 様子で、 充血した 眼に 淚を 浮べて、 暫時の 間 椅子の 背に 倚り かかって ゐた。 

「ああ あ、 すっかり 疲れて しまった。」 

と 著しい 努力で 立 上って、 . 

「少し 頭痛が する やうです。 明日 ゆっくりお 目に かかり ますから —— おやすみなさい。」 

云ひ殘 して、 疲れた 足を^ 擦って 出て 行った。 

家中の 者が 寢靜 まった 後で、 柘植も 二階の 自分の 窒に 退いた。 玻璃 戶の外 は 一面の 濃い 霧で、 

果て 知らす むらむらと 動めいて ゐる氣 配が、 まだよ く 知らない 世界の 大 都に 對 する 不安 を 一 層 深 

くした。 , 

彼 は賴り 無い 心 持で、 冷い 寢 床に もぐり 込んだ が、 頭に 馴染の 無い 枕が 氣 になって、 なかなか 

眠る 事が 出来なかった。 


10 


朝 は 早くから、 娘 達 は 客間と 食堂の 掃除 をした。 姉 は 水色、 次女 は 紫、 末 娘は眞 紅の 毛糸の 短 

农を 着て、 なりふり も 構 はすに 雜 巾で 拭いて 廻った。 椅子の 脚の 金具 を 磨 粉で 磨く 時 は、 床の 上 

に 膝 をつ いて、 まるまると 肥ったお 尻の 形 を あからさまに、 精 を 出して ゐた。 夫人 は 短 衣の かく 

しに, 兩手 をつつ 込んだ 儘、 客間の 眞 中に 立って、 口 やかましく 小言 を 云って ゐた。 

「チン、 そんな 拭 方って あります か。 キティ、 もっと 磨 粉 を どつ さりつ けて、 指の 尖に 力を入れ 

早 調子の 甲高い 聲が、 壁に 響いて 聞え てゐ た。 

柘植が 階下に 下りて 行く と、 

「お早う。」 

「お早う。 どうぞ 食堂の 方に 居て 下さい。 こちら は 掃除です から。 新聞 も あちらに あります。」 

夫人 は 一 寸振、 か へ つたば かりで、 叉 娘 達に 小言 を 云 ふので あった。 

r 早くし ない といけ ません よ。 柘植 さん も 起きて 來 たし、 ボ オイの 學 校の 時間に も 間が 無 いんだ 


宿の 教倫 


から。」  . 

娘 達 は 一. 齊に顏 を あからめて 拓植 に會釋 したが、 又 せっせと 働いた。 

食堂に は 火が 燃えて、 その 火の 前に 老犬 がうつつ なく 寢そ べつて ゐた。 窓の 外に は 今日 も 亦 ま 

驚な 霧が 大 都の 筌 を 押 包んで ゐた。 

. 食卓の 上の 新聞 を 開いても、 聯合 軍に は 不利な 戰報 ばかり 出て ゐる 時であった。 一時 は 巴 里に 

迫った 獨軍 も、 マルヌの 激戰に 大敗して 退いた が、 直に 叉 西部 白耳義 海岸 地帶に 攻勢 を 取って, 

英軍は 始終 壓 迫され てゐ た。 今日 も 亦、 頼みに 思 ふ 東部の 露 軍が、 折角 占領した ガリ シャ、 ブコ 

ヴ イナ を 敗退した 記事が 地圖 入りで 出て ゐた。 

. 夫人 を 先に、 娘 達 も 械除を 終って 食卓に ついた。 地下室から 女中の 運んで 來た燕 麥獒が むらむ 

ら湯氣 を 立 昇らせた。 

r ボ オイ は まだ 起きない の。 誰か 呼んで らっしゃい。」 . 

機嫌の 惡. い 母親の 顏を、 輕 蔑した 横目で 見ながら 次女が 立 上った。 

「ポ オイ、 早く 起きない と學 校に 遲れ ます。」 

母親の 聲を眞 似して、 廊下の 階段の 下 あたりで、 二階の 弟 を たしなめる 聲が 聞え た。 


2J 


男の子が、 陲 さうな はれぼったい 顏を 袖で こすりながら、 ひよ ろ 長い 姿 を 現 はした 時 は、 旣に 

みんな は 食事 を 始めて ゐた。 話 は 戰爭に 外なら なかった。 

かつ 

一 貴方 は ど つちが 勝と 思 ひます。 勿論 聯合 國 側と は 思 ひます けれど。」 

夫人 は 柘植の 英語 を 試みる 様子で、 しきりに 話 かけた。 

「それ は 左様です。 しかし 軍事上の 意味で 敵 を 打破る とい ふ 事 は 不可能で はない かと 思 ひます。 

私 一 個の 意見です けれど。」 

「そんな 事はありません。 絕對 に。」 

夫人 は おそろしく 機嫌 を惡 くした。 子供 をた しなめ るのと 同じ 調子だった。 

「來 年の 春 迄に はキ ツチ ナァ 元帥の 大 軍が 編成され て、 占領され た 土地 を 取 返し、 東部の 露西亞 

と挟擊 して、 伯林 迄 も 進撃す るに 違 ひない のです。」 

自分 達將校 夫人 會の會 員 達が、 今せ つ せと 壯丁 を勸 誘して 軍隊に 入れようと 努力して ゐ るの も 

その 目的の 爲め である。 遲く とも 明年の 耶蘇 降誕 祭 迄に は、 獨乙 皇帝 はセ ント • へ レナ 島に 配流 

の 身になる に 違 ひ 無い と、 確信 を 以て 斷 言した。 

1 私の 夫 もさう 云って ゐ ました。 御存じで せう、 夫 は 陸軍 少佐です c」 


22 


宿の 敦^ 


夫人 は 正面から 說 服した つもりで 昂然と した。 

食事が 濟 むと 男の子 は學 校に 行った。 夫人 も 他所 行の 衣服に 着換 へて、 將校 夫人 會の 本部に 出 

かけた。 三人の 姉妹 は、 煖爐の 側に 椅子 を 並べて、 ー齊に 編物 を 始めた。 

柘植は 二階の 自分の 室の 整理 をした。 荷物と いっても、 少しば かりの 衣類の 外 は 本ば かりだつ 

■ すっかり 

た。 亞米利 加 をた つ 時に、 それ迄に 買 集めた 本 は、 殆んど 悉皆 曰 本へ 送って しまったが、 倫敦に 

ぶあつ  すぐ 

來 てからの 僅かば かりの 間に も、 部厚な 本の 數は 直に 殖えた。 大きな、 頑丈 一方の 古い 書棚に、 

一 冊々 々並べ る 事が、 年中 紙 虫の やうな 生活 をして ゐる 彼に とって は、 何お も增 して 绶 着が あつ 

た。 買った ばかりで、 まだ 挿繪も 見ない トルストイ 全集の 二十 四册 並んだ 背 皮の 金文字が、 殊に 

心 を 躍らせた。 暫時の 間、 彼 は 書棚の 前の 椅子に かけて、 ぼんやり 烟草を ふかして ゐた。 

午後、 銀行に 金 を 受取りに 行った ついでに、 その 近くの 服 屋に此 間 あつら へた 着物の 假 鏠の爲 

めに 寄った。 店頭に 二人の 日本人が ゐて、 主人と 話 をして ゐた。 主人 は 柘植を 見る と、 值に 二人 

を 紹介した。 山高帽子 を かぶって、 無理に 肩 肱 を 張って ゐる 姿から 想像した 通り、 役人と 軍人 だ 

つた。  つん ふ- 7.?  . .  -ま , 

_.「 恰度い いところ でした。 只今 此の方々 を 御案內 して 裁判所 を 御 目に かけようと 思って ゐ たので 


23 


す。 御 忙しくなかったら、 おつき あ ひに なって は 如何です。」 

猶太 人の 主人 は、 日本の 商人に 似た わざとら しい 追 從笑を 浮べ て、 揉 手 をしながら いふの だつ 

た。 :ーー 

「如何です、 御 一 緒に 御出でになりません か。」 

日本人 も勸 める ので、 柘植も 好奇心に 誘 はれて ついて 行く 事に 同意した。 

塵埃の 多い 往來 を、 服屋の 主人 は、 椋鳥 极 にして、 自動車 や 馬車の 来る 度に 注意の 聲を かけな 

がら 先に 立って 歩いた。 二人の 人 は、 戰 爭の爲 めに 獨 乙から 逃げて 來 たのだった。 事毎に 獨乙を 

讚美して、 伯林の 賣笑婦 の 思 ひ 出 迄 も 話して 聞かせた。  • 

眞黑に 煤び た 石造の 大きな 建築物の 石段 を 上って、 喑ぃ內 部に 入って 行った。 服屋の 主人 は 看 

守に 何 か 訊いて ゐ たが、 

「今日は ダグ ラ ス 卿の 公判 ださう です。」 

とい ひ^がら、 廣ぃ 梯子段 を 二階に 導いた。 ダグラス 卿と いふの は 誰の 事な のか わからな かつ 

たが、 間も無く 法廷の 傍聽 席の 中に 入った 時、 其の 場の 景色よりも 先に 耳に 入った の は、 ォス 力. 

ァ • ワイルドの 名前だった。 柘植は 自分の 耳 を 疑 ふ 程 驚いた。 


24 


宿の 教倫 


芝居で 見る 通り、 赤 羅紗の 正服 を 着て、 白 髮の髦 を かぶった 法官 を 正面に して、 被告席に 佇立 

して ゐる のが、 曾て ワイ ルドと 惡名 をうた はれた ァ ルフ レッド • ダグラス 卿だった。 まだ 讀 みは 

しなかった が、 つい 二三 日 前に 買った 「ォ スカァ • ワイルドと 自分」 の 著者 を、 拓植は 目の あたり 

に 見た ので ある。 その 本の ロ繪 にある やうな、 美少年で はなく、 旣 に白髮 まじりの 年配で、 洒落 

者ら しい 綺麗に 剃った 顏ゃ、 注意の 届いた 衣服の 着こなし は 目立った が、 鼻の 尖端の 少し 上 を 向 

いた 容貌が、 全く 意外だった。 

すぎ 

何に しても、 一昔 近い 以前に 愛讀 した ワイルドと、 親し 過る 程 親しかった 人間 を、 しかも その 

ワイルド にも 關 係の ある 事件の 裁判所で 見る とい ふの は、 現實の 事と は 思 へなかった。 

原吿 か、 證人 か、 ダグラスに 反對 してし きりに 何 か 申立てて ゐ るの は、 ワイルド 全集の 出版者, 

ロバ アト. ロスに 違 ひ 無かった。 まるまる 肥った 禿 頭が、 法廷に 對 する 一種の 脅 怖に、 聲は 少し 

く 震 へ を帶 びて ゐた。 ォスカ ァ • ワイルドと いふ 名前 を、 最初に 聞いた の は、 卽ち 彼の 口からで 

あった。 

事件 は、 罪 を 得て ワイルドが 獄屋の 中で 書いた とい はれる 「De づ l.ofllndis」 の ダグラスに 關す 

る條を 種に して、 ロスが 脅嚇 をた くまし くした と 被告が 誹謗した ものら しかった。 ロス は * 沈着 


25 


を 失った 態度で、 しきりに 身の 潔白 を 陳述した。 

ワイルドが 牢獄 を 出る と 直に、 「De  ProfundisJ の 原稿 は 彼に 手渡しされ たもので ある。 其 浚 

ワイルドが、 ナポリに ゐる時 も、 巴 里に ゐる時 も、 彼 は 常に 往來 し、 一 千 九 百年の 秋、 巴 里の 旅 

舍に ワイルドが 死んだ 時 も、 彼 は 其の 枕頭に 在った。 而 して. その後、 ワイルドの 二人の 遣 兒の爲 

めに、 その 著作 出版に 盡 したので ある。 

繰返し 繰返し、 ロス は 自分の 儲け 仕事ではなかった 事を說 いた。 その 閒 相手の ダグラス は、 箱 

の やうな 被告席の 枠に 頰杖 をつ いて、 退屈 さう に うそぶいて ゐた。 

裁判官 は、 口 スの 陳述の 終る の を 待って 口 を 切った。 ダグラスが 口 スに對 して 送った 手紙の 中. 

に、 鞭 を 以てな ぐると いふ 一言の あった 事に 翻 係して、 そんな 暴行に あつたか どうか を 訊いた。 

「貴下 は實 際に、 鞭打 たれた 事が あります か。」 

「い: え、 只今 迄のと ころで は、 幸に 無事でした。」 

ロス は 震へ た聲 ながら、 諧謔 を 弄ぶ 餘裕を 以て 言下に 答へ た。 傍聽 人の 笑聲 が、 四方の 壁に 波: 

を 打って 響き渡った。 

「出 ませう か。 英吉利の 裁判所 も、 まあ これで 見物した わけです。」 


26 


宿の 敦倫 


役人 は 何の 興味 もな ささう に 促し 立てた。 もともと その 人々 が 主で、 柘植 は禺^ つ、, て 來る事 

になった のであった から、 さもつ まらな さうな 樣子を 見る と、 強ゐ て反對 する 事 も 出来ないで、 

彼 も 法廷の 外の 廊下に 出た。  . 

I— 一  體 何の 事件なん でせ う。」 

と 役人と 軍人 は、 皆目 見當が 付かなかった らしい 様子で 首 を 傾けて ゐた。 

「才ス カァ. ワイルドの 著作 出版 權 についての 爭が 原因ら しく 思 はれます ね。」  - 

r ォス カァ. ワイルドつ ていふの は 何です か。」 

軍人 は 柘植の 言葉 を 遮って 訊いた。 

「文士です。」 

柘植は 相手 を 侮蔑す る 心 持 を、 かくす 事が 出来なかった。 ォス カァ. ワイルド を 知らない 人間 

に對 して、 何 かしら 憤懣の 念に 堪 へない やうな 昂奮した 心 持だった。 . 

おも て 

戶 外に 出る と 一時 は薄靑 いさ もところ どころ に 見えて ゐ たのが、 又しても 黄色く 濁った 霧に 

なって、 濕 つぼい 風が 敷石の 上 を 匍 ふやう に 流れて 來た。 

力 7  W  ひや 

「どうです、 これから 珈琲 店に でも 行って 別嬪 を 冷 かさ うぢゃありません か。」 


役人 は 町角で 立 止って、 寒さう に 外套の 襟 を 立てながら 云った。 服屋の 主人に も、 一杯 飲ませ 

るから 一 緖に來 いと 勸 めた。 

ありが お 

「難 有う。 難 有う 街 座い ますが、 私 は 店に 用事が 殘 つて ゐ ますから、 此處 で失禮 させて 頂き ませ 

う。 では 皆さん 左様なら。」 

老人 は 輕く情 子 を 取って, 愛嬌 笑 を 振まい て 別れて 行った。 直に 車馬の 往來の はげしい 中に、 

づん ぐり 肥った 後 姿 は 見え なくなって しまった。 

「失禮 です が、 私 も 今日は 先約が あります から …… 」 

出たら めな ロ實を 設けて、 柘植も 其 場で 別れる 事に した。 物 わかりの 惡 さうな、 且つ 助平ら し 

い 同胞と、 賣 女の 出入す る 珈琲 店に 行く 事は羞 しかった。 あらゆる 點 から、 その 人々 に對 して 親 

しみ を 持つ 事 は出來 なかった。 

「それ は淺 念です な あ。」 

二人とも 一 通り は 引 留めた が、 柘植は 先約の ある 事 を 繰返して 斷 つた。 

「では 何れ 叉 御 目に かかり ませう。」 

「左様なら。」  - 


28 


宿の 敦淦 


i. 左様なら。」 

挨拶 をす ると 直に、 彼 は その 人々 と 反 對の橫 町に 曲った。 

霧の 密度 は 次第に 濃くな つて、 今にも 雨に なり さうな 模様に 見えた。 並木の 木の葉の、 落ちて 

腐った 匂 ひの する、 寂しい 町 を 歩いて ゐた。 大輪の 向日葵の 花 を 胸に かざして、 倫敦 市中 を氣取 

つて 步 いて ゐた ワイルドの 姿 を 想像しながら、 數奇な 短い 生涯 を 終った 天才の 一 生 をし きりに 考 

へた。 

家に 歸 つたの は 夕方だった。 日の 暮の 早い 上に、 霧に 包まれて ゐ るので、 夙く にあ かりが つい 

てゐ た。  • 

「どちらに 行って いらっしゃ つたの。」 

客間に 入って 行く と、 姉 娘が 直に 訊いた。 午後のお 茶の 後で、 象 中の 者が 其處に 集って ゐた。 

「今日は 裁判所 を 見て 来ました。」 

「裁判所? 面白い 事件で も ありまし たか。」  • 

他所 行の ま、 で、 まだ 帽子 も 取らす に、 疲れた 風で 椅子の 背に 全身 を 投げ かける やうに ぐった 

り 掛けて ゐた 夫人が 訊いた。 


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r ダグラス 卿の 誹謗 事件でした。」 

「ダグラス 卿? アルフレッド • ダグラスで すか。」  - 

びつ  <=-  あわ ただ 

夫人 は 吃驚した 風で、 狼狽し く 身 を 起した。 

「え 、左様です。 ォス カァ. ワイルドの 著作 出版者との 爭 ひで せう。, 一 

柘植 は、 自分自身に 興味の 深い 事件 を 見た 昂奮 狀 態から、 一座の 人達 も 同じ 興味 を 持つ かの や 

うな 心 持 さへ した。 

「ダグ ラ ス はう ちのお 母さんの 從 兄なん です。」 

次女 は、 さう いふ 身分の高い人 間 を 母の 親類に 持つ のが、 多少 は 誇らしい やうな 心 持 も あるら 

しく 横から 口を出した。 

「恥です。 幾度 裁判所に 引 張り出され るんだら う。」 

夫人 は顏 面の 筋肉 を 震 はせ て、 次女の 方 を 睨みながら、 唾棄す る やうに つぶやいた。 一座 は 息 

を ひそめて、 お 互に、 めいめいの 顏を 盗み見て 白け かへ つた。 

「ほんと に 恥です。 あの人のお 母さんの クィンスべ リイ 侯爵夫人 は、 ^分 偉い人だった けれど、 

念 子の 爲 めに は 年中 苦勞 して、 後々 迄 もお も ひに して 死んで しまった おやない の。」 


つ、 0 


宿の 教倫 


憤りに 堪 へない やうに、 舌の 乾いた 樣 子で つぶやきながら 夫人 は 嘆息した。 大きな 目に いっぱ 

ぃ淚 をた めて ゐた。 

、晩餐の 食卓に ついても- 柘植は 手 持 無沙汰に 惱 まされた。 ダグラス 卿の 裁判 を目擊 した 事 も 意 

外だった が、 その ダグラスと 此の 家の 夫人が 從 兄妹 同志だった の は 一層 意外だった。 うっかり 知 

ら すに 口にした その 事の 爲 めに、 夫人の 機嫌 は惡 くな つた やうに 思 はれて、 居た たまれない 氣持 

をし っゾ けながら、 やう やく 食事 を 終った。 

食後 は 客間で 珈琲 を飮む 事に なって ゐて、 娘 達 は 食卓 を片附 ける と 直に、 その 支度に 忙し かつ 

た。 

「あ、 あ、 私 は 又 M 夫人のと ころに 行かなければ ならない のか。」 

疲れ切った 様子で 夫人 は 欠伸 をしながら 立 上った。 

「では、 みんな 早く 寢 るんで すよ。 寢る 前に はすつ かり 燈火を 消して ね ご 

いひ 捨てて、 力の 入らない 足取りで 出て 行った。 玄關の 扉の しまる 音が すると、 姉弟 は 俄に 元 

気-付いて はしゃぎ 出した。 

「そんなに くたびれ てるのなら 行かなければ い ゝ のに。 M 夫人のと ころなら 叉赌 事に 違 ひ 無い わ。 


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馬鹿らしい。」 

次女 は 母親の 出て 行った 戶 口の 方に 向って、 罵った。 

r 柘植 さん。 ダグラスの 裁判 は どんなで したの。 叉 何 か 悪い 事 をした のです か。」 

姉 は、 隣室に 母親で もゐる やうに、 あたり を 憚る 聲で 訊き 出した。 近眼の、 まばたきの 度數の 

人一倍 頻繁な のが、 靑ぃ瞳 を 好奇心に 輝かして ゐた。 柘植 は晝間 見た 法廷の 光景 を、 拙劣な 言葉 

に難潞 しながら、 ぼつり ぼつり 話した。 

一方で は 弟が、 今日 も亦バ ンヂョ 才を持 出して、 自分自身 聞き惚れながら、 休みな く 彈き績 け 

た。 

r ジョ ォジ、 お休みなさい。 叉 明日 學 校に 遲れ てよ。」 

珈琲が 濟んで 一時間 位た つと、 姉 達 は 弟に 寢 床に 行けと 促し 始めた。 さう して 八 時半 頃になる 

K みんな 二階に 上って 行って しまった。 

「何卒 寢る 前に 燈火を 消して 行って 下さい。 お母さんが やかまし いのです から。」 

姉 は 最後に いひ 殘 して 行った。 

火の 氣の 無い 自分の 窒に引 込む よりも、 暖ぃ 客間の 方が い、 と 思って、 拓植は 二階から 本 を 持 


32 


宿の 教倫 


つて 來て、 煖爐の 前で 讀み 始めた。 ダグ ラ ス の 新著 「ォ ス カァ. ワイルドと 自分」 と 題す る もので 

たま 

あった。 紙 小刀で 一 頁々々 切る 新しい 本の 匂 ひが、 堪らなく よかった。 別段 面白い 本で はな かつ 

たが、 何時 迄 も 好奇心に 力強く 引 張られて 行った。 宵 張りの 彼 は、 ちっとも 陲 くなら なかった。 

夜更けて 霧 は 雨に^つ た。 裏庭の 木立に 降る 靜な 音が、 わびしく 聞え て來 た。 

こ^ざみ 

夫人の 歸 つて 來 たの は 遲 かった。 扉の あく 音に 繽 いて、 廊下 を步 いて 来る 小 刻の 靴の 音が 聞え 

たと 思 ふと、 とげとげしい 聲が窒 の 外で つぶやいた。 

「え、、 叉 燈火を 消す の を 忘れたん だよ。 爲 方が 無い つたら あり や あしない。」 

同時に 荒々 しく 窒內に 入って 来た。 

「おや、 柘植 さん、 貴方 まだ 起きて ゐ たんです か。 こんな 夜更けまで。」 

雨に 降られて、 毛皮の 外套から 零 をたら し、 寒さう に 唇 を 震 はして ゐる 夫人 は、 血走った 險し 

い SI 付で 彼 を 見た。 

「もともと 宵 張りなん です が、 讀 みかけた 本が 面白くて、 手放せ なくなって しまったの です。」 

「です けれど、 ー體 何時頃 だと 思って らっしゃ るの。」 

あく 迄 もとが める やうな 相手の 語氣 に、 柘植は 自然と 懐中の 時計 を 引出して 見た。 何時の 間に 


か、 一時 を 少し 廻って ゐた。 

「おやおや、 こんなにな らうと は 思 ひませんでした。」 

彼 は 苦 % して 本 を閉ぢ た。 

「い、 加減に おやすみなさい。 身 體の爲 めに よくありません よ。」 

不機嫌に いひ 捨てて 室の 外に 出て 行った が、 直に 又 引かへ して 来て、 

「それから 寢る 前に は 忘れないで 燈火を 消して 下さい。」 

と 荒々 しくい ひ 足して、 どうい ふつ もりな のか 廊下で 大きな 吐息 を 聞かせた。 

柘植 は輕く 舌う ちして、 燈火を 消して 寢 床に 行った。 夫人の 言葉の ひとつひとつが、 自分 をた 

しなめ る爲 めの ものだった やうに 考 へられて、 甚 しく. 小 偸 快だった。 

ォス カァ. ワイルドと 鏈 

翌日 も 夫人の 不機嫌 はな ほらなかった。 終日 步き 廻った 肉體の 疲勞の 上に、 夜更し をして 勝負 

を爭 つた 根氣 疲れが 加って、 顏面 筋肉 は ぴくぴ くひき つって ゐた。 

II  かるた  . 

「お母さん は 又 骨牌に 負けて お金 を とられた のよ。」 


34 


很の敦 倫 


「ええ 屹度 さうよ。 だ もんだ から 私達に 八當 りして るんだ わ。」 

姉妹 は 事毎に 口喧しく 叱られる 不平 を、 小聲で つぶやき 合 ひながら、 窒の 掃除 をした。 苛々 し 

てゐる 夫人と、 その 夫人 を 憚 かる 人々 の 心 持から、 家中の 空氣が 重苦しかった。 

誰 一人 滿 足に は 口 もき かない 食事の 後で、 夫人 は 柘植を 呼 止めて、 他の 者の 居ない 客間に 連れ 

て 行った。 まだ 火の 氣の 無い 煖爐の 側の 椅子に ぐつ だり 腰掛けて、 頭痛に 惱む 人の やうに、 額に 

手を當 てて 嘆息した。 

r 柘植 さん。 何卒 氣 にかけ ないで 下さい。 私 はかく さすに、 恩った ま、 をい ひます から。」 

暫時して、 夫人 は 姿勢 を 正して、 威儀 を 示す やうな、 多少 髙壓 的な 調子で 口 を 切った。 

「此の頃 は 女中が 居ない ものです から、 實は 今、 私が 自分で 貴方の 窒の 掃除に 行った のです。 机 

の 上に 本が 一 册 ありました。 あ、 いふ 本 は 此の 家の 內 では 讀 まない やうに して 頂き 度い のです。」 

「本と は 『才 スカァ • ワイ ルドと 自分』 の 事です か。」 

柘植は 意外な 話に 驚いて 反問した。 

「左様です。 あれ は、 尊敬すべき 家庭で 諫む事 を 許される 本で は 無い のです。」 

夫人 は きっぱりと 云 ひ 放った が、 自分自身の 心 持から 昂奮して、 唇 を 震 はせ た。 


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r 責方は 外國人 だから 御存じ 無い のでせ う。 けれども、 英吉利で は、 紳士 淑女の H に 觸れる 可き 

ものではありま^ん。 一 

一 

「何故で せう。 つまり 才 スカァ • ワイルドの 事が 書いて あるからで すか。 私 は、 ワイルド は、 近 

代 英吉利 の 生んだ 最も ほ こ る ベ き 僅少な 作家 の 一人 だ と 思って ゐ るので す。」 

柘植の 持って ゐる 自信と、 高飛車に 出られる と必す 湧いて 來る 反抗 心が、 相手の いふ 意味 はわ 

かって ゐ ながら も、 のめの め 沈默を 守る 事 は 許さなかった。 

「何故です つて。 私 は 其の 理由 を 口にする 事 さ へ 恥お ます。」 

まんまるい 夫人の 目 は 憤りの 淚に光 つ て來 た。 

「たと へば、 生前 ワイルドの 行爲に 道德上 非難すべき 事が あつたと しても、 彼 は 夙に 死んで しま 

つたので はありません か。 しかも その 死後に 近代 英文 學の ほこりと なる 不朽の 作品 を殘 して ゐる 

のです。 許して やっても い、 と 思 ひます。 少なくとも、 その 作品 を稱 讚す る 事 は 差 支へ ない 害で 

す。」  . 

何時の間にか 彼の 熟 情 は、 自ら 聲を 高めて 来た。 

「わかりました。」  . 


35 


宿の 敦倫 


夫人 は 強く 相手 の 言葉 を 受け て 

一— 貴方 は 此の 國の事 を 知らないの です。 私 は 昨日 貴方が 從 兄の ダグ ラ ス の 裁判 を傍聽 して 来たと 

云った 時に、 直に ぞの話 を 止めようと 思った のです。, けれども 子供達が ゐ たので、 わざと その 俸 

にして 置いた のでした。 兎に角、 私 は 此の 家の 主婦と して、 ワイルドの 本 や、 ワイルド にか、 は 

る 本 は、 一切 此の 家の 內で讀 む 事 を 禁じます C 斷 じて 禁じます。」 

蒼くな つ て、 甲高い 聲の 抑揚 を 失 ふ 程息ぜ はしく た 、みかけた。 

心の 制御 を 完全に 忘れて しまった 相手に 對 して、 柘植は 寧ろお ちつき を 取 返した。 ふふんと 鼻 

のさき で 笑って やり 度い やうな 氣 持だった。 けれども 矢張り 不愉快に は 違 ひなかった。 何 かしら 

事態の 切迫した、 息の 詰まる やうな、 その 癖 所在ない 數分間 を、 二人 は 睨み合った ま、、 ^だ 長 

い 時間の 如く 感じて ゐた。 

ふと 扉 を あけて、 末の 娘が 入って 来た。 

「お母さん、 女中が お HI 見 榮に來 ましたよ。 新聞の 廣吿を 見た のです つて。」 

「待た して 置いて 頂戴。 直に 行って 逢 ふから。」 

目の やり 場に さへ 困って ゐた 場合だった が、 誰彼 を 選ばす に 叱りつ け 度い 氣 分から、 娘に 答へ 


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る聲も 荒々 しかった。 不思議な 顔 をして、 その 場の 有様に 疑 を かける 横目 をつ かひながら 出て 行 

く 末 娘の 後 姿が 消える と、 夫人 は 改めて 舌打ちした。 , 

「柘植 さん。 私の 云った 事 はよ くお わかりで せう ね。 決して 責方を とがめる のではありません よ" 

まだ 此の 國の事 を 御存じな いから 無理 は 無い の です。 何卒 氣 にしないで 下さい。」 

云 ひながら 大儀 さう に 身 を 起す と、 その ま、 さ つ さと 廊下に 出て 行つ て しま つ た。 

「馬鹿にして やがら。」 

おも はす 知らす 故鄕の 言葉 を 吐出す やうに 口にして、 拓植は 密かに 苦笑した。 額に 不愉快な 鈹 

を 刻んで、 彼 は 二階の 自分の 窒に 引上げた。 

机の 上の 間 題の 本 を 手に 取った が、 別段 讀 みつぐ ける 氣に はならなかった。 その 本が 引 起した 

いざこざの 方が、 心に 殘 つて ゐた。 如何にも 英吉利 人らしい、 世間 的な 考 へで * しかも それに は 

世間 的で ある 爲 めの 淺 薄よりも、 そんな 反省 を も 持たない 自負心の 強い 國民 性に 根ざす 頑固の 強 

味が、 最も 色 濃く 滲み出て ゐ るので あった。 女性に 特有の、 冷 靜には 人と 言葉 を 交 はす 事の 出來 

ない 弱さ も あるに はあった。 さう 考 へて 來 ると、 柘植は 自分の 方が、 遙に 優者の 地位に ゐる事 を 

感じて、 相手 を 憐れむ 心 持に もな つて 來た。 社會 的に 劃一 された 道 德と禮 儀 を 持つ 英吉利の 中流 


化 


宿の 教偷 


階級の 母親と して、 無理の 無い いひ 分 だと も 思 はれる。 言葉の 不自由な 爲 めに、 相手 を いくらか 

買 かぶる ので 癢 にも 障る の だが、 日本の 事に して 見れば、 あんな 母親 はとる に 足りない ものな の 

だと 考 へて、 彼 は 心に ゆとりが 出來 ると、 たった今 經 過した 場面 を 想 ひ 出して 微笑 さへ 浮んで 來 

た。 

晝の 食事の 時には、 夫人 は 努めて 愛想よ く 話しかけた。 朝の 出来事 をと りなす 爲 めの 心 づ かひ 

が氣の 毒な 位だった。 柘植 も、 無理に も 笑顔 を 見せなければ 濟 まない 氣 持で、 實は 面白く もない 

世間話の 相槌を打った。 

けれども、 午後に なって、 彼 は 又しても 意外な 事に 出 あはなければ ならなかった。 

その 曰 は 郊外に 廣ぃ 邸宅 を 構へ てゐる 先輩のと ころに、 同窓の 友達 四 五 人と 一緒によ ばれて わ 

たので、 雨の 上った 夕方から、 柘植は 外出す る 事に なって ゐた。 どうせ 夜は遲 くなる だら うと 思 

つ て、 まだ 此の 家に 來 てから 受取らなかった 玄關の 鍵 を 請求した。 

「鍵です つて。 何 慮の 鍵です。」 

夫人 は 合點の 行かない 顏附で 問 ひか へした。 

「入口の 鍵です。 どうしても 今晩は 歸 りが 遲 くなる に 違 ひない と a ふので す。」 


39 


あ 宿 人に は必す 鍵を與 へる 下宿屋の 習慣から、 當然の 事と して 繰 か へした。 

「失禮 です が、 それ は 必要がない と 思 ひます。」 

夫人 は 面白くない 檬 子で、 すげ なく 答へ た。 

「遲 くな つても 私が 起きて ゐて あけて あげます。」 

「けれども 時間が 全く わからない の ですから o」 

「構 ひません。 何時でも。」 

言下に それ を 打消して、 夫人 は. 首 を 横に 振った。 

又しても ふふんと 笑 ふ 外に、 柘植は 面目 を 立てる 事 を 知らな か つた。 

「ではよ ろしく。 行って 來 ます。」 

何の 爲 めに、 鍵 を 5. 犬れ な いのかわから なかった が、 何しろ 要求した 事 を 拒まれた の は 不愉快 だ 

つた。 おも はす しらす 荒々 しく 扉 を あけ 立てして、 彼 は 暮れ 初めた 往来に 出た。 

郊外に 住む 先輩と いふの は、 二十 餘年倫 敦にゐ る實業 家で、 凡そ 此の 國に來 る 日本人の すべて、 

役人 も、 軍人 も、 商人 も、 學者 も、 書生 も必す 世話になる 紳士であった。 その 年齢の 人に 似す、 

自由な 心 を 持って、 廣く 知識 を 求める 性來の 欲求から、 殊に 書生 を 可愛がった。 平生 極めて 繁忙 


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宿の 数 倫 


な 地位に ゐ るに も拘ら す、 旺ん な讀書 力で、 政治 經濟 文學 美術 -II あらゆる 方面の 新しい 研究 を 

忘れな か つた。 

恰度 その 頃、 獨乙佛 蘭 西から 戰爭に 追 はれて 來た學 生が、 時折 その 家に 集って は、 互の 研究 を 

發表 しあ ふ 事に なって ゐた。 亞米利 加から 来た 柘植 も、 誘 はれて 仲間に 入る 事に なった のだった- 

その 晚も、 學校 時代から 親しい友達 や、 特別の 交際はなかった にしても お 互に 見知 合 ひの 連中 

で、 經濟學 史專攻 の 和 泉、 社 倉 學の岡 村、 敎育學 の 長 野な どが 集って、 食後 は 美術史の 高 樹が希 

獵藝 術に 關 する 講話 をした。 それにつ いての 質問、 質問に 對 する 說明 II それから それと 話題が 

變 つて、 しま ひに は 何時もの 通り 雑談に 移って 行った。 

「時に 君の 新居 は 如何 だい。」 

と柘植 にきいた の は 和 泉だった。 

「どうと 云って、 兎に角 驚いた よ。 僕 は元來 家庭って ものが 嫌 ひなんだ が、 英吉利の 家庭 は 就中 

厄介な もの ぢゃ あない かしら。 ォス カァ. ワイ ルド はいけ ない、 鍵 はくれ ない つてい ふんだ から 

2  0 一 

待ち かまへ てゐた 不平の はけ 口 を 見付けた やうに、 柘植は 自分で も氣 になる 程 滑 かに、 事の 始 


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末 を 物語った。 

「そいつ は 非道い な。 僕なら 直に 出て しま ふ。」 

他人 事で はない やうな 語 氣で高 樹が云 つた。 

一 けれども 三. < も 娘が ゐては 出られまい。」 

先輩の 諧謔に みんな 笑 ひ 出した が、 誰も 彼 も 少佐 夫人の 振舞 を 面憎く 思って、 しきりに 拓植に 

強硬の 態度 を 取る やうに 勸 めた。 

「だが、 それ はい、 家庭 だから やかまし いので、 外の 連中の ゐる やうな 下宿 馴れた 家と は 違 ふの 

かもしれ ない。」 

「それにしても 僕なら いや だ。」 

先輩 は おだやかに 云った けれど、 高樹 はあく 迄 も 唾棄す る 調子だった。 

夜が 更けて、 散會 して、 めいめい 別れ^れにな つてから も * 柘植 はこれ から 歸 つて ゆく 家の 事 

ばかり 考 へて ゐた。 珍しく 星の 出た 寒空の 下 を、. 人通り も なくなった 時刻 を氣 にしながら、 彼が 

自分の 住む 町に 着いた の は、 旣に 十二時 を 過ぎ てんた。 敷石 を 踏む 靴の 踵の 堅い 音が、 恥し い 程 

冴えて 複1 いた。 


4:' 


宿の 敦倫 


家の 中 は眞喑 で、 一條の 燈光も 洩れて は來 なかった。 暫時 は 躊躇した けれど、 思 ひ 切って 呼 鈴 

を 押した。 海の 底に 沈んで 行く やうな、 妙に 鈍い 反響が 遠く 聞え た。 なかなか 人が 出て 來て 吳れ 

ない。 二度三度、 心細い やうな、 苛々 した 心 持で 呼 鈴 を 鳴らした。 それでも 應 じる 者が 無い。 拓 

植は、 自分の 息の 凍る やうな 夜の 空 を 仰いで 途方に くれた。 

もう 一度 押して 見ようと、 これ を 最後に 呼 鈴に 指頭 を 觸れた 時、 目の前の 玄關の 扉が 靜 にあけ 

られ た。 

「濟 みません。 大變遲 くな つてし まひまして"」 

屹度 夫人に 違 ひ 無い と 思って、 叮嚀に 帽子 さ へと つて 云った。 

「誰です、 お前さん は。」 • . 

おも ひも かけない 突 けん どんな 聲が、 多少 震へ を蒂 びて、 扉の 隙間から 詰った。 

「僕です。 I 柘植 です。」 

「誰です つて。」 

「君 こそ 誰です。」 

柘植は 一 瞬 問、 自分の 意識 を 疑った。 確に 自分の 止宿して ゐる 家に 違 ひ 無い の だが、 若し かす 


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ると、 隣の 家と 間違へ たかしら —— そんな 疑念 も 胸 を 打った。 

「私 は 此處の 家の 召使です が、 お前さん はー體 誰なん です。」 

太い 女の 聲は疳 痛 を 起して ゐる やうな 調子だった。 

「僕 は 此の 家の 二階に ゐる 日本人なん だが •:•: 」 

柘 植は當 惑して、 周圍の 夜の 景色 を 見廻した。 すべてが 昆覺 えの ある 景色だった。 

「ちえつ、 どうしたんだ、 こいつ は。」 

彼 はさう つぶやきながら、 肱に かけた 杖 を 振 上げて、 足下の 石段 を なぐりつけた。 

「メ リイ、 どうかした の。 何 を 云って るの。」 

不意に 暗い 二階から、 聞覺 えの ある 夫人の 聲 がした。 

「柘植 さん ぢ やない の。」 

いひながら 階段 を 下め て 来た。 

「あ、 矢張り 柘植 さんだつた。 御免なさい。 メリ ィは 今日 來た ばかりな ものです から、 貴方 を 知 

ら なかった のです。 —— い、 よ、 此の方 はう ちに ゐる 方なん だから。」 

新參の 女中 は、 それでも まだう さん 臭 さう に、 柘植を ぢろぢ ろ 見ながら、 地" 卜窒の 女中 部屋に 


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宿の 教倫 


下りて 行った。 

「どうも 御 氣の毒 さま。」 

「い 、 え 私 こそ 遲 くな つ て濟 みません。」 

夫人の 態度が もの や はら かなので、 柘植も 自分の 遲 かった 事 を;^ びる ばかりだった。 

「おやすみなさい。」  . 

「おやすみ。.」 

寢靜 まった 家の 內に氣 兼して か、 夫人 は ロ數も 少なく、 直に 先に 立って、 寢 衣の 上に 羽織った 

ガウンの 裾 を 引 擦りながら 二階に 上った。 柘植も その後に ついて、 自分の 窒に 入った。 と 思 ふと、 

壁 一 重 隣の 夫人の 窒 から、 あたり を 憚らぬ 聞え よがし の 欠伸が 聞え た。 

次の 日の 朝、 柘植は 昨夜の 女中 を 見た。 年配の 昆當 のっかない、 醜い 田舍 者だった。 今朝 は 夫 

人 も 上機嫌で、 その 女中と 拓植の 前夜の 問答 を、 子供達に 話して、 みんなと 一緒に 腹 を 抱へ て 笑 

つた。 女中 も 潞ぃ顏 の 相好 を 崩して 笑った。 柘植も 苦笑した。 

彼 は その 曰から 日課と して、 大英博物館 附屬 の圖書 館に 通 ふ 事に きめて ゐ たが、 それにしても 

外出 勝に なれば、 愈々 鍵が 欲しかった。 その 必要 を說 いて 夫人に 請求した。 


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「それ は 不必要です。」 

喑々 した 顏附 で、 自分が 先立で, 客間から 績 く溫窒 の 鉢物の 埃を拂 つて ゐ たのが、 忽ち 機 ^を 

悪く して 拒んだ。 

「です が、 それがない と、 义 昨夜の やうな 事になります から  」 

ra- く歸 つてい らっしゃれ ばい 、 のです。」 

夫人 は威壓 十る 態度で 彼の 言 ひ 分 を中斷 した。 拓植は 額に 辩瘸の うづく の を 感じながら、 何時 

迄 も 相手の 顏を 見詰めて ゐた。 

そと 

「兎に角、 私の 家に は、 あんなに 夜 遲く迄 外で遊んで ゐる者 は 今日 迄なかった のです。」 

暫時して 夫人 は 辯 解と も、 訓戒と もっかない 調子で いった。 

「用事の ある 時は爲 方が ありません。 鍵 を 下さらなければ 私は轉 宿す る 外に 道が ありません。」 

柘植は 度胸 をき めて、 落つ いた 聲で應 じた。 

「それ は 夫の 許可 を 得ない うち は 許されない 事です。」 

夫人 は 怒 を押靜 める 努力に 惱 みながら も、 存外 柘植が 強く 出た ので、 無理に 笑顔 をつ くって 見 

せた。 


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宿の 欤 


「では その 許可 を 得て 下さい。 大急ぎで.' 

柘植は 人 を 馬鹿にした 調子で い つた。 

「馬鹿々 々しい。」 

さう 思 ひながら、 彼 は ノオト を 抱へ て、 圖書 館に 出かけた。 

金蘭簿 

柘植は 毎日 圖書 館に 通った。 近代 文學の 研究に 沒 頭して ゐ たので ある。 何時も 其處 で髙樹 と^ 

合った。 机 を 並べて、 朝から 夕方 迄、 お 互に 相手の 蚀 強と, 心 持と を 妨げまい として、 殆んど 口 

も 利かないで 本 を讀ん だ。 晝 になる と、 別段 誘 ひ あ ふ 事 もな く、 食堂で 簡單な 食事 をして、 暫時 

は廣 ぃ步廊 に 夥しく 並んで ゐる^ 臘羅馬 埃及亞 两 風亞 等の 彫像 を 見ながら 散歩して、 又 机に 戾る 

ので ある。 

流石に 夕 万 は 疲れて しま ふ。 一人が、 借りた.^ を 返し、 ノオト を 閉ぢて 立 上る と" 片方 もやう 

やく 椅子 を 離れた。 

一. もう. 歸 るの。 一 緒に. 行かう。 _ 


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二人 は その 日の 仕事 を 終った 安樂な 氣 持で、 ァ イオニア 式の E 大な圓 柱の たつ 出入口から、 吐 

出される やうに 戶 外に 出る。 

日の 暮の 早い 晩秋の、 しめっぽい 霧に 濡れて、 漁 太の やうな 燈^ がきら めいて ゐる。 銀行 も會 

社 も 商店 も 店 をし まって、 勤 人 は 一 齊に 家路へ 急ぐ 頃で ある。 誰の 顏 にも、 炫爐に は 火が 燃えさ 

かり、 妻子 はかへ り を 待 兼ねて ゐる 家で、 溫ぃ 肉汁 をす する 景色 を 胸に 描いて ゐる 事が、 はっき 

りと 浮んで ゐた。 けれども、 他人の 家に、 異邦人と して 取扱 はれて ゐる 者に とって は、 晚餐の 卓 

も 左 迄に 戀 しくはなかった。 寧ろ 時には、 面白く もない 會 話に 難^しながら、 きまりきった 手 料 

理を喰 はされ る 事が 堪へ 難く 思 はれる 事 もあった。 さう いふ 時 は、 どっちから 誘 ふ ともなく、 リ 

、チ M ント: t の 佛蘭西 力 フ M  I に 行って、 夜更け 迄 話しあった。 

其處 は、 日本人が よく 行く 怪しい 女の 客 を 引 張りに 行く やうな 家ではなかった。 一杯の ァプサ 

ンを 前にして、 終日 將棋を さして ゐる者 や、 何時も 同じ 顏 ぶれで 骨牌の 勝負 を爭 つて ゐる者 や、 

聲 高く 藝術を 論じて あきない 者の 慰樂の 場所だった。 客の 多く は 歐羅巴 大陸から 來た 者が 多く、 

巴 里に ゐた 事の ある 髙樹 は、 それが 佛蘭西 式の 力 フ H 1 なの だと 說 明した。 

或 時柘植 は、 ォスカ ァ • ワイ ルドの 傳 記の 中に、 その カフ M  I の 名 を 見出した。 ワイルドが、 


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宿の 敦倫 


美少年 ダグラス を つれて、 耽美派の 理想 を說 きながら、 夥しく ゥヰス キイ 曹達 を飮ん だとい ふの 

が 此の 家だった。 そんな 些細な 事 さへ、 その 家の 親し さ をました。 

少佐の 家に 馴れる に從 つて、 い、 所 も 惡ぃ所 も はっきりして 來た。 夫人 は不相 變將校 夫人 會に 

出かけて、 募兵に 努めて ゐた。 夜 遲く歸 つて 来る 時 は、 貴 夫人 仲間の 骨牌の 連中に 誘 はれた 時で、 

些少ながら 金錢を 賭けて 勝負 を爭 ふので あった。 何時も 手許の 不如意 勝な 夫人 は、 負けて 歸 つた 

翌日 は 全く 不機嫌だった。 誰彼と なく 八當 りに 叱りち らした。 目 は 血走り、 その 大きな 目の ふち 

に は靑黑 ぃ隈が 出来て、 すっかり 面相が 變 つた。 折角 来た 女中 も、 夫人の 疳癀に 居た、 まれな く 

なって、 逃げて しまった。 

さう かと 思 ふと、 おそろしく 機嫌の い、 時 は、 子供達の 中に まじって、 若々 しい 聲 ではし やい 

で ゐる事 もあった。 柘植 にと つても * しつつ こい 程 親切 を盡 し、 全くの 身內の 者の やうに.、 何 か 

ち 何 迄 世話 を燒 いて 吳れ た。 單 純で 我儘で、 正直で 疳鑌 持の 夫人の 性質 を、 柘植は 直に 見 祓いて 

しまった。 

或 朝、 食事の 時、 卓に 着く 柘植を 見る と、 

「私 は 貴方に お詫びし なければ なりません。 何卒かん にんして 下さい。 一 


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夫- <は 改まった 顔 をして 云 ひ 出した。 拓植は 勿論、 其 場に ゐた 子供達 は 何れも 驚きの 視線 を 夫 

人に 注いで、 何事が 起った のかと 怪しんだ。 

「實は 入口の 鍵です ねえ、 あれに ついて 夫に 問合せた のです。 責 方のお 歸 りの 遲ぃ時 も あるし、 

第 一 不便に は 違 ひ 無い の ですから —— けれども 私の 家で は、 今日 迄 子供達に 鍵 を 渡した 事が 無い 

ので、 如何した らい、 か 解らなかった のでした。 ところが 今朝 夫から 手紙で、 それ は 當然御 渡し 

しなくて はならない の だと 云って 來 ました。 御免なさい、 私の 考へ違 ひでした から :•:• 」 

云 ひながら、 夫人 は衣囊 から 鍵 を 出して、 食卓の 上に 置いた。 

「これが 貴方の 鍵です。」 

さう 云って 晴々 した 聲で 笑った。 

「難 有う。 これで 私 も 安心して 夜更しが 出來 ます。」 

拓植は 相手の 單 純な 心 持 を 喜んで、 古びて 光 を 失った 鍵に も 感謝す る氣 持で 受取った。 

「その 爲 めに 夜更し をされ て は 困ります ねえ。」 

夫人 も 子供達 も 一 齊に 笑った。 珍しく 樂 しい 朝の 食事であった。 

食事の 後で、 夫人 は 柘植を 引止めて 親しい 調子で しきりに 話した。 自分 は 貴族の 分家の 生れで- 


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宿の 敦 倫 


祖母に 當る 或る 侯爵夫人の 家で 育った。 貴 夫人と して 恥し くない 敎養を 受ける 爲 めに、 巴 里に も 

行って ゐた。 夫の 少佐の 家柄 も惡く はなく、 以前 は 贅澤な 生活 をして ゐ たの だが、 戰爭の 無い 平 

和の 日の 軍人の 所在な さから、 ふと 手 を 出した 投機に 祟られて 無一物に なって しまった。 上の 娘 

あさま 

に は 相 當の敎 育 も 施せた が、 次の 娘 以下に は 手が 及ば なくなった。 生活の 足しに、 空 間 を 貸して 

は 如何 かと 知人に 勸 めら れて、 初めて 柘植を 置いた のであった。 娘 達 は 他所 行の 着物に も 困る の 

で、 此の頃 は何處 にも 口の ある 女 事務員に なって、 自分達で 勝手に 働く と 云 ふけれ ど、 それ は自 

分と して は 許せ 無い。 

「いくら 落 ぶれても、 娘 達に そんな 眞似 はさせられ ません。」 

力強く いひ 切り はした ものの、 夫人の 聲は 震へ て、 目に はいつ ぱい 淚が たまって ゐた。 

そんな やうな 身の上 話の 末に、 若しも 娘 達の 爲 めに、 一時間い くらと いふ 約束で 毎朝 英語の 稽 

古 を 受けて 吳れ、 ば 大變難 有い と 申出した。 相手の しんみりした 調子に 氣を よくして ゐ た柘植 は、 

卽 座に それ を 承知した。 

「で. は 今日から でも、 明日から でも、 責 方の 御 都合の い、 時に 始めて 下さい。 —— 難 有う。 一 

心から 嬉し さう に、 若々 しい 顔 中に 微笑 を湛 へて、 幾度 も禮を 云った。 平生の 傲馒な 態度 は 全 


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く 見られなかった。  . 

あちら 

1 ァ、 さう さう、 私 は 明日から 夫に 逢 ひに 營舍に 行って 來 ます。 たぶん 一週間 は 彼方で 暮らして 

來 るで せう。 留守中 は 娘 達に どんな 用事で も 御 遠慮 無くい ひつけて 下さい。」 

話 を 切上げて その 部屋 を 出ようと した 柘植を 呼^め て 云った。 戀 人と 逢 ふ 約束の 日 を 待 兼て ゐ 

る 少女の やうな、 喜びに 輝いた 目 をして、 暫時 別れて 住む 夫 を 想像して ゐる樣 子だった。 

「それ はお 樂 しみです ね。 まだお HT にか、 つた 事はありません が、 何卒よ ろしく。」 

「難 有う。」 

一 一人 は 全く へ だ て の 無い 心 持で 別れた。 

翌朝、 柘植が 目を覺 ました 時 は、 夫人 は 夫の 營舍の ある 郊外に 向って 出立した 後だった。 娘 達 

は、 母親の 留守に 雀躍して、 毎朝の 日課の 拭 掃除 も そっちの けにして はしゃぎ 廻った。 

「さあ 來 い。」 

「行く ぞ。」 

男の 聲色を 使 ひながら、 次女と 末 娘 は、 椅子の 上の クッション を 振り あげて、 力任せに 打ち合 

つた。 頭 も、 顏も、 ところ きら はす 叩きつ ける ので、 中に 詰めて ある 鳥の 毛が、 窓から さし 込む 


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宿の 敦倫 


朝日の 中 を、 白く 光って 飛散した" しま ひに は 取組 合って 角力に なった。 長椅子の 上に 押 倒され- 

スカ アト  - , 

上から ぎ ゆ, うぎ ゆう 押へ つけられて もがいて ゐる末 娘の 短い 袴 の 下から、 大人に なり か、 つた 

1 一本の 脚が あからさまに 露 はれ、 下ば きの 白い レ M ス も 波 を 打って 見えた。 

「あらあら、 爲樣が 無い 人。 まるで 室 中 ごみ だらけに なつち や ふぢ やない の。」 

何も 知らないで 入って 來た姉 は、 入口に 立って 驚いた 聲を 出した。 

「今日から 柘植 さんの 英語のお 稽古 をす るので すから. 靜 にして 頂 だい。」 . 

さう 云って、 少し 氣 まりが 惡さ うに、 柘植の 方 を 見て 笑った。 

「お母さんから 聞いた のです が • 今日から 始め ませう か。, 一 

「え、 何時から でも。」 

柘植 は、 英語. の 稽古に はちつ とも 興味 を 持たなかった が、 若い 女と さしむ かひで 話 をす る 事に 

は 心が 動いて ゐた。 

「へえ、、 英語のお 稽古です つて。 お 弟子の 方が 餘程學 者ら しい わ。」 

次女 は 憎まれ口 をき きながら 格闘の 手 や I して 立 上った。 

一, あ 、苦しい。 ヂ ン たら 胸の 上 をぐ いぐい 押しつけ るんで す もの。」 


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亂れた 髮を搔 上げながら、 末の 娘 は はあはあ 云って ゐた。 二人^も 汗ばんだ 顏を眞 赤に して、 

蓮 動の 後の か、、、 やいた 顔が、 いつもよりも 遙 かに 美しかった。 まだ 騷ぎ 足りない 風で、 追 かけ 合 

つて 二階に 驅 上って 行った。  , , 

「英語のお 稽古って 如何い ふ 風に したら い 、ん でせ う。」 

姉 娘 は 愈々 きまりの 悪い 様子で、 柘植と 向 ひあって 腰かけて、 近視眼の 目 をし ば だたいた。 

「如何す るって、 責 方の 方が 先生 ぢ やありません か。」 

柘植は 多少から かふ 心 持が あった。 年齢から 云っても、 學 問から 云っても、 世界 を 知って ゐる 

點 から 云っても、 男と 女と が 向 ひ 合った 時の 態度に 就ての 經驗 から 云っても、 彼 は 相手よりも 遙 

かに 優越の 地位に ゐる事 を 承知して ゐた。 たった 一 つ 自分の 方が 劣って ゐ るの は、 英語 だけ だと 

思って ゐた。 しかも その 英語 も、 會 話が 出來な いとい ふば かりで、 學問 として 此の 娘から 學ぶ可 

き 何物 も 無い 事 は 明瞭だった。  • 

「だって 私 は 英吉利 人で せう。 自然と 英語 を, えてし まった ので、 英語 を敎 へたり 敎 はったりす 

る 事 は、 別段 考 へた 事 さへ ありません もの。 一 

さも 當 惑した 樣 子で、 頰邊を 薄紅く 染めて ゐた。 


ラ 4 


き 敦偷 


「それで は 今朝の 新聞で も讀 みませう か。 兎に角 先生と して 見れば、 私に 不得手な 事 をさせる の 

が 一 番樂 でも あり 面白く も ありませ うから …… 」 

柘植は 傍の 小 卓の 上の 新聞 を 取って、 下手な 發 音で 朗讀し 始めた。 日本人に は 極めて 難 かしい 

L と R の區 別、 T と H の 結び付いて ゐる 時の 舌の 動かし 方な ど は、 如何に 或る 他國 人に とって は 

容易なら ぬ もので あるか を、 朗讀^ 自身が 說 明して きかせた。 先生 は、 初めて さう いふ 知識 を 得 

る 事 を 面白が つて ゐる風 だ つ た。 

二つ 三つ 文法 上の 疑問 を 出して 見た けれど、 組織 立った 知識の 無い 女に は 答へ る 事が 出來 なか 

つた。 如何にして 此の 日本人の 變 則な 英語の 力が 得られ たかは、 クリスティンに は 了解 出来な か 

つた。 思 ひも かけない 難 かしい 事 を 知って ゐて、 しかも 日常の 會話 にさへ 差 支へ るの が 不思議 だ 

つたの だ。 

「不思議で すねえ。 貴方に は 本に 書いて ある 事 は 何でも 解る でせ う。 それで ゐ てお 話が 出来たい 

んで すか。 うちの 料理人の ドラなん か、 本て つたら 一 頁も讀 めない のに、 話に はちつ とも 差 支へ 

な いんです よ。」 

子供ら しい 好奇心に まばたき の 頻繁な 目 をみ はる 相手 を 見る と、 柘植は ほ \ 笑ます に は ゐられ 


ララ 


なかった。 子供のお 相手をして ゐる やうな 他愛の 無い 情味が、 旅 なれば こそ 彼の 心に 柔 かく 觸れ 

るので あった。 

それでも 娘 は 責任 を 感じて か、 その 日の 稽古 を 終る 時に、 明日 迄に 諳記して 置け と 云って、 前 

の 晚柘植 が 置き忘れて 行った 靑ぃ 表紙の 詩集の、 煖爐の 上の 棚に あるの を 取って * い \ 加減の 處 

を 開いて さしつけた。 

.< われに 問 ひてい へ る は 

何處 にか 紅 寶石は 生る、 

何事 も われ はいらべ す 

しか は あれ 我が 小指 もて 

ゆび  くち 

指さし ぬヂ ュ リアの 唇 を。 

人 われに 問 ひてい へ る は 

何處 にか 眞珠は 生る、 

われ は 我が 少女の 唇 を 


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宿の 敦倫 


開かし め 指して 示しぬ 

其處に こそ 眞珠 は. ありと。 

(正しき 譯 にあら. ず、 都合よ く 手 を 入れたり —— 水上) 

チさ 

柘植は 一 一度 三度 短詩 を 口誦んだ。 

「もう 大丈夫です。 明日の 朝、 屹度 忘れす にゐ ますから。」 

一 まあ 何ん て 可愛らしい 詩なん でせ う。」 

目 を 細く して、 ち ひさい、 つまんだ やうな 眞 赤な 唇 を 細かく 動かして、 クリスティン も その 詩 

を 繰返した。 

「い、 わね え。 1 1 けれど へ ル リック つて どうい ふ 人なん です。」 

「十七 世紀の 此の 國の 有名な 詩人です よ。」 

「さう、 左様い へば 聞いた やうな 名に は 違 ひ 無い わ。」 

拓 植に說 明され て 小首 を ひねった が、 矢張り 知らない 名前だった らしい。 

「詩人て いへば、 柘植 さんに も 書いて 頂かう。」 

授業 をお しま ひに して 立 上った のが、 何 か 思 ひ 付いて 小 走りに 室 を 出て 行った。 暫時して 戾っ 5 


て 來た時 は >  一冊の 金 蘭簿を 持って 來た。 

開けて 見る と、 大半 はもう 白紙 を錢 さなかつ たが、 一 頁々々 數^ に瀾 がわ かれて ゐて、 好きな 

色彩、 好きな 花、 好きな 動物、 好きな 作者な ど、 いふ 問が 出て ゐた。 

「これ はね、 うちの ドラが 書いた のです よ。」 

娘が 開いて 見せた ところに は、 おそろしい 惡 筆で 記入して あった。 好きな 色 は 紅、 好きな 花 は 

薔薇、 好きな 動物 は 馬、 好きな 作者 は沙 翁と あった。 沙 翁の 綴 は 出たら めだった。 拓植は 思 はす 

失笑した。 年中 鼻の 下の 赤く たぐれた 眇 目の 愛蘭 土 生れの 女中の、 : チ:: れ 切った 姿 を 想像した。 兵 

隊の 情人が あって、 夜の 食事の 濟んだ 頃、 表の 戶 口で 二人 は 語 合って ゐた。 寒い 頃な のに、 入口 

の 石段に 腰かけて" 雙 方から しっかり 抱きつきながら、 長い間 接吻 をして ゐ るの を、 家中の 者が 

知って ゐた。 その 女が 沙翁を 好きな 作家と 書いた のが 面白かった。 勿論 諫んだ 事 はないで あらう e 

或は それが、 彼女の 知って る 作者の 唯一 人だった のか もしれ なかった。 

「面白いで せう。 貴方 も 是非 書いて 下さい。 記念の 爲 めに。」 

つきつけられて 柘植は 洋筆を 持った。 

( 一 ) 好きな 色彩 倫 敦には 珍 しく 晴れ た 曰の 靑 さ の 色 


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宿の 敦倫 


(二) 好きな 花 我が 部屋の 机の 上の 花 

(三) 好きな 動物 此の 家の 老犬 

(四) 好きな 作者  

「さあ 誰に しませう。 ォ スカァ • ワイルドと 書く と、 夫人に 叱られる でせ うし  」 

拓植 はほんと に 迷った。 英吉利の 作家でなくて は 面白くな いと 思った が、 とっさに は 一 人を擇 

ぶ 事 は 難 かしかった。 結局 彼 は 他の 三つの 問に 答へ たやうな 洒落と は 違って、 現在 耽讀 して ゐる 

作者 ト ル ス トイの 名 を 記した。 

「露 西亞の トルストイで すか。 そんなに い、 のです か。 私 はつい 未だ 譲んだ 事が 無い のです けれ 

ど。 一  . / 

r それ は 是非 讀 まなくて はいけ ません。」 

恰も トルストイの 偉大なる 藝 術に 感激して、 その 全集 を 買 込んで、 夢中に なって ゐた彼 は、 最 

上級の 言葉で 推稱 した。 

「今 は 怫蘭西 小 說を讀 み 始めた 所です から、 それが 濟ん だら 借して 下さい。」 

「佛蘭 西の 何てい ふ小說 です。」 


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「デュ マの 『椿 姬』 です。 面白 いんです よ。」 

クリスティン は、 その 小說の 中の 璺麗な 場 景を想 ひ 描く やうな、 何 かしら 遠方に 憧れる やうな 

うっとりした 様子で、 窓の 外の 空 を 見詰めて ゐた。 倫 敦には 珍しい 晴れた 青空 を、 輕氣 球が ゆら 

ゆらと ゆらい で 遠く 行く のであった。 

留守 

夫人の 留守の 一 週間 は樂 しかった。 自分 達の 思 ふが 儘に 振舞 ふ 事の 出来る 子供達 は、 のびのび 

した 心 持で、 家中 を驅 廻った。 妹 や 弟 をた しなめ ながら、 姉 もー緖 になって はしゃいだ。 

朝の 食事が 濟 むと、 近所の 聖ポ オル 校に 通ふジ ョォジ を、 三人の 姉妹 は 追 ひ 立てる やうに 出し 

て やった。 學校 嫌の 少年 は、 追 ひ 立てられない 限り は、 何時 迄 も、 老 犬の 首 玉 を 抱きしめて、 頸 

擦り をしたり 接吻した りして、 愚圖々 々時間 を 費して ゐる。 ひよ ろ 長い 身體の 上半身 を、 不格好 

に 左右に 振りながら、 潞々 戶 口を出て 行く の を 見送り 果て 

「あれ は 確かに、 それ 程 悧巧で はない と 思 ふわ。」 

姉 娘の 一 人 は、 柘植の 方 を 振 向いて 笑 ふの だった。 


60 


宿の 攻!' it 


J そんな 事が ある もんです か。」 

「い、 え、 ほんと よ。 だって 數學 なんか まるっきり 出來な いんです もの。」 

他の 一 人 も、 弟 は 悧巧で ない とい ふ 例 を擧げ て、 柘植を 納得 させなければ 承知し なか つた。 

妹 二人が 女中と 手分けして 拭 掃除 をして ゐる 間に、 クリスティン は 柘植と 差 向 ひで、 英語の 稽 

古 をした。 詩の 諳誦 も、 新聞の 朗讀 も、 二日 三日で、 變方 とも 倦き てし まった。 語學の 拙劣と、 

見かけの 若々 しさから、 多少 は 甘く見て ゐた 相手の 方が、 遙 かに 學問も 識見 も ある 事 を 知る と、 

先生の 方は敎 へる 事が 面 は ゆくな つて 來た。 同時に 生徒の 方 も、 殆ん どから かふ やうな 調子で 稽 

古 をして ゐる 馬鹿々々 しさ を、 繽 ける 根氣が なくなった。 どっちから 去 ひ 出す ともなく, 稽古の 

時間 は、 差 向 ひの 話の 一時間と なって しまった。 しかも その 話 も、 主として 娘の 知らない 事を柘 

植が說 明して やる やうな 風に なって しまった。 

「貴方 は學 者なん です つてね え。 姉さんが さう 云って ゐ ましたよ。 あれで もうち では 姉が 一 番學 

者なん です けれど。」 

或 時 次女 は、 持 前の 率直な 態度で 云った。 

「それ ぢゃ ぁ柘植 さんの 方が、 うちのお 母さんより 學 問が あるか しら。」 


61 


傍に ゐたジ ョォジ が 眞顏で 訊いた。 

「何 をい つてる の。 お母さん なんか 學 問なん か あり はしない わ。」 

次女 は 平生 母親と いがみ あ ふ 時の 憤懣 その 儘の 語氣 だった。 

「でもお 母さん は 自分で は 悧巧 だ つて 云つ てるね え。」 

「自分で 悧巧が つてる のなら、 ジ ョ才ジ だって 悧巧 がれる わ" フ ム。」 

まるまると 肥った 肩を搖 つて 辛辣な 口 をき いた。 

「それお や あお 父さん は 悧巧 かしら。」 

弟 はま だ 思 ひ 切りの 惡ぃ 態度で 云 つて ゐた。 

「お母さんより は 悧巧 だ わ。 少なくとも 。一 

末の 娘が、 編物の 手 を 休めて 口を入れた。 

「貴方 達に 何が わかる もんです か。 お父さんが 悧巧なら、 うち はこん なに 貧乏し ないで 濟ん だん 

ぢ やない の。」 

「でもお 父さん はい、 人 だ わ。」 

つけつ けと もの を 言 ふ 次女の 言葉 を 訂正す る やうに、 おだやかな 姉が 辯 護した。 


62 


宿の 敦淪 


「い、 人? そり や あ 私 だって 疑 はない のよ。 けれどもい、 人で 悧巧で たいの は 始末が 惡 いわ。」 

き やう だい は、 C い 間、 自分の 父母 を、 恰も 他人の 噂 をす る やうに 批評して、 無 邪氣な 笑聲を 

立て、 ゐた。 

距 てが 無くなる と 同時に、. 柘 植に對 する 親し さは 增 して 来た。 むっつりした、 愛想の 無い 彼 を 

變 人 扱に はしかね なかった が、 決して 他人に はしなかった。 一週間め 母の 留守に、 完全なる 友達 

で、 家族の 一員で、 且信輯 すべき 叔父さんの やうに 祭り上げて しまった。 

夕方 彼が 圖書 館から 歸 つて 來 るの を 待 兼て、 その 日 一 日の出 來事を 報告し、 意見 を徵 した。 食 

事が 濟 むと 客間に 集って、 骨牌 や ドミノ をして 遊んだ。 兎 も すれば 姉 達に 叱られたり、 馬鹿にさ 

れ たり、 除外され 勝ちの ジョォ ジの外 は、 口小言の 酷し い、 むら 氣な、 怒りつ ぼい 母親の 不在に、 

聲も 身の こなし もい きいき して、 平生は 見られなかった 美し ささ へ增 したので ある。 

午後のお 茶の 時分 か、 夜食の 後の 珈琲の 出る 頃、 姉 娘に 好意 を 持って ゐる 軍人 A や、 矢張り 柘 

植が 此の 家に 來た 最初の 曰に 見た 美少年の 客の 來る事 もあった。 人の 好 ささうな、 誰に 對 しても 

^顔で 調子 を 合せる A は、 確かに クリスティンに 戀 して ゐた。 けれども 女の 方で は、 進んで それ 

を 受ける 程 心 を 動かして はゐ ない らしかった。 妹 達 は、 それとなく 姉にから かったり、 末 は 夫婦 


63 


になる の だら うと 陰口 をき く 程だった が、 事實は 其處迄 進行して ゐな いらし かった。 

或 日、 霧の 深い 冷い 午後、 カァ キイ 色の 軍服 姿の A は 姉 娘 を 誘 ひ 出した。 灯と もし 頃、 降 出し 

た 雨に 濡れて 歸 つて 来た 姉 は、 戶ロ迄 送って 来た 男と 別れる と、 客間の 煖爐の 前の 絨毯の 上に 直 

接に 坐って、 疲れた 足 を 横に 投げて 沈んだ 顏 をして ゐた。 

「何處 に 行った の?」 

ひと n- かるた  . 

お茶の 後で、 獨 骨牌 をして ゐた 次女 は、 多少から かふ 調子で 訝いた。 

「何處 つて、 たぐ 他所で お茶 を 飲んで 來 ただけ なの。」 

姉 は 振 向き もしす に 答へ て、 ちらちら 燃える 火を淚 組んだ 目で 見詰めて ゐた。 その 場の 様子が 

妙に 息苦しく 取 付 場の 無 い ものに なつ て、 暗い 窓の 硝子に あたる 雨の 音ば かり 微かに 聞え た。 

「あの人ね え、 もう 直き 戰 地に やられ るんで すって。」  , 

暫時して、 クリスティン は 力の 無い 聲で 云った。 

「さう。 私 あの人 嫌 ひだ わ。 責方 はどう 思 ふかしらない けれど。」 

ヂン はわ ざと ら し い 程 無頓着な 口 をき いた。 

「でも 親切 は 親切よ。 ^段 偉い人で はないで せう けれど。」 


64 


宿の 敦倫 


「なんだか 男らしくな. いのが 镄 ひ。」 

姉妹 は そぐ はない 心 持で 互の 口 をつ ぐんだ。 

「お母さん も 好きで はない らしい わ。」 

餘程 たつてから、 嘆息す る やうに 姉 はつぶ やいた。 

.  よろこび  : •  • . 

一週間た つて 夫. < は歸 つて 來た。 久しぶりで 夫に 逢って 來た 喜悅に 上機嫌で、 子供達に も柘植 

にも、 兵 營の話 をした。 倫 敦には 雨の 降る 曰に、 霰 まじりの 雪の 積った 岡の 上で、 堑壕を 掘った 

り 鐵條網 を 敷設して ゐる 少佐の 姿 を、 女らしい 誇張した 感激の 言葉で、 英雄 化して 話す のだった" 

何 寺 迄 も 何時^も、 夫 を 中心に した 軍隊の 描 寫は盡 きさう もなかつ たが、 ふと聲 を ひそめて、 俄 

に^い 顏附で 嘆息した。 

「けれども ねえ、 お父さん も 近々 に戰 線に 行かなくて はたらな いら しいんです つて。」 

突然 語尾が かすれた と 思 ふと、 感情の 激越し 易い 夫人の 額面 筋肉 は 震 へ て、 淚は 早く も 頰邊を 

傳 つて 流れた。 拓植も 子供達 も 驚いて ー齊に 見守った。 止 度な く淚は 目蓋 を あふれて 來た。 

「そり や あ |e 前の 事 だ わ。 軍人なん です もの。 軍人で 無い 者 迄、 無理に 勸 めて 兵隊に して 戰 地に 

送って ゐて、 現にお 母さん なんか 毎日 毎日 幾人の, < を 兵隊に した かしれ や あしな いぢ や ありませ 


65 


ん か。」 

次女 は、 母の 淚を 非難す る 調子で、 憚らす 云 ひ 切った。 

「なんです つて …… 」 

夫人 は 相手の 言葉 を中斷 する つもりで 咎めた が、 唇が 痙攣して 何も 云へ なかった。 眞靑に 顔色 

を變 へて、 氣に喰 はない 娘 を 睨んだ。 淚 はもう 流れす、 乾いた 頰邊も 石の やうに 固くなって、 胸 

の 動悸ば かり 激しく 波打って ゐた。 誰も 口 をき く 事が 出来なかった。 ジョ ォジの 足下に 寢てゐ た 

老 犬が、 むつく り 起 上る と、 よたよ たした 足取りで 不安ら しく 窒內 をぐ るぐ る 廻り 始めた。 柔ぃ 

四 足の あしのうらの、 床 を 踏む 音が、 みんなの 耳に ついて 爲 方が 無かった。 

翌日から、 夫人 は 又 募兵に 努めて 居た。 東西の 戰線 とも、 敵軍が 優勢で、 何時に なったら 聯合 

國が 攻勢 をと る 事が 出來 るか、 見込み もた、 ない 時代だった。 ハイド • パァク はいふに 及ばす、 

到る 處 のさ 地で、 身に つかない 軍服 を 着た 新兵が 不器用な 足附で 調練して ゐた。 

十二月の 始、 北の 海岸の 二三の 町が、 獨 乙の 艦隊に 砲撃され た。 九十 九 人の 死者と、 二百 ニー 十 

二人の 傷者 を 出した 事實 は、 太平に 馴れ、 自國の 強大 を ほこり、 殊に その 海軍の 絶大の 力 を 信じ 

て ゐた國 民 を震骸 した。 


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歸宅 

主人の 少佐が 休暇 を 貰って * 家に 歸 つて 來 たの も その 頃だった。 半白の 頭髮の 薄い の を 油で か 

ためて、 きちんと 櫛の 目 を 入れ、 ふち 無しの 鼻眼鏡 を かけた、 一見お しゃれな 好々 爺だった。 人 

人の 大兵と は うらはらの 小柄で、 瘦 せて 筋張った 背中の 少しば かり 曲って ゐ るの も、 強 ゐても 威 

嚴を 保た うと 努める 夫人と 比べ て、 輕ぃ 皮肉と さへ 思 はれた。 

夫人 や 子供達と 抱 合って、 一 々接吻した 後で、 柘植の 手 を 握って 親し さう に 挨拶した。 老 犬の 

首 を 抱 へ て これに も 愛嬌 を 振まい てゐ た。 

晩餐の 卓に は 三 鞭 をぬ いて、. 柘植 にも 杯 をす 、めながら、 少佐 は 忽ち 陶然と なった。 獨 乙の 憎 

む 可き 蠻行、 獨乙 皇帝の 野望の 罰せら るべき 事、 さう して その 敵 を 取 ひしぐ の は 卽ちキ ツチ ナァ 

元帥の 編成す る英 軍に 外なら ない 事 を、 平 俗な 愛國 者の 昂奮した 狀 態で、 繰返し 繰返し 話した。 

^りに 軍事上の 知識の 無い のに、 柘植は 只管 驚かされた。 少佐 は、 女子供と 同様に、 來 年の 春の 

敦 雪 解と 共に * 英佛 聯合 軍 は 總攻擊 を 開始して、 忽ち 伯林 を包圍 し" 獨乙 皇帝 を 捕虜に する * を 確 

の 

宿 信して ゐた。 


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r 近頃 は 日本の 海軍 も 日本人 を 士官に 採用す る やうに なった かしら。」 

などと 眞顏で 云った。 そんな 事 は 昔から だと 云っても 承知し なかった。 少佐の 說に從 へば、 日 

露 戰爭當 時の 艦隊の、 司令長官から 士官 迄, すべて 英吉利 人だった とい ふので ある。 

「そんな 事が ある ものです か。」 

柘植は 愛國的 情熱 を さ へ 催して 打消した が 相手 は 頓着し なか つ た。 

「そり や あ 列 國には 秘密に な. つて ゐ るんだ が事實 なんだ。 現に 私の 友達に も 旅 順 口 の 閉塞に 令 加 

したの があった からね。」 

此の 若い 日本人が 何 を 知る もの かとい ふ樣 子で、 妻 や 子供の 方に 向って、 自分の 知識 を 自慢 さ 

うに 話した。 

陸軍の 事に ついても, 何故 日本 は 宣戰を 布告しながら 軍隊 を 西部 戰 線に 輸送し ないかな ど、、 

それが 聯合 國 からい へば もっともな 要求で あり、 又 日本と して はしなければ ならない 義務 だとい 

ふ 口吻で 云った。 

「しかし それ は 不可能な 事で はないで せう か。」 

「な あに 日本 さへ うんと いへば、 英吉利が 軍艦 を 送って、 直に 運んで しま ふから わけ は昧 いさ。 一 


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宿の 敦淪 


飽迄も その. 可能 を i!B じて、 樂天 的な 自分の 心 持 を さかなに、 何時 迄 も 杯 を 手から 放さな か つた „ 

食事の 後 は、 客間で 骨牌 を 始めた 子供達と 一緒に 珈琲 を飮ん だが、 直に 二階の 寢 室に 引上げて 

しまった。 夫人 も 後から ついて 行った。 遠く 別れて 住んで ゐる 夫婦の 心 持 を、 あまり 露骨に 見せ.. 

られ たやさに 感じて、 拓植は 人知れ す 微笑した。 

「柘植 さん、 貴方う ちのお 父さん を 如何お 考 へに なつ て。」 

クリスティン は 自分の 愛する 父親に 對 して、 彼が 好意 を 持って ゐ るか、 或は 輕 蔑して ゐ るか、 

懸念に 堪へ 無い 風だった。 ■ 

「貴方の 云 つた 通り、 確に い 、人に 違 ひありません ねえ。」 

「さう。 難 有う。」 

い > 返事に 喜んで、 近眼の 目 をし ば だ、 いて 感謝した ノ 

「です けれど、 私の 云った 通り、 それ 程 悧巧に は 見えないで せう。, 一 

あま じ や < ... 

夭 の 邪鬼の 次女 はす かさす 横から 口を出した。 

骨牌の 勝負 を: 爭 ひながら も、 柘植は 少佐の 云った 事 や、 その物 腰 をお も ひかへ して ゐた。 敢て 

少佐に は. 限らす に、 比の 界の 大強國 程、 個人と して 吞氣に 無智な 俗衆の 集って ゐる國 は 無い や 


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うに 思 はれた。 政治 も、 軍事 も、 藝術 も、 すべて 各方 面の 事 を、 夫 々少数の 勝れた 才能の 人間に 

任せて、 大多数の 國民 は、 安逸に 金 儲を樂 しみ、 安心して 午後 五 時のお 茶 を享樂 して ゐ るので あ 

らう。 それが 羨し くも 思 はれ、 同時に 又、 さげすむ 氣も 起る のであった ケ 

その 晚は、 何時 迄 騒いで ゐて も、 夫人 は 小言 をい ひに 来なかった。 完全に 枕 を 並べて 眠って し 

まった ので あらう。 骨牌に あきる と、 洋琴 を彈 き、 バ ンヂ ョォを 鳴らし、 歌 をうた ひ、 しま ひに 

は 組 打 もして、 夜更け 迄騷 いで 騷ぎ あきなかった。 

翌朝 早く、 霧雨に 濡れながら、 少佐 は 兵營に 持って行った。 猫背の 後 姿の、 町角に 消える 迄. IK 

人は戶 口に 延び 上って 見送って ゐた。 

戰 時の 都 

降る かと 思 ふと 降り もしす に、 重たい 霧に つ  >- まれて" その 霧の 底から 湧いて 來る やうに、 儉 

敦の冬 は 次第に 寒くな つた。 立 並ぶ 家々 の 屋根 も 壁 も、 町の 敷石 も, 公園 も、 筌 地の 土 も、 何も 

彼も^ つぼく、 人の 心 も 沈み 勝だった。 

踏めば じと じと 水の 渗み 出る その 筌地を 踏 荒して、 着 馴れない 軍服の だぶだぶ したの を 着た 新 


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宿の 敦倫 


兵が、 到る 處で 調練して ゐた。 勢の い、 壯年者 は 少なく、 足腰の 重たくな つた 四十 男 や、 まだ 中 

學を 出た か 出ない か 位に 見える ひよ ろ/、 した 若者が、 默々 として 動いて ゐた。 戰 時の 昂奮 も、 

熱狂 も、 彼等の 顔に は 現 はれて ゐ なかった。 た f 習慣 的に、 それが 國 民の 義務 だと 確信し 切って 

ゐる やうな 鈍重の 力強 さ を 背景に して、 歩調 を 揃へ て 訓練 を 受けて ゐた。 その 頭の 上 を、 飛行機 

ゃ輕氣 球が 無關 心に 過ぎて 行った。 足 を 止めて 仰ぎ見ても、 見て ゐる うちに 霧の 筌に 消えて 行く 

のであった。 

町中の 群集の 中に も、 著しく カァ キイ 色が 殖えて 來た。 眞 新しい 軍服 軍帽の 小粹な 士官と 腕 を 

組んで 步く 得意 さうな 女達と、 これ も 夥しく 目について 來た 喪服の 婦人の 姿が、 戰爭の 意識 を 強 

める ものであった。 

さう いふ 切迫した 景色が 否應 無しに 目前に 迫って 来た 時、 少佐の 家の 知人の 多く は、 相次いで 

戰 地に 送られて 行った。 

「A さん も遂々 戰 場に 立たなければ なら なくなつ たのです つて。」 

姉 娘 は、 或 朝の 稽古の 時間に、 おも ひ あまった やうな 口調で 柘植に 話した。 前の 晚、 彼 は 芝居 

に 行つ て 留守 だ つ たが、 A は 別れ を 告げに 來た のだった。 


7i 


「明日に も出發 する やうな 話でした が、 行 先 は 知らして 貰へ ない の です つて。」 

あからさまに 嘆息しながら、 やう やく 燃え 初めた 煖爐の 火に" 淚 組んだ 目 をし ば だたいた。 頼 

りになる 相談 柑 手の 欲し さうな、 力の 拔 けた 姿が、 豫々 柘植が 聞き 度い と 思って ゐた事 を 躊躇 無 

く 切 出させた。  . 

「貴方 は あの人と 婚約で もした のです か。」 

「婚約です つて?」 

思 ひがけない 問 ひに、 近眼の 目 をみ はって 驚いた が、 氣が 付いて 眞 赤に 頓を 染めた。 

「さう いふ わけで も 無い のです けれど ::: 。 彼の 人 は大變 私に 親切なん です。 人っても の は、 親 

切に される と、 如何しても ほ だされて しま ふ ものら しいんです のね え。」 

思 ひ 切って 云 ひ 切って、. 一層 額が 赤くな つたが、 暫時 沈 默の續 いた 後で、 A に對 する 自分の 立 

場を說 明した。 

二人 は 未だ 婚約 はして ゐ なかった が、 男が それ を 求めて ゐ るの は 明かだった。 出来る 事なら ば 

戰 地べ 行く 前に、 話 をき め 度い と 迄い ひ 出した。 けれども、 女に は判斷 の餘裕 があった。 男の 生 

活の樂 で 無い 事、. 自分の 兩 親の 思惑 1— それよりも、 若しも 戰 場で 萬. 一 の 事が あったら 如何なる 


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宿の 敦淪 


かとい ふ 心配が、 相手の 切望 を 担 ませた。 

「^の 中って、 みんな 思 ふやう に はならない のね え。 その 癖 私 はつい 近頃 迄、 あの人と 結婚し よ 

うなん て考 へた 事 はな かったんで すよ。」 

少し 出齒 の. ち ひさい 唇に、 寂しい 笑 を 浮べて 話した。 

比の 頃の 新聞に よく 論じられて ゐる 問題が、 UI 前に あるの を 柘植は 知った。 祖 國の爲 めに 戰場 

へ 行く 若者 は、 生死の 別れ目に、 何れも 異性に 對 して 犧牲を 要求す る。 女の 方 も、 死. を 賭して 行 

く 愛人の 爲 めに 感激して、 身 を 任す 事 は 拒め 無い とい ふので ある。 さう して 男は戰 死し、 女 は 身 

持に なって 殘 る悲慘 を、 力 をつ くして 新聞 は 論じて ゐた。 柘植 は、 男の 要求 も、 女の 態度 も 是認 

し 度かった。 その 癖、 今、 クリスティンが、 A の 申出 を肯 じなかった の を、 どんなに 滿 足して 聞 

いたか わからなかった。 

二三 日 後に、 A はほんと に 行 先の 示され 無い 戰 線に 送られて 行った。 

その 頃 は、 誰も. 彼 も、 少佐の 家に 出入す る 者 は、 みんな 何時の間にか 軍服 を 着て 來た。 銀行員 

も會社 0: も、 軍人に なって しまった。 夫人の 遠 緣に當 ると いふ 牧師 志願の 靑年 も、 甘んじて 銑 を 

執った。 よ X 遊びに 來る 美少年 も、 きゃしゃな 體に だぶだぶの 力 アキ ィ服を 着 始めた" ジ ョ才ジ 


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の 通ふ畢 校の 生徒 も、 一様に 軍人の 姿に なって、 調練に 日を暮 した。 ひよ ろ 長い 背中に 背囊 をし 

よって" 竹の 鞭 を 士官ら しく 小腋 にか、 へて 行く ジョ ォジ のカァ キイ 姿 は, 母親が 何よりの 自慢 

になった。 校から 歸 つて 來 ると、 その 鞭 を 銃の 代りにして、 自分で 自分に 號令を かけながら、 

男の子 は 家中 を、 踏み 鳴して 步き迥 つた。 

「あ、 私達 も 看護婦に でもな り 度い わ。」 

と 姉妹 は 口々 にい ひ 合った。 

侵入者 

或る 雨の 日の 暮万 であった。 夫人 も 姉妹 達 も 揃って 留守で、 珍しく 圖書 館に も 行かない 拓植は 

いたきれ  パイ ォ リン 

ジョ ォジと 二人 客間に ゐた。 彼 は 本を讀 んでゐ た。 ジ ョォジ は、 板 切 を 削って、 提琴 をつ くるの 

だと、 せっせと 小刀 を 動かして 居た。 もとよりい たづら のお もちやに 過ぎ 無い の だが、 遊び事に 

かけて は 丹念な 方で、 不格好な 提琴 型に 削った 一 枚 板に バ ンヂョ ォの絃 を 張り-、 これ も手づ くり 

の 提琴 弓 を 添へ て、 貧しい 音 を 出す 樂器を 仕上げた。 それ迄に 費した 苦心と 工夫 を、 得意に なつ 

て柘 植に說 明した 後で、 大工 道具 も 木屑 も そのまま にして、 木目の あらい 樂 器の 上に、 靑ん ぶく 


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宿の 敦倫 


れの顏 を 押つ けて、 夢中に なって 弾き出した。 輕く 床の 上で 拍子 を 取って ねる 足の 下に は、 寢そ 

べつた 老 犬が、 何時 迄た つても 晝寢 から 覺め なかった。 

ふと、 玄:! の 呼 鈴が けたたましく 鳴り響いた。 ジョ ォジは 音樂に 熱中して ゐて立 上らう とも レ 

た:." その 何事に も無關 心な 様子が 小 じれったく、 柘植 は輕く 舌打ちして、 椅子の 上に 本 を投出 

して 立 上った。 

扉 を あける と、 音 をた てて 降る 雨の 中に、 雨 外套の 頭巾 を かぶった 大男が、 づぶ 濡れに なって 

立つ て 居た。 

「奥さん は お出でで すか。」 

見馴れない 男 は 頭巾 を はねのけて、 力の ある 太い * で 訊いた。 眞 赤に 日に 燒 けた 廣ぃ 額と、 思 

ユダヤ 

ひ 切って 凹んだ 銃い 眼と、 猶太 型の 鉤 形の 鼻が、 威壓 する やうに 現 はれた。 

T 留守です。」. _ 

「では 誰かう ちの 人 は 居ません か。」  . 

「ジ ョ 才ジ がゐる 丈です。」 

「難 有い。 私 は M です。」 


?5 


名 を 名のりな. が. ら. づ かづ か 入って 來て、 苇 のした たる 外套 を 手早く 脫 いだ。 

「久しく 御無沙汰して, ゐ たので、 最初 貴方が 出て 來た時 は、 うち を 間違へ たかと 思 ひました。 曰 

本の 方です ね、 君 は。 支那 人で は あ" ますまい。」 

力の ある 聲, の 持主 は、 せ はしな く 一人で しゃべりながら、 物 馴れた 態度で、 先に 立って 客間に 

入って 行った。 .  .  . + 

「ハ u 才、 ジ ョォ ジ。」 . , 

手製の 提琴 を彈き 止めて、 びっくりして 立 上った ジョォ ジの兩 肩に、 毛 もくじ やらの 太い 手 を 

かけて 叫んだ。 

「驚いた、. 驚いた。 これが 自分の 知って るジ ョォジ だと は 信じられない。 大きくな つた ものだね 

え, もう. 僕と. 同じ 位 だ。」 

ひよ ろ 長い 少年の 額と、 自分の 額と をく つつけ て、 彼 は 寸法 を はかりながら、 高々. と 笑った。 

「お父さん は兵營 の. 方に 行って る さう だね。 僕 も 吾々 の國 家と 吾々 の國 王の 爲 めに.、.: 海軍に 志願 

して 出ようと 思って 歸っ て來た 。一 

口の 重い 少年 をつ かまへ て、 半分 は 傍の 柘植に 話 を ふり 分けながら、 馴々 しい 口調で 云 ふの だ 


76 


宿の 敦倫 


づ た。 

M は 此の 家の 古い 馴染で、 以前 は 始終 出入して ゐ たが、 商船の 乘組 員に なって、 久しい 問 南洋 

方面 を 航海して ねた。 それが 今度の 戰爭 で、 國 家の 爲 めに 働かう と、 俄に 歸 つて 来たの だと 云つ 

た。 如何に かして 海軍に 採用に なれば、 どんな 役で も 勤める。 最も 苦しい 仕事と されて 居る 敷設 

水雷 を 取 除く 掃海の 勞役 さへ 厭 はない と、 愛國 者ら しい 熱情 を こめて 云った。 その あげくが、^ 

の 頃 此の 國の 男女に 常に 聞かされる 通り、 獨 乙の 暴虐、 英國の 正義 を、 長々 と演說 口調で やられ 

て、 柘植は 應答も 出来す に、 ただただ 頷いてば かり 居た。 最初に、 銃い 眼附と 鼻の 格好から 受け 

た、.、 1 よくな ハ 印象が、 相手の 激越した 言葉の ほとばしり 出る 口元 を 見て ゐ ると、 一層 強くなる の 

であった。 且つ 此の 悪い 印象 は、 しつつ こく 心に 絡みつ いて、 M の 存在と 共に 消えな くな つた。 

何 寺の 間 こ. か、 話の 枏手 は柘植 一人に なって 1 ジョ ォジは 又しても 手づ くりの 提琴の 音色に 夢中 

になって ゐ た。, . 

夜食の 頃、 姉妹 三人と 母親 は、 前後して 歸 つて 来た。 M は、 誰に 對 しても、 親し さに 堪 〈ない 

やうに、 久し振りで 逢った 喜悅を 熱心に 繰返した。 さう して 又、 先刻から 柘植 とジ. ョォジ にき か 

せて ゐた 愛國 心から 出た 彼の 今囘 の意圖 を、 前よりも 一 層 雄 辯に 喋る のであった。 


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夫人 は M の 思 ひがけない 出現 を 甚だ 歡迎 した。 その さかんな 意 氣をロ を 極めて 稱 讚した。 海軍 

の 方に も 當路の 人に 知己が あるから、 自分 も 口 添 をして、 如何に かして、 直に も 士官に 取 立てて 

貰 はうな どと、 事 も なげに 云って きかせた。 

r 責 万が たは 來 年中に、 動物園の 檻の 中に 獨乙 皇帝 を昆 出す に 違 ひ 無い。」 

など、、 食卓の 賑 かな 話の 中で、 M は數 杯の ゥヰス キイ 曹達に、 一際 滑 かにな つた 舌 を 休めす、 

1 同に むかって、 自分の 勇氣 と、 英吉利の 強大 を ほこって 止 度が 無かった e 

その 晩から M は 此の 家に 泊る 事に なった。 二日た. つても、 三日た つても、 彼 は 矢張り: S つてん 

た。 朝の 食事が 濟 むと * 忙し さう に 出て 行った。 海軍に 入る 爲 めに、 方々 驅 廻って ゐる のだった。 

夕方 柘植 が圖書 館から 歸 つて 來る 頃に は、 婦人 食から 夫人 も歸 つて 來、 M も何處 からか 歸 つて 來 

た。 疲れた 顏を 客間に 合せる 中で, M 一人が 其 場を賑 かにす る爲 めに 努めた。 如何して 斯う 迄此 

の 男に は 出来事が 多い のかと 思 はれる 程、 毎日 何 かしら 驚く 可き 事件に 遭遇した 話 をした。 彼の- 

乘 つて ゐた乘 合 自動車が 衝突し さう になった とか、 衝突した とすれば 命 はなくな り、 今宵の 温い 

肉 が に はあり つけなかった に 違 ひ 無い とか、 今朝 町角で 見た 男 は 確かに 獨 乙の 軍事 探偵だった と 

か、 若し その 男 を 捕 へれば、 敵國の 驚く 可き 密偵 組織 は 暴露され たに 違 ひ 無い とか —— さう いふ 


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宿の 敦倫 


類の 話だった。 しかも 夫人 は、 何の 疑 も 無く、 面白さう に 聞いて ゐた。 ■ こども 達 は、 明白に M に 

封して 好意 を 持って ゐ たいので、 彼の 話術が 巧妙 を 極める 程ノ 一層 鼻で あしら ふ 態度 を 見せた。 

M も 確かに それに 氣が ついて ゐた。 知って 知らない ふり をして ゐた。 

或 朝、 柘植が 客間へ 下りて 行く と、 掃除の 手 を 止めて、 夫人と 次女と が 何か爭 つて ゐ た。 惡ぃ 

ところに 入って 來 たなと 思 ひながら、 後戾 りしょう とすると、 夫人 は 後から 呼 止めた。 

I 柘植 さん、 それに は 及びません。 何でも無 いのです。 ヂンが あんまり わからない 事 をい ふので 

…:- J  . 

「お母さん、 私 はわから ない 事なん か 云って やしないんで すよ。 當り 前の 事 を 云って ゐ たんだ 

わ。」 

「お 默ん なさい。 柘植 さんに 聞かれても 恥 かし いぢゃありません か。 そんな 得手勝手な 事 を 云つ 

てる ひまに、 さっさ と 掃除 をして おしま ひなさい。」 

疳癀 持の 夫人 は、 柘植の 見る 前で は 殊更 母親の 敏嚴を 示し 度い とい ふ樣 子で、 聲を震 はせ て 叱 

りつけ た。 

「さあ、 モ つちの 窓際の 椅子 は 綺麗です からお 掛けなさい。 新聞 も 其處に 來てゐ ます。」  一 


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無理に 優しい 額 を 夫人 は 柘植の 方へ 振 向けた。 ヂンは 口の 中で ぶつぶつ 不平 をい ひながら、 ふ 

てく された 格好で、 手に した 雑巾で 椅子 や 卓子 を 引ば たいて 廻った。 

「を かしな 人なん です。 着物 を 買って 貰 へない と 云つ て 怒り 散らして ゐる のです よ。」 

夫人 はてれ かくしに 笑 ひながら、 捨ぜり ふを殘 して 出て 行き かけた。 

「お母さん。」 

鋭い 上す つた 聲で 次女が 呼 わめた。 

「何 を 云って るの。 私 は 貴方に 着物 を 買って 貰 ひ 度い なんて 云 や あしな いぢゃありません か。 う 

ちに お金が 無くて 困って る 事 は 知って ゐ ます。 だから 自分で 働く から • 働きに 出して くれと いふ 

んぢゃ あり. ません か。」 

「ぉ默 り。」  . 

夫人 は 頷 色を變 へて 振 返った。 

「い 、え。」 . . 

娘は榨 立に 立った ま、、 胸に 波 を 打た せて まくし 立てた。 

「自分で 働かう といへば、 やれ 平民の 娘の 眞似 はさせられ ない とか、 家柄が どう だと か、 愚に も 


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宿の 敦倫 


つかない 事ば かり 云って ゐて 許して 吳れ ない んぢ やありません か。 たまにお 友達に 呼ばれても、 

着て 行く 着物 も 無い し、 先方から 遊びに 来て くれても、 あんまり 多勢 来て はいけ ない なんてい ふ. 

癖に、 自分のお 氣に 入り だと、 お父さんのお 留守 だとい ふのに、 三晚も 四晚も 泊り込んで ::: 」 

「お 默ん なさい。」 

夫人 は 何 か 云 はう としたが、 何もい ふ 事 は 出来なかった。 いきなり 娘の 肩 口 をつ かむ と、 力 任 

せに 突飛ば した。  , 

「M さん はお 父さんの 親友です。 お 留守中 だって 泊めて あげなくて はなら な いんです。 泊めて あ 

げ なければ 叱られる でせ う。 自分の 職業 を 捨てて 迄、 海軍に 志願して 出ようと いふ 人なん です。」 

「蛾 業 を 捨てたん です つて。 地中海に 獨 乙の 潜航艇が 出る 爲 めに、 商船の 航海 は 危なくな つたん 

ぢ やありません か。 馬鹿らしい。」 

適度の 抑揚 を 失って、 無闇に 甲高くな つた 聲に 咽喉が つまって しまった。 激しい 昂奮に 眞靑に 

なり、 目に は淚が あふれて 來て、 手に 持つ 雜巾も ぶるぶる 震へ たが、 いきなり その 雜巾を 力の 眼 

こらへ しゃう 

り 床に 叩きら ける と、 炔に堪 性が 無くなって" 兩 手で 額 を 押へ たま、、 むせ かへ つて 泣きながら * 

ヂン は戶の 外に 驅 出して 行った。 


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「チン、 ヂ ン。」 

これ も聲 さへ 出せない 程 激昂した 夫人 は、 娘の 後から 叫びながら 追 かけて 行った。 前後して、 

1 一階 へ 上って 行く 足 昔が、 騷々 しい 中に 寂し さを殘 して 響き わたった。 

輕氣球 

母と 娘が、 はげしく 罵り 合った 後の、 妙に ひっそりした 客間の 椅子に、 柘植は 所在 無く 殘 され 

た。 新聞 を 開いて 見た が、 面白い 記事はなかった。 繪圖で 示した 戰線 は、 何時 迄た つても 變 化が 

無く、 時た ま 變 化が あると すれば、 それ は 矢張り 部分的に、 獨乙 側が 進出す るば かりだった。 彼 

は ぼんやり 窓の 外に 目 をう つした。 うす 日の さして ゐる 裏庭の 木立に、 寒さに ふくらんだ^ の 群 

が、 夥しく、 枝から 枝に 渡り 步 いて ゐた。 囀り か はして ゐ るので あらう、 ち ひさい 嘴の 動く の は 

見える が、 たて 切った 窓の 硝子に さへ ぎら れて、 聲 はちつ とも 聞えなかった。 遙の 空に、 今朝 も 

輕氣 球が 上って ゐた。 下の 方 は、 靜 かにし めつ ぼく、  土に 落ちる 落葉 も 音を立てなかった が、 高 

い 處には 風が あるので あらう、 見て ゐる うちに、 だんだん 西に 流れて 行った。 

「お早う。 柘植 さん。」 


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宿の 敦倫 


不意に 聲を かけられて、 ふりむか うとした 肩の 上に、 M の 大きな 手が 乘 つた。 

「何 を^ てゐ るんで す、 一 心に。」 

持 前の 馴々 しい 態度で、 身 を 屈めて 遠く を 仰ぎ見た。 

「あ、 輕氣球 か。, 

目標が きまる と、 姿勢 を 正して みつめた。 半面に 朝日 を 受けて 輝いて ゐる氣 球 は、 ところ どこ 

ろに くっきり 見える 靑空 と、 その上に 流れる 白い 雲の 中に 突進む やうに、 ち ひさくち ひさくな つ 

てし まった。 

柘植は うっとり 見とれて ゐた。 子供の 時分、 赤 や 紫の 繪 具で 塗られた ごむ 風船の 糸 を 握って • 

驅 廻って ゐた 姿が 想 ひ 出された。 ふとした はすみ で 糸が 切れて、 あれ あれと いふ ひま も 無く, 大 

空の 藍の 中に 消えて しまった、 子供心 をいた ましめ た 幾つかの 風船が、 しっとりと 心の中に 浮び 

出して 来た。 

「来た々々。 叉 ひとつ 来た。」 

M が 叫びながら 指さす 空に、 やがて 眼界 を 去らう とする 以前の もの を 追 かける 姿で * 新しい の 

が 現 はれて 来た。 


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「あ.、、 なんとい ふ 壯大な 景色 だら う。 此の 英吉利 を 守る 爲 めに、 無 際限の 签に 昇って 行く… 

i -」 

M は 昂奮して、 力強い 聲で、 芝居の 獨 白の やうな 調子で 云った。 

「さう だ。 氣球隊 だ。 氣球隊 を 志願しょう。」 

お ほ ま た 

彼 は 自分の 腕 を -—— 右の 拳で 左の 腕 を、 左の 拳で 右の 腕 を il た、 きながら 大 跨に 床 を 踏んで 

歩いた。 

その 朝 は、 食卓に は、 夫人 も ヂンも 出て 来なかった。 誰の 額に も、 一家の 內に爭 が あり、 はし 

- はち 

たなく 罵り 合った 事 を 恥る 色が 見えた。 こころよく 話 をす る 者 も 無かった。 僅かに M が * クリス 

ティンに むかつて、 氣球隊 に 入る 決心 をした 事 を、 一大事ら しく^した だけで • それさへ も 今の 

先、 大さを 仰いで 昂奮した 時の、 緊張した 心 持 は 失 はれて ゐた。 彼 は 自分が 此の 家に 居る 事の 氣 

まづ さ を、 此の頃 ははつ きり 意識して ゐ るら しか つた。 

ジョォ ジは學 校に 行き、 M は クリスタル . パレス の氣球 陵に 行く の だと 云って 出て 行った。 餘 

り に無雜 作な その 段 取が、 芝居が かりで を かし か つた。 

「さ、 お 稽古 を 始め ませう か。」 


84 


宿の 教倫 


クリスティン は、 夙に 稽古ら しい 稽古で なくな つて はゐる もの、、 惰性で 朝の 一 時間 を 費す 習. 

慣に 柘植を 促した。 その 癖、 客間の 椅子に 向 ひ 合 ふと、 何もす る 事の 無い 手 持 無沙汰 を、 てれ,^ 

くしの 微笑に まぎらす 外に は爲 方が 無かった。 

「貴方 は 知って らっしゃ るの。 今朝の 騷 動。」  . 

しほし ほした 近視眼 を まある くみ はつ て、 聲を ひそめた。 

「知って る どころ ぢゃ あない、 唯一 の 目撃者です。」 

「貴方の 事 だから、 皮肉な 目附で 見て たんで せう。 わるい 人。」 

「そんな 事 をい ふ 人の 方が 皮肉 ぢ やありません か。」 

クリスティン は 睨む 眞似 をして、 側に あった 新聞 をと ると、 くるくる まるめて 棒に して、 柘植. 

をぶ つ ふり をした。 

「私 ま 二階に ゐ たんで しょ。 大變な 勢で ヂン が驅 上って 來て、 床の 上につつ ぶして 泣いて るん ぢ 

やありません か。 どうした のかと 思って ると、 お母さん はお 母さんで、 眞 靑な顏 をして 入って 來 

て、 、ニリ ^も い つ 乞 一 も" 泣いて るヂン を 睨み つけて ゐ るん です。」 

話 をして, Q る-つちに、 その 時の 動悸が 蘇生して 来た やうに、 うすい 胸に 波 を 打た せた。 


§5 


「ー體 如何し たんです。 何が 原因なん です。」  • 

「さあ、 よく はわから ない けれど、 着物が 出來 ない とかなん とか 云って たやう です よ。 働きに 行 

き 度い とい ふのに、 お許しが 出ない ので、 愚圖々 々云った のか しら。」 

「隨分 見 つと もない わね え。」 

一 寸眉を ひそめた が、 

「けれども ヂンの 云 ふの ももつ とも だと 恩 ふわ。 お母さん なんか、 全く 無理解なん ですからね。 

一 一言 目に は 平民の 娘と は 違 ふ つて 云 ひながら、 その 平民の 娘よりも み つと もない なり を させで 置 

かなく ちゃ あなら な いんで しょ。 それに、 自分で 働いて 着物 を こしら へる つて 事 は、 ちっとも 恥 

る 事で は 無い と 思 ふんです けれど …… 」 

全然 妹の 側に 同情 を 持って、 諄々 と 姉 は 話した。 父親が 如何に 善人で、 幾度 人に だま かされた 

か、 骨牌 好きで、 おまけに 下手で、 俱樂 部で 夜 を 更かして はお 金 を とられて しま ふ 事、 あげくの 

果が 投機に 失欧 して 一文無し になって しまった 事、 母親の 機嫌の 非道く 惡 くな つたの も、 ひとつ 

に は 其の 爲 めで、 もともと むら 氣には 違 ひ 無かった が、 根 は 正直な 人 だとい ふ 事、 自分 丈 は相當 

の 敎育を 受け、 獨 乙に も佛蘭 西に も 勉強に 行って 居た が、 外の 妹 はそんな 事 さへ 不充分で 氣の毒 


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宿の 教倫 


たとい ふ 事、 —— それから それと, ままに ならない 一家の 事情 を 話して 居る うちに、 何時の 間に" 

か、 淚 組んで さへ 來る のであった。 

「ああ あ、 女 はい や だい や だ。」 

あんまり 話し 過ぎた と 思 ひ 返した ので あらう、 うつち やる やうに 云 ひ 捨てて、 4 ^の 時の いろん 

な 心 持 を、 笑 ひに まぎらして しまった。 . 

「どうして。 男 だってい、 事 はあり や あしない。 私 は 來世は 女に 生れ 度い と 恩って ゐ ますよ。」 

男の 社會の 醜惡な 事、 矢張り 女と 同様に、 媚 も賫ら なければ ならす、 噓 もっかな.: b れ ばなら な 

い、 心の ま、 に はならない 世の中 を 見て 來た 柘植 は、 寧ろ あからさまに、 弱い ものと きめられて. 

ゐる 女の 方が、 遙 かに 幸福で はない かと 思って ゐた。  . 

「そんな 事が ある もんです か。 男なら 何でも やらう と 思へば 出 來るぢ やありません か。 仕事 を レ- 

ようと 思へ ば 好き な 道で 働け るし、 結婚し ようと へ ば それ も 出来る でせ う。」 

「そんなら 貴方が たも 結婚 すれば い k ぢゃ ありません か。」 

ふとした 事から 話が それた ので あらう、 結婚の 事 をい ひ 出した のが、 何となく 娘 達の 本心 だつ 

たやう に 思 はれて 面白かった。 女に とつて、 結婚 以外に 何が ある もの かと 考 へた。 柘植は 冗談ら 


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しく も、 眞 面目ら しく も 見せながら、 卽 座に i 百 葉 1% を捉 へたので あった。 此の 國の、 此の 年配の 

女が、 この 問題 を 如何 考へ て 居る かとい ふ 事も與 味だった。 

「結婚です つて。 それが なかなか 難 かし いんです もの。」 

相手 は 少し 顏を 赤く したが、 仔 外お ちつ い て 答 へ た。 

こ つち 

「立派に 暮らして ゐる 家の 娘なら、 あっちから も 此方から も 候補者が 現 はれて 來て、 自由に 選擇 

する 事 も出來 るで せう けれど、 今の 私達の やうな 者 は 駄目です。 そり や あ、 なかには 何とか 云 ふ 

男の人 も あるで せう けれど、 あつたと ころで、 それが きまって 暮 しの 立た 無い 同志なん です。 つ 

まり 男の 方 も、 い、 ところの 娘 は 到底 も 物に ならない と あきらめて、 あきらめた あげ/、 の 事なん. 

でしよ。 :•:• 曰 本で は 如何なん です。」  . 

. 又しても 話に 乘り 過ぎた と氣 がつ いた 風で 1 あべこべに 質問して 来た。 

「日本です か。 日本で は 年頃に なると、 男の 方に も、 女の 方に も、 物好き や 世話 燒が 群って 來 て, 

なんでもかんでも 夫婦に してし まふの です。」 

「まあ、 なんて 便利な 制度なん でせ う。」 

- 柘植の 言葉の 調子 も、 その 習慣の 細かい 實狀 も、 まるっきり 理解し なかった に は 違 ひ 無い が, 


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宿の 敦 


容^に 男と 女が 結婚 するとい ふ 事柄 は、 惡意 たく 眞 面目に 受け入れたら しか つ た。 

かねがね、 柘植 は、 日本の 人、 殊に 近頃の 若い 女が、 因習 的な 自國の 結婚 制度 を 嫌 ふ 心 持に は 

無理 も 無い と 思 ひながら、 同時に、 外國 のは^ だい、 と 思 ひきめて 居る の は、 大 間違 ひだと 思つ 

て 居た。 物の 理解の 惡ぃ爲 めか、 噓っ きか、 それとも 手段と して か、 新しが りの 女に 媚びる 男 や、 

亞米利 加^りの 女 書生な どが、 無闇に、 外!: の 結婚 は 自由 だと 云 ふやう に吹聽 する のが 片腹痛 か 

つた。 一人々々 の 特殊の 場合と して は 無理 も 起る に は 違 ひ 無い が、 親 や 親類の 勸 める 儘に 結婚の 

出来る 方が、 結婚したくて うづ うづしながら、 しかも 容易に 結婚の 出来ない 外國 人より は 幸福な 

ので は あるまい かと 考 へて 居た。  . 

•「 寧ろ 曰 本が 羡し いわ。」 

クリスティン は、 矢張り 生眞 面目な 顏附で つぶやいた。 

「何が? 結婚です か。」. 

柘植の 調子が からか ふやう だった ので、 娘 は 目 もと や:: "もとに 笑 を 忍びながら、 默 つてうな づ 

いた。 

「そんなら 日本に 行って 結婚なさい な。」 


.89 


た、 みかけて、 輕ぃ 冗談の 氣分 がそ、 のかして 來た。 

「だって 突然 行っても 相手が 見付からない でしよ。 柘植 さんが 引う けて 下さる?」 

明かに 先方 も ふざけ 始めた と 承知しながら、 流石に 柘植の 胸 も 鼓動が 高くな つた。 

「え、 喜んで。」 

どんな 場合に も、 困った 様子 を 見せ 度 がらない 性質な ので、 平 氣 らしく 受け流した つもり だつ 

たが、 あかるい 朝の 窒の 中に、 顏の 火照る の はかくせ なかった。 彼 は、 うつむいて 微笑しながら,. 

先刻 まるめた 新聞 を、 膝の 上に 開いて 讀ん でゐる 相手から 目 を そらして、 ほっとして 窓の 外 を 見 

た。 木立に 騷ぐ雀 も 居 なくなった。 輕氣球 は 何處迄 行ったら う、 靑 空に 浮ぶ 雲ば かりが、 今朝の 

ままに、 ゆるく ゆるく 流れて 行った。 

「あ、 あ、 私 も 夙から 働く 口 を 探して ゐ るんだ けれど …… 」 - 

クリスティン は、 此の頃の 朝の 曰 課に して ゐる、 新聞の 求職 攔を、 始 からし まひ 迄讀 んでゐ た? 

r 柘植 さん、 柘植 さん。 これ 如何で せう。」 

突然 仰々 しい 聲を. 立てて、 新聞の ひと 處を 指さして、 彼の 注意 を 促した。 

「郊外、 宏大なる 莊 園に 住む 老貴 夫人のお 相手役。 身分 卑しから す、 相 當敎育 ある 婦人、 年齢 を- 


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宿の 敦倫 


不問。 至急。」 

廣吿文 を 讀んで 聞かせて、 

一, ね、 い、 でせ う。 猶太 人の 商賣 人の 祕書役 や、 活動 寫眞 の會計 書記よりも ましで せう。 上品な、 

白髮 の. 伯爵 夫人のお 相手 …… 」 

半分 は 冗談ら しく もあった が、 ふだんから 家の 內の息 苦し さに あき 果てて、 何處 かに 行って 自 

活の道 を 開き 度い と、 口癖に して 云って 居た ので、 柘植 も本氣 になって、 一度 讀んで 聞かされた 

廣吿 に、 自分自身 目を通した。 

「ね、 い、 でせ う。 至急と あるから に は、 方々 から 申込みが あるに 違 ひ 無い わ。 私、. 直ぐに 手紙. 

を 出して 見よう。」 

勢よ く 立 上る と、 窒の 隅の 小 机に むかって、 氣忙 しさう に 洋筆を 取り あげた。 

「御免なさい。 今朝のお 稽古 はこれ つきり なのよ。 どうせ 柘植 さんに 敎 へる 何物 も 持 合せがない 

ん です もの。」 

子供ら-しい 顏を 振りむ けて、 輕 くしな をして 笑って 見せた が、 短 衣の かくしから 近眼鏡 を 出し 

てかける と、 その ま、 丁 心に 手紙 を 書き 始めた。 


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「さあて、 また 阖書 館に 行って、 中 K 方が たの 所謂 無益の 讀書 でもして 來 ようかな。」 

柘植 は、 さう いひながら、 重たい 體を 起して 伸 をした。 おも はす しらす あくびが 出た。 

夕方 迄、 彼 は圖書 館の 中で 過した。 此の頃 は、 曾て 亞米利 加で 夢中に なり、 つい 先頃 も 此の 地 

で 見た、 愛蘭 土 釗團の 研究に 沒 頭して ゐた。 地方色 や 國民性 を 超越した 藝 術の 偉大な 事 は 勿論で 

あるが、 其處 迄に, 至らない もの を慣値 づける 要素と して、 土地と 歷史に 根を据 ゑた 藝 術の 魅力 は 

消し 難い ものであった。 彼 は その 論據 から、 イエ ー ッ、 シン ジ、 グレゴ リイ 等の 戲 曲と、 それ を 

演じる 一座に ついて、 ー篇の 論文 を 組立て ようとして ゐた。 せんさく 好きの 性來 とて、 何時の 問 

にか 材料 を 集める 興味に 耽って しまった。 彼 は 毎日、 うづ 高く 積んだ 本 を 前にして、 雜記帖 に 筋 

立て をして ゐ たのだった。 

それな のに, 其の 日 は 妙に 氣が 散って、 長い 時間 を圖書 館に ゐ ながら、 頭 は 散漫に 他の 事 を 想 

ひ 浮べて ゐた。 少佐の 家の 有様が、 しつつ こく 目前に 迫って 来た。 自分の 力で" 一家の 者 を、 す 

ベて 幸福に してやる 事も考 へた。 勿論より どころ の 無い 空想だった。 近頃 際立って 自分に 親し さ- 

を增 して 来た 姉 娘の 事 は、 羡 しい 程 心の中 を 往来した。 手 を 組んで、 日本へ 連れて行く 景色 迄 想 

像した。 •  - . 


宿の 教谕 


歸途に は、 行きつ けの カフェで、 一杯の アブサンに 小一時間 も 休息して、 又しても 立て込めた 

霧の むせつ ぼい 中 を、 何 かしら 樂 しい 晩が 待って ゐて 央れる やうな 氣 持だった。 

みんな は、 旣に 食卓の 用意 も 出 來てゐ て、 柘植 のかへ り を 待って ゐた。 夫人 もヂン も" 席に着 

いた。 母親 は黑 つぼい 他所 行に 着換 へて、 薄化粧 さへ して ゐ たが、 娘の 方 は 未だに 泣き はらした 

I 円い 顔 をして、 むっつりと 坐って ゐた。  . 

「拓植 さん, 僕 は 愈々 氣球隊 に 編入され ましたよ。 士官の 中に * 昔 知って ゐた 男が ゐて、 偶然 殳 

附の ところで 出逢った のです。 その 男が 萬 事 口 をき いて 吳れ て、 卽 座に 採用され ました。. 一 

彼の 隣席の M は、 今迄 家の 者に 話して ゐ たらしい 出来事 を * 特有の 熟 情 を こめた とい ふ 調子で 

きかせた。 しかも その 言葉に 從 へば、 直に も 士官に とり 立てて くれる かもしれ たいとい ふの だつ 

た、 

「ほんと に お 目出度 いぢゃありません か。」 

夫人 は、 自分から 進んで、 葡萄酒の 杯 を 口につ けながら、 今朝 怒號 した 時と はう つて 變 つた 上 

機嫌で、 M の 話に 相槌を打つ のだった。 

一 3: が、 柘植 にと つて は 意外だった。 ついその 朝、 ふと 客間の 窓 越に、 & を 飛ぶ 輕氣球 を 見て 


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思 ひ 付いた 事が、 その 日のう ちに 實現 されようと は 信じられない 事だった。 いくら 英吉利が 大國 

でも、 そんなに 容易に 人 を 信じて、 軍人に 採用す る だら うか。 

「貴 万 は輕氣 球に は乘 つた 經驗が あるので すか。」 

どうしても 信用し かねてき い て 見た。 

「否、 ありません。 しかし 船に は 長い間 乘 つて ゐ ました。」 

何の 躊躇す る 事 も 無く 相手 は 答へ た。 一 つの 事に 熟練して ゐれ ば、 他の 事 も 容易 だと 確信して 

疑 はない 態度だった。 おも はす しらす 吹 出し さう になった が 我慢した。 何となく、 それが 英吉利 

. 人の 特徵だ とさへ 考へ られ た。 

子供達の 顔に は、 俄に 勇士に なり 切った M に對 する 尊敬の 色が 明かだった。 M と 夫人の 話聲 は、 

いつに もまして 陽氣 に、 珍しく 賑 かな 晩餐だった。 

葡萄酒の 溫ぃ醉 に 陶然と した 柘植 は、 見る 限り 眞靑に 晴れた 大空に 昇って 行く 輕氣 球の 雄姿が、 

何よりも 羡 しく 思 はれた。 

長女 


94 


添の 敦^ 


翌日、 M は 此の 家 を 去って 氣球隊 に 加った。 来た 時の まゝの 着物で、 何 一 つ 荷物 も 無く, 雨 外 

套を 腕に かけて、 彼の 偉大な 姿 は戶の 外, に 出て 行った。 

「今度の 日曜に は みんなで 隊に 遊びに 來て 下さい。 御 案- 2: します から。」 

夙に 軍人に なり 切った やうな 言葉 を, 一 同に 殘 して 行った。 

「あ、、 彼の 人 はもう 一人前の 氣球乘 になった つもり なんだ わ。」  . 

見送った 姉 娘 は 妹 を かへ りみ て 笑った。 

「M さん は 萬 事が あの 調子よ。 出たら めったら あり や あしない ご 

垂棄 する やうに 云 ひ 捨てた が、 怖い 顏 をして 睨んで 居る 母親 を 見る と、 首 をす くめて、 自分で 

自分の ロ邊 をつ ねった。 

「何て い ふ眞似 をす るんで す。」 

今にも 叱りつ けさうな 氣 勢だった 母親 も、 笑 ふまい としながら 吹 出して しまった。 けれども 直 

に眞 面目に なつ て、 

一. 兎に角 あ. の 人 は 手柄 を 立てる に 違 ひ 無い。 強い 人です。 勤勉で、 正直で il- 多少 子供ら しい 處 

は ある けれど。 一 


95 


持 前の 早口で、 自分の 確信 を, 熱心に 主張した。 

「クリスティン は 如何 思って。 私 はお 母さんと は 反對だ わ。」 

母親の 稱讃の 言葉の 力強 さに、 むらむらと 反抗 心 を 起したら しく、 ヂン はたち どころ に 口 を 切 

- つた。  - . 

「私に はぁゝ いふ 人 こそ 信用 出来ない わ。 n 先ば かりお 上手で. その場限りで、 無責任で ::: 」 

「ぉ默 り。 い、 加減に しないと 承知し ません よ。」 

母親 は 娘の 一一 目 葉 を中斷 して、 見る見る うちに 顏色 迄變 つた。 自分の 信じて ゐる 人間の 事 を、 我 

子の 爲 めに 思 ふさ ま 罵られた 憤りに 堪 へられなかった の だ。 ふだん は 年齢に 似合 はない 若々 しい 

顏 なの だが、 怒った 時 は 暗い 陰影が 出来て、 俄に 老けて 見える のがお きまりだった。 

その 母親の、 こ は 張って 睨みつ けながら、 なほ はしたな さ を 抑へ ようと 努めて ゐる樣 子 を * ヂ 

ンは輕 蔑した, 目 附で凝 然と 見た が、 意地の 惡ぃ笑 を 鼻の 頭に 浮べて、 小馬鹿に した 風で 肩 を搖る 

と、 梯子段 を 踏 鳴して 二階に 上って 行った。 

「オズ」 . 

唸る やうに 低く つぶやきながら、 はげしい 舌 打 をした 夫人 は、 激怒の 爲 めに 頭痛の する 額 を 手 


96 


宿の 15 [倫 


の 甲で 叩き 叩き、 重たい 足 を 引 擦って、 食堂の 中に 姿 を かくした。 食卓の 上に、 何 か 手 きびしく 

叩き つける 音が した。 

その 日 は、 晩餐の 卓で、 叉しても 夫人の 心 を亂す 事が 起きた。 

溫ぃ肉 漿の湯 氣の立 昇る 燒 肉の 皿 を 前にして、 クリス ティン は 急に 改 つた 様子で 云った。 

「お母さん。 私ね、 い、 仕事 を 見附け たんです よ。 老貴 夫人のお 相手役な の。」 

「何です つて。」  • 

ナイフ  フ ォォク 

夫人 は 驚いて、 肉 刀と 肉 叉 を 下に 置いて、 まある い 目に 怒の 色 を 漲らした。 

「何時 私が 許しました。 何時 私に 相談した のです。」 

「だって、 お母さん にきけば いけない つてい ふの は 知れ 切って るんで す もの。」 

娘 は 伏目に なって、 早く も淚 組んで しまった。 

「許さない と 知って て、 そんな 輕 はすみ な 事 を ::: 。 陸軍 士官の 娘が 奉公に 出る なんて。. 一 

はげしい 屈辱に 夫人 は 物 を 言 ふ 事 も 出来なかった。 誰も 彼 も、 その 爭 ひの 間に 身 を 置いて、 如 

何して い  > の かわからなかった。 

「第一、 お父さんが 許す 害が ありません。 私と しても、 留守中に そんな 眞似 をされ て は、 申譯が 


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ありません。」 

「お母さん。 お父さんに は 昨日 手紙 を 出した のです。 きっと 許して 下さる と 思 ひます。」 

蒼 ざめ た顏を あげて 云った。 

「いけません。 その 遣 口 は 何です。 私 を 出しぬ いて、 お父さんに 相談す るなん て 事が あります か 

いくら そんな 惡が しこい 事 をた くんだ つて、 お父さん だってお 許しに ならない 事 は 確かです。」 

只管 娘の 口 を 塞ぐ やうに、 夫人 は 押切って 斷 言した。 子供達の すべてが、 我儘で、 いふ 事 をき 

かないで、 良い 家庭の 子ら しくない の を、 何時 迄 も 何時 迄 も、 繰返して 憤慨した。 

不愉快な 食事の 後で、 夫人 は 直に 二階に 上って、 それつ きり 下りて 來 なかった。 客間に 殘 つた 

姉妹 は、 しきりに 母親の 無理解 を攻擊 し、 その 横暴に 反抗の 氣勢を 高めて、 止 度な く 唇 を ひるが 

へ し、. 一。 

「お父さん はきつ と 許して 下さる に 違 ひ 無い わ。」 

「. H  、きっとよ。」  . 

姉の 言葉に 相槌を打 つ て 妹が 答 へ た。  * 

二三 曰た つて、 果して 父親から は 許して 来た。 クリスティン は、 その 手紙 を 母の 目の前に つき 


98 


宿の 敦倫 


つけて 見せた。  - 

「甘い つたら あり や あしない。 だから 他人 樣には 馬鹿にされ るし、 子供達 はいふ 事 をき かなくな 

るんで す。」 

夫人 は 夫 を 責める やうに つぶやいて 唇 を^んだ。 

「勝手になさい。 私 は 何も 知らないから。」 

い ふ 事 をき かない 娘に 對 する 忌々 しさに 震 へながら、 荒々 しく その 場 を 立 去った。 

「御 覽 なさい。 私の 云った 通りお 父さん は 許して 吳れ たでし よ。」 

父親の、 いぢけ た 字で 書いた 手紙 を、 柘植 にも 見せた。 

そんな 心配 迄させる やうに なった の を氣の 毒に 思って ゐる。 許して おくれ  

自分自身の 甲斐性の 無 さ を かこつ やうな 文句 もあった。 善良な 老 軍人の 氣の 毒な 姿 を、 柘植は 

感傷的な 氣 持で 想 ひ 描いた。 

郊外の 莊 園に 住む とい ふ老責 婦人のと ころから も 返事が 來た。 兎に角 一 度 逢 ひ 度い とい ふ 文 言 

だった。 

「あ、、 私の 新 生涯が 始まる のか。」 


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クリスティン は 感慨 深く、 確に 代筆に 違 ひ 無い, 若々 しい 女の手の、 簡 短な 返事 を、 繰返して 

葭 んでゐ た。 

朝の 食卓に ついても、 何も 味の 無い やうに、 せかせか 喰べ てし まふと、 狼狽し く 外套 を 着て、 

厚ぼったい 毛皮に 顏を 埋めて、 黑ぃ 大きな 帽子の 下に、 近眼の 目 をし ば だた きながら、 ^てつい 

たやう に 動かない 霧の 戸外に 出て 行く のだった。 

「柘植 さん、 今日はお 稽古 はお 休みです よ。」 

おも ひ 出した 風で, つかつか 戾 つて 云 ひ殘 した。 

「お 目見榮 なんです からね。 それ どころ ぢ やない わ。」 

づっ しりと 重たく 入口の 扉が しまる と、 往来の 敷石の 上 を 急ぐ 靴の 音が、 小 走りに 聞え た。 非 

常な 努力で 感情 を 抑へ つけて ゐた 夫人 は、 娘の 姿 を 見途り 果てて、 力無く 嘆息した。 大きな 目に、 

淚 がい つばい 溜って 居た。 

柘植も 寂寞 を 感じて ゐた。 單 純な、 喜 怒哀樂 のかく せない 夫人に 封して は、 その 我儘な 心から、 

いつも 平靜を 失って、 怒鳴ったり、 泣いたり する の を、 自分が 當 面の 相手になる 時 は 堪らない が、 

1 面から は、 憐憫と 同情 を 持つ 事が 出來 た。 男の やうに さっぱりした、 天の邪鬼の 次. 女 も、 內心 


100 


宿の 教偷 


はぎ 道く 親切で、 學問 ゃ讀書 は大嫌 だと 自分から いひ ふらし、 母親から も 思慮が 無い と 云 はれて 

ゐる くせに、 此の 家で は 第一 の 敎育を 受けた 姉よりも 遙 かに 物の 理解が 早くて、 話 をして ゐて 一 

番氣 持が よかった..。 末の 娘 も 男の子 も、 少しも 心に やましい 陰影の 無い のがよ かった。 

けれども、 その 人達の どれ もが、 餘 りに 柘植を 了解して 居なかった。 未開 ® か ら來た 畢生で、 

か は 9 もの 

無闇に 本 を讀む 事ば かりに 熱中し、 人 づき あ ひの 嫌 ひな、 だんまりの 變物 だと 考へ ると 同時に、 

存外 物し りで、 意外に 親切で、 頼もしい とも 思 ふの だった が、 しかも その 感心す る點 も、 不 感服 

の點 も、 はなればなれに 見える 爲 めに、 一個の 人格と して 考 へる 時 は、 全く 不可解な 人間だった 

の だ。 

た f 一  人 クリス ティン は、 一 番 多く 異邦の 人と もつ きあつた 經 験から、 英吉利 以外に も 國のぁ 

る 事 を 知って ゐた。 その 國 民の 思想、 文化、 いづれ も 自分の 國の ものと は 違 ふ 事 も 知って ゐた。 

殊に 歐羅 C 大陸 を 旅行した 經驗 から、 長い間 旅 をした 者の 例に もれす、 異國 人に 對 する 同情が 深 

かった。 柘植 にと つても、 お 互の 感情 を、 理解し 同情し あ ふの は 此の 一人だった。 へだての 無い 

話に みが 入って 來 ると、 クリスティン は、 自分の 身の ふり 方 を さへ、 柘植の 判斷を まって 極めよ 

うとす る 心 持 さへ 見せた。 極く 極く 輕ぃ 心の 影と して、. 彼 は、 女に 對 して、 一歩 踏み込んだ 態度 


101 


に 出る 事 さへ、 想 ひ 浮べる 事 もあった。 

その 曰 は、 夕方 圖書 館から 歸 つて 來 ると、 食事の 支度で 夫人 は 居なかった が、 き やう だい は 客 

間に かたまって、 緊張した 顏 をして 居た。 

「柘植 さん、 私お 目 見榮に 及第し たんです よ。 直に 明日から 行く 事に きめち やった の。」 

彼 を 見る と、 クリスティン は 椅子 を 並べて 話した。 大木の 林に 圍 まれた 庭園の 中の 宏大な 邸に 

住む 貴族の 老 未亡人に 逢って 来た 今日の 一 日 を、 かくし 切れない 昂奮した 調子で、 次から 次と 紹 

介す るの だった。 僂 麻 質 斯の爲 めと、 肥滿し 過ぎた 爲 めに、 步行も 不自由な その 人に か しづく 自 

分の、 新しい^ 活に對 する 好奇心と 輕ぃ 怖れと が、 二十 二の 娘の 胸に あふれて ゐた。 時に ふと、 

聲 を^して 沈み 勝になる の は、 さう いふ 境遇に なって しまった 自分 を儍 なむ 爲め であらう。 かす 

かに もらす 溜息 を、 拓植は 同情して き、 もらさなかった。 

晚の 食卓に は、 平生よりも 御馳走が 出た。 拓植 にはゥ イス キイ を勸 め、 女 連 は キュンメルの 杯 

に 唇 を 觸れた C 當の クリスティン はふ だん 着の ま、 なのに、 夫人 は 他所 行に 着換 へて 席に着いた 9 

そんな 事に も、 夫人の 育った 家風、 その 背景に なった 時代な どが うか..、 はれた。 娘が 他所に 出て 

自活の道 を 求める 事に、 ヒステリックに 反對 したの が、 今^ 全く あきらめた やうに、 寂しく 沈默 


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してし まった。 その 様子 を 見る と、 夫人の 執った 態度 も、 無理で は 無かった やうに. 思 はれる ので 

あった。 

お別れの 積り で、 子供達 ははし やぎ 廻った。 ジョォ ジは手 馴れた バ ン ヂョォ や、 手製の 提琴 を 

持 出して、 姉の 洋琴に 合せた。 キティ は おだてられて、 惠 まれた 涼しい 聲 で獨唱 し、 ヂンは 調子 

づ いて 袴 をた くしあげ、 弟の 學 校の 帽子 を かぶって、 蘇 格 蘭 舞踏の 眞似 をした。 

「柘植 さん もお やん なさい よ。」 

「日本の 唄 をき かせて 頂戴。」  . . 

口々 にせつつ かれて、 苦笑して ゐる手 をと つて、 田園 舞踏 を敎へ 込み" 一人の 洋琴の 拍子に つ 

れて、 床 を ふみ 鳴して 四 人 は 踊った。 いつもい つも、 無益に 本ば かり 讀ん でゐ て、 相手に ならな 

ぃ柘植 が、 意外に も 小器 用に 覺ぇ 込んで、 ー緖 になって 騷 ぐの を、 夫人 は 片隅の 長椅子に 坐って、 

ひとりぼっちの 寂し さで 見守 つて ゐた。 

翌朝 は 濃霧の 中に、 か ぼ そい 雨が 降って 居た。 昨夜の 騷ぎは 忘れた やうに、 みんなが みんな、 

敦 - 妙に 嚴肅 な顏 をして ゐた。 運送屋に 托した 荷物の 外 は、 ス ゥト. ケ M ス が 二 個、 手 提飽が 一 個 あ 

の 

^ つた。 何時もよりも 心 持 濃い 化粧 をした クリスティン は、 はじめから 目 をうる ませて 居た。 母親 


103 


も 妹 達 も、 いっとき でも 永く 自分の 側に 引つ けて 置き 度い と 思 ひながら、 いざと なると 何も 口が 

きけ ないで、 これから 直に 此の 家 を 出て 行く 相手 を、 おも ひ 深く 見詰める ばかりだった。 時々 顔 

を 見合せ ると、 お 互の 心の中 を 見 透され たやうな、 てれた 微笑 を か はすの だった。 

「愈々 お別れ だ わ。」 

クリスティン はため 息をして 立 上った。 雨 除の 外套 を 着て、 もう 一度、 母 や 妹 や 弟と 抱き あつ 

て 接吻した。 

「左様なら。 御き げんよう。」 

柘植 とも 力強い 握手 をした。 

「チャック。 ヂャ ック。 お前 も 達者で おいで。」 

かすんだ 目 をし よ ぼしょ ぼ させて 見上げて ゐる老 犬の 額 を 撫でながら、 クリスティン の聲 はう 

るんだ。 

二人の 妹が 近くの 停車場 迄 送って 行く 事に たった。 自分で 一つ、 ヂン がーつ、 ス ゥト. ケ M ス 

を 持った。 キティ は 手 提飽と 姉の 傘 を 持って ついて 出た。 濡れた 石段 を 下りて 行く 時、 長途の 旅 

を 經て來 たらしい 黑 すんだ 鞫が 如何にも 重た さう に 見え、 踵の 高い 靴が 危なかった。 柘植は 自分 


104 


栴の敦 倫 


も その 飽を 持って 見送りに 行かう かと も 心が 動いた が、 理由 もな く 恥ぢて 止めた。 夫人 は 入口の 

扉に もたれて、 雨に 濡れながら 町角 を 曲って 行く 娘の 後 姿 を、 暗然と 見詰めて 動かなかった。 

次女  .  . 

クリスティンが 居 なくなって、 象の 內は 俄に 喑く なった。 人手が 足り なくなつ たので、 掃除 も 

行 届か なくなった。 二人の 娘 を 叱りつ ける 母親の 聲 ばかりが、 甲高く 響き わたった。 やう やく 居 

附 きかけ た 女中 も、 ロ實を こしら へて 暇 をと つてし まった。 夫人の 絕間 のない 小言に、 ^底 も 辛 

唪 出來 なくなつ たの だ。 

氣球隊 に 入った おは、 水兵服 を 着て、 度々 遊びに 来た。 旣に氣 球の 操縦に も 馴れ、 近いうちに 

は 海峡の 防備に つく 事に なって 居て、 それと 同時に 士官に 取 立てられる 害 だと、 例の 通り 勇敢に、 

斷定 的に 話す のであった。 

深い霧 か 、雾 まじりの 雨の 降る、 わびしい 曰が 績 いた。 將校 夫人 會の 仕事 は、 矢張り 忙しい 害 

だった が、 夫人 はちつ とも 出て 行か なくなった。 むら 氣な 性分 だから、 意外に はかばかしくない 

戰況 と、 愈々 困雞 になって 來た 募兵に 倦き てし まった ので あらう。 


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「どうも 頭痛が して 堪らない。」 

と、 口小言の やうに つぶやきながら、 しきりに 額 を 叩いて ゐた。 

柘植の 英語の 稽古 は、 クリスティンが ゐ なくなつ たので、 自然と 立 消えに なって ゐ たが、 或 時、 

夫人 は 彼に 云った。 

I 柘紘 さん。 貴方に ぉ賴 みが あるので すが、 きいて 頂け ませう か。」  . 

何時もに 無い 氣の; P さが、 その 言葉つ きに 現 はれて ゐた。 

「何です か、 私に 出来る 事で せう か。」  , 

「では 遠慮なく 云 つてみ ますが ね、 隨分 虫の い 、話なん ですから、 氣を惡 くな さらない でド さい。」 

又しても 躊躇しながら、 かくし きれない 羞 しさに 顏が 赤くな つた。 

「ほかで もない のです が、 あの ヂン です ね。 あれが 又、 百貨 商店の 賣子 になっても、 工場の 女工 

になっても" 自分で お 小 遣 を 稼ぐ といって きかない のです。 私と して は、 家柄 も. ろり、 親類の 手 

前 も あり、 どうしても そんな 事 は 許せません。 クリスティンの 時で も、 私は斷 じて 許さない つも 

りだつた のです が •::. 」 

持 前の 早口で、 夫人が 柘植 にい ふの は、 いつも 口癖に たって 居る 家柄と、 その 家柄に 背く 事 を 


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宿の 敦倫 


何とも 思 はない 娘 達の 不心得に 困 じ 果てた 事、 しかも さう いふ 娘 達の 申出 も、 もっとも だと 思 は 

なければ ならない 現在の 家計の 狀態を 歎く 事、 その 結果と して、 柘植の 救 濟を乞 ふの は、 ヂンの 

小 遣 取に、 今迄 クリスティンに 習って ゐた 英語の 稽古 を、 引つ ぐいて やって 貰 ひ 度い とい ふので 

あった。 

「チンの 方 は、 クリスティンと ちがって、 學問も 出来ない のです けれど、 どうしても 他所に 出し 

てお 給金 を 取らせる 事 は 忍べない のです。 づ うづう し 過る と は 思 ひました が、 思 ひ 切って 貴方に 

お 願 ひする のです。」 

幾度 も 幾度 も、 自分の 申出の 厚かまし さ を 辯 護し、 且つ 恥 入り.. ながら 頼む のであった。 

「承知し ました。」 

拓植 は, 斷り 切れ無い 立場に なって ゐた。 家柄 や 身分に 執着して、 羞恥の 念 を 示さす に は 話の 

しょげ 

出来ない 程悄氣 てゐる 夫人の 心 持 は 察しる 事が 出来た。 俠氣に 似た 氣持 もた しかに あった。 

「誰か" 友 だち の 中に も. 習 ひ 度い とい ふ 人が あるか もしれ ません。 きいて みませう。」 

夫人 は感. 激して、 まんまるい 目に 淚を ためて、 彼の 厚意 を 謝した。 

何事に よらす、 い つたん 引受ける と 夢中に なって しま ふ柘植 は、 友 だち の 中の 誰に 話 を 持って 


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行かう かと 考 へた。 誰彼と、 よく は 知らない 人間 迄も數 へて みたが、 結局 は、 一番 親しい 和 泉と 

高 樹を擇 び 出した。 二人とも、 ち ひさい 時から、 學校 中の 秀才で、 語學 もみ を 入れて 勉強した 方 

だから、 小娘の ヂンの 力で は、 到底 も敎 へる 勇氣 さへ 出ない だら うと は 流石に 考 へられた が、 そ 

れ よりも 此の 一家の 窮境 を、 少しで も 救 ひ 度い 心 持の 方が 強かった。 

その 曰のう ちに- 郊外の 和 C 水の 宿に 出かけて 行った。 

「さう か、 それ は 氣の毒 だね。 けれども、 僕 は 近いうちに ケムブ リツ ヂに 行く 事に なって ゐ るん 

だ。」  . 

最初から 同情に 訴 へて か、 つた 彼の 話 をき き 終って、 和朵は 直に 溫ぃ心 持に はなって くれたが 

しめたと 思 ふ ひま も 無く、 旣に豫 ての 心組み 通り、 倫敦 を引拂 つて、 ケムブ リツ ヂに 行く 事に な 

つて ゐ ると いふの だった。 

客間 兼 食堂の、 煖爐の 前に 椅子 を 並べて 話して ゐ ると、 あるじの 老婆が、 老齢と 過度の 肥滿の 

爲 めに 歩行の 不自由な 體を、 娘に 助けられながら、 よたよ た 出て 來た。 顏附は ヴィク トリ ァ女皇 

に 似た 上品な お婆さんだった が、 無智で、 おまけに 英吉利 人 特有の 一人よ がりが、 屢々 相手 を 苦 

しませた。 淺 薄に、 しかし 何の 疑 もな く、 基督 敎徒 だとい ふ ほこり を 持ち、 他の 宗敎を 信じ、 又 


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おの 敦倫 


は 何の 宗敎を も 信じない 者 を、 甚 しくい やしみ 憐れんで、 くどくどと 筋の 通らない 事 を 喋る の だ 

つた。 柘植は 面倒臭く なって、 無 信仰 を 宣言して ゐ たから、 一層 此の 老婆に は惱 まされた。 ぬく 

ぬく 白 肥りに 肥って、 坐って ゐても 息切れの する 胸の 邊を 見て ゐ ると、 あまりに 分量の 多い 肉體 

が、 堪らなく 憎らしく なって 來る のだった。 

娘 は 夙に 婚期 を 失って、 此の 老婆の 世話 をして 一 生 を 過さなければ ならない のだった。 舌たら 

すの、 涎の たまった 口で、 卑俗な 口 をき くの だが、 それが ぼけて 居る 老婆よりも、 更に 低能な も 

のであった。 

此の 家に は、 和 泉の 外に も 二人の 曰 本人が 居た が、 二人とも 月給 取で、 シティの 銀行に 出かけ 

て 行く のだった。 拔ん 出て 脊の 高く、 風采の すぐれて ゐる 上に、 學 問の ある 和 泉 は、 三人の 寄宿 

者の 中で、 ほしい ま、 に 尊敬 を 一身に 集めて ゐた。 かりそめの 茶話に も、 親子 は 彼の 批判 をき か 

なければ 承知し なかった。 舌たら すの 娘の 態度に は、 しつつ こい 程 信頼 を 見せて ゐた。 

「あいつ は 和 泉 君に 惚れて る ぜ。」  . 

など、、 同宿の 日本人 はよ くから かって ゐた。 

9 

夕方 迄 話込んで しまった。 方角の 違 ふ 高樹の 所に も 廻る 積り だった が、 寒い 戸外に 出る と いぢ 


けて しまった。 じと じと 濕 つて ゐる 草原 を橫 切り、 林の 中 をぬ けて 停車場に 急ぐ 道々、 柘植 は、 

和 泉の 宿の 無智な 人々 の 方が、 たま じっかの 家柄な どに ゎづら はされ てゐる 少佐の 家の人 達より 

も, 遙に 幸福 だと 考へ てゐ た。 

「あ、 柘植 さんが 歸 つて 來 た。」 

待 構へ てゐ て、 ヂンは 廊下に 驅 出して 來た。 

一. 柘植 さん、 お母さんが 貴方に とんでもない 事 をお 願 ひした さう です が、 それ は 私が 取消します。」 

非道く 昂奮した 様子で、 まんまるい 目 を 一際 まある く 見張って、 母親 似の 早口で、 男の やうな. 

強い 調子で 云 ふので あった。 

「第一、 何より 先に、 私に は 英語 を敎 へる 力が ありません。 自動車の 運轉 手に でも" 兵器廠の 女 

ェに でも、 百姓に でも、 巡査に でも、 ならう と 思へば なれる けれど、 英語の 先生に は 到底 も なれ 

ません。 なれる わけが な いぢゃありません か。 それな のにお 母さんてば、 自分の 一人 合點で 1 得 

すぎ 

手 勝手な 事 をお 願 ひする なんて 非道 過る わ。」 

息 を はす ませて 立て 續 けに まくし 立てた。 

r 柘植 さんだつて 知って るち やありません か、 私の 様な ものに それ 丈の 力が 無い つて 事 は。 知り 


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つつお 母さんに 調子 を <ln せて ゐ るなん て、 人が 惡過 4 わ。 侮辱し 過 ざて る わ。 面白がつ てるんだ 

わ。」 

r ヂ ン、 ヂ ン。」 . 

奥の 室から、 母親 は 狼狽して 飛び出して 来た。 

「何 を 云って るので す、 失禮 な。」 

怖い 顏 をして 娘 を 睨みつ けてから、 柘植の 方に は、 無理に つくろった 笑 を 浮べて 振 向いた。 

「どうも わからない 事ば かり, 云 つ て 困つ てし まふんで すよ。」 

, 「お母さん こそ わからな いん ぢ やありません か。」 

「默 つて らっしゃい。 私が 柘植 さんに お 話 をす るから。 なんて 大きな 聲 をす るんで せう、. みつと 

もない。」. 

. 夫人 は柘植 に氣を 兼ねて、 娘 をた しなめ ながら > 

「まあ 兎に角 廊下で は 困ります から、 あちら へ 行き ませう。 一 

^ と 促して、 先に 立って 客 問に 入った。 ヂン も、 ぶりぶ りしながら ついて 來た。 

宿 「柘植 さん、 どうも 此の 人に は 手が つけられな いんです よ。 一 


111 


夫人 は 椅子に 腰 を 下す と、 直に 始めた。 今朝 柘植 に賴み 込んで 承知して 貰った 英語の 稽古の 事 

は, ヂンに 知らせなかった に は 違 ひ 無い が、 勿論 苦情 を 云 ふ 害 は 無い、 親切 を 喜ぶ 事と 思って ゐ 

ると、 意外に も 夢中に なって 怒り 出した。 自分に は 英語 を敎 へる 力 は 無い。 クリスティン さへ、 

ほんと は、 敎 へる 事 は 出来なかった。 た^ 僅かに 柘植の 厚意で、 繽 けて ゐ たに 過ぎない。 それ を 

知りつ、、 一層 學 力の 劣る 自分が 引繼 ぐの は、 慈善 を強ゐ るのと おんな じだ。 斷 じて 慈善 は 受け 

虔 くない。 さう いふ 意味の 事 を 言 ひ 張って、 いくら 說 いても、 なだめても、 承知 しないの だと 沄 

ふ 事だった。 

「どうい ふ もので せう。 ヂ ン では 貴方に 英語 を敎 へ る 事 は 出来ますまい かしら。」 

、  夫人の 顏に は、 ありあり と、 當 惑の 色が 見えた。 

「そんな 事が ある もんです か。 發音を 直して 貰 ふ 丈で もい 、ん ですから。」 

柘植は 心に もない 返事 を 善意でした。 

「ごらんなさいな。 柘植 さんの いふの が 確かです よ。」 

「よして 下さい、 お母さん。」 

ヂンは 腹立たし さう に 舌打ちした。  • 


112 


fe- の敦倫 


「どうしても、 私 はい やです。 II 柘植 さん 許して 下さい。 これが 私の 性分なん です ご 

唇が 震へ て、 涙が 溢れさう になって 来た。 

柘植に は、 ヂンの 心 持 はよ く 解った。 あんまり つけつ けと まくし 立て、 最初から 自發 的に は 話 

に關 係し ない 自分に 對 しても * いきり 立った 甲高い 聲を 浴せ かける 態度 は 小面 憎かった が、 その 

言 ふ 事 はもつ とも 過ぎる 位だった。 い、 加減な 安 協 を 許さない 男らし さが、 此の 娘の 美し さ だと 

さへ 考 へられた。 

氣ま づぃ氣 分に 唇 を 乾かして、 暗い 電燈の 下に、 三人 は 暫時 顏を 見合せ た。 

「それで は柘植 さん、 折角 御 親切に 云って 下さった のです けれど、 當 人が あ、 いひます から、 先 

程の 話 は 取消し ませう。 どうもつ まらない 事 をお きかせして 濟 みませんで した。」 

夫人 は 嘆息して 立 上って、 晩餐の 支度に、 地下室へ 下りて 行った。 

「いやにな つち や ふな。 お母さんて 人 はほんと にわから な いんです からね え。」 

その 姿が 見えなくなる と、 ヂン は柘植 の顏を 見て 笑 ひながら、 してやった ぞ とい ふやうな 意味 

で、 首 をち, くめた。  . . 

「矢張り 娘が 可愛い からです よ。」 


113 


ふと 話の 途切れた ところで、 突然 ヂンは 口 を 切った。 

「まあ、 ほんと です か。」 

夫人 は 驚いて" 

「申 譯 もありません ねえ、 それ 程 親切に して 下さる なんて。」 

• 單 純な 心から 感謝に 目が うるんで 來た。 

「實は 先刻 又考 へたんで すが、 怫蘭西 語 は 如何で せう。 貴方 はちつ ともお やりに ならない とい ふ 

事でした ねえ。」 

「え、 アイ ゥ H ォも 知りません。」 

「そんなら ヂ ン にで も 手 ほどき は 出来る でせ う。 ひまの 時には 私が 代理 をつ とめても い 、のです。 

私 は隨分 長く 稽古し ましたし、 巳 里に も 暫く 居た 事が あります から。」 

自分の 語 學のカ を 示す 積り で、 母親 は 娘に むか つて 佛蘭 西 語で 話しかけた。 

「駄目です つたら、 お母さん。 私の 怫蘭西 語なん て 成って やしな いんです もの。」 

「だって 柘植 さん は 全く 初めてなん だから。」 

「初めて だ つ て 同じ だ わ。 最初に い 、先生に つかな くち や あ 損です よ。」 


116 


宿の? i: 倫 


親と 子 は、 义 しても 押 問答 を繽け 出した が、 ヂン の語氣 にも、 全く 拓植が 佛蘭西 語に ついては 

無 知識 だと わかって 居る 爲 めか、 あまり 力強い 否定 は 現 はれて ゐ なかった。 少なくとも、 英語の 

敎授を 拒んだ 時の 熱 は 無かった。 

「それ は 私に とっても 願ったり です。 近いうちに は 是非 始めようと 思って ゐ たのです から。」 

柘植 自身 も、 英語より は 此の方が 望みだった。 來年の 夏 か 秋に は、 巴 里に 行かう と考へ てゐた 

のだった。 

「だって 駄目なん です よ。 物を敎 はった 事 はあって も、 敎 へ た 事 は 一 度 も 無 いんです から。 人に 

敎へ るつ て 事 は、 どう すれば いいの か 見 當 もっかな いんです からね。」 

「な あに、 私の 方が 敎 はりつけて るから 大丈夫です。 先生 を 指導して、 上手に 敎 はって お 目に か 

けます よ。 兎に角 やって 見る 事に しませう。」 

. うやむや のうちに、 佛蘭西 語の 稽古の 話 はまと まって しまった。 

霧の 深い 夜だった が、 彼 は 町 は づれの 高樹を たづね た。 無敎 育な 猶太 人の 夫婦と、 一人前の 女 

へやが 9 

になり かけた 年頃で ゐ ながら、 妙に がさがさして 女らしくない 小娘と、 三人の 家族の 外に、 窒借 

の 人が 外に も 二三 人 居た。 しかし 話 相手になる やうな の は 一人 も 無く、 高樹は 何時も 煖爐の 傍で、 


117 


1 人. ほ つちの 讀書 を樂. しんで ゐた。 足 F に 鼻 を 擦り つけて 來る赤 犬 を, 

「こ いつは 馬鹿なん だ ぜ。」 

とい ひながら、 如何に その 犬が 他の 犬 共に 馬鹿にされて ゐ るか を、 高樹は M 々話す のだった。 

犬の 身の上の 事に しても、 あまり 馬鹿にされ 過ぎて ゐる のが、 彼の 性分と して は、 腹立たし いの 

だった。 

柘植は 怫蘭西 語の 稽古の 事 を 切り出した。 

曾て 數 箇月 巴 里に ゐた 高樹 は、 天性の 語學の 才能で、 日常の 會話 位に は 差 支へ ない 程度 迄 進ん 

でゐ た。 ヂンの 教授で は、 勿論 無理と は 思った が、 冗談 半分に やる のなら、 差 支へ なから うと 考 

へたので ある。  . 

「美人 ぢゃ あない けれど、 兎に角 若い 娘 だから、 遊 相手の 積り で やって 吳れ たいか。 充分 敎 へる 

丈の 力 は 無い にき まって るんだ。」  , 

只管 勸 める 事に 熱中して、 自分の 宿の 一家の 狀態を 細々 と 述べ、 多少に 友情に 絡んで、 遂々 相 

手 を 納得 させた。 

何 か 大きな 仕事で もした やうな 心 持で 歸 ると * 直ぐに 夫人と ヂ ン に その 話 をした。 


118 


宿の 敎倫 


「まあ、 何ん て 御. 禮を 云ったら い、 んで せう。 ほんと に 難 有う 御座いました。 難 有う。」 

夫人 は 忽ち 涙ぐんで、 繰返して 感謝した。 

「耶蘇 降誕 祭に は その 方 もお 招きし ませう。」 

幸福な 氣 持で、 夫人 は ひどく 愛想が よくな つた。 

; 祭の 日は數 日のう ちに 近づいて ゐた。 更けた 夜の 町 を、 つめたい 霧に 濡れながら、 管 笛 を 吹い. 

て 通る 乞食. があった。 夫人 は手づ から 窓 を あけて、 ち ひさい 銀貨 を 投げて やった。 

. ノ  : 耶蘇 降誕 祭の 前後 ■  :  ■ , , . 

耶蘇 降誕 祭の 前夜から、 雾 まじりの 雨が 降り 績 いた。 東洋の 雑貨 を賫る 店で 買 集めた、 心ば か 

りの 贈物 も、 日本風の 色彩の 珍し さに、 ひどく 買 かぶられた。 夫人に は、 絹地に、 櫻 牡丹 藤な ど 

の 花 を 肉筆で 描いた 皿 敷布 を、 娘 達に は友染 縮緬の 紙 入に 懐中鏡と 蒔繪の 櫛の 入って ゐ るの を、 

^の 子に は —— これ 丈 は 適當な 和製の 物が 見つからな いので、 安物の 萬 年 筆 を 贈った。 クリス テ 

イン. の 分 は 郵便に 托した。 みんなから も、 それぞれ、 拓植に 向く やうに 考 へて 選ばれた、 ささや 

か^ 贈物が あった。 ( 


19 


二十 五 ョの晚 に は 高樹も 招かれて 來た。 夫人 も 娘 達 も" 他所 行の 着物に 着換 へて、 晩餐の 卓に 

着いた。 主人と 姉 娘の 居ない 事が、 家の 者の 心に 陰影 を 投げて ゐた。 

「去年 迄 は みんな 揃って ゐて、 一 家の 主人が 雪の 降る 兵營 で、 妻子と 別れて 耶蘇 降誕 祭を迎 へ る 

なんて、 考 へた 者 もなかつ たのに …… 」 

夫人 は、 遠く ゐる夫 をお も ひ、 娘の 事を考 へて は 暗い 顏附 になった。 それ もこれ も、 憎む 可き 

しわざ 

獨乙 皇帝の 所業 だとい ふ 風に 話す のが、 此の頃の 英吉利の I 貴 夫人 も、 勞働者 も、 淫賣婦 も 1 

1 あらゆる 階級の 會 話の 色彩であった。 

「七面鳥の 燒 肉と 猪の 頭、 これが 英吉利の 耶蘇 降誕 祭の 御馳走に は、 なくて ならない ものに なつ 

て 居た のです けれど、 今年 は 何處の 家で も、 そんな 事 は 出来ないで せう。 うちで は 猪の か はりに 

兎なん です よ。」 

諧謔 を 知らない 生一本の 夫人 は,, 初對 面の 高 樹に迄 も、 戰爭が 世間に 與 へた 影響と、 所 帶の苦 

勞を、 口に 出して 云はなくて は 氣が濟 まなかつ たの だが、 たくまない を かし さに、 みんな は賑か 

に 笑った。  . 

やがて 其の 兎の 肉 も、 各々 の 皿に 盛られた。 昔の ぜいたく を傯 ばせ る もの は、 地下室から 取 出 


120 


宿の $义 淪 


された ブラ ン ディと シ H リイ 丈だった。 

食後 は 客間で 骨牌 をして 騷 いだが、 それ も ひとしきりで、 子供達の 待 構へ た 一年中の かき 入れ 

日 も、 何となく 寂しく 更けて 行った。 

骨牌の 仲間に 入れられて、 遊 相手 をつ とめた 高樹 も、 一週間に 三度と きめた 怫 語の 稽古に 來る 

事 を 誓. つて 歸 つて 行った。 

「矢張り 學 問に 凝る 方 は 違 ひます ねえ。 知識 的に 見えます よ。」 

夫人 は、 苦しい 家計の 中で、 耶蘇 降誕 祭の 大役 を濟 ませた 安心に 疲れたら しく、 椅子の 背に 深 

々と 全身. を 埋め. て、 高 樹の噂 をした。 娘の 爲 めに、 語學の 稽古に 通って 来て 吳れ ると いふ 事が、 

人の い、 性質から、 無上に 嬉しい 事だった の だ。 

r 一  體 どっちが 曰 本人 本来の 型なん です。 * 方と 彼の 方. と。」 

ヂン はい たづら つ 子ら しい 質問 を、 半分 は 意地 惡く、 半分 は 好意で 聞く のだった。 がっしりと 

肥って、 額の 迫った、 眉毛 も 太く 眼 も 大きい 柘植 に比べて、 額の 廣ぃ、 色白の、 近眼鏡 を かけた 

弱々 しい 高樹 は、 人種が 違 ふやう に 思 はれた の だ。 

「何 を 云って るので す" 失 禮 た。」, 


121 


娘 を とがめながら.、 夫人 も 微笑 を 禁じる 事が 出來 なかった。 

「どっち も 日本人で すよ。 ブ ルド ッ グもセ ッ タァも 英吉利の 犬です からね。」 

獨骨脾 を 並べて ゐる 柘植が 答へ た。 

r フレ m  —。」 

ヂンは 手 を 打って 躍り 上って、 笑. つて 笑って 笑 ひ 止まなかった。 笑 ひ 止んだ と 思 ふと、 足ドに 

うづく まって 居た 老 犬の 前 眩 を 持 上げて、 ぐるぐ る 廻りながら 舞踏の 眞似を 始めた。 犬 は HI をた 

らしながら、 爲方 無しに とぼとぼ 足 を 運ぶ のだった。 

「馬鹿 ッ。」 

先刻から バン ヂョォ を 抱へ 込んで、 流行 唄を彈 いて 居た ジョ ォジ は、 姉の 笑の 仰々 しさと、 は 

しゃぎ 切って ゐる姿 を 見て、 自分の 感興 を亂 された いまいま しさに、 苦々 しげに 舌う ちした が、 

直ぐに 又 夢中に なって * 急 調の 絃の 響に 心 を 吸 込まれて しまった。 

雨 はま だ 降り止ます、 窓 かけ を か、 -げて 見る と、 戶 外の 闇 を さへ ぎる 硝子 戶に、 水玉が 落ちて 

は 流れ 下る のであった。 

一 さ, い ゝ加滅 にお 休みなさい。 私 は 此の頃 からだの 具合が 惡ぃ のか、 大變 疲れて しまった から 


122 


宿の 教偷 


お 先き に寢 ます。 柘植 さん >  おやすみ。 一 

あくび を 手の平で かくしながら、 夫人が 出て 行って しまった 後 も、 子供達 は 矢張り 昂奮して ゐ 

て、 直ぐに は 寝床に 行く 氣 になれ なかった。 

二人の 娘 は 肩 を 並べて 洋琴 を彈 き、 ジョ ォジは それと は無關 係に、 勝手に バン ヂョォ を かきな 

らした。 柘 植は獨 骨牌が 成功したら 寢 ようと 心に 誓 ひながら、 何時 迄 も 何時 迄 も 出来損なって、 

疳癀を 起しながら も、 繰返して 骨牌 を 切って は 並べて ゐた。 

約束 通り、 高樹は 稽古に 通って 来た。 その 頃柘植 は、 毎朝、 佛 語の 初 步の 文法と、 小 學讀本 を 

習って 居た。 變 則に、 不器用ながら も覺 えてし まった 英語と 違って、 全くの 初めてだった 丈 熱心 

に、 大概 は 自修して、 その 補 ひ を 求める 位だった から、 ヂン の敎授 でも 事 は 足りた。 しかし それ 

よりも 進んで 居る 高 樹には * 勿論 物足りな いに 違 ひなかった。 時間が 濟 むと, 二階の 柘植の 室に 

上って 来て 話して 行った。 

一 到底 も 駄目 だら う。」 

「い、 や、 それ 程で も 無い よ。 初めから 遊び半分なん だから。」 

r それにし ちゃ あ 器量が 惡過 るね。」 


123 


「さう でもない さ。 きびきびして 居て 面白 いぢ やな いか。」 

噓の無 さ、 うな 高樹の 言葉に 柘植は 安心した。 若しも 友達が 不滿 足だった ら、 自分の 立場 は 全 

く 無くなる と、 密かに 怖れて ゐ たのだった。 嬉し か つた。 豫々 約束して ゐた、 ディ ッ ケンス の 小 

說 「デビ ド • コッパ ァフヰ ルド」 を 脚色した 芝居に 子供達 を 連れて行く 時、 高樹も 誘った。 少しで 

も、 ヂンに 親しみ を 持たせようと 願って ゐ たのだった。 

千 九 百 十四 年 は、 大都を 霧が 包んだ ま、、 暗澹と して 暮れて しまった。 獨 乙の 飛行船が 海 を 越 

えて 襲擊 しに 來る とい ふ、 殆んど 曾て 想像 も出來 なか つた 恐怖が、 . 今に I 實現 しさうな 豫感 とな 

つて、 人々 の 心に 喰 ひ 入って 來た。 その 飛行船の 目檩 となる 事 を 避ける 爲 めに、 街 上の 燈火 は殆 

んど 消され、 屋内の 燈,^ も、 戶 外に 洩れない やうに、 窓 かけで 嚴重 にさへ ぎ-りれ た。 到る ところ 

に獨 探の 噂が かしましく、 シャ アロック . ホルム ス を 主人公に しなければ 納まらな いやうな 奇怪 

な 事で、 しかも 信じ 得 可き 話が、 何處 から ともなく 廣 まるので あった。 重苦しい 冬籠りの 倦怠に 

むしばまれた 心 は、 その 飛行船の 出現 や、 獨 探の 活躍の 結果、 此の 廣 太な * 界の 大都市が、 一夜 

にして 爆發 してし まふ 壯大 悽慘な 光景 を、 憧憬す る 事 さ へあった。 

主人の 少佐 も、 愈々 近いうちに は戰 場に 行かなければ ならない とい ふ 話が、 家の 內をー 歷みじ 


1?.4 


めに した。 夫人, は その 事 を 想ひ惱 めば 惱む程 ヒステリック になり、 女中 は 幾人 も 幾人 も出替 つて 

薹所 働の 愛蘭 土 種の 女 だけが、 叱られながら、 叱られる と嚙 みつく やうに 反抗して、 それでも、 

一週間に 一 度の 情人の 兵士との 逢^ を たのしみに 勤めて 居た。 

その だぶだぶの 軍服 を 着た、 薄髯の 新兵 も、 正月 早々、 白耳義 海岸線の 防禦 軍に 加って、 戰場 

に 運ばれて しま つた。  . 

「ドラ の 兵隊 も遂々 出征し たんです つて。」 

末の 娘に さう 聞かされた 朝、 柘植 は、 當の ドラが、 二階の 室の 往來に 面した 窓に 立った ま、、 

油に 汚れた 前 かけの 中に 顏を 埋めて、 す、 り 泣いて 居る の を 見た。 

一月の なかばであった。 漸く 二週間ば かり、 週に 三度 通って 來 た高樹 が、 來る 害で 來 ない 日が 

あった。 二三 日圖書 館に も 姿 を 見せなかった。 ヂンも 夫人 も、 怫 語の 教授が 不滿 足で 來な いので 

はない かと 心配して ゐた。 柘植も 心に 懸 つた。 しみじみと 寒い 日に、 彼の 下宿 を 訪れる と、 風邪 

を 引いて 寢てゐ るので あった。 廣ぃ 額に 手を當 てて 見る と、 熟が あった。 

「うちの 連中 は、 君が 怫蘭西 語の 稽古の 馬鹿々 々しさに 堪へ られ なくなつ たんだら うって 心配し 

てゐた ぜ。」 


125 


「そんな 事 はない よ。 なほったら 叉 行く から、 よろしく 云って^ れ 給へ。」 

髙樹の 言葉に 安心して、 柘植は その 全快の 日 を 祈りながら 歸 つた。 

けれども 彼は來 なかった。 

「高 樹 さん はま だお 惡 いのかしら。 心配す る容體 ではな いんで せう か。」 

夫人 ゃヂン は、 幾度と 無く 柘植 にきく のだった。 

四日た ち、 五日た ち、 やがて 一 週間 も 過ぎた。 或 日、 突然、 高樹は 葉書で 云って 来た。 

「お嬢さんと いふ ものに 敎へ て 貰 ふの は 苦痛 だ。」 

とあから さまに 書いて、 稽古 を やめに しょうと いふの だった。 

「畜生、 勝手に しゃがれ。」 

友達なん ぞと いふ もの、 ゎづら はし さに、 柘植は つくづく 腹が立った。 もとより 得手勝手な 我 

像 者に は 違 ひなかつ たが、 それにしても ー體 此の 家の 者に、 何と 云って 斷 つたら い、 の だら う。 

小憎らしい 程 達筆の、 高樹の 葉書 を 目の前に 置いて、 何時 迄 も 頭に 上った 血 は ^'ら なかった。 

髙樹は それつ きり、 二度と 足ぶ み をし なくなった。 柘植 は、 噓を つく 不愉快に 叉しても 憤懣し 

たがら も、 爲 方が 無くて、 友達 は 病氣が 重くな つて 来られな いの だと 云 はなければ ならなかった。 


126 


の敦俭 


象の 者が 眞 に 受け て、 聲を ひそめて 心配 さ うに 容體 をき くと、 

「たぶん 肺結核で せう。」  . . 

と 答へ て やった。 

それでも、 間も無く、 圖書 館で 顏を 合せる と、 つけつ けと 荒い 口 はき、 ながら も、 歸路に 立 寄 

る カフェで、 一杯の アブサン を飮 んでゐ るう ちに、 氣まづ かった 事 も 忘れて、 醉 ふと 何時 迄 も 話 

込んで、 別れ ともなくな つてし まった。 

一 —あ、 あ、 折角 柘植 さんの 御 親切で、 お 友達に も 稽古に 來て 頂いた のに、 どうして かう 運が悪い 

めだら う。」  • 

夫人 は 頭痛の する 額 を 叩きながら、 手 持 不沙汰の ヂンを 見て 嘆息す るの だった。 さう いふ 一 百 葉 

をき くと 

「义 誰か、 友達の 中に 希望者が あったら 御 紹介し ませう。」  • 

とい ひながら、 柘植 は ゐ たたまれない 氣 持だった。 

「お母さん、 私 は 郵便局に 出て 見 度い の。 モリス ン 少佐のと この アリス も 行って るんで すよ。. 一 

末の 娘の キティ は、 近頃し きりに その 願 を 母親に 橾 返す のだった。 陸軍 士官の 娘と して、 そん 


127 


な 仕事 はさせられ たいとい ふ 夫人の 拒絕 も、 段々 氣 勢が 弱くな つて 來た。 殊に 同僚の 娘 もさう い 

ふ 事に 從 つて ゐ ると いふの が、 我慢の 出来ない 害の 我慢 をさせる もとに もな つた。 

「勝手にな さいな。 私 はもう 何も 知らないから。 J 

なさけな ささう に 云 ひ 捨てて、 夫人 は その 時 座に ゐた、 まれ なくなつ たので あらう、 みんなが 

あっけに とられて ゐる中 を、 驅 出す やうに 窒 外に 出て 了った。 

その 事が あってから 二三 日す ると、 キティ はもう 町中の 郵便局に、 朝早くから 通 ひ 初めた。 僅 

かのお 小 遣 を 稼ぎに、 耶蘇 降誕 祭に 父母から 貰った 人造の 黑 斑の 豹の 毛皮の 襟 卷に顏 を 埋めて、 

露霜 を 踏んで 出て 行く ち ひさい 娘の 姿 を、 夫人 は淚 無しに は 見る 事が 出来なかった。 

流行 感冒 

心寂しい 夫人 は、 兵營に 居る 夫に 逢はなくて は 居た、 まれない 様子で、 二週間 を 期して 出かけ 

41。  • 

子供達 は、 母親の 留守 をい、 事に して、 毎日々々 騷ぎ 暮らした。 夕方、 圖書 館から 歸 つて 来る 

柘植 と、 郵便局から 歸 つて 来る キティ を 待って、 手輕な 夜食 を濟 ませる と、 倦き もしす に 骨牌 を 


128 


宿の 敦偸 


繰返した。 誰に も 頭 を 押へ 付けられない 生活の 歡喜 を、 三人の 姉弟 はかくす 事が 出来なかった。 

吾.々 は、 今、 お母さんの 留守中、 

最も 樂 しい 日 を 送って ゐ ます  

郊外の 他人の 家に 住む、 クリスティンへ 宛てた 寄書の 葉書の 冒頭に、 ヂンの 書いた 文句 を、 外 

くち やさ 

の 者 も 面白が つて 口吟んだ。 

その 姉から は、 近頃し きりに、 父母の 家の 戀 しさに 堪 へられない 事 を 云って 来た。 膝關 節の 不 

自由な、 老貴 夫人の 氣むづ かし さに、 屡々 泣かされる 事な ど を、 細々 と 書いて 來る事 もあった。 

一週間た つても 夫人 は歸 つて 來 なかった。 別段 家の 方に、 用事 も あるまい から、 なほ 數日を 父 

親と 共に 暮らす であらう と、 母親の 手紙に あるの を 見出して、 子供達 は 更に 喜び を 新しくした。 

けれども、 或 曰、 ジ ョォジ が! K 靑な顏 をして. 學 校から 歸 つて 来た。 床に 就く と發 熱して 震へ 出し 

た。 氣の 弱い 此の 少年 は、 いっぱい 淚の たまった 眼 をつ ぶって、 姉 達の 看護に 身 を 任せた。 

「お母さんに 知らせなくて もい、 かしら。」  - 

キティ は 流石に 心配して、 直ぐに 母親 を 頼る 心 を 起した が、 ヂ ンは卽 座に 反對 した。 

「輕ぃ インフルエンザ だから、 うつち やっといても 二三 日で なほる に 違 ひ 無い わ。 ねえ、 ジョォ 


129 


ジ。 お母さん なんか 呼ばな くた つてい いわねえ。」 

押つ ける やうな 姉の 言葉に、 弟 は 股 を 開いて 颔 いて 昆 せた。 挑 色の 頰ぺた をった はって、 淚が 

流れて 來た。 彼 は 頭から 蒲圑を かぶって しまった。 

「い、 子、 い、 子。」 

ヂン はへ らすロ を 叩きながら、 晚の 支度 をし なければ ならな か つた。 

その ヂン も、 次の 日から 發 熱し. て 寝込んで しまった。 姉と 弟 は、 壁一重へ だてた 窒に、 別々 に 

咳 入って ゐた。 

「お母さんに なんか 默 つてる 方が い、 のよ。」 

心配して、 郵便局の 勤務に も 行き 度 がらない 妹 を 叱りながら、 ヂン のまん まるい 大きな 目 も * 

熱の 爲 めに うるんで ゐた。 

二日、 三日、 又しても 降りつ f く 雨の 寒い 日 を、 キティ は 朝 も 早く 起きて、 病人の 世話 をし、 

そ、 くさと 郵便局に 出かける のであった。 夜 は 夜で、 食事の 支度 もしなければ ならなかった。 忙 

しく、 甲斐々 々しく、 年弱の 娘の 働く の を 見て ゐ るの は、 柘植 にと つても 苦痛だった。 夫人の 留 

守 は、 矢張り 望ましかった が、 さりと て 斯うした 場合 だから、 何の 報知 もしな いのはい けない と 


130 


根の 敦偷 


思った。  . 

「兎に角お 母さんに しらせた 方が よく はない。」 

キティと 差 向 ひの さびしい 食卓で 云 つてみ た。 

「え 、私 もさう 思 ふんです けれど、 ヂ ンは それに は 及ばない つてき かないん です。」 

おとなしい 娘 は、 頼りな ささう に 答へ た。 

それから 二 曰ば かりたった 夕方、 圖書 館から 歸 つて 来た 柘植 は、 客間の 長椅子に 突 伏して 泣い 

てゐる キティ を 見出した。 外出の ま、 の、 帽子 もとらす、 外套 も 着た ま、 のが * 毛皮の 襟 卷の中 

に顏を 埋めて、 むせび 泣く のであった。 

「どうしたの。 お母さんが 歸 つて 来たの。」 

わけの わからない 光景に 驚いて、 遠くから 聲を かけながら、 柘植 は、 夫人に 叱られた ので はな 

いかと 思った。 突然 母親が 歸 つて 来て、 ^人 を 見て、 それ を しらせなかった 事に ついて、 此の 小 

娘の 責任と して 叱った の だら うと 考 へたの だ。 

「お母さんが 歸 つて 来たの。」 

もう 一度 同じ 言葉 を 繰返した が、 相手 は 烈しく 横に 頭 を 振った。 つばの 廣ぃ 帽子に つけた 紅い 


131 


薔薇の 花が、 形 を 崩して 搖れ た。 

近寄って、 躊躇しながら も 肩に 手 を かけた。 泣きじゃくる 背中の 肉の 波打つ のが 感じられた。 

「胸が 痛 いんです、 胸が …… 」  * 

き、 とれない 程の 聲で答 へ て、 一 層堪へ 性が なくな つ て, 泣いた。 

「熱が あるんだ ね。 さ うぢ やない?」 

柘植は 相手が 病人 だと 思 ふと、 手 を かけても 構 はない と 思 ふ 安心 を 持った。 いきなり 兩肩を か 

、 へ て、 力任せに 抱き起した。 拒まう としながら 担み 切れす に、 淚の額 を 見せた キティの 頰ぺた 

に は、 濡髮 が幾條 もへば りついて ゐた。 額に 手を當 てて 見る と 熱が あった。 

「さ、 寢 なくち やい けない。 うちの 事なん か 心配し ないで 寢て ゐれば 直きに なほる。」 

何 か 云 はう として、 色の 褪せた 唇 を 震, はせ ながらし やくり 上げて ゐ るの を、 引 起して、 無理 や 

り 二階に 連れて 上った。 

引繽 いて 女中の 居つ かない 折 柄、 臺所 働の ドラの 手 ひとつで は、 三人の 病人の 世話 はやり きれ 

ない に 違 ひかかった。 柘植は 夫人に 宛てて 手紙 を 書いた。 電報に しょうか とも 考 へたが、 あんま 

お ほ- やうす ざ  か ぜ  . 

り 大仰 過る と 思 ひ 返した。 至極く 手 短 かに、 三人の 子供が 順々 に 風邪 を 引いて 床に ついた 事 を、 


132 


おの!^ 倫 


心配す るに は 及ばない とい ふ 言葉 を 添へ て 書いた。 讀 返して、 封 をして、 切手 を 貼って、 何とな 

くそれ を 出しと もない 氣持を 感じながら、 戶 外に 出た。 冷い 雨の 降り止まない 町角の 郵便箱へ、 

自分で 行って 入れて 来た。 

中 一 日 置いて、 夫人 は歸 つて 来た。 三人が 三人と も 同じ 容體 で、 高 熟と、 絕 間の 無い 咳に 惱ん 

でゐ るの を 見て、 冷靜に 物事 を處理 する 事の 出来ない 性質の 夫人 は、 何も 手に つかない 様子で、 

昂奮し 切って ゐた。 

「難 有う、 柘植 さん。 貴 万が 知らせて 下さらなかったら、 あの 三人 は 如何な つたで せう。」 

など、、 いかにも 重態の やうに 云 ふの だった。 子供達が 申合せて、 自分に は 知らせなかった と 

は考 へないで、 只管 柘植の 親切に 感謝して ゐた。 人手の 不足 を 歎きながら、 二階の 病室と、 地下 

の臺 所へ、 肥った 體 を-運びながら、 心配の あまりに 淚 ぐんで ゐた。 

「かう いふ 時に、 クリス ティンが ゐて くれ、 ば 大助かり なんです けれど。」 

と、 離れて 他人の 家に 仕へ る 姉 娘の 名 を、 幾度と なく 口にした。 

四 五日た. つて、 ヂンと キティ は 前後して 床 を 離れた。 ふだんから 一番 弱い ジ ョ才ジ 丈が、 なか 

なか 熱が 下らなかった。 


133 


「柘植 さん、 クリスティ ンが歸 つて 來る さう です よ。」 

或 朝の 食卓で、 夫人 は 姉 娘の 手紙 を 見せて、 嬉し さう だった。 

「實は あんまり 手が 無くて 困った ものです から、 うちが 病人 だらけで 始末が つかない と 云 つて や 

つたので す。 ところが,、 あちら も老 夫人のお 相手が 苦しくて、 そろそろ 我家 戀 しくな つて 来たと 

ころだった ものです から、 い k 機會 にして 歸 つて 来る らしい のです。 矢張り 兩 親の 家 程い、 とこ 

ろ は 無い の ですから ねえ。 今度 こそ は 親の 愛が わかった でせ う。」 

いふ 事 をき かないで 出て 行った 娘の 歸 つて 来る 事に 對 して、 優しい 親心ば かりで なく、 自分の 

言 ひ 分の 間違 ひでなかった 事 を ほこる 態度で、 喜んで ゐる のだった。 

姉が 歸 つて 來 ると いふ 事 は、 妹 達の よろこびだった。 毎日々々、 その 金曜日 迄の 曰 數を數 へて 

樂 しんで ゐた。 ジョ ォジも 平熱に 近くな つて、 時折 は寬 衣に くるまって、 手 馴れた 樂器を 弄んで 

ゐた。 

愈々 その 待 遠し かった 金曜日に は、 朝から 家の 中が 明るかった。 

「今日は 早く 歸 つてい らっしゃい。 クリスティ ンが歸 つて 來 ますから。」 

圖書 館へ 出て 行く 柘植の 後から、 夫人 は 晴れ やかな 聲を かけた。 


134 


宿の 敦倫 


クリスティン は歸 つて 来た。 不如意た 我家の 家^ を 見て、 此の頃の 若い 女の 誰もが 考 へる やう 

に、 或る 勇し ぃ行爲 だと さへ 思って、 自活の 途を 求めて 行った のだった が、 他所の 家の 煖爐 は、 

我家の よりも 暖かくなかった。 老責 夫人の、 門閥と 家風 を 鼻に かけた 横柄な 態度で、 全然 平の 召 

使と 同様に、 威壓 的に 命令して 來る のが、 根が 良家の お嬢さんで 育った 者に は、 旣に堪 へられな 

い 事だった。 その上に、 主人と いへば 其の 老 夫人の 外に は 無く、 廣ぃ 邸宅の どの 部屋 も >  人間の 

呼吸の しない 事が、 堪へ 難い 寂寞だった。  . 

「私 は その 窮屈と 退屈の 中で 暮らして ゐ たのです よ。」 

頰の あたりに 瘦の 見える クリスティン は、 楡 木立に 園 まれた 伯爵の 家の 幾日 か を、 細々 と 物語 

つて、 身 震 ひする やうに 笑った。  • 

「それで、 やっとお も ひ 知った でしよ、 他人の 辛 さが。」 

おつ 

娘の 歸 つて 來た 事に 滿 足しき つて ゐる 夫人 は" 機會が あれば 押 かぶせて、 いひき かせなくて は 

承知 出来ない のだった。 

「たって 爲 方が 無い わ。 みんなが 病氣 だってい ふから 歸 つて 来て あげたん ぢ やありません か。 來 

てみ ると みんな ぴんぴんして ゐ るんで す もの。」 


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母親の 前で は、 弱味 を 見せまい として、 病人の 爲 めに 歸 つて 來 たの だと 云 ふので あった。 

「そんな 負 惜みを 云 つ て、 手紙の 度に お 勤 は 辛い とこ ぼして ゐ たぐせ に。」 

「い、 えお 母さん、 働く 事 は 辛 棒 出來る わ。 たに 働く 場所の 選 撵が惡 かった 丈な のよ。 私 もキテ 

ィと 一 緖に 郵便局に でも 出よう かしら。」 

親と 子 は、 何時 迄 も、 さう いふ 輕ぃ爭 をつ どけながら、 お 互に 久しぶ ゆで 家庭ら しい 氣持を 家 

の內に 感じて、 心 持は暖 くな つて ゐた。  - 

あつぼれ 

二週間 近く 兵營に 暮らして 來た 夫人 は" 天晴 軍事通に なった 氣 だった。 此の 幾 月の 間の, 怖し 

く沈默 した 對陣は 決して 無意味な もので はなく、 舂 三月の 雪 解と 共に 開始され る、 東西 兩 面の 總 

攻撃の 準備の 爲 めで、 愈々 その 總攻擊 が 始まれば、 獨乙は ひとたまりもなく 潰走す ると、 確く 信 

じて ゐる ま、 に、 誰 人に も 肯定 させなくて は 承知し なかった。 しかし、 總攻擊 が 始まる とい ふ 事 

を、 確かな筋から 聞いて 知って ゐ るの は 自分 一人 だとい ふやうな、 無 邪氣な 得意の うらに は、 そ 

の 未曾有の 大戰鬪 に、 自分の 夫も參 加し なくて はならない とい ふ 暗い 不安が 絡って ゐた。 

「どうしても 三月 迄に は、 ダァ ダネル スか佛 國戰線 か、 どっち かに やられる さう です。」 

と、 夫の 身の 危險に 曝される 事を考 へる 時 は、 忽ち 顏の色 迄も變 つて、 目に は淚を 浮べる ので 


136 


宿の 敦淪 


あった。 

風邪 を 引いた 者 は、 みんな 元氣. になって、 ジョォ ジは學 校へ、 キティ は 郵便局へ 通った。 柘植 

の 語學の 稽古 は、 クリスティンと ヂン と、 手す きの 方が 受 持つ 事に なった" 二人とも、 何 かしら 

い、 仕事 さへ あれば、 何時から でも それに 從は うと 考 へて ゐて、 毎朝の 新聞の 職業 攔を引 張り あ 

つて 見る のだった。 殊更 クリスティン は、 父母の 家の 懷 しさ を沁々 感じた の も 束の間で、 我儘が 

きけば きく 丈、 思 ふに 任せない 我家の 無 刺戟に、 今にも 家 を 飛 出す 事 さへ 辭 さない 樣 子に 見えた * 

娘 達の 從順 でない 事 は、 夫人の 心 持 を 愈々 苛立た せないで は 置かなかった。 一度、 二度、 目見榮 

の 女中の 來た事 もあった けれど、 夫人の 人 使 ひの 荒さに 閉口して、 逃げて しまった。 爲 方が 無し 

に、 娘 達 はこき 使 はれる 事に なった。 

一月 も 終りに 近い 或 日の 事、 日の 暮に 外から 歸 つて 來 た柘植 は、 入口の 出合 頭に、 あわた^し 

く 出て 来た ヂンに 逢った。 

「何 處に 行く の。」 

ー藥屋 迄。. M さんが 來て、 病 氣で寢 ちまつ たんです。 ちえ ッ、 厄介ったら あり やしない。」 

舌打ちして、 まんまるい お^ を ぷりぷり させながら、 足早に 町の 方へ 行って しまった。 


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氣球隊 に 入って ゐた M は、 今日 久しぶりで 遊びに 來た。 相變ら す元氣 よく、 皆 を 相手に、 隊の 

話 をして はゐ たが、 此の頃 氣 球に 乘 つて、 高空から 四方 を 見張る 過勞 の. 爲 めに、 視神經 が 弱った 

のか、 風に 當 つても 淚の 出る 眼が、 熟 氣を帶 びて 充血して ゐた。 氣 分が悪いの ではない かと, 夫 

人が 氣が 付いて 聞いた 時 は、 旣に 午後のお 茶 もお しま ひになる 頃だった が、 額に 觸 つて 見る と 非 

道く 熱い ので、 俄に 騷ぎ 出して、 先刻から 二階に 寢てゐ ると いふの だった。 

娘 達 は、 ふだんから 好意 を 持って ゐな いので、 自分 達の 仕事の 殖えた 不平 も まぜて、 陰口 をき 

、度が つた。 

「最初から うちに 寢 込む 氣で來 たに 違 ひない わ。 づ うづう しいに も 程が あ る わ。」 

誰 憚から ぬヂ ンを眞 先にして、 他の 者 も 調子 を 合せる のだった。 

「そんな 事 をい ふ もの ぢ やありません。 M さん はう ちの 古いお 友達なん です。 しかも 御 國の爲 め 

に 志願して 軍人に なって、 人一倍働いて 病氣 になった の だから、 戰 場で 負傷した のと 同じ 事で 

ナ。」 

夫人 は 子供達 をた しなめ て、 M の 人となり を ほめ、 同時に 乂、 彼が 軍人と して、 如何に 激しい 

勞 役に 服し たかを —— 多分 M 自身から きかされた 通り —— 力 を 極めてい ひき かせる の でもった。 


138 


宿の 敦倫 


「柘植 さん、 責方も 見舞って あげて 下さい。 貴方のお 部屋の 隣り ですから。」 

食後の 珈琲 を飮ん でゐる 時、 さう いはれ て、 ,否 とも 云へ すに 二階に 上った。 隣室 は、 平生 夫人 

の 部屋に なって ゐた。 扉 を 叩いた が 返事が 無い。 二度 叩いても 返事がない。 それ をい、 事に して、 

自分の 部屋に 入って しま はう かと も 思った が、 思 ひ 切って あけて 見た。 廣ぃ窒 の 正面の 煖爐に 燃 

える 火の 氣の爲 めか、 病人の 熟の 爲 めか、 蒸される やうな 空氣が 漲って ゐた。 まだ 片附 けて ない 

夫人の 衣類 を, 不取敢 一纏めに したので あらう、 椅子の 上に は 女物の 外套 や、 短 衣 や、 毛皮の 襟 

卷 などが、 取亂 して 積んだ 傣 になって ゐた。 昇 風で 圍 つた 一隅に は、 此の 家の 夫婦の もので、 近 

頃 は 夫人が 獨寢の 床で あらう、 大型の 寢臺 に、 日に 燒 けた 廣ぃ 額に 氷 囊を乘 せて、 大男の M が昏 

々として 眠って ゐた。 鋭い 鼾が 聞え た。 近寄って、 猶太 型の 鉤 形の 鼻の 盛 上った 寢顏を 見下した 

が、 その 顔面の 輪郭が 與 へる 印象 か、 故 もな くむら むらと、 不快の 念が 頭の 中に いつば いに なつ 

た。 

(女 全 剃刀 

9 

M の病氣 は、 何 诗 迄 もよ くなら なかった。 繃帶 をした 患部の 熱氣 は、 脂汗の 滲み出した 半面に" ー 


不自然な 紅潮と 陰影 を 描き出して、 癖のある 容貌 を  一 ^強く くま 取った 感じが あった。 見舞に 行 

つても、 大概 は、 苦痛に 疲れて 眠って 居た。 其の 容體は 一週間ば かり 變 りが 無かった。 

人手の 無い 時に、 一人の 病人 は いろんな 用事 を ふやして、 家內の 平和 を亂 した。 口 やかましく 

命令ば かりして ゐる 夫人 は、 病人の 枕頭に 腰 を 下して 看護しながら、 のべつ に 廊下へ 顏丈 出して、 

階下で 働いて ゐる娘 達の 名 を 呼んだ C 氷を袂 いて 来い、 水 を 汲んで 來ぃ、 とい ふやうな 事 を、 一 

つの 用事 をい ひつけて、 それが まだ 濟 まない うちに、 追 かけて 叉い ひつける のであった。 殊に 食 

事 を 運ぶ 事 は、 娘 達の 最も いやがる 事だった。 折角 自分 達が 貪 卓へ 着いて、 食事 を 始めよう とい 

ふ 時に、 錫の 大きな 盆に 載せられた 病人の 食物 を、 先づ 誰かぐ 二階に 運び上げなければ、 みんな 

が 肉 刀 を 持つ 事 は 許されなかった。 

一 さ、 誰か これ を M さんに 持って行って おあげ。」 

母親に さう 云 はれる と、 叉 かとい ふ顏附 で、 お 互に 目 を 見合せ るので あった。 

「キ ティ、 これ を M さんに 持って行 つてお あげ 0 一 

ヂンは 直に 母親の 聲 色で、 妹にから かひ 面で 命令す る e 

一い、 え、 おは 昨日 も 二度" 今朝 も 一度 運ん だんだ から 今度 はヂン の番だ わ- こすいったら あり 


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宿 o 敦谕 


や あしない。 I 

白眼で うらみが ましく 担む のがお きまりだった。 

「そんな 事 を 云 つてない で 早くし な く てはいけ ま せ ん 。 今朝 キティが 行った の な ら , 今度 はヂン 

が 行けば い」 ぢ やありません か。. 一 

夫人 は 忽ち 苛々 して、 その 大きな 盆 を琅の 方に 押 やる のでろ つた。 

「そんなら お母さんが 自分で 持って行け ばいいで しょ。 お母さんが 粲理に 泊めて ゐる御 病人なん 

ぢ やありません か 0  1 

「何です つて。 I 

夫人 は 椅子 を 離れて 立 上った。 手に 持つ 肉 切 庖丁が、 燒肉を 盛った 服 Q ふちに 震へ てゐ た。 

「私達 は、 朝 か ら 拭掃涂 や 臺所働 迄 さ せ ら れ て、 新聞 を讀む ひま も あり や あしない … … 」 

母親の 權 幕に ぎょっとしながら も、 ひるんだ ところ は. 見せ 度くない と 息って、 ヂ ンは まだ へ ら 

す 口 をき いてね たが 、それでも 目の前の 耸を兩 手に 持って、 ふて だ 身振りで 二階の 病室へ 運んで 

行った^ き- 

夫人 はさう いふ 時には、 何時 迄 も 不橙绿 で、 事毎に 角目立って 聲を髙 くした。 それに 封して 娘 


141 


達 は、 皮肉な 微笑 を 酬いたがら、 母親の 姿が 見えなくなる と、 口 を 揃へ て 陰口 をき くので あった。 

人の い、 母親が、 口の 上手な、 取 入る 事の 上手な M の爲 めに、 すっかり まるめられて ゐ るの だと 

いふ やうな 事 を、 柘植 にも 聞け がしに 云 ふので ある。 

その 柘植 も、 ^人の 爲 めに いやな 思 ひ をし なければ ならなかった。 彼 は、 ほんと に病氣 で惱ん 

でゐる 一 人の 男 を 哀れむ 心 は 持ちながら、 最初から 消えない 直感的の 不快な 印象が、 どうしても 

M に對 して 好感 を 抱かせない のであった。 

「拓植 さん、 貴方に 御 願 ひが あるので すが。」 

と 夫人に 切 出された の は、 病室の 前の 廊下だった。 聲を ひそめて 居る 事から 察して、 病人に か 

、はる 事 だと 直に 考 へ た。 

「貴方 の お 部屋 の 鏡 臺に置 いて あ る 安全 剃刀 です ね、 毎朝 貴方 のお 髯を 剃る の は あれで なんでし 

よ。」  . 

いひに くさう に、 とりつくろった 笑顏を 傾けて きかれる の を、 柘植 はお も ひも かけない 事に 思 

つた。  . 

「ほんと にお 頼み しにくい 事なん です けれど、 あれで M さんの 髯を當 つて は 頂けない でせ うか。 


142 


宿の 敦淪 


今日は 少し は氣 分が い、 と 云って ゐ ますから 0J 

夫人 は 心 持 顔 を 赤らめて、 媚びる やうな、 てれた やうな 様子で 返事 を 待った。 

「さあ、 他人の 顏を あっかった 事はありません から、 少し 危 つかしい 氣持 がします ね。」 

柘植は 意外な 要求に 困って、 す、 まない 心 持で 答へ た。 

「だ つ て 安全 剃刀なん ぢゃ あありません か。」 

「安全 と 云って も絕對 に 切れないと いふ わけで にないの です。 下手に やれば 矢張り 危ない のです 

からね。 現に 私なん か髯が こ はい もの だから 隨分 しくじる 事が 多 いんです よ。」 

彼 は 眞靑に 剃った 顎に、 血の 吹いた 痕の绫 つて ゐ るの を 見せた。 

さ 5 

「左様です かねえ。 私 は 絕對に 安全な のかと 思って ゐ ました。 —— でも ざっとで い  > -ん ですから、 

おひ まの 時に やって 昆て 下さいな。」 

繰返して 賴 まれて、 彼 は, 否と は 云へ なくなった。 

「ではお 稽古が 濟ん だら やって 昆 ませう。」 

柘植は 夫人の 感謝の 言葉 を 後に して、 階下の 客間に 下り て 行った。 

渐く 掃除の 濟ん だと ころで、 珍しく 晴れ 切った 靑 {ゃ; の 窓の 下で、 惰性に なって やって ゐる 怫 蘭 


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むか ふ 

西 語の 稽古 をした。 會 話の 練習と 稱 して、 面白半分に 姉妹 二人 を 向に 廻して、 片言 を 並べる のが 

此の頃の つとめであった。 

「兎に角 進歩の あと は 見える でせ う。」 

だらだらと 小一時間 を 過して、 椅子の 背に 仰向に なりながら 伸 をした。 何の わ だか まりも 無い 

心 持で、 娘 達 を 相手に しゃべ つて ゐる のが、 一 番呑氣 でよ かった。 

「確かに。」 

かんたん 

相手 は、 い、 加減 ふざけ 疲れたと 云った 風に、 簡短 にうけた ま 、で、 姉 も 妹 も、 旣に 一 枚の 新 

聞 を 開いて、 兩 方から 引 張り合って のぞき 込んで ゐた。 又しても 此の頃 は、 職業 探しに 夢中に な 

つて ゐる のだった。 

r ね、 ね、 柘植 さん。 女の 自動車 運轉手 駄目で せう か。」 

ヂン は、 目をつぶって ゐる 柘植の 椅子の 背中 を 叩いて、 返事 を 促した。 その 種類の 女の 勞働 は, 

近頃 やう やく 市中に 姿 を 見せて 来た ものだった。 

「私 は 家庭 敎師 だと か、 書記 だと か、 そんな 堅苦しい 事 は 到底 も 駄目なん です もの。 自動車なら 

やさ 

易し い でしよ。 一 


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宿の 敦淪 


「駄目々々。 お嬢さん 育の 運轉 手なん か 活動 寫眞 好み だ。」 

目をつぶつ たま、 で 柘植が 答 へ た。 

「何い つて らっしゃ るの、 眞 面目に 御 相談して るん ぢ やありません か。」 

「だから 眞 面目に 駄目 だって 云って るんで すよ。 第一 お母さんが 承知し ますまい。 平民の 娘と は 

違 ふって 。一 

「お母さん なんか …… 」 

勢 込んで 反駁しょう とした 時に、 部屋の 扉が 開いた。 驚いて 振. かへ る 娘の 目の前に 母親の 姿が 

現れた。 

「柘植 さん、 お 稽古 は濟 みました か。 濟ん だら 先程お 頼みした 事 を 願 ひ 度い のです。 恰度 M さん 

も 今 退屈して ると こ ろです から。」 

r 承知し ました。 うまく 行く かどう だか 危 つかしい もの だけれ どやって みませう。」 

柘植は 今更 斷れ ない ので、 故意と 威勢よ く 立 上った。 

「何 をす るんで す、 柘植 さん。」 

「な あに 床屋に な るんで すよ。」 


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「床屋?」  ...  . 

姉妹 は腑に 落ちない 顔 をして、 いちどにき 、返した。 

「え、、 M さんの 髯を 剃って 上 るんで す。」 

「まあ、 お母さんたら、 柘植 さんに そんな 事 をお 願 ひしたん です か。」 

クリスティ ンは 母親 を とがめる やうに、 さも あきれた と 云 ふ 樣子を 見せた。 

「およしな さいよ、 馬鹿々々 しい。」 

直ぐ さま ヂ ンは 憤慨して しまった。 

r 餘計だ 事 を 云はなくて もよ ござんす。 柘植 さんが 親切に 引受けて 下さった のに、 貴方が たの 關 

係した 事ではありません。 M さん は 病人 ぢ やありません か。」 

「なん ぼ 病人 だからって、 よく 知り もしない 柘植 さんに、 そんな 事を賴 むなん て失禮 でしよ。」 

「よく 知らない 事はありません。 柘植 さん は 此の 家の 家族と 同様に 思って 居て 頂いて るので す。」 

「それにした つてお 母さんが 自分で やれば い 、ぢ やありません か。」 

「私に 出来れば 他人 樣には 願 ひません。 出来ない からこ そお 願 ひする のです。」 

疳癀 筋が 額に 疼いて 居る 様子で、 今にも 甲高い 聲で 怒鳴り 出し さう に 思 はれた。 


146 


宿の 敦倫 


「兎に角 やって みる 事に しませう。 その か はりし くじって 傷 位つ ける かもしれ ません よ。」 

. 二人の 爭に 割込んで、 當 の柘植 は、 その 場の 息 詰った 場面 を轉換 しょうと した。 

「それで は どうぞ。」 

夫人 は 憤りに 乾く 唇に 強ゐて 微笑 を 浮べ ながら、 矢張り 娘の 方 を 尻目に かけて ゐた。 

「お湯と 石鹼を 持って来て 下さい。」 

「只今。」 

それ をい 、きっかけ にして 夫人 は窒 外に 去った。 

r 柘植 さん も 下らない 事 を 引う けなくたって い 、ぢ やありません か。 汚なら しい! t なんか 剃って 

やる なんて。」 

ヂンは 他人 事ながら 忌々 しいと 云った 調子で、 

「お母さん こそ 自分で やれば い 、んだ わ。 御 自分の 御 寵愛なん ぢ やありません か。」 

傍の 姉と 目 を 見合せ て、 意味 あり 氣に 笑った。 柘植は その 場の 様子から、 直に 不快な. 相 £ をた 

くまし く. した。 

「さて、 腕 を ふるって 來 るか。」 


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まぎら かし を 云 ひながら、 自分の 部屋に かけ 上って、 安全 剃刀の 小箱 を 持って 病室に 行った。 

「お入りなさい。 どうも 御苦勞 さま。」 

夫人 は 病人の 枕 もとに、 いひつ けられた 石 鹼ゃ湯 を 揃 へ て 待って ゐた。 

「おさん、 柘植 さんが 御 親切に、 貴方 をき れいに して 下さいます つて。」 

さう いはれ て、 M は 存外 勢よ く、 むくむ く 起 上った。 

「どうも 濟 みません。 とんだ 御迷惑です。」 

長い間 寢 込んで ゐ るに も拘ら す、 持 前の 強い 聲で 挨拶して、 半面 を卷 く繃帶 を無雜 作に とり 始 

めた。 

「およしなさい、 私が 取って あげ ませう。」 

夫人 は 寄 添って、 叮嚀に 解いた。 眞 赤に 爛れた 片方の 眼の 中 は、 血脈が 幾條も 通り、 目の ふち 

おもが は • 

は 紫色に はれ 上って ゐ た。. 面變 りの した その 頰 から 咽喉に かけて、 密生した こ はい 髯 がべ つたり 

延びて ゐた。 

湯で 濕 して、 刷毛で 石鹼 をぬ りつけ ると、 湧 上る やうに 泡立った。 柘植 は、 左手で 相手 • の 頰邊 

を 押へ ながら、 剃刀 を 取上げた。 不愉快な 音を立てて 匁の 光る 度に、 粗い 髯は、 踏 躧られ た 草の 


148 


ff! の敦倫 


やうに、 石鹼の 泡に まじって 落ちた。 病人 は 目をつぶって、 爲す がま、 に 任せて ゐた。 猶太 型の 

なま  はたす ぢ 

鼻から 出る 太い 息が 生あった かく 柘植の 手に かかって 来た。 彼 は その 鋭い 鼻梁に 對 して 反抗的の 

憎惡を 感じて ゐた。 

「まあ、 上手に 剃れる ぢ やありません か。」 

傍の 夫人 は 心底から 感心して 聲を あげた。 病人 も 同意 を 表して 頷いた。 

片方の 頰ぺ たが 濟 むと、 今度 は 眼の 惡ぃ方 を 手がけなければ ならなかった。 

「痛く はありません か。」 

「でえ 0J 

横に 首 を 振る 心 持 を 見せ はした が、 目の 下に 匁 を押當 てると、 紫色に 浮腫の 來てゐ ると ころに 

血が 寄って、 剃刀 を 持つ 方が か へ つて 不愉快だった。 段々 に頰ぺ たから 顎に F つて 來 ると 氣が樂 

になった が、 咽喉の あたりの 剃り 惡 さは、 幾度と なく 匁の 滑り を 止めて、 思 はす しらす 力の 入り 

過る 事が あった。 二三 ケ 所から 留 針の 頭よりも ち ひさい 血の 玉が 噴出して 来た P 

「あら、 血が 出て 來 た。」 

しまったと 思 ふ ひま も 無く、 傍の 夫人が 眉 を ひそめた。 


149 


「切れた のです か。」 

病人 も 白い 2:: をして 柘植の 手許 を 心許な ささう に 見守った。 

「こ、 の 處は髯 が こ はい もの だから ::: 」 

いひ わけ をしながら、 柘植も その 血の 湧いて 來 るの を 見て ゐた。 蚊に さ、 れた 位の ちいつ ぼけ 

な 切 傷から、 眞 赤な 血 は 止 度な く 噴いて 來た。 

漸く 剃り 終った 時 は、 柘植の 手 は 石鹼と 人肌の ぬくみで 不氣 味に 濡れて ゐた。 

「見 違 へ る やうに 綺麗に なり ま I たよ。 い 、氣 持で せう。」 

夫人 は顏を 洗った M に 鏡 を さしつけた。 

「難 有う。」 

口で は 叮嚀に 挨拶した もの、、 M は 仰向に なって、 鏡に 映る 咽喉の 切 傷ば かり を氣 にして 見て 

ゐる のだった。 明かに、 柘植の 腕前 を 非難す る もの、 やうに 感じられた。 彼 はさつ さと 道具 をし 

まひ 始めた。 

「どうも 御苦勞 さま、 叉 明日 もお 願 ひします よ。」 

夫人の 言葉 を 背中に 聞きながら、 不愉快な 心 持で 室外に 去った。 


150 


宿の 敦 倫 


その 日 か. ら、 M の髯を 剃る 事 は 柘植の 仕事に なって しまった。 彼 は 自分自身の 手數 のか」 る 濃 

い 髯に難 潞 して ゐた 上に、 負けす 劣らす の 他人の 髯を 剃る 事 は、 殆んど 腹立たしかった。 殊に、 

馴れる に從 つて、 M の 態度に は あきたり ない 處が 益々 多くな つて 來た。 心の 傲慢 を、 言葉の 世辭 

で ごまかして ゐる 事が、 あまりに 明白だった。 そんな 見え透いた 事 さへ わからない 夫人の、 一 に 

も 二に も M の 云 ふ 事 を 信じ 切って ゐる のが  一 I 面白くなかった。 實際 夫人の 態度に は、 怫蘭西 小 

說の 場面 を 想像させる やうな ところ さへ あった。 M が來 てから は、 寢窒を 三階の 小 部屋に 移して 

ゐ たが、 夜更けても、 その 二階と 三階 を 上り下り する 足音が、 子供達の 寢靜 まった 家の 內に、 •  耳 

について しかたのない 事 もあった。 勿論、 眼の 不自由な 病人の 爲 めに は、 何から 何 迄爲て やらな 

ければ ならなかった の だら うが、 晝も夜 も、 絕 えす 附 添って ゐる 程の 事 は あるまい とい ふやう^ 

考が、 くすぐったく 湧いて 來 るので あった。 子供達の M を 罵る 言葉 や、 暗默の 中に 語 合 ふ 目く ば 

せに も、 家庭の 平和 を亂 された 事に 對 する 憤りに 似た 感情が 伴 ふやう に 見えた。 

「お母さんの 親切 は 度が過ぎ てる わ。」 

おとなしい クリスティン さへ、 ち ひさい 唇 を とんがら かして、 不平 を もらす 事が 度々 だった。 

夫 を 持った 西洋の 女 は、 一週間と は 離れて 住めない とい ふ 人の 話が、 不愉快な 重味 を 加へ て柘 


151 


植の 頭腦を 去ら なくなった。 

癡兵 

二月 初の 事であった。 戰 地へ 行って から 消息の 絕 えて ゐた A から、 意外に も、 倫敦の 消印の 葉 

書が 來た。 女文字の 代筆で、 少佐と 夫人に 宛てあった。 

命 丈 は 助かり ましたが、 負傷して 病院に 收容 されて ゐ ます。 突然ながら 明日の 午後 御宅へ 伺 

ひ 度い と 思 ひます。 

手 短 かに 認めて ある 文 言 を、 家^の 人々 は 手から 手に 渡して 讀ん だ。 

rA さんが 負傷した つて、 何處を やられ たんで せう。 重 いんで せう か、 それとも、 ほんの かすり 

傷 か 何 かで せう か。」 . 

夫人 は その 葉書 を 柘植の 手に も 渡した。 

「僕 は 重傷 だと 思 ふ。」 

ジ ョ ォジが 何の 苦も無く きめてし まふの を、 キ ティ は 直ぐに 打消した。 

「私 は輕傷 だと 思 ふわ。 だって それでなければ 明日う ちに 來る 事なん か出来 やしない わ。」 - 


152 


■! の敦倫 


「重傷 だよ。 屹度。」 

「如何して。 如何い ふ 理由で 重傷 だってい ふの。」 

姉と 弟 は 夢中に なつ て、 お 互に 自分の 想像に 贊 成させよ うとした。 

「だ つ て 重傷で なければ 自分で 手紙 位 書く さ。」 

「そんな 事い つ て、 指 を 怪我 すれば 自分 ぢゃぁ 書け ません よ。」 

「二人ともお よしなさい。 みっともな いぢゃありません か。」 

母親が 爭の 中に 割って入って 默ら せて しまった。 

「けれども 何處に 負傷し たんで せう。」 

直ぐに 又ヂ ンが 想像 をた くまし くし 始めた。 

「そんな 事 は 明日に なれば わかります。 兎に角 命が あって 歸 つて 来れば 御 目出度い と 云って い 、 

のです。 隨分 此の頃の 戰 には戰 死者が 多い さう だから。」 

夫人 は 自分の 知って ゐる 甲の 家 乙の 家の、 夫が 死に、 息子が 死に、 兄弟が 死に、 從 兄弟が 死ん 

だ 話 を、 それから それと 止 度な く 持 出して、 再び 故 國の土 を 踏む 事の 出来た A の 身の上 を 幸 だと 

斷定 した。  . 


153 


たった 一人 クリスティン は、 みんなの 話 を 聞く ともなく 聞きながら、 一言 も 云はなかった。 心 

持 青ざめて、 筋肉の こ は 張った 顏を 伏目 勝に しながら、 心の中の 動搖を 無理に も靜 めようと 努め 

てゐ るの だった。 

その 晚拓植 が、 自分の 部屋に 引上げて 寢 ようと 思って、 梯子段 を 上って 行く 後から、 最後に 階 

下の 燈火. を 消して、 これ も寢 部屋に 行く クリスティンが、 追 かけて 来て 呼 止めた。 

r 柘植 さん、 貴方 はどうお 考へ になって。 A さん は 重傷 だと はお 思 ひに ならない?」 

他聞 を 憚 かる 事の やうに 聲を ひそませて 訊いた。 ふだん 目ば たきの 頻繁な 碧い 目 をみ はって、 

心配の 爲 めに 胸が 波う つので あらう、 薄暗が りの 中に、 ほの 白く 呼吸 づく のが 感じられた。 

「大丈夫、 輕 傷です よ。 でなければ 来られる ものです か。」 . 

先刻 キティが 云った のと 同じ 言葉 を、 柘植も 答へ る 外に 返事の 爲 方が 無かった。 

「左. 樣 でせ うか。 左樣 だとい、 ん です けれどね え。」 

嘆息す る やうに, つぶやいた 像、 クリスティン は 梯子段の 中途に 佇んで ゐて 動かなかった。 その 

容姿が、 妙に なまめかしく 見えた。 體と體 が 接近して ゐる爲 めで もあった が、 た t 一事 をお も ひ 

ゎづ らふ 外に^も 考 へない のが、 平生 細心に 身 を 守る 事ば かり 注意して ゐる 女性と は 違って、 直 


154 


们の敦 倫 


ぐに も 人を賴 らうと する 風情 だ つたの だ。 

「おやすみ。」 

柘植 は、 輕ぃ 嫉妬と 妄想 を 振 捨てる やうに 身 を かへ して、 夜更けて ひっそりした 家の^に、 わ 

ざと 靴の 音 を させながら 梯子段 を 上り 切った。 自分の 部屋の 扉に 手 を かけた 時、 どうしても 一 度 

振り向いて 見る 氣 になった。 梯子段の まん 中に >  まだ 佇んで 動かない クリスティンの 仰向いた 顏 

が 白く: a えた。 どうした 其の 場の はすみ だった か、 寄席 藝 人が 觀 客に 向って する やうに、 拓植は 

措 尖 を 唇. に觸れ て、 接吻 を 贈る 眞似 をした。 その 儘 狼狽て て 窒內に 飛込んだ が、 寢 床に 入って か 

らも、 自分の 輕 率な 振舞 を 唾棄す る 心 持で、 何時 迄 も 動悸が 止まなかった。 

翌日、 お茶の 時刻に 軍服 を 着た A が やって来た。 先を爭 つて 出迎 へた 姉妹 は" 玄關に 佇立して 

ゐる A を昆 て、 挨拶 をす る 事 も 出来なかった。 第 一番に 手 を差延 した ヂン は、 大きな 目に 淚 をた 

めて." 後退り した。 A は 右手 を 失った のだった。 .. : 

血色の い、 肥 肉 は、 た^ 少し 日に 燒 けたば かりで、 以前と ちっとも 變 つて ゐ なかった。 夫 

人 も クリスティン も、 如何い ふ 一一 一 e 葉で 慰めて い、 か * 只管 混 惑して、 淚 ぐんでば かり 居る のに、 

本人 は 案外 平氣 で、 左の 手 を 不器用に 突出して、 一 々握手した。 


155 


「それでも また 御 目に か、 れて 嬉しう 御座います。 隨 分苦勞 なすった でせ うねえ。」 

夫人 はやつ と 唇 を 動かした が、 聲は 異様に 震へ てゐ た。 

「夢です。」 . 

A は囘 想す る やうな 様子 を 見せた が、 しかも 璺頰 には絕 えす 微笑 を 浮べて ゐた。 持 前の 人の い 

、性質から、 自分の 身の上の 不幸よりも、 斯うして 親しい 人達に 逢 ふ 幸 一幅 を、 強く 感じる 風に 見 

えた。 

「何しろ 第一線に 送られた 其の 翌日、 敵の 砲彈の 破片で 倒れて しまった のです。 氣の 付いた 時 は、 

もう 片腕 無くな つて ゐ ました。」 

さう 云 ふ 彼の 右の 手に、 人々 の 視線 は 集まった が、 肩の つけ 根から" 空つ ぼの 片袖 は、 だら り 

と 横に 垂れ 下って ゐる ばかりだった。 

誰も はかばかしく 口 をき く 者 は 無かった。 どっち かと 云へば A も 無口な 方な ので、 誰が すると 

も 無く 折々 溜息が、 一室の 沈默の 中に、 徵 かに 聞え た。 クリスティン は、 母親の 入れた 紅茶 を A 

の 前に 運んだ。 勸 めれば 勸 めら れる ま、 に、 彼 は 麪鉋を 取って、 左手で 小刀 を 使 ひながら、 幾 枚 

も 幾 枚 も、 さもう まさう に喧 ベた。 《 


156 


M の敦倫 


「此の 四 五 s 大變氣 分 もい、 やう だから、 M さん も よんで おあげ。 寢 衣の 上に 寬衣を 着て 来れば 

構 ひません と 云 つ て。」 

想 ひ 出して、 夫人 は 男の子に 使 ひ をい ひつけた。 

「 A さん も 御存じの M さん  水ら く 商船に 乘 つて ゐ たのです が、 去年の 暮に氣 球隊に 入った の 

です よ。」 

一 ぁ&、 あの 話の 面白い 人で  す 力 」 

A は 一寸 考 へて、 想 ひ 出して 頷いた。 

「え.、、 あの方が 此 間から 病氣 でう ちに 寢てゐ るので す。 どうした のか 眼が 惡 くて。 何しろ 身 寄 

の 無い 人です からね。 一 

娘 達 は、 此の 場に M の 來る事 を 面白くな くお もって、 お 互に 目く ばせ をして ゐ るのに 頓着 無く、 

夫人 はお か はりの 茶 をつ ぎながら 話しつ ぐ けて ゐた。 

ジ ョォジ に つれられて、 片目 繃帶 した M が 二階から 下りて 來た。 

「しばらく  0」 

彼 は 直ぐに A の 方へ 進んで 右手 を差延 した。 


157 


「お ゝ" 君 は 片腕 やられた のです か。」 

今迄 低い 調子の 外に は 物 を 言 ふ 者 もなかった 窒の內 に、 高く 強い 聲が 響き わたった。 默 つて" 

にこ にこしながら A の 出した 左手 を、 雙 方の 手で 固く 握って 振り立てた。 

「羨し いな あ。 名譽の 負傷 だ。 それな のに、 こんな 意氣 地の 無いて いたらく で、 國家 危急の 時に、 

無駄に 寢て暮 して ゐ なければ ならない と は。 畜生 ッ。」 

一同が 梵 いて 振 向いた 程 戯曲 的の 言葉と 身振りで、 患部に 卷 かれた 繃帶 を、 かきむしる やうに 

身 を もんで、 足踏みした。 

「M さん はほんと に戰 地に 行く 事 を 願つ てゐ るんで すよ。」 

夫人 は 彼 G 激越な 調子に 感動して、 直ぐに 同情して しまった。 

「しかし 決して 面白い 處 ではありません ね。」 

笑 ひながら A が 答へ た。. 

「面白い 處? それ は 面白く は 無いで せう。 蹴球 競技と は 違 ひます から。 しかし 國 家の 爲め, 五 n 

人の 生存の 爲め、 光輝 ある 歷史 の爲 めに、 吾々 は鬪ふ 義務が あると 思 ひます。 鬪 はなければ なら 

ない の です。」 


158 


fe- の敦倫 


M は演說 口調で 恰も 相手 を說 服す る やうに 力 を 込めて 叫ぶ のだった。 

誰に しても、 口 を さしはさむ 餘 地の 無い その 昂奮した 言葉の 連績 を、 當の A は、 全く 善意に 受 

入れて、 微笑しながら 聽 いて ゐた。 

r 一  體 初めて 砲彈の 洗禮を 受ける 時 は どんな 氣持 がします。 勇氣の ある 者に とって は 寧ろ 偸 快で 

せう ね。」  . 

M は f 乂話を 新しくす る意圖 で、 A の 方に 問 ひかけ た。 

: 「夢です。 まるで 夢です。」 

實 戰に參 加した 人 は、 短い 言葉 を 繰返した。 

「君が やられた の は どの位の 大きさの 砲の 彈 丸でした。 飛行船の 爆彈 では 無い のでせ う。 一 

「さう です、 大砲の たまです。 しかし どんな 大砲 か はわ かりま せんね。 曉 方でした。 塹壕から 塹 

場に 退却す る 時に やられ たんです。 何處か 後の方で、 何ともい へない 物凄い 音が したと 思った 丈 

で 後 は 夢です。」  . 

又しても 同じ 言葉に 落ちつい てし まふの だった が、 實際 彼に とって は、 それ は 夢と しか 思へ な 

いのらし かった。 殆んど 軍事上の 專門的 知識 を缺 いて 居る らしい A は、 如何なる 地點 で、 どの位 


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の軍團 が對陣 した か、 最新式の 敵方の 武器の 威力 は 如何なる もの か、 現在の 兩 軍の 策 戰 はどう 展 

開 さる 可き か —— それから それと 根掘り葉掘りき 、度が り、 又 自分の 多少の 智見を 示さう と あせ 

る M の 質問に は, 全然 答へ る 事が 出来なかった。 彼 はたぐ 怖る 可き 戰 地の 空 氣を 呼吸し、 第一線 

に 送られた 翌日に 負傷した 自分の 運命 を 甘んじて 受 入れた に 過ぎなかった。 

話 好きの M は、 折角 話 相手に しょうと 思 ふ A の、 ロ數 少なく、 た f 他愛なく 笑って居る 張 合 ひ 

なさに 憤慨した 樣 子で、 何時も 何時も 口癖の やうに カ說 する 國家 危急の 現在の 國 民の 覺悟 を、 手 

を 振り 足 を 踏 鳴らして、 大きな 聲で說 き 出した。 子供達 は、 又 かと 云 ふ 心 持 を、 目附ゃ 手先の 合 

圖で 示し あつたが、 氣が 付かない のか、 氣が 付いても 平氣 なのか、 M は 何時 迄 も 止めなかった。 

兎 も すれば、 何の 意見 も 無く、 にゃにゃして ゐる癡 兵に、 一同の 同情の 集まり 勝な の を、 無理に 

も 自分の 器量で、 自分 を 立 役に しょうと する 努力の やうに も 思 はれる のだった。 夫人 は 感心して 

傾聽 して ゐた。 

「久しぶりで 音樂 でも 伺 ひませ うか。」  . 

そんな 事に は あき 果てたら しく、  A は 母親の 傍に 固くなって 坐って ゐる クリスティンに、 小聲 

たがら、 聲を かけた。 


160 


福の 敦淦 


•r 隨分 長い 事彈 かないんで すよ。 それよりも ジョ ォジの バン ヂョ才 と、 お 手製の 提琴の 方が 面白 

いでし よ。」 

子供の やうな 顏を 赤く して、 少し どぎ まぎしながら、 かへ りみ て 他 を 云 ふといった 風に、 姉 は 

第に 振り向けた。 

「それで は 合奏 さ。」 

ビア ノ 

A はい k 機嫌で、 自分で 立 上って、 不自由 さうな 左の 手で 洋琴 を 開けた。 

「駄目なん です よ。」 

愈々 赤くな つて、 クリスティン は 洋琴の 前に 掛けた。 ジョ ォジは 先刻から 大人の 話に もて あぐ 

んでゐ たので、 直ぐに バ ンヂ ョォを 取り あげて、 姉の 側に 並んだ。 

「何に しませう OJ 

譜本を 探しながら クリス ティン は、 誰に ともなく 聲を かけた。 

【『今宵 隊商 は 何處に 宿る』 を やって 下さい。」 

誰も 何とも 云 ひ 出さない ので、 柘植が 進んで 注文した。 

「あれ は 私が 初めて 此の 家に 來た 時" . I .A さんに も 恰度お 目に か、 つたので したが、 あの 時ク 


161 


リ ス ティ ンとジ ョォジ が 合奏した 曲です よ。」 

「左様々々、 さう でした つけね。」 

A は 直ぐに 興がって、 更に 叉 自分で 積み重ねて ある 譜 本の 中から、 その 一 編 を 探し出した。 

「柘 精さん て 人 は、 そんな 事迄覺 えて るんで すか。」 

キイ 

クリス ティン は 捨ぜり ふ を 云 ひながら、 ジョ ォジを かへ りみ て 洋琴の 鍵に 指 を觸れ た。 

一方で は M が、 たった 一人の 聽 衆の 夫人 を 相手に、 音樂に 遠慮 も 無く、 なほ 引繽 いて 演說を 止 

めなかった。 

日が 暮れてから、 A は 後日 を 約束して 歸 つて 行った。 みんなが 送り出した 玄關の 石段 を 下りて 

行く 迄、 如何に 今日の 曰が 樂 しかつ たかを 繰返して ゐた。 片手 は 無くても、 堂々 とした 後 姿 は、 

五六 間 行った ばかり で、 立 こめた 夕 露の 中に 吸 ひ 込まれて しまった。 

「存外 元氣 がい k ぢ やありません か。」 

石段の 上に 佇んで 殘 つた クリス ティンに、 柘植は 斯う 云って 言葉 を かけた。 

『柘植 さん は、 あの人い、 人 だと は 思 ひません か。」 

それに は 返事 をし ないで、 妙に 青白い 顏 をして、 眞 面目に 向 ふから 問 ひかけ て來 た。 


162 


宿の 敦淪 


「偉い人で も 俐巧な 人で も 無い のです。 それ は 私 もよ く 知って ゐ ます。 けれどもい、 人って いふ 

んで せう ねえ。」 

「確かにい、 人です。 成程 偉く は 無 さ、 うだが。 しかし それ 丈 一 層 同情され ますね。」 

柘植は 相手の 心 持 を 察して、 A に對 しても、 クリスティンに 對 しても、 柔ぃ 愛の 心 を 感じて ゐ 

た。 

「え、、 ほんと に 同情し ます わ。」 

さう 云って、 もう 一度 « の 奥に 燈 火の 滲んで 映る 町角の 方 を 見送って、 娘 は険に 浮ぶ 淚を まぎ 

らした。 . 

トルストイ 

その 頃、 拓植は トルストイの 研究に 熱中して 居た。 「アンナ. カレ -ー ナ」 を讀 み、 「戰爭 と 平和」 を 

讀み、 「復活」 を讀 み、 「闇の 力」 を讀 み、 「生ける:^」 を讀 み、 「藝術 論」 を讀 み、 其 他 彼の 書架 を 飾 

る 二十 四卷の 全集に 納められた 作品 を * 次から 次と 讀んで 行く うちに、 殆んど 想像 も 出来ない 程 

底の 知れない 人間 力の 偉大な 事に 感激した。 長い 生涯 を、 自己の 心と 鬪 ひつぐ け、 しかも 安住の 


163 


地 を 見出す 事 も出來 ないで、 片田舍 の 孤 驛で命 を 終った 人の 一 生が、 如何に 生 甲斐の ある もので 

あつたか。 人類 意識の 強さに 驚く と共に, いかなる 詩人 も 及び難い 纖 細な 祌經の 顫動 を" 感じさ 

せられた。 あらゆる 人間の 持って ゐる 善心 も惡心 も、 此の 一人の 中に 最も 根強く 體驗 された に逮 

ひ 無い。 柘植 は、 兎角 人間の 世の 厭 はし さ を 感じ、 人生の 倦怠に 身 を 任せよう とする 傾向の ある 

自分 を 顧みて 恥ぢ た。 同じ 人間の 中に トルストイの ある 事 を 痛感して、 彼 自身 も 人間で ある 生 甲 

斐を 感じて 來た。 圖書 館に 行っても、 トルストイの 傳 記と、 トルストイに 對 する 批評ば かり を あ 

さって 讀ん だ。 物事に 熟 中す ると、 宣傳 癖のある 柘植 は、 先づ高 樹を說 いて 「アンナ • カレ ニナ」 

を讀 ませた。 和 泉に も 手紙 を 書いて、 同じ 本を勸 めた。 郊外の 先輩の 家に 集る 同窓の 會 合の、 輪 

講の 順番が 廻って 來 たら、 トルストイ 論 を やって やらう と 待 構へ てゐ た。 

家に 居る 時 も、 机の 側が 離れられ なくなった。 舊 式な 煖爐に 乏しい 石炭 を 焚いても、 どうして 

も窒 -s: は溫 まらない ので、 外套 を 着て 本 を讀ん だ。 絨毯が 古び 汚れて、 一種の 埃 臭い 匂 を 立てる 

の を、 氣に はしながら もうつ ちゃって 置いた のだった が、 此の頃の やうに 自分の 部屋に 親しんで 

來 ると、 その 匂が 堪らなく なって 來た。 彼 は奮發 して、 身上 不相應 な 香水 を 買って、 すべて 部屋 

中に 撒いた。  - 


164 


宿 ヵ敦倫 


「柘植 さん はどうな さった の。 溫窒の 花の やうに、 い、 匂 を させながら、 此の 窒 にち..、 こまって 

ゐ らっしゃる のね。」 , 

一 番 先に 怪しんだ の は クリス ティンだった。 或 時 * 室の 戶を 半開に して、 顔 丈 中に 突 込んで、 

小鼻 を ひくひく 動かしながら 聲を かけた のだった。 

「だって、 此の 古い 敷物 は、 決して 勉強 心 を 振 ひ 興して 3. 犬れ ません。 徽と 埃の 匂 を かいで ゐ ると 

セ ン ティ メ ン タルになる ばかりです。」 

煖爐で 足 を 暖めて ゐ たのが、 身を拫 つて ふり 向いて 云った。 

「まあ 此方に お入りなさい な。」 

「駄目よ。 火の 側で 外套 を 着込んで * 始終 本ば かり 讀ん でる 方が セン ティ メンタル になり 易 いん 

です とさ。」 

さう いひながら、 外から 誰が 見ても 怪しまない やうに、 入口の 戶を すっかり 開けて、 クリス テ 

イン は 椅子の 背に 近寄って、 上 から^き 込んだ。 

「何の 本。 此の頃 貴方の 強情な 魂 を 奪った の は。」 

「トルストイ。」 


165 


彼が 譲み かけた の を 見せた の は、 「神の 御 國は汝 が- 2: に 在り」 であった。 

「あら、 柘植 さんが 宗敎の 本を讀 むんで すか。」 

目 を 見張って 驚いた。 何時だった か、 日曜の 敎會 行を勸 めら れた 時、 新 敎は嫌 だと 云って きか 

なかった 爲め、 夫人と 二三 十分 も 言ひ爭 つた 事の あつたの を、 クリスティン は 忘れなかった。 

「貴方 はお 母さん をい やがらせ る爲 めに、 私 は 無 信仰です なんて 云った ぢ やありません か。」 

「いやがらせで もなんでも ありません。 さう いふ 外に 爲 方が 無 いんです もの。」 

柘植は 立 上って、 書架から 全集の 他の 一 册を拔 出した。 

「まあ だま かされた と 思って これ を 讀んで 下さい。 讀ん でつ まらなかったら、 僕 はもう 二度と 他 

人様に 向って. 口返答なん かしません から。」 

彼 は 「ァ ンナ. カレ 二 ナ」 をす、 めた。 その 女 主人公の 描寫 の素晴 しいの に 驚嘆して、 實 際の 人 

閬 よりも ほんた うに 生きて 居る と 評した 近代 佛蘭 西の 小說 家の 言葉な ど を 引用した。 

「へええ、 生きて ゐる 人間よりも 生々 して ゐ るって いふんで すか。 つまり 私達なん かよりも、 も 

つと はきはきして ゐ るんで すね。」 

クリス ティン は 非道く 其の 言葉に 感心して、 


166 


宿の 教 倫 


「さあ、 柘植 さんに、 二度と 口返答 を させない やうに してやら うかな。」 

捨ぜり ふを殘 しながら、 一冊 を 胸に 抱へ て 部屋の 外に 行き かけた。 

「ちょ つ と、 ちょ つ と。」 

後から 拓植が 呼 止めた。 . 

「若しも 私の いふ 通り、 ほんと に 面白かったら どうします。 生きて る 人間よりも、 もっと 生きて 

ゐ たら どうします。」 

ふり 向いて、 適當な 返事が 見出せないで、 それが 癖の、 近眼 をし ば だた くば かりで 小首 を ひね 

つた。 凝ぎ と 見て、 柘植は 何時かの 晚、. 梯子段に 佇む 相手に 對 して 敢 てしたと 同じ やうに、 指 尖 

を 唇に あてて、 接吻 を 贈る 眞似 をした。 クリスティン のち ひさい 顔に、 紅い 血の 流れる の を 見た- 

それでも、: わざと 怖い 目 をして 睨んだ が、 その 睨んだ 口元に、 次第に 微笑の 影が 浮んで 來た。 身 

かけお  』 

を ひるが へして、 クリスティン は 梯子段 を驅 下りた。. 

二三 日た つと、 クリスティ ン はもう 「ァ ンナ. カレ 二 ナ」 に 夢中に な つ てし まった。 アンナと ヴ 

P ン ス キイの 戀 のい きさつ、 キティと レヴィン の 結婚の 幸 不幸 II さう いふ 女の 讀 者に 特有の 興 

味に 基く もので はあった が、 默 つて 一 人で 讀む 丈で は 物足りなく なって、 誰彼の みさか ひなく、 


}67 


小 說の筋 を 話した。 

r 柘植 さん、 ほんと に アンナ は 生きて ゐる わ。 なんてい ふ 美し さなんで せう。 私 は 今迄に、 こん 

な 面白い 小說は 讀んだ 事ありません わ。」 

感激に 上氣 した 顏を ふり 向けて、 クリスティン は 嘆息す る やうに 云った。 近 股の 目 さへ うるみ 

を 持って 輝いた。 

「そんなに 面白い 本なら 私に も讀 ませて 頂戴。 此 間の 椿 姫よりも 面白い こと。」 

傍の ヂンは 直に 手 を 差 延べ て、 姉の 膝の 上. の 本 を 取上げようと した。 

「待って 頂戴ったら。 もう 少しば かり 殘 つて ゐ るの よ。」 

二人 は爭 つて 互に かけた 手 を 放さな か _ つた。  • 

これが はじまりで、 上の 姉妹 はもと よりの 事、 キティ 迄 も、 彼等が 平生 拓植の 園 書 館と 呼びな 

ら はす、 その 書架の 文學書 を、 手當り 次第に 讀み 始めた。 安價 な小說 本に 馴染んで ゐ たので、 最 

初 は 勝手が 違 ふらしかった が、 忽ち 熟 病に とりつかれた 勢で、 暇 さへ あれば お 互に 讀ん だものに 

就ての 知識 を ほこる 事に なった。 讀書嫌 を檫榜 して ゐた ヂン さへ、 おとなしく 椅子に 腰かけた ま 

ゝ、 幾 時間と なく 動かす に、 頁 を 繰る 事が 多かった。 


'"8 


宿の 敦倫 


I 此の 家で 本を讀 まな いのは、 ジ ョ ォ ジとヂ ャック だけよ。」 

末の 娘が 得意に なって 云 ふの はほんと だった。 何時も 變らす 樂器を 抱へ てゐる 少年と" その 足 

/  ゐ ねむ リ 

下にう つらう つら 居睡 をして ゐる老 犬ば かりが、 仲間外れの 景色に なった。 

病人の M は、 何時 迄た つても さっぱりし なかった。 其の 癖 最初の やうに、 別段 高い 熱が あると 

いふので もな く、 苦痛 も 薄らいだ やうに 見えた が、 繃帶 をと ると、 惡ぃ 方の 眼に は 霞が か、 つて、 

腐った 魚の やうに なって ゐた。 柘植の 剃刀の 手が 馴れる に從 つて、 段々 不注意になる 爲 めか、 い 

や だい や だと 思 ひながら 動かして ゐる爲 めか、 切 傷から 血の 出る 事が 度々 あった。 近頃 は *  M 自 

身が、 夫人の 助 を かりて、 不器用な 手で 當, る 事に なって ゐた。 

永い 間 寢てゐ るので、 人 一 信 活動 好ら しい M は、 所在 無 さに 困り切って ゐた。 時々 は 階下の 客間 

で、 みんな を 相手に 話込む 事 もあった が、 大概 は 相手の 方が 逃げて しまって、 手 持 不沙汰 を 重ね 

るので あった。 さう いふ 場合に、 逃げる 方から いふと、 本に 讀 耽って ゐる のが 一番い、 手だった。 

「は、 あ、 トルストイ か。 偉い もの を讀 んでゐ ますね。」 

或 日 も 彼 は 娘 達の 間に 割込んで、 席に着く と 直ぐに、 キティの 讚んで ゐる 童話 篇を晛 き 込んで 

口 を 切った。 


169 


「トルストイ は 大作 家 だ。 しかし 私 は 露 西亞の 小説 を 好きません ね。 陰^で • 讀 者の 心 を 不愉快 

にします。 たしかにい、 影響 は與 へません。」 

そんな 風に 切 出して、 自分の 知らない 事に 迄 も獨斷 的の 意見 を 立てなければ 承知し ない 英吉利 

人の 根性から、 其の 露 西亞の 小說を 此の 家庭に 移入した 柘植を 非難す る 態度 迄 見せる のだった。 

「それで は M さん は トル ス トイの 何てい ふ小說 をお 讀み になった の。」 

意地の 悪い 質問 を、 ヂンは 正面から 持って行 つたが、 

「いろんな 物を讓 みました よ。 尤も 隨分 前の 事 だけれ ど。」 

先方 は 一 向平 氣で 答へ た。 

「兎に角、 私 は 讀者を 偸 快に する もので なければ、 いけない と考 へる。 ディ ッケ ンス はよ ござん 

す。 是非 讀んで ごらんなさい。」 

彼 は 直に 柘植の 方に 話 をむ けて、 露 西 亞ゃ佛 蘭 西の 小說の 不健全な もの だとい ふ 事 を 繰返した * 

相槌を打つ 者 も 無く、 しま ひに は 返事 をす る 者 も なくなつ たが、 彼 は 倦き すに、 根底の 無い 文學 

論で 時間 を 費した。 

その 日 は それで 濟ん だが、 翌日の 朝の 食事の 時であった。 夫人 は 子供達の 居る 前で、 露 西亞の 


170 


宿の S 倫 


小說 など を、 一人前にならない、 心の 堅固で 無い 娘 達に 讀 ませる の はよ して 吳れと 云 ひ 出した。 

「貴方が ぉ鑌 みになる の は 構 ひません。 それ を 私が 兎や角い ふ權 利はありません。 けれども 私の 

若い 娘 達に は、 い、 事と 惡ぃ 事に ついての 判斷 さへ まだ 無い のです から、 あ、 いふ 種類の 本は讀 

ませない 事に してあります。」 

「しかし 露 西 亞の小 說が惡 いもの だとお 考へ になる の は 間違 ひではありません か。 殊に トルスト 

ィの …… 」 

一い、 え、 私 は 一概に 惡ぃ とはい ひま. せん。 貴方が た 日本人の 目から 見て い \ もの も、 英吉利の 

家庭で は 許さない 事 も あるので すから。」 

夫人 は 拓植に は 一言 もい はさないで、 た、 みかけて 自分の 勝手ば かりまく し 立てた。 何故 露 西 

亞の小 說が惡 いの か、 夫人 自身 は 何も 知ら 無い のだった。 たぐ 何と無く、 世界 を 知らない 英吉利 

の 俗物が、 他の 國の 物事 を 一般に 輕 蔑したり 排斥した りする のと 同じ 根性と、 尙ー つに は 母親が 

子供の 敎 育に 就て、 嚴 しいし つけと 細心の 注意 を 怠らない 事 を 示し 度い 氣 持から、 わけ も 無く 自 

說を 立て通さう とする のだった。 勿論、 そんな 事 をい ひ 出した の は、 M の 入 智慧に 違 ひなかった 

さう 思 ふと、 柘植は 愤に堪 へなかった。 


171 


「わかりました。」 

止 度な く 自分の 立場と 言 分 を 辯 解しょう と 努める 夫人の 言葉 を さ へ ぎって、 彼の 語 氣も銳 くな 

りかけ た。 

「どうぞ 誤解な さらないで 下さい。 私 は 決して 貴方 を とがめて ゐ るので はありません から。」 

妙に 柔な聲 と 態度で、 無理に も 笑顔 を 見せよう とする 夫人 は、 相手が 不滿に 思って ゐる事 を 承 

知して、 氣づ かって ゐる樣 子だった。 それが 拓植 にもよ くわかった。 彼 は 尖 がら かした 口 を 堅く 

結んで 苦笑した。 

暫時の 間 は 夫人の 辯 解が つ いたが、 やう やく それが 終った ところで、 先刻から 事の 成 行 を 心 

配して、 まばたき もしないで 二人 を 見守って ゐた 姉妹の 方に、 拓梳 は強ゐ ておちつ いた 聲で 言つ 

た。 

「みんなお 聞きの 通り です。 私の 圖書館 は 今日 限り 閉鎖し ます。, 

誰も 何とも 答へ なかった。 座が 白けた の を まぎらす 爲 めに、 夫人 も 娘 達 も柘植 自身 も、 今迄 休 

あわた < 

んでゐ た 食事 を、 狼狽し く 口に 運び 始めた。 

おも ひも かけない 玄關の 呼 鈴が 鳴って、 床の 上に 物の 落ちた 音が した。 


172 


^の敦 倫 


「郵便 かしら。」 

を 置いて キティが 立った。 室の 內の氣 ま づぃ筌 ^を 逃れる 機會を 喜んで ゐる樣 子だった。 

誰の 顏 にも、 同じく 救 はれた 色が 浮んだ。 

「はい、 これ は柘植 さん。 これ はお 父さんから お母さんに。」 

それぞれ 郵便物 を 分配して、 叉 食事に とり か k つた。 

「お父さんから 何て 云って 来て。」 

r 隨分 久しぶりだった わね え。」 

左右から 娘 達 は 首 を差延 して、 母親の 手に 開かれた 手紙 を覜き 込んだ。 

夫人 は 一心に 良人からの 消息 を讀 んでゐ たが、 突然 こはばった 表情に 變り、 それ を堪 へようと 

努めながら 堪へ 切れ なくなって、 顔面 筋肉が 激しく 震へ たと 思 ふと、 その 手紙の 上に 淚が 落ちて 

来た。  • 

「お父さんが 如何 かしたん です か。」, 

驚いて すり 寄った 娘の 聲も 震へ てゐ た。 夫人 は淚に 濡れて インキの 滲み出した 手紙 を、 娘の 方 

に f- やる と 同 寺に、 兩 手で 顏を 覆って 泣き出した。 肉附 のい、 指の 間から も、 淚は 流れて 來た。 


173 


r お、、 いよいよ 出征す るんで すって。」 

クリス ティン は 手紙 を 妹の 前に 突つ けて、 蒼 ざめ た顏 をして、 しきりに 目 をし ば だたいた。 誰 

も 口 をき かなかった。 夫人の 嗚咽が、 何時 迄も績 いて ゐた。 

手紙の 末に 書いて あった 通り、 二三 日た つと 少佐 は 家に 歸 つて 来た。 愈々 差 迫って 来た 出征の 

別れに、 家族と 名殘を 惜む爲 めの 休暇だった。 ー體 に、 英吉利 人に は 珍しい 顏 色の 薄 黑く 濁った 

皺 だらけな のが、 雨に 風に 曝されて  一^ 汚 なくなって 居た が、 おしゃれの 性分で、 綺麗に 髯を剃 

り、 白髮 まじりの 頭 髮には 規則正しく 櫛の 齒が 通って 居た。 細い 胴中の くくれた やうに 形の つい 

てゐる 軍服の 折目 も 整然とし たのが、 何となく 意氣の あがらない 様子に 見えた。 

玄 關に驅 出して 迎 へた 夫人 は、 自分よりも 脊も 低く、 小柄で 瘦 つぼち の 夫の 首に 鎚 りついて、 

肩章の 目立つ 肩に 顏を 埋めて 泣いた。 

二階に 寝て 居た M は 三階の 小 部屋に 移されて 居た が、 少佐が 歸 つたと 知る と、 いそいそ 下りて 

来た。 


174 


宿の 教' 偸 


r 泣く 事 は 無い。 泣く 事 は 無い。 一 

少佐 は 子供 をす かす やうに 夫人の 背中 を 叩きながら、 やう やく 體を 自由にした。 

「御機嫌よう。」 

一 御機嫌よう。」 

待 構へ てゐた おと、 固い 握手 をした。 

「愈々 御 出征 ださう で、 御目出度う。 私 は實に 羨し くて 堪 りません :•:• 」 

感慨に 堪 へない とい ふ 語調で、 何時 迄 も 握手の 手 を 放さない M の 目の前で、 少佐 は 輕く手 を 振 

つた。 

「御 目出度い もの か、 私は悄 氣てゐ るんだ。」 

取 園んで 傍に 立って ゐる 子供達の 笑聲に 合せて、 少佐 は 涸れた 聲を 立てて 笑った。 

晩餐の 卓に は M も 衣服 を着換 へて 出た。 少佐 は 自分で 地下室に 下りて 行って、 酒の 瓶を兩 手に 

抱へ て來 た。 夫の 歸宅を 喜び、 父親の 歸 宅を迎 へる 妻 や 子 を 左右に して、 久しぶりの 圑欒に 陶然 

だち ま 

とした 少佐 は、 惜氣も 無く 三 鞭 をぬ いて、 忽ち 上機嫌に なって しまった。 

岡の 上の 兵營の 生活の、 日本人に は 想像 もっかない 程 明い 方面 を、 彼が 充分 享樂 して ゐる事 を 


175 


詰した。 耶蘇 降誕 祭の 頃 催された 舞踏 會の 事、 同僚の 夫人の 舞踏のう まい 事、 或將 軍の 令嬢の 洋 

琴の 妙技 —— その 令嬢と 自分の 部下の 若い 貴族 出の 士官と が戀 して ゐる 事、 晴れた 日の ゴ ルフの 

遊び、 連夜の 骨牌の 勝負 —— それから それと、 くったくの 無い 性分な ので、 みんな を 笑 はせ る や 

うな 話の 數を盡 した。 

斯うい ふ 場合に も、 勿論 M は賑 かに 相槌を打 つたが、 彼 は 長い間 此 家の 厄介に なって ゐる 身の 

丄 として、 自分が わざわざ 氣球隊 に 入った 事、 病 氣の爲 めに 思 ふ 儘に は國 家に 盡 せない 事 を 嘆く 

と 同時に、 自ら 話 を 軍事上に 向けなければ ならない 氣 持に 驅られ るら しく、 逯々 少佐の 輕ぃ心 持 

に そぐ はない 質問 をす る 事 もあった。 さう いふ 時には、 少佐 は 俄に 醉が 醒めた やうな 眞 面目な 態 

度に なって、 額に 皺 を 刻みながら、 

「戰 爭! これ 程 …… な 事 は 無い。 …… の罪惡 だ。」 

吐息 をす る やうに つ ぶやくの だ つた。 

それでも M は 頓着な く、 自分の 愛 國心を ほこる 態度で、 語氣も 銃く 獨 乙の 暴虐 を こらす 必要 を 

刀說 すると、 少佐 も 直に 其方に 引 入れられて、 極めて 世間 的な 愛國 者の 昂奮した 様子 を 見せて、 

食卓 を 叩いて 獨 乙と 獨乙 皇帝 を 罵った。  . 


176 


宿の 敦淪 


「だから 自分 もこれ から 出征す るんだ。 かう いふ 場合に は 戰爭も 止む を 得ない。 正義の 爲め、 自 

由の 爲 めに 戰 ふの だから。」 

酒氣の 出た 顏を あげて 一 座 を 見渡す 少佐の 目の前に、 M は 大きな 兩手 を差延 して 拍手す る眞似 

をした。 

少佐 は 自分が どの 方面の 戰 場に やられる のか 知らなかった。 それ は 全く 極祕の 事で、 自分 達の 

隊の 上官 さへ、 いまだに 知らない 事 だと 云って ゐた。 其 頃 は、 露填國 境で は、 露西亞 が引繽 いて 

敗退し、 西方の 戰線 でも、 久しく 期待され た 聯合 軍の 總攻擊 は 開始され す、 かへ つて 獨軍 はヴ M 

ル ダンの 攻擊 を、 前に も增 した 勢で やり 始めた 時であった。 假令 聯合 軍 は 負けない にしても、 軍 

事 上 敵に 打 勝つ 望 は遙に 遠い ものに 思 はれた。 柘植は 平生 思 ふ 儘に、 その 事 を 口にして ゐた。 

「此の 柘植 さんの 意見で は、 聯合 軍 は 絕對に 勝てない とい ふので すが、 私は斷 じて そんな 事 はな 

いと 云 つて ゐる の です。」 

M は それ を 話の 村 料に する 事 を 忘れなかった。 

r 斷じ てない。 それ は斷 じて ない。 屹度 勝つ。 二度と 獨乙は 起てない やうに 決定的に やっつけ.. て 

しま ふ。 た f 時期の 問題 さ。, 一 


177 


少佐 は 手に 持つ 酒杯 を 下に 置いて、 柘植の 方に むかって 云 ひ 出した。 

「いえ、 私 だって 聯合 軍が 勝つ と 信じて ゐ ます。 しかし 軍事上の 意味で 勝つ 事 は 一寸 想像 出来な 

いとい ふので す。」 

柘植は あわてて 自分の 說を 訂正し なければ ならなかった。 

「でも 君 は 何時でも 獨乙を 打 敗る 事 は 不可能 だと 云 つてる ぢ やない か。」 

側から M が 口を出した。 . 

「左様です、 大砲 や 飛行機で 敵 を 全滅させる やうな 話 は、 偸 快な 空想に 過ぎない とい ふので す。 

しかし 必す 勝つ と は 信じて ゐ ます。 事 實上獨 乙 は 封鎖され てゐ るの だから、 國を 擧げて 疲弊す る 

か、 そこ 迄 行く うちに 國內の 統一 を 失って 自滅す るか、 いづれ にしても 負けて しま ふに は 違 ひな 

い。 結局 聯合 軍 は 勝つ に は 勝つ が、 その 爲 めに は隨分 長い 時日 を耍 する だら うと 思 ふので す。 つ 

まり 時期の 問題で せう。」 

何時に なく 彼 は 熱して、 眞 正直に M に 向って 自說 を 主張し た 。 

「わかった。 わかった。 君の 說は わかりました。 しかし 僕 は、 その 大砲 や 飛行機で 勝つ 事 を 信じ 

てゐ る。 どうです、 少佐。」 


178 


. M も 赤い 顔 をして 同じ 話 を やめなかった。 

「大丈夫 勝つ。 大砲で も 飛行機で も、 經 濟戰爭 でも 勝つ。 全く 時期の 問題なん だ。 J 

少佐 は雙万 をな だめる やうな 調子で、 醉 つて 重くな つた 首 をし きりに うな づ かせながら, 矢 張 

り^で 唇 を 濡らして ゐた。 

「しかも その 時期が、 今 正に 來てゐ るか もしれ な いんだ。 雪が 解ける。 舂が來 る。 吾々 は大 軍き 

率ゐて 押出して 行く。 その 時期 は 存外 來てゐ るか もし れん。」 

い、 機嫌で 酒杯 を飮 干して、 此の頃 流行る 行進曲の 一節 を、 足 踏しながら 低い 聲 でさ、 やく や 

うにうた つて、 嗳れた 聲を髙 々と 笑った。 

食後の 珈琲 を 飲みながら も、 M はしき りに 軍事 談を 聲髙に 口にした が、 少佐 は陲氣 のさして 來 

た體を 椅子の 背に もたせかけて、 葉卷 をく はへ ながら 娘の 彈く 洋琴に 足拍子 を 踏んで ゐた。 しま 

ひに は輕 いいび きを 立てて、 ほんと に陲 つてし まった。 

「まあ * すっかり 疲れ切って ゐ るんで すよ。」 

夫人 はいち 早く 見附て、  /  • 

「貴方、 風邪 を 引く といけ ません よ。 二階で およったら 如何です。」 


179 


背中 を 叩いて 目 を さまさせた。 びっくりして 立 上った 少佐 は、 あくび をしながら 客間 を 出て 行 

つた。 睡眠の 外に は 何も 考 へる 氣カ もない やうな その 樣子 を、 子供達 はは やし 立てて 笑った。 

夫人 も 直に 隨 いて 出て、 一緒に 寢窒に 引上げて しまった。  , 

(父親の 歸 宅で 心強 さ を 感じて ゐる 子供達 は、 何時 迄 も 歌ひ騷 いだ。 誰も 相手に ならない と 見る 

と、 M も 三階の 小 部屋に 上って 行った。 

別れて 住んで ゐた 夫に 對 する 夫人の 態度 は、 うら 若い 戀人 同志の やうな、 人目に 餘る ものが あ 

つた。 一分 間で も 多く、 夫の 體に 接觸 して ゐ ようとす るの か、 並んで 長椅子に 腰かけても、 大き 

なから だ を もたせかけて、 目 を 細く して ゐた。 さう いふ 様子 を 見る と、 此の頃、 M に對 する 態度 

に ただならぬ 情 あ ひ を 感じて、 不安心な 疑 を かけた の は、 恥づ べき 邪推だった と柘 植は考 へた。 

しかし 又 一方から 考へ ると、 慾 情の 強烈な 西洋人に は、 夫に 對 する 濃 かな 愛情に は 何の 影響 も 無 

く、 萬 一 その 愛する夫と はなればなれに 住む やうな 場合に は、 殆んど 不可 杭の 力 を 以て 慾 情の 壓 

迫に 全身 を 任せ 切る 事が 0! 々ありさう にも 想像され た。 

その 夜は寢 床に 入っても、 夜更 迄、 隣室に 眠る 夫婦 を 中心に して、 柘植は 推測 を ほしい ま、 に 

した。 


180 


の敦倫 


少佐 は 三日三晩 泊って ゐた。 その 三日 目の 午後の 事であった。 暫時 怠けて ゐた圖 書 館に 出かけ 

て、 朝から 夕方 迄讀 書して、 少し 1 腦の 疲れて ぼんやりした 頃、 柘 植は燈 火の つき 始めた 往来に 

出た。 今日の 晚餐を 最後と して、 少佐 は 再び 兵營に 行き、 間も無く 戰 地に 行く の だから、 是非と 

も 食卓に 着いて 吳れと 夫人に 云 はれて ゐ たので、 眞 直に 歸る 害だった が、 煖房で 不自然に 溫 めら 

れた讀 書 室で 乾いた 咽喉 を濡 さう と、 大 通の カフェの 地下室に、 麥酒を 求めて 下りて 行った。 

橄攬の 鉢植の 蔭に 空席 を 見つけて、 泡立つ 麥 酒に 口をつけた 瞬間、 柘植は 思 はす しらす 噎 返つ 

た。 飮ま うと 思った 直ぐ 後から、 思 ひも かけない 目前の 景色に 狼狽して、 飮 むの を 止めよう とし 

たゝ めであった。 たった 一 つ 席 を 置いた 向の 卓に、 一 一組の 女 連の 陸軍 士官が ゐた。 その 一 人が 少 

佐だった ので ある。 

先方 は 旣に氣 が 付いて ゐた。 視線が 合 ふと * 鼻眼鏡の 下で、 合圖の 目ば たきをして、 ばつの 惡 

さ を まぎらす やうに 笑って、 連の 女に 何 かしら 說明 する 様子だった。 彼 も、 もう 一人の 若い 士官 

ちゅうどしま 

も眞 赤に 酔って ゐた。 相手の 女 は、 體格 のい、 中年 增と、 佛蘭西 か 伊太利の 血の まじって ゐる小 

柄な 若い のとで、 その 安つ ぼくけば けばし いみなり から 見ても、 自墮 落な 身じろぎから 見ても、 

往来で 擦 違 ひざ まに 色目 を 使 ふ 種類の 女に 違 ひ 無かった。 見る 可らざる もの を 見た 氣 持で、 拓植 


181 


の 方が 狼狽て 赤面した。 

日本人の 珍し さか、 少佐と その 日本人との 關係を 知って 面白がった のか、 二人の 女 も 若い 士官 

も. ー齊に 柘植の 方に 向って 杯 を あげた。 少佐 も 中年 增に 促されて、 目よりも 高く さしあげて 乾 

杯した。 

r バ ンザ ィ。」 

若い 士官 は 低い 聲 ながら、 聽覺ぇ を 口に 出した。 柘 植も飮 みかけの 大杯の 底の 麥酒 を飮 干した。 

彼 は、 長く 其の 場に ゐる事 を氣の 毒に 感じて、 勘定 をして 立 上った。 それとなく 挨拶 をして 出 

かけよう とすると、 少佐 は 呼 止める 手つき をして、 人差指 を 唇に あてて、 うちの 者に は默 つて ゐ 

ろと いふ 合圖 をした。 柘植が 頷いて カフ H を 出る と、 背後に 陽氣 な笑聲 が 聞え た。 

歸 ると、 夫人 も 娘 達 も、 此の頃 來た 新しい 女中と 一緒に  >  食事の 支度に 忙しく、 ジョ オジー 人 

が 老犬を 相手に、 客間の 椅子に 寢 そべ つて ゐた。 

其 日 は、 招かれて A も 来た。 御馳走の 準備 を 整へ て、 小 ざつば りした 衣服に 着換 へた 夫人 や 娘 

が、 お 化粧 をして 現 はれて、 直に 食卓に 着く 順序に なっても、 御本尊の 少佐 は歸 つて 來 なかつ 

た。 


13": 


宿の 敦倫 


「どうしたんで せう。 今日は 陸軍省へ 行く と 云って 出た のです が、 此の 時間に 未だ 歸ら ない つて 

事 は 無い 害です がね え。」 

せっかち たち 

夫人 は 性急な 質 だから、 不安と 疳 緩に 顏 色を變 へて、 幾度と なく 自分で 立って 行って は、 玄關 

の 扉 を あけて、 霧の 降りた 夜の 往来 を靦 いた。 

「あ、 あ、 僕お 腹が 空い ちゃった な あ。」 

ジョ ォジは 大きな 欠伸 をして、 足下に うろうろして ゐた老 犬の 首に 兩手を 廻し、 もろともに 床 

の 上に 身 を 倒した。 

「A さんに ぉ氣 の毒ぢ やありません か。 折角 來て 頂きながら。」 

氣 短の ヂン は、 母親の 責任に して 口 を 尖らせる。 

「そんな 事 を 云 つても 爲方 がありません。 お 役所の 御用が 濟 まなければ 歸られ な いんです。」 

子供達 をた しなめ ながら、 夫人 も 氣が氣 では 無い のだった。 

しばらく 

「ほん 丄 に A さんに も拓植 さんに も申譯 がありません が、 もう 歸る 頃で せう から 暫時が まんして 

下さい。 その か はり 今晩は 御馳走し ますよ。」 

とってつ けた 笑聲を 立てても、 一座 は 矢張り しらけて ゐた。  - 


183 


にから かふ やうに のぞき 込んだ。 

「御機嫌よう。 兎に角 命が あって^って 来たの は 幸運です。 御目出度う。」 

順序の た、 ない 一 百 葉 を 繰返しながら >  少佐 は A の 片手 を兩 手で つかんで 振り立てた。 

「どう だね、 戰爭 は。 獨乙 もなかな かやる ぢゃ あない か。」 

A の 隣の 空 椅子に 腰 を 下す と、 直に かくしから 葉卷を 出して 火 をつ けたが、 一軒 置いた 柘植の 

方に 横 回 をつ かって、 意味の 深い 合圖 をしながら 煙 を 吹いた。 そのお どけた、 若々 しい 様子 を、 

柘植 は氣の 毒な やうな 感じで 見守った。 

「貴方。 直に 食堂へ 行って 頂き ませう。 みなさん をお 待せ して あるんで すから。」 

苦々 しさう に、 夫人 は 葉卷を ふかす 夫 を 見て 云った。 

「さあ、 どうぞ A さん も M さん も いら つし や つ て 下さ い。」 

「さう か。 まだ 食事 前だった つけ。 成程。」  . 

少佐 は 狼狽て て 煙草の 火 を 消して 立 上った。 娘 達 は聲を あげて 笑った が、 夫人 は  一 I 苦り切つ 

て、 一直線に 食堂に 入って 行った。 

食卓に ついても、 旣に 食事 を濟 ませて 來 たらしい 少佐 は、 殆んど 何も 喰べ る餘 地が 無かった。 


186 


宿の 敦倫 


ナイフ  フ. V オタ 

徒らに 肉 刀と 肉 叉を兩 手に して は、 叉 その ま、 下に 置く ばかりだった。 それでも さかんに 三 鞭 を 

拔 いて 人々 にも 勸め、 自分 も飮 みながら, 他愛の 無い 冗談 を 云って は 一 人で 笑って ゐた。 M も A 

も、 い、 話題 をつ かまへ る 機會が 無い ので、 子供達と 同じく、 せっせと 喰べ るば かりだった。 そ 

の 場の 様子の ちぐはぐな 事に、 愈々 頭に 血の 上って しまった 夫人 は、 青ざめた 顏 をして、 夫の ふ 

しだら を 睨んだ ま、 默りか へって ゐた。 

食事が 濟 むと、 叉 客間に 椅子 を 並べて 澤 山の 顔が 向 合った が、 矢張り 社交的の 筌氣は 醸されな 

かった。 A に 懇望され て、 クリスティン は 洋琴に むかった が、 誰も 靜に耳 を 傾ける 氣 分に はなら 

なかった。 彈 手もぢ きに 元の 席に 歸 つて 膝に 手 を 置いて しまった。 少佐 は 半分 灰^なった 葉卷を 

指に はさんだ ま、、 幾度と なく 居 睡に引 擦られながら、 傍の 夫人に 靴の 尖で 足 を 突かれて は、 は 

つと して 居す まひ を 直す の であった。 

A が 別 を吿げ ると、 直に 少佐 は 寢床を 思った。 

「あ、 偸 快だった。 矢張り 我家に まさると ころ はない。 だが 又 明日 は兵營 か。」 

欠伸 まじりに つぶやきながら、 重たい 足 を 一 つ 一 つ 二階に 運んで 行った。 

忌々 しさう に 後 姿 を 睨みつ けて ゐた 夫人 も、 追 かける やうに 二階に 急いで 行った。 その 氣勢か 


187 


ら 察して、 差 向 ひで 夫の 不始末 を 詰る 爲 めと 思 はれた。 姉妹 は 顔 を 見合せ て 吐息 をした。 

出征 

翌日 は 晴れ渡った 朝の 日光の あかるい 食堂に、 寢 不足ら しい 顏 はしながら も、 少佐 は 兵 營に歸 

る 身支度 をして 坐った。 M も柘植 も、 き やう だい 達 も、 これが 戰 場へ 行く 人との 別れと 思 ふ爲め 

めいめい 違 ふ 心 持ながら、 同じ 緊張した 態度で 席に着いた。 

其の 日の 新聞に 繪圖 入で 出た 西部 戰 場の、 英怫 聯合 軍の 僅かば かりの 進出が、 大勝 利のお 船の 

やうに 人々 の 口に 上った が、 流石に 少佐 は 浮かない 顏色を かくす 事が 出来なかった。 それに 誘 は 

れて、 殆んど 外の 者の 存在 は 眼中にない 程 夫に 對 する 妻の 情感に 滿 たされた 夫人 さへ、 次第に 額 

に 陰影 を 見せる やうに なつ て來 た。 

「みんなお となし く、 お母さんの いひ つけ をき かたくて はいけ ない ぞ。」 

少佐 は 一 人々 々子供の 顏を 見廻して、 父親ら しい 嚴 格な 調子で 云った。 

「殊に ヂンは 人と 爭 ふやうな 根性 をな ほし、 ジョォ ジはー 生 懸命で 學問を 勉強し なくて はなら な 

い。」 


188 


宿の 敦倫 


紅茶々 碗 を 手に しながら、 刖段 それ を飮 まう ともしす に、 少佐 は 別離の 言葉 を戔し 度い 心持ピ 

つた。 子供 はうな だれて 息 を 呑んで ゐた。 それ 丈で、 夫人 はもう 堪らなく なって、 食卓の 上に つ 

つ 伏して 泣き出した。 掛 紐の ちぎれる 程 肥った 背中の 肉が、 煮えた ぎる 熟 湯の やうに 波打った。 

誰も 口 をき かなかった。 少佐 は 鼻眼鏡 をはづ して、 しきりに 半 巾で 拭いて ゐた。 

何時 迄た つても 誰 一 人口 をき く機會 をつ かま へ る 事が 出来なかった。 夫人 も 自分の 感情 を 抑へ 

る 事が 出来ないで、 むせび 泣く ばかりだった が、 突然 身 を 起す と 立 上って 兩 手で 顏を 覆った ま、、 

食堂の 外に 出て 行って しまった。 あっけに とられて 見送った 少佐 も、 直に その後 を 追 かけて、 二 

階に 上って 行った。 

取殘 された 連中 は、 さめ 切った 紅茶 を 啜って、 一 謦押默 つて ゐ たが、 一人 立ち 二人 立ち、 やが 

て 前後して 食堂 を 出て、 客間の 方に 集った。 

一 あ、、 今日は 朝から 輕氣 球が 上って ゐ る。」 

M は 硝子 戶に額 を 押つ けて、 遠くの 空に 見入った。 

「ちえ ッ、 此の 眼 さへ 健全なら、 今頃 は あ、 やって 飛んで ゐ るんだ がな あ。」 

にぎり こぶ レ 

舌う ち をして 握 拳 で 空 を 切った が、 矢張り 誰も 口 を 開かなかった。 


189 


裏庭の 木立の 上に は、 うぶ 毛の やうな 木の芽が 萌ぇ 初め、 窓の 下の 柔ぃ土 を 破って、 水仙の 葉 

も 僅かな. がら 頭 を 出して ゐた。 その 戸外の あかるい 景色 は、 H の あたりに 見る 人事の 紛糾と、 あ 

まりに かけ 離れた ものに 思 はれた。 

暫時して- 少佐 は あわたぐ しく 階下に 下りて 來た。 

「さあ、 たうとう 時間に なって しまった。 M さん は體を 大事に なさい。 柘植 さん もお 氣に 入らな 

い 事 も ありませ うが、 どうぞ 末永く 此の 家で 勉強 をして 下さい。」 

一 々固い 握手 をした。 町中の 珈琲 店に 女と たは むれて ゐた 面影 は 無く、 小皺の 多い 黑 すんだ 顔 

に、 冷い 嚴肅な 氣稟が 現 はれて ゐた。 姉から 次の 妹、 末の 娘、 男の子 I . 順 々に 抱 合って 接吻し 

た。 父の 眼に も、 娘 達の 眼に も淚 がた まって ゐた。 

玄關に 出る と" 其 處には 夫人が、 泣 はらした 目 を 床に 落して 佇んで ゐた。 夫婦 は、 大きく 開い 

た 手で 互に 抱 合って、 長い 接吻 をした。 

「左様なら。」 

「御 機赚 よう。」 

それ以上の 言葉 は 誰し も 云へ なかった らしい。 外套の 背中 を 前か^ みに、 少佐 は 妻子の 家 を 立 


190 


出た。 竹の 鞭 を 小脇に 抱へ て 歩いで ゆく 靴の 音が、 敷石の 道に 暫時 聞え た。 

ひとき. M 

家の 中の 空氣は 一際 暗くな つた。 夫人 は その 日 は、 昨夜 も 夫と 共に 眠った 寢 臺に寢 たきり で, 

晝も晚 も、 食事に も 下りて 來 なかった。 

M も 亦 病人ら しく 三階の 小 部屋に 閉铙 つてし まった ので、 娘 達 を 中心に、 若い者 は 氣樂な  一 ET 

を 過した が、 深く は 物事 を考 へる 事 も 感じる 事 も 無い ジョ ォジ が、 たまたま バン ヂョ ォを搔 鳴ら 

すば かりで、 それさへ 誰の 喝采 も 博さない 爲め、 次第に 低い 調子に なって、 やがて 家の 中 は ひつ 

そ りして しま ふの だった。 編物 をしたり、 手紙 を 書いたり して ゐた 姉妹 も、 殆んど 一言 も 口 をき 

かすに 手ば かり 動かして ゐ たが、 みんな 早目に 寢窒に 引上げて しまった。 拓植 は遲く 迄、 たった 

一 人 客間の 煖爐の 前に 椅子 を 引 寄せて、 此の 一 家 を 中心とした 世の中の ま、 ならぬ 感じに 思 ひ 耽 

りながら、 小說 めいた 想像 を、 とりとめ もな くっ^けて ゐた。 

翌日、 夫人 は 夫の 兵營に 出かけて しまった。 朝の 食事に みんなの 顔が 揃った 時、 夫人 は 旣に身 

. 支度 を 整へ てゐ た。 

ん 1 

教 「一晩 かニ晚 で^って 來 ますが、 兎に角 家の 事で 未だ 相談して 置き 度い 事 もあります から、 一寸 

の 

宿 兵營に 行って 来ます。」 


191 


專ら辯 解が ましい 口調で、 此の 朝の 出立 を 宣言して、 食事 も そこそこに、 手飽を さげて あた ふ 

た 出かけて 行った。 やがて 戰 地へ 行く 夫と、 一刻 も 別れて はゐた ^ まれない とい ふ 情念が、 あら 

ゆる 感情 を かくす 事の 出来ない 夫人の 全身に ひしめ いて ゐた。 

四日 目の 夕方、 夫人 は 悄然と 歸 宅した。 恰も 午後のお 茶の 後で、 茶碗 や 皿の 片 づけに、 姉妹の 

立 働いて ゐる折 柄だった が、 キティが 兩 手に 片 づけ 物 を 持って 出て 行かう とする 出 あ ひ 頭に、 玄 

關の 扉の 音 も 聞え す、 何時の間にか 歸 つて 來た 夫人が, みんなの 集って ゐる 客間の 扉 を 押して 入 

つて 来たので、 開扉の 重み はまと もに 陶器に ぶっかって、 ひとたまりもなく 床の 上に 落ちて 碎け 

た。 -is-f. え  . 

「おさ 

お び え た聲を 立てて、 手の 中 か らす ベり 落ちた 物の 足下 に 微塵 になった の を 見 て 立ちす くんだ 

娘 を、 夫人 は 病的に 青ざめた 顏 つきで 見下した ま、、 叱る 事もノ なぐさめる 事 も 出来なかった。 

暫時の 間 親子 は 互の 顏を 凝視して 立ちつ くした が、 やがて 夫人の 目から 淚が あふれて 來た。 と 思 

ふ ひ まもなく、 佇む 力 も 失った やうに、 大兵 肥滿 のから だが よろめい たが、 傍の 長椅子の 上に 崩 

れる やうに 倒れ か、 つた。 驚いて、 みんなが 取 園んだ 時 は、 夫人 はつい 此 間の 時と 同じ やうに 激 


192 


の教淪 


越-な 嗚咽に 髮の 根 迄 も 震 へて ゐた。 

少佐 は 其の 日佛 白の 戰 線の 或地點 にむ かって、 一軍の 兵士と 共に 送られて 行った。 その 目的地 

が何處 であるか は、 遂に 少佐 も 知らなかった。 夫人 は 最後の 數日 を、 出征の 準備に 忙しい 營舍 で、 

片時 も 夫の 側 を 離れす に暮 して 來た。 二十 幾年 かの 結婚 生活、 の 間の、 お 互の 氣まづ い 事 や 不滿不 

足 も、 此の 數 曰の 熱愛の 中に、 一切 消え去って しまった であらう。 夫人 はす、 り 泣きに むせ かへ 

リ ながら, 夫の かどで を 物語って * 我慢 も 意地 もな く 身 を 揉んだ。 

春 は 次第に 色彩と 芳香 を 深く 濃く 漲らして 來た。 並木の 梢に も淺 綠が萌 え、 向 ふ 側の 家に^ む 

蔦の 蔓 にも 薄紅の 芽 を 吹く 頃に なった。 しかし 少佐から は 何の 消息 も 無かった。 

若し 萬 一 の 事が あれば 家族へ 通知の 來る事 は 知りながら、 家の 者が 毎朝の 新聞で、 一番 熱心に 

目を通す の は、 戰 死者の 氏名の 列記して ある 頁だった。 それ も 最初に 一 人が 讀む、 次. の 一 人も讀 

む、 更に 又 他の 一人が 讀む、 さう して 最後に は、 夫人が 二度 位 繰返して 讀んだ 。 夥しい 戰 死者 や 

負傷者の 中には、 此の 家族の 知って 居る 人, もあった。 さう いふ 名前 を發 見した 時 は、 親子 は 額 を 

くっつけて、 新聞の 上に は 僅に その 短い 名 を^め るば かりなのに、 長い間 見入る のであった。 夫 

人の 目に は、 いつも 涙が 浮び 易かった。 


193 


將校 夫人 會の 本部に は 足 踏 もし なくなって しまった。 頭痛の 日が 多くて、 終日 三階の 小 部屋に 

寢て 暮らす 事 も 珍しくなかった。 些細な 事に も 怒り 罵り、 さう してし まひに は眞靑 になって 身 を 

震 はして 泣いた。 娘 達 は 愈々 怖がって、 成, るべ く 母の 身近に 寄らない やうに なり、 その 姿の 見え 

ない 時 は、 寄 集って 陰口 をき いて 居た。 以前から 居つ きの 惡 かった 女中 は、 短時日の 間に 幾人 も 

出替 つて、 此の頃 は 伊太利 人の 血の まじって ゐ ると いふ 目 附の銳 い、 頰邊に 切 傷の 痕の錢 つて ゐ 

るの が、 存外 人 はい k らしく、 叱られながら も 立 働いて ゐた。 

M は病氣 もよ くな つたら しく、 流石に 眼の 中 は 白けて 曇って はゐ たが、 旣に 素人 眼に は 全癒 近 

いものの やうに 見えた。 それでも 矢張り 二階の 一室に、 少佐が 出征 前に 夫人と 數 日の 刖れ を惜み 

ながら 相 抱いて 眠った 大型の 寢 臺に寢 そべ つて 曰 を 暮らした。 機嫌の い、 曰の 夫人 は、 多く は そ 

め 窒セ、 時折 は 笑聲も 聞え て、 何 かしら 話 合って ゐた。 

勿論 娘 達 は、 餘 りに 長い M の 滯留を 快く 思はなかった。 殊に 疾患が 夙にな ほって しまった やう 

:に考 へられる ので、 心の中の 口に は 云へ ない 不安と 疑惑に、 機會 さへ あれば 反抗的の 態度に 出た。 

rM さんの 眼 は それでも 惡 いんです か。」 

など \、 意地の 惡ぃ 質問 を 浴せ かける 事 もあった。 


194 


宿の 敦偸 


「どうも 霞んで いけない のです。 私 は 人一倍 視力 は 強く、 船に 乘 つて ゐる頃 は、 他人に は 見えな 

い 遠方の 船の 烟も、 一番 先に 認める の は 私でした。 そいつが 此の頃 は、 まだし も晝間 はい、 けれ 

ど、 夕方の 光で は 殆んど 何も 見えな いんです よ。」 

さりげなく 答へ るの を 追 かけて 相手 はきき 度が つた。 

「殘 念で せう ねえ、 いくさに 行かれなくて。」 

「え 上 貫に 殘念 です。」 

語調 は 強く いひ 切りながら、 流石に 相手の 底の ある 物の 言 ひ 振に 不快 を 感じて、 險 しい 眼 附で 

見守る のであった。 さう いふ 時の 家の 中の 空 氣は堪 へ 難い ものだった。 さう して、 夫人 は 忽ち 娘 

達 に 八當り の 小言 を 無理 にもき かせなければ 承知し なかった。 

家の 內の 平靜が 全く 失 はれて しまったので、 柘植は 自分の 心 持 さ へ亂 される 事が 多くな つた。 

自分の 窒に閉 籠って 勉強 レてゐ て も、 何となく 身の 廻りに 不安定な 氣配を 感じて 爲 方が 無かった。 

恰も 其の 頃 高樹は 大英博物館の 裏手に 新しい 宿 を 見付けて 引越した。 四月 頃 か、 遲く とも 初夏 

の 頃に は佛蘭 西に 行き、 やがて 豫々 憧憬の 伊太利の 旅に 立つ と 云って、 彼が 專 門の 研究に、 ー曆 

緊張した 心 持を盡 して ゐた。 その 新しい 宿と いふの は、 樹木の 多い 共有 園 を 前にした 大きな 家で、 


195 


AN 菜の 下宿だった。 田 舍の醫 者の 娘 だとい ふ 三十 代の 獨 身の 女が、 十六 七の 妹と 二人で 經營 して 

ゐた。 つい 先頃の 海戰 に、 海軍 少尉の 弟が 船と 共に 沈んだ 爲め、 姉妹と も 喪服 を 着て ゐ たが、 少 

佐の 象の 人々 と は 違って、 客 馴れた 氣 輕ぃ樣 子が、 いかにも 呑氣な 下宿ら しく、 それが その 時の 

梭に とって は-、 非道く 羡 しく 思 はれた。 下宿に 限る、 下宿に 限る。 心密かに、 窮屈で ゎづら はし 

い、 格式張った 家庭 を 逃れる 事 さへ 考 へた。 

段々 に 日が 永くなる と、 重苦しい 倫 敦の霧 も、 日光に 追 はれながら、 金粉の やうに 消えて ゆく 

拿が 多くな つた。 草 や 木の 新芽の 色 も、 囀り か はす 小鳥の 聲も、 日增に 深く 高くな つたが" 少佐 

の 家の 有様 は、 愈々 みじめに なって 来た。 

夫人 は 春先の 濃厚な 外 氣に腦 神 經を壓 迫され て、 毎日 頭痛 を かこちながら、 血走った 眼 をして、 

大概 は 階下に は 下りて 來 なくなった。 キティ は 相 變らす 郵便局に 通った が、 二人の 姉 はい、 仕事 

も 見つからす、 來る 夏の 着物 も 出来さう もない ので, 事毎に 反抗的に なり、 意氣 地の 無い 父親 を 

篤り、 横暴な 母親 を 怨み、 厄介者の M に は、 殊更 辛く 當り 度が つた。 僅かながら も 祐植の 拂ふ語 


196 


宿の 敦倫 


學の 稽古の 御禮 が、 二人の 乏しい 小 遣に なった。 

母親の 小言 は 益々 條 理を缺 き、 おまけに 細かい 注意 は 一層 失 はれた ので、 家の 中 は亂雜 に、 埃 

つぼくな つた。 朝の 掃除 も 行 届かす、 食事の 支度 や 後始末 さへ、 たげ やりになる 事 もあった。 

柘植は 多く は圖書 館で 暮らした が、 その 留守の 部屋に は 姉妹が 勝手に 出入して、 一度 は 禁じら 

れた 露西亜の 小說を 引出して は、 母親の 目 を 盗んで 耽讀 した。 殊に r 戰爭と 平和」 は 奪 ひあって 讀 

まれた。 

「そんな 禁 園の 花 を 摘む とお 母さんの 罰が 當 つて 獸 になり ますよ。, 一 

柘植 は、 家庭の 平和 を亂す 基に でも なられて は 迷惑 だと 思 ひながら、 一方で は、 眞の藝 術 を 一- 

人  でも 多くの  人が 愛好す る 事 を 希望した  ので、  強てば 止めようと しなかった。 

「獸 になれ るなら なりたい わ。 人間の 牝には あきあきして しまつ たんです もの。」 

ヂ ンは捨 ばちな 調子で 答へ て、 若い 士官の 戀を 描いた 一節に 夢中に なって、 その ー卷を 胸に 抱 

いた。 

かね 

四月 上旬の 或 日、 終日 圖書 館で 暮らした 柘 植が歸 つて 來 ると、 待 兼て でも 居た 様子で、 クリス 

ティン は玄 關に驅 出して 來た。 


197 


「大 變、 大變。 大變な 事に なって しまった わ。」 

也 人の 耳 を 顰 かる 聲で、 息 忙しく ささやく のであった。 

「何が 大變 なんです。」 

咄嗟の 間に、 柘植は 少佐の 戰死を 想った。 

「何が つてお 母さんが 氣 狂の やうに 怒って しまったの。」 

夫人が 氣 狂の やうに 怒った のなら、 別段 珍しく もないで はな、、. かと、 柘植は 密かに 安心した。 

「今日のお 晝の 事なん です。 ヂ ンが讀 みかけの トルストイの 小說 を、 食堂の 椅子の クッシ ヨンの 

下に かくして 臺所を 働いて 居る 間に、 お母さんに 發 見され てし まったんです。 それからの 大變な 

事ったら …… 」 

近眼の 目を頻 にしば だた きながら、 心 持 上 齒の出 過て ゐ るち ひさい 唇 をと がらして、 口早に 訴 

へる のであった。 • 

夫人 は 本 を 取上げて みると 同時に、 顏 色を變 へて 娘 達 を 呼びつ けた。 さう して 相手に は 一言の 

主張 も 辯 解 も 許さす に、 頭 ごな しに 叱りつ け、 當の 本人の ヂンは 口惜し さに 抗辯を 試みた が、 一 

t 激怒 を增 すば かりで、 たうとう 泣 出して しまった。 氣の 勝った 娘 は、 それつ きり 二階の 一室に 


193 


"^の' 敦倫 


籠って、 寢臺に 突 伏した 顏を あげない と 云 ふので あった。 

r 柘植 さんに はほんと に申譯 ない わ。 私達が 勝手にお 部屋の 本棚から 引出して 來 たんです もの。. 

若しお 母さんが 失 禮な事 を 云っても、 どうぞ 堪忍して 頂戴。 あれが 病氣 なんです から。」 

氣の 弱さ を 額の 皺に 浮べて、 柘植の 胸に 取鎚 るば かり、 歎願す る やうに 繰 返す のであった。 

「大丈夫です。 ヒス テ リイの 爆 彈には 馴れて ゐ ますから。」 

さう 答 へながら、 彼 はほんと に 取る にも 足りない 事件 だと 思つ てゐ た。 

折 柄 女中が 食器 を 運んで、 地下室から 上って 來 たので、 柘植は 二階, に 引上げた。 机の 上玄 整理. 

し、 手 を 洗って 食事の 時 を 待ちながら も、 何となく 新しい 出 來事を 期待す る やうな 遊びの 氣 持が 

強かった。 

食卓に も ヂンは 出て 來 なかった。 何時も 先立ちに なって お喋りす るの が 居ない のと、 晝 間の 事 

件の 後な ので、 誰も 憚 かって 口 をき かう としなかった。 夫人 は、 怒の 外の 一 切の 表情 を 失 ひ 切つ 

スゥブ 

た顏 をして、 堅く 唇 を 結んで 席に着いた。 クリスティン も キティ も、 肉汁の 匙 を 動かしながら、 

ラ はめ 

上目 をつ かって は 母親の けしき をう かに つて ゐた。 

何時 迄た つても 誰も 口 を 開かない。 今にも 夫人の 小言が 出る 事と 想像して ゐた 一 種の 張 合も拔 


199 


けて しま ひさう になった。 怒り 疲れて 反省した のかと も考 へられた。 娘 達の 顏には 安心の 色 さへ 

はっきりと 浮んで 來た。 

プディングが 出て、 それ もお しま ひに たった。 そろそろ 食卓 を 離れよう とする 時であった。 

「柘植 さん。」 

夫人 は 突然 重 々しい 調子で 口 を 切った。 

r 私は責 方に 率直に 申 上げ 度 い 事が あるので す。 責方は 何故 私 の 命令 I 此 の 家の 锭を 守って は 

下さらない のです。」  . 

大きな 目 をみ はって、 詰責す る 態度 をと りたがら、 早く も 夫人の it は 震へ を帶 びて 來た。 

「私 は 何も 此の 家の 挂と いふ 可き もの を 破った 覺 えはありません が。」 

柘植は 冷 かに 反問した。 相手の 高壓 的な 調子が、 非道く 反感 を 抱かせた。 

「い、 え、 破らない 事はありません。 責方は 御存じで せう。 先日 も 御注意した 通り、 私の 家庭で. 

は 不道德 な小說 本は讀 ませない 事に なって が ます。 それな のに 一 體 これ は 何です。」 

何時 用意して 置いた のか、 傍の 椅子の 上に あった 本 を 取って、 食卓の 上に 音 高く 置いた。 その 

表紙の 金文字 を 指さす 夫人の 指 は 痙攣して ゐた。 


200 


ffi の敦倫 


「それ は トルストイの 小說 です。 多分 私の もので せう。」 

「確かに。 確かに 責 方の 御 本です。 私が 不道德 な小說 だとい ふの は 斯うい ふ 小說, の 事な のです 

おわかり にな リ ました か。」 

柘植 がお ちつけば おちつく だけ、 夫人 は 苛立たしい 心 を 押へ 兼て、 た \ みかけて 問 ひつめ よう- 

みう rJ*.J 

とする のだった。 娘 達 は 身 動 も出來 ない 程 心配に かたくなって ゐた。 

「私に は 一 向わ かりません。 それ は 立派な 小說 です。」 

「いけません。」 

夫人の 聲は 突然 甲高くな つた。 

「さう いふ 無責任な 言葉 は控 へて 頂き ませう。 私 は 日本の 事 は 知りません。 けれども 此の 國 では、 

ト ル ス トイの 本 は 善良な 家庭に は 入る 事 を 許されない ものです。 あれ は氣 ちが ひです。」 

「それ は 誤解で せう。 英吉利の 偉い 敎授 ゃ文學 者が、 如何に トルストイ を評價 して ゐ るか 御^じ 

です か。 その 著作 は 永久に^ 界的 古典と して 殘る 可き ものです。」 

柘植は 多少 昂奮して 來た。 相手の わからす やの 腹立たし さと" 日頃 自分の 尊敬す る藝術 並に 藝 

術 家 を 護ら うとす る 心 持 もあった。 


201 


-r 何と 仰っても、 私 は 此の 家の 主婦です。 私が 禁じた もの を 若い者に 讀 ませる 事 は 許せません。 

若い 心に どんな 惡 影響が あるか を考 へ なければ なりません。」 

「失禮 です が、 若い者 は責 方の 御考 へになる 程 無理解ではありません。 第一、 今日の 人間 は、 昔 

の 人間よりも 強い 意志と、 正確な 判斷を 持って ゐ ます。」 

「何です つて。」 

夫人 は それが 甚 しい 侮辱 だと 感じた ので あらう、 血相 變 へて 詰った。 

「責方 は 母親の 威 嚴をさ へ 傷け ようとす るので すか。 一 一度と さう いふ 言葉 は 云 はせ ません。」 

ゐ > ん ながら 

「乍 遣憾 自分の 信じる 事 を 云 ふ 外に は爲 方が な いんです。」 

柘植も 正面から 相手の 顏を 見返へ した。 不愉快な 沈 默が績 いた。 

恰も その 時、 食事の 後始末 をす る 積り で、 女中が 大きな 盆 を 持って 入って 來た。 窒內の 息苦レ 

い 景色に 一 度 は 二の足を踏んだら しかった が、 お づぉづ しながら も 食卓の 上の空 皿に 手 を 差延レ • 

た。 

「何 をす るんで す。 馬鹿 ッ。」  . 

夫人の 銃い 聲 がその 手 を 叱った。 


202 


宿の 敦倫 


「呼び もしない のに 何し に來 た。 いひつ け もしない 事に 差 出が ましい。」 

伊太利の 血の まじって ゐる 凄い 眼附の 女中 は、 あっけに とられて 夫人の 顏を 見た。 

「でも、 お 食事 はお 濟 みの やうでした から。」 

「うる さい。」 

とたんに 食卓の 上の 小說 本に 手が か 、 ると, 力任せに 女中の 顏に 投げつ けた。 

危 ふく 身 を か はした 胸の 邊を かすめた 部厚な 本 は、 一 隅に 飾って ある 和 蘭 製の 大 花瓶に 當 つた。 

ど 5 なか 

常々 夫人が 自慢の 品 は、 脚の 高い 臺の 上に あつたが、 なだらかに ふくらんだ 胴中に 叩きつ けられ 

た 物の 爲 めに、 ゆらゆらと 搖れ たと 思 ふと、 眞 逆さまに 床に 落ちて 碎け た。 

まな 

女中 は 怨みの 眼 ざし を 夫人に 投げた が、 身 を かへ すと 一散に、 窒 外に 驅 けて 行った。 先刻から 

おさ 

ジョ ォジの 足下に 眠って ゐた老 犬 は、 むつ くりとび 起る と、 物に おびえた 唸聲を 立てながら 不自 

由な 四 脚で 床の 上 を 方角 も 知らす に 步き廼 つた。 眞靑 になつ て 身 を 震 はして ゐる 夫人 を 後に して、 

柘植は 食堂 を 出る と 直ぐに、 帽子と 外套 を 手に して 戸外に 出た。 

柘植は 高樹の 下宿 を 訪れた。 友達の 顏を 見る と、 今迄 我慢して ゐた 憤懣に 頭の 中 迄 熟くな つて、 

自分の 高調子に 一層 感激しながら、 一 氣に顚 末 を 話した。 


203 


「私達の 不注意の 爲 めに、 柘植 さんに 御迷惑 を かけて しまって、 ほんと に濟 まない と 恩つ. た わ。 

だ つ てお 母さん は あんまり なんです もの …… 」 

「難 有う。 その 事なら もう 濟 A だ 事です。 心配なん かしない 方が よ ござんす よ。」 

口 では さう いひながら、 柘植も 流石に あだに は 感じなかった。 

「ほんと はね、 柘植 さん 怒って 何處 かに 行って しまったん ぢ やない かと 心配して ゐ たんです。 若 

しか さう だ つたら 如何し ようと 思 つて …… 」 

クリスティン も 言葉 を 添へ て、 二人 はしき りに 自分 達の 不 念と、 母親の 無禮 を^び るの だった。 

彼 は、 旣 に今晚 新しく 下宿 をき めて 來た事 を 口にする 心 持に はなれ なくなった。 さう いふ 決心 を 

した 事 さへ 悔 まれて 来た。 

「一 體 私達 は 如何なるんで せう。 お父さん は 戰爭に 行って しまって、 生きて 歸 るか 死んで しま ふ. 

かも わからな いのに、 お母さん はまる つきり 狂人み たやう になって しま つて …… 」 

日頃の 不平と 心配に 力 を 加へ て、 ヂン の聲は 段々 高くな りかけ たが、 とたんに 窒內 の電燈 は、 

夭 井に 吸 ひ 込まれた やうに 消えて しまった。 

「あら > どうしたんで せう。 一  に 


206 


1h' 力 ザ 义 inn 


クリスティンの 立 上る 氣配 がした。 暗闇 を 手探りで 戶を あける と、 廊下の 壁に 取附 けて ある 電 

澄の 扭% の 前に 立つ、 夫人の 姿が 目に 入った。  , 

「まあ、 お母さん  」 

「誰です、 こんな 夜更け 迄 大きな 聲で お喋り をして 居る の は。 此の頃 は 遲く迄 本 を. 讀ん でる 人が 

ある もの だから、 毎月の 電燈 代が 嵩んで 爲 方が 無 いぢゃありません か。 い、 加減に してお やすみ 

なさい。 取締りが つ きゃあし ない。」 

心の 制御 を 全く 失って しまった 夫人の 聲は、 家中に 響き 亙った。 うっかり すれば つかみ か、 リ 

もし かね 無い 母親の 權 幕に 怖れて、 唇 を嚙ん でうな だれた 娘 を、 暫時 は 睨みつ けて ゐ たが、 

「さあ、 二人とも 愚圖々 々して ゐ ないで、 直に 寢 るんで す。」 

もう 一度 高- 墜 的な 言葉 を 浴せ かけた 上で, 勝 ほこった 態度で 身 を 返す と、 わざとお ちついた 足 

取 を 見せて 二階に 引上げて 行く のだった。 

その 大兵 肥 滿の後 姿 を 見る と、 柘植 の憒は 押へ 切れ なくなった。 今更 何の 躊躇 も 無く、 彼 はつ 

かっか 後 を 追った。 

「待って 下さい。 話す 事が あります。 ,j 


207 


三 四 段 上った 夫人 は 呼 止められて、 ぎょっとして 振 か へ つた。 

「外で もありません。 永々 御 厄 になり ましたが、 愈々 此の 尊敬すべき 家庭と もお 別れです。 勿 

約 ^通り.、 一週間の 豫吿 をし なければ ならない 事 は 承知して ゐ ます。 伹し實 際 は、 自分のから 

だ 丈 は 明日に も 他所 に 運んで しま ひ 度い と 思って ゐ ます。」 

強 ゐても 弱味 は 見せ 度ない、 飽迄も 優越 を 示し 度い と 思って、 努めて 沈着 を 装った が、 柘植の 

,聲 は 感激に 震 へ て 居た。 

まとも 

上と 下と、 夫人と 柘植 は、 敵意の ある 視線 を眞當 面に かち 合せて 動かなかった。 . 

「わかりました。 御 勝手になさい。」 

暫時して、 夫人 は 叩きつ ける やうに 答へ ると、 その 儘 足音 を させて 二階に 上った。 姿が 見えな 

くなる と 同時に、 怒りに 震へ た聲 で、 

「クリスティ ンもヂ ンも、 直に 來. ない と 承知し ません よ。」 

と 叫ぶ のが 聞え た。 

二人の 娘 は、 口 をき く 力 もなかった。 歎願す る やうな H: を 柘植の 方に 向けた が、 その H から は 

: 旣に淚 が 溢れて ゐた。 一様に 兩 手で 額 を かくした 二人 は、 す、 り 泣きながら 二階に 上って 行った。 


208 


宿の 教倫 


夜更けて 暗い 自分 ひ窒. に、 昂奮した 身 を 横へ、 枕に 顏を 埋めても、 拓植の 耳に は 夫人の 怒聲 と、 

娘 達の す、 り 泣く 聲が 長い間 殘 つて ゐた? 

轉宿 

翌朝 早く 目の 覺 めた 柘植 は、 すべて 荷物 を大 鉋に つめて しまった。 どうしても その 日のう ちに、 

此の 家 を 立 去らう と、 一 暦 心 を かたく 決めた。 古び 汚れた 壁紙に も、 埃 臭い 絨毯に も、 心の 殘る 

事 は 否まれなかった。 窓 を あけて、 朝日の 上る 靑空を 何時 迄 も 見て ゐた。 

朝の 食事に 家の 者 —— 家の 者と いふよりも、 夫人と 顏を 合せる のが 氣まづ くて、 流石に 躊躇し 

たけれ ど、 引 込んで ゐ るの も 見苦しい と 思 ひ 直して 下りて 行った。 

い \ あんばいに、 夫人 は その 朝食 堂に 姿 を 見せなかった が、 上の 娘 達 は 勿論の 事、 その 二人に 

話 を 聞かされ たに 違 ひ 無い キティ も. ジ ョォジ も、 妙に 固くなって、 その 癖 じろ じろ と柘 植の顏 

を 盗み見る のだった。 誰も 口 をき く 者 もな く、 息め 詰る 心 持の 食事だった。 

何時もの 通り、 男の子 は學 校に 出て 行き、 末の 女の子 は 郵便局に 通って 行った。 その 二人に は、 

もうこれ つきり 逢 ふ 機會も あるまい と 思って、 別れの 言葉 を かけよう とする 氣も 動いた が、 何と 


209 


なく 言 ひ 出し 兼て しまった。 

二-  -  ^  わきめ 

上の 二人 も 口の ききにく さ を まぎらす 爲 めか、 食事の 後始末 や、 窒々 の 掃除に 側 目 も觸ら ない 

で 働いて 居て、 沁々 話す 機會も 無かった。 これが お別れな らば、 もっと 緊張した 場面 を 見な けれ 

ば ふさ はしくな いと 思 ひながら、 柘植も 自分の 部屋の 殘の片 附にー 一階に 上って しまった。 

餘程 たつてから、 部屋の 戶を 叩く 者が あった。 

「お入りなさい。」  - 

靜に 開けて 顔 を 出した の は クリス ティンだった。 

r 柘植 さん、 お母さんが 御 目に かかり 度 いんだ さう です。」 

云 ひながら、 綺麗に かたづいた 窒內を 見て 吃驚して、 つかつか 入って 來た。 

「責 方、 ほんと に 行って しま ふんです か。」 

柘 植は默 つてうな づ いた。 

「後生 だから 我慢して 下さい。 お母さん も 自分の 方が 惡か つたと 氣が 付いて 居る に 違 ひ 無 いんで 

す。 今朝 は 私達に も 珍しく 優し いんです から。」 

近眼の 目 をうる ませて、 少し 上齒の 出過ぎた 子供ら しいち ひさい 赤い 唇の 震 へ ながら 動く の を 


210 


宿の 敦倫 


見て ゐ ると、 その 心根に 動かされ るよりも、 寧ろ 感覺 的な 刺戟 を 強く 感じた。 拓植 は兩手 を差延 

して、 心 持 後に 身 を 退かう とする 相手の 二つの 手首 をぐ つと 握った。 そのまま 引 寄せて 唇 を 吸つ 

て やり 度い と 思った が、 恰も 狼狽し く 梯子段 を驅 上る 人の 足音に 驚いて、 クリスティン は 取られ 

た兩手 を振拂 つた。 

「柘植 さん、 お母さんが 下で お待ちして 居ます つて。」 

廊下から、 ヂン の聲が 高く 聞え た。 

「只今。」 

柘 植も聲 高く 應 じて、 吃驚して 佇んで 居る クリスティン を殘 して、 迎 ひに 來た ヂンと 前後して 

かけ 

梯子段 を驅 下りた。 

夫人 は 客間に 待って 居た。 彼 を 見る と、 愛嬌 笑 を 浮べて、 傍の 椅子 を勸 めた。 

「柘植 さん、 私お 鉈び しなければ なりません の。」 

多少 云 ひ 出しに くさう では あつたが、 夫人 は 直に 持 前の 早口で 言葉 を績 けた。 

「昨日 はほんと に失禮 しました。 此の頃 は體の 具合が 惡 くて、 始終 頭痛が する ものです から、 つ 

いつい 些細な 事に も氣が 立ったり して、 後で は 自分で も 恥し くなる 事が 多い のです。 責方 がお 怒 


211 


りに なり、 おさげすみになる の も 御 無理 は 無い と 思 ふので すが、 どうか 平生の 廣 いお 心で、 面白 

く 無い 事 は 綺麗に 忘れて 頂き 度い のです。」 

自分. の 言葉, を 助ける 爲 めに- つくり 笑しながら、 至極く 物柔 かに;? 化び るの だった。 

. どうかして 自分の 位地 を 一段 高い ものと 認めさせなくて は 承知し ない 性質の 人 だから、 これ 迄 

に 折れて 出る の は よくよくの. 事に 違 ひ 無かった。 さう は 思 ふ ものの、 今更 柘植の 立場と して は、 

何とも 答へ る 言葉が 無かった。 

はらお ち 

「昨夜 は 貴方 も 御腹 立で、 もう 此の 家に は 居ない なんて 云って らっしゃい ましたが、 あれ は 勿論 

一時 その場限りの 事と 思 ひます けれど、 どうか 何時 迄 も 此の 家に 居て 頂き 度い のです。 御 承知の 

通り、 此の頃 は 此の 家の 暮 しも 隨分樂 ではない のです から ::: 」 

段々 に聲も 弱くな つて 泣 言め いて 來, た。 それ は 幾度と なく 繰 返された 一家の 運命であった。 自 

分の 生 ひ 立の 華やかだった 事、 此の 家 も かなり 贅 澤に暮 して 居て、 結婚 當 時の 樂 しかった 事、 そ 

れが 段々 非運に 傾き、 夫の 投機の 失敗で、 全く 動きの とれ なくなった 事、 更に 戰爭が 幸運 を 奪つ 

そ、 此の ま、 では 行末 どうなる かわからない 事 を 順々 に 話した。 その 生活 を 助ける 爲 めに は、 何 

時 迄 も 柘植に 居て 貰 ひ 度い、 現在 拂ふ 宿料と 月謝が なくなる と、 少なくとも 子供達に 着物 を 着せ 


212 


衍の敦 倫 


る 事が 出来なくなる と 云 ふの だ つた。 

柘植 は、 旣に 下宿 もき め、 荷物 も 引 纏め、 いつでも 出て 行ける 準備 をして しまった 自分と は 却 

ら ないで、 くどくど とかき ロ說く 夫人が 氣の 毒に も 思 はれた が、 一日; かう ときめた 心 持 を ひるが 

へ さう と は. 少しも 考 へ なかった。 

「そんな やうな 事情なん ですから、 貴方の 英吉利 滯 在中 は、 此の 家の 一員と して、 此の 家 を 自分 

の 家と 思って 居て 頂き 度い の です。」 

夫人 は、 充分 相手の 同情 を 得た とい ふ 滿足を 示して ゐた。 あまりと 云へば 勝手 極まる 先方の む- 

ら 氣に、  柘植 はすくな からす 不快 を 感じた。 それば かりで 無く、 此方の 心 持 を 知らす に、 段々 安 

心して 來る樣 子 を 見る と、 何時 迄もう つち やって は 置け なくなった。 彼 は 思 ひ 切って 夫人の 言葉 

を 遮った。 

「お 話 はよ くわ かりました。 今の 貴方が たの 頼り無い 立場に は 平生から 同情して ゐ ます。 ぉ氣の 

毒 だと 思って ゐ ます。 けれども、 實は私 は、 もう 引越す 先 迄 きめてし まひました。 今日に もお 別 

れ しょうと 思って、 今朝のう ちに 荷 造 もして しま ひました。」 

,「 何です つて。」 


213 


. 大きな 目 を 一 暦 大きく 見張って、 夫人 は 平靜を 失った 聲を 立てた。 

「ほんと に です か。」 

「乍 遣憾 ほんと です。 昨夜のう ちに 下宿の 約束 をして 來 ました。 私に はもう 辛 棒出來 なくなった 

の です。」 

柘植 は、 目の前に 唇 を 嚙んで 怒り を堪 へて 居る 相手 を 見ながら、 極めて 冷靜な 態度 を 失 はな か 

つた。  ,  . 

「下宿 :—— それ は 一 體何處 なのです。」 

「博物館に 近い 所です。」 

その 町の 名 を 云 ふと、 夫人 は 更に 驚いた。 

「貴方 は それが どんな 場所 だか 御存じな いんで せう。 決して 社會の 尊敬 を受く 可き 人々 の 住む 場 

所でない 事 を。」 

その 意味 は、 夜の 女の 巢窟 だとい ふの だら うと 察しる 事が 出来た。 

「貴方 の 御兩 親が 御 聞き になった ら、 何とい ふか 御^じで すか。」 

「大丈夫です。 私の 兩親は 自分の 子供 を 信じて 居ます。 どんな 場所に 住まう とも、 無駄な 心配な 


214 


宿の 教倫 


ん かしません。」 

拓植 はきつ ばりと 云 ひ 切った。 語氣の 強さに、 夫人 はな ほ も 開かう とした 口 を閉ぢ た。 

「勝手になさい まし。」 

しばらく 

暫時た つて、 憎悪に 滿 ちた 聲で云 ひ 放っと、 身 を 起して 窒 外に 出て 行った。 

見途り 果てて、 柘植 も、 一切の 終った 事 を 知った。 客間 を 出る と、 わざと 戶を あけ 放した 炎の 

間の 食堂に、 心配 さうな 額 を 集めて ゐた 姉妹が、 呼 止めさうな 樣子を 見せた にも 拘ら す、 振 向き 

もしす に戶 外に た。 昂奮した 態度 を 見せ 度ない と 云 ふ氣持 もあった。 

十數 分の 後、 柘植は 町角の 辻 待の 自動車 を 呼んで 歸 つて 來た。 その物 音に 出迎 へた 姉妹に、 卽 

刻 此の 家 を 立 去る 事に なった と 話した。 

r 柘植 さん。」 

一時に 兩 方から、 姉妹 は聲を かけた けれど、 それつ きり 何も 云 ふ 事が 出来なかった。 思 ひ 止れ 

と 云 つ て も 無駄な 事が わかり 切って ゐる所 迄 旣に事 は 運んで しまったの だ。 

「お母さんに よろしく。」 

向 一週間 分の 宿料 を 托した。 大きい 荷物 は 運送屋 を 取りに 寄越す 害 だ. と 云って、 比較的ち ひさ 


215 


い 旅 飽丈を 自動車に 積んだ。 

「それで は 左様なら。」 

柘植は 姉と 妹と、 力強い 握手 をした。 二人とも >  淚 を頰ぺ たにった はらして、 一言 も 口 をき く 

事が 出来なかった。 

「キ テ ィ にもジ ョ ォジ にもよ ろしく。」 

彼 は 車の 中から、 玄關に 立つ 二人に 最後の 言葉 を殘 した。 あまりに 狼狽し い 結末 を はかなむ 心 

は 寂しかった。 

自動車 は 容赦な く、 けたたましい 音を立てて、 日光の 漲り あふれる 新綠の 並木の 下 を 一直線に 

潜り 出した。 (大正 十 一年 五月 二十  一 H) 


216 


第二 部 都 


ながらく 間 借して ゐた 山の手の 陸軍 少佐の 家 を、 夫人と 喧嘩して 出た 拓植 は、 さしあたり 行く 

ところが 無く、 友達の 髙樹の 下宿に 割込んだ。 大英博物館に 近い、 下町の 塵埃と 馬糞の 風に 舞 立 

っ區 域だった。 

少佐の 家 は、 おひとよしの 主人が 戰前 株式相場で 失敗した 爲め、 下宿人 を 置かなければ ならな 

い 家計 狀 態に 陷 つて ゐた。 夫人 は 生家の 家柄が よく、 親類に は 侯爵 や 伯爵が 澤山 あると いふの が 

何よりの ほこりで、 英吉利の 傳統を 無批判に 固守しょう として ゐ たが、 三人の 娘と 一人の 息子 を、 

自分の 好みの ま、 に 貴族的に 育てる 事は絕 望に 等しかった。 中學 生の 男の子 は、 からだ は 無闇に 

大きくな つたが、 未だ 全くの 子供で- 年中 他愛なく バ ンヂョ 才を彈 いて ゐた。 三人の 姉 達 は、 流 

石に 世間の 風潮 も 知り、 役所 か 郵便局 か 百貨店で 働いて、 自分の 着物 位 は 自分で 作り 度い と 主張 

する ので あつたが、 我 子が 賃銀の 爲 めに 働く とい ふ 事を羞 て、 夫人 は なかなか 許さ, なかった。 

長い間の 平和に 馴れ、 競馬と 骨牌と 俱樂 部と 酒で 暮らして ゐた 少佐 は、 時た ま 郊外の 兵營 から 

歸 つて 來 ると、 貧乏 はして ゐても 三鞭酒 をぬ いて、 上機嫌で 話す の だが、 世界の 現狀を 少しも 知 

5と 

らす、 軍事に ついても 疎かった。 亞米利 加 は 未開 國 であり、 日本 は 英吉利の 援助な しに は獨 立の 

保てない 小國 で、 日露 大海 戰の 時の 如き は、 英吉利の 海軍 士官が 各 艦に 乘 込んで ゐて號 令 を かけ 


218 


宿の 敦倫 


たの だと 確く 信じて ゐた。 目前の 歐洲戰 爭に對 しても * 政府が 政策 的に宣 傳 する ス a ォ ガン を, 

其の ま、 信じて 疑はなかった。 歐 洲諸國 がー 年 越た 、かって、 今では 東部 戰線も 西部 戰線も 塹壕 

で 固められ、 決定的の 勝敗 を 期待す る 事は兩 軍と もに 望めない 戰況 なのに、 春に なって 雪が 解け- 

キ ツチ ナァ 元帥 編成の 英吉利の 大 軍が 海峡 を 越れば、 忽ち カイ ゼ. ルは 動物園の 檻の 中に 囚 はれの 

身と なる であらう と、 中學 生が 明日の ラグ ビィを 語る やうな 樂 しさで、 常に 妻子に 話す ので あつ 

た。 だが、 春が 來て 英吉利の 大 軍が 海峡 を 渡り、 少佐 も その 一員と して 戰 地へ 向った が、 獨 乙の 

戰線は 一歩 も 後退し なかった。  . 

柘植 はこ の 一 家の人 達と 馴染んだ が、 夫人の 無識 のた かぶりと ヒ ス テ リイに は 幾度と なく 衝突 

し、 たうとう 我慢 出來 なくな つ て、 喧嘩別れ となった ので ある。 その 喧嘩の 最後 は、 レオ. トル 

ス トイの 小說が 原因と なった。 柘植は 其の 頃ト ル ス トイの 全集 を 買 込んで 夢中に なって 讀 んでゐ 

たが、 娘 達 も 母親の 目 を 忍んで、 勝手に 借覽 して ゐた。 それが めつ かって、 夫人 は 激怒し、 柘植 

も 負けす に爭 つた。 此の, 英吉利 魂の 夫人に とって は、 ヤス ナヤ • ボリ アナの 聖人 は 極めて 危險な 

る 狂人に 過ぎなかった。 勿論 夫. <は そんな 狂人の 書いた もの を 讀んだ 事 もな く、 手に 觸れた 事 も 

無い。 何故ならば、 善良なる 英吉利 人の 家庭に は、 トルストイの 書 を 置くべき 場所 は 無い からで 


?J9 


ある。 柘植は 結局 トルストイ 全集と 共に、 英吉利 人の 城郭で ある 尊敬すべき 家庭 を 出て しまった 

の だ。 

今度の, 下宿 は、 田舍の 開業 醫の 娘の 經營 する ものであった。 姉 は 三十 前後、 妹 は 十六 七で、 拓 

植が 最初に あった 時、 二人とも 喪服 を 着て ゐた。 姉に は 弟、 妹に は 兄になる 海軍 少尉が、 つい 先 

頃の 海戰 で、 船と 共に 水に 沈んだ のであった。 その 話 をす る 二人 は、 悲 みよりも 誇に、 寧ろ 輝か 

しい 表情 を 見せた。 ほかに は、 下僕が 一 人、 女中が 一 人ゐ た。 若い 下僕 は、 今 此の 國の 敵と なつ 

て戰 つて ゐる填 太 利 人で、 飴色の 柔ぃ 頭髮を 綺麗に 分けた、 色の 白い、 頰の 紅い、 おっとり した 

顏 立ちの 靑 年であった が、 何時も 鼻の 下が 濡れ、 それに 石炭の 粉が ついた の を 横 撫でに して、 せ 

つかく の H 鼻 だち を だいなしにして ゐた。 

て つ 

客 は 高樹の 外に 印度の 學 生と、 白耳義 ブラッセルから 避難して 來た 一組の 男女が ゐた。 頭の fK 

邊の 禿げた、 猫背の、 溫 良さうな 四十 男と、 殆ど 英語 を 解さない 二十代の 小鳥の やうな 顏 つきの 

女で、 兄妹 だと 云って ゐ たが、 すべての 様子が 夫婦だった。 何 か輕ぃ 言ひ爭 ひの あげく、 つんと 

すねて ゐる 女の 機嫌 をと る爲 に、 うしろから 手 を!! して 抱きながら 近々 と顏を 寄せる 男の 禿 頭 を. 

平手で 叩いて 逃 出す やうな 所作 を 見せた。 


220 


憎の 敦倫 


下宿の 入口 は 共同 園の 芝生に 面して ゐた。 人造 石の 段々 を 上り、 重い 扉 を 押して 入る と 直に 右 

手が 客間 兼 食堂で、 その 隣の 窒に髙 樹がゐ た。 二階のと つっきの 窒には 印度の 學 生が、 割合に 贅 

澤な 生活 をして ゐた。 跛の くせにお 洒落で、 政治 史を 勉強して ゐ ると 云って ゐ たが、 別段 學 校に 

通 ふ 様子 も 無く、 カフ H ゃレヴ ユウで 夜 を 更かして 歸 つて 来た。 その 隣室に 拓植が 入り、 三階に 

は 白 耳義の 男女が ゐた。  . 

朝、 誰よりも 早く 食堂に 顏を 見せる の は柘植 で、 一人で 食事 を濟 ませる と、 大英博物館の 圖書 

館に 出かけた。 彼 は 其 頃、 近代 歐羅巴 文人の 傳 記に 興味 を 持って ゐた。 廣ぃ 讀書窒 は、 埃 臭い 下 

宿の 一室よりも 居心地が よく、 時には 地下室の 食堂で、 パ ンと 紅茶で 畫を濟 ませ、 曰の暮 る 迄 居 

る 事 もあった。 少し 遲れ て高樹 もやって 来る。 彼 は 美術史 專攻 で、 元來獨 乙に ゐ たのが、 戰爭開 

始 と共に 身 を 以て 逃れて 來て、 一年間 英京で 暮らしながら、 心 は 常に 伊太利へ 憧れて ゐた。 初夏 

の 頃に は 巴 里 へ 行き、 フロレンス へ 行き、 來 年の 舂 迄に は 日本へ 歸 つて、 母校に 敎鞭 をと る 身の 

上だった。 

「いや だな あ、 叉 今日 も 冷肉 か。」 

正午に 近く、 高樹は 拓植の 席へ 來て、 自嘲に 似た 言葉 を屢々 漏らした。 


221 


英吉利の 一般 家庭の 質素で、 辛抱強く、 變 化の 無い 日常生活に 耐る事 は 驚く ばかりで、 たと へ 

J- .  かぶと 

ば 大きな 肉の 塊の 焙 つたの を 大皿に 盛り、 毎日 少し づ ^ 端の 方から 切って 喰べ、 喰べ 終る と 甲の 

やうな 銀の 蓋 をして 置き、 次の 日 も 叉 次の 日 も、 暖め もしす に 切って 喰べ る 遣 口 だ。 食物に 纖. P 

な 味 をつ ける 事 をし ないで、 同じ 物 を 年中 あきすに 喰 ふ 鈍重な 感覺 は、 大英 帝國 そのもの、 やう 

な 底力 を藏 して はゐ るが、 客間 兼 食堂の 食器棚の 上に" いつも 大皿に 盛られた 冷肉に 銀の 蓋の か 

ぶせ て あるの が 置いて あると、 未だ あの 肉塊 はなく ならない のかと、 嘆息す る氣が 起る ので あつ 

た。 しかも 其の 肉塊の 最後の 一片が なくなる と、 翌日 は 又 新たに うづ 髙ぃ焙 肉が つくられる。 結 

局、 一生涯 焙肉を 喰って ゐ なければ ならない の だ。 それが 下宿の 最下 等の 肉塊と 來てゐ るの だか 

ら、 食慾 は 減退し、 氣は 重くな り 、殊に 旅人の 心 持 は、 いやが 上に もやる せなかった。 體の 弱い 

爲か、 生来の 我儘 か、 髙樹は その 冷 • 肉の 嘆 を 始終 口にして、 なさけな がった。 

r 實に 驚くべき ものだねえ、 何の 味 もっけす に燒 いた 肉に、 鹽かゾ ォスを かけて 喰 ふんだ からな 

あ。」 

彼 は 叉 極端な 英吉利 嫌で もあった。 實利 主義 一 方で 藝術を 理解し ない 事 も、. 一 生涯 t! ォ スト • 

ビィ フを平 氣で喰 ひ つ f けて ゐる事 も * すべ て 呪 ふべ きデ モク ラシィ の 精神に 出る ものであると、 


222 


宿の 敦倫 


美術 臾專攻 の 學徒は 唾 を 飛ばして 罵る のであった。 

或 日の 如き は、 夜食の 鐘の 鳴る の を 聞いて から、 高樹は 帽子 を かぶり、 外套 を 着、 ステッキ を 

小脇に 挾んで、 柘植の 窒の扉 を ノックした。 

「君、 何處 かに 釵を喰 ひに 行かない か、 僕 は 此の 家の 飯 を 喰って ゐ ては體 がつ f かないよ。」 

白い、 廣ぃ 額に 憂鬱な 陰影 を 刻み、 ^鏡の 奥の 細い 目に は淚 さへ 浮べて ゐた。 

「どうしたんだ、 ひどく 眞劎ぢ や あない か。」. 

「今日 程 故 鄕を懷 しく 思った 事 はない、 晝 飯の 時、 例の 冷肉 を 喰って ゐ たら、 ふいに 淚が 流れて 

來た。 あの 薄っぺらな 肉の どこに 脂肪が あるんだ。 君、 命の 問題 だよ。」 

柘植は 笑 ひながら 聞いて ゐ たが、 高 樹には それが 冗談で は 無かった。 おも ひつめ た 顔つきで、 

甚 しく 感傷的に なって ゐた。  • 

戶外は 風の 無い 春の 夜であった。 共同 園の 木立の、 若芽 を 吹いた 梢に" まんまるい 月が か、 つ 

てゐ た。 下宿の 食物が 惡 いと 云って、 むきになって 怒る の も 旅 なれば こそで ある。 かねての 計畫 

の 伊太利 旅行が、 目の前に 迫って 來て、 高樹の 全身 は 興奮に 燃えて ゐた。 極めて 冷 かな 性格の 一 

面に、 こどもら しい 情熱 を 失 はない 彼が、 その 心地よ い 興奮 を 妨げる 下宿の わびしい 生活に、 は 


223 


げしい ノス タル ヂァを 起し、 旅愁に たへ かねる 心 持 は、 柘植 にも 深く 了解 出来た。 その 晚は 裏町 

の 伊太利 料理店で キャン ティの 一 瓶 を 傾け" 高樹は 初戀の 人の 話 を 繰返して、 追慕に 心 をな ごや 

かにした。 下宿に 歸 つても 語り あきす、 柘植の 窒で曉 近く 迄 話した。 

翌日、 髙樹は 風邪 を 引いた やう だと 云って 起きて 來 なかった。 大した 事と も 思 はすに、 一人で 

圖書 館へ 出かけた 柘 植が晝 飯に 歸 つてみ ると、 僅かの 間にす つかり 氣カを 失って、 うぢの めされ 

たやう に 横って ゐた。 

「どうした、 昨夜 遲く迄 起きて ゐ たのが いけなかった ので はない か。」 

「さ うぢ や あない、 二度目なん だが、 血 を 吐いた よ。」 

病氣の 家畜の やうに 人な つっこい 目つ きで、 高樹は 存外お も ひきり よく 話した。 一度 は獨 乙で、 

伯林の 宿の 洗面器 を 血で 染めた が、 今朝 はしき りに 咳の 出る の を こらへ ると たんに、 半 巾が 眞紅 

になった。 かねて 自分のお それて ゐた 運命が、 早く も 自分の 勉學を 妨げに 來た。 しかし、 こんな 

事で 命 は 捨てない。 自分の 希望と 意志の 力で も、 容易に 病 氣と鬪 つて 勝って みせる 自信が ある。 

兎に角 醫者を 呼んで 來て くれ。 それ も 日本人の 醫者 がい、。 それに は 郊外に 住んで ゐる茅 野の 知 

人で、 日本の 醫科 大學の 助教授の 肩書の ある 人が 何處 かに ゐる害 だから、 先づ 何よりも 茅 野 を 呼 


224 


宿の 敦偷 


寄せて 貰 ひ 度い と 云 ふので あった。 

茅 野 は 年の 若い 戲曲 作家で、 高樹と 同じ 頃 伯林に 行き、 戰爭が 始まる と 直ぐ、 いっしょに 海峡 

を 越て 逃げて 来た 仲間だった。 柘植は 早速 電報 を 打った。 

茅 野 は 郊外の、 落葉樹の 多い 町に 住んで ゐた。 いかにも 英吉利 人ら しく、 贅肉の 無い、 とりす 

ました 御婆さんと、 その 孫に あたる ち ひさい 娘の 外に、 犬と 猫の ゐる 家庭であった。 外見 は 小 肥 

に ふとり、 皮膚が 白く、 頰が 紅く" 健康な 小兒の やうに 見えながら、 彼 は 胸部に 疾患 を 持って ゐ 

た。 自我の 強い、 人と 折 合 はない 二人で ありながら、 同病が 高 樹と茅 野 を 結びつける 鎖 0- ひとつ 

だった。 健康な 人間に 封す る 反抗的な 輕ぃ憎 惡とは y かりから、 高 樹は茅 野よりも 古く、 茅 野よ 

り も 親しい 柘植に は、 伯林で 咯 血した 事を祕 して ゐ たが、 茅 野に は殘ら すうち あけて ゐた。 だか 

ら、 自分の 枕頭で、 洗面器 を 洗ったり、 氷枕 をと りかへ たり、 何から 何 迄 世話 をして くれる 柘植 

に は、 感謝と 同時に 敬遠したい 心 持 を 抱いて ゐ たが、 電報に 驚いて かけつけた 茅 野 を 見た 時 は、 

文字通り 其 手 を 握って、 熱の ある 眼底に 淚を 浮べた。  • 

「やった な。」 


225 


肉體は 虚弱で、 性格 は 褊狹な 彼に とって、 人間ら しい 情 熟 を 燃え 上らせ、 至上め 歡 喜に ひたら 

せる のは學 問と 美術であった。 日に日に 新しい 傾向 を 生む 歐羅 巴の 美術に 若々 しい 憧憬 を 寄せて 

故鄕を 立った のが、 いつの 間に か 古典の 均齊 調和の 美お 熱情 を 集中し、 文 藝復與 期の 研究に 沒頭 

した 高樹 は、 彼が 主として 文字と 寫眞 版で 學んだ 其 時代の 作品 を 目の あたりに 見て、 深き 觀 照と 

銃い 批判に 動かない 確信 をつ かむ 爲に は、 どうしても 伊太利 へ 行かなくて はならない と 思って ゐ 

た。 それな くして は、 彼の 美學は 完成され ない と 常に 云って ゐた。 靑く 晴れた フ 口 レ ン. ス の 空の 

下に、 繪畫と 彫刻と 建築の 三位 一 體を 歎賞す る 事 は、 高樹が 一 生の 願で あり、 殆んど 本能の 強さ 

で 彼の 全 精神 を 動かす ものであった。 それが 病 氣の爲 に 萬 ー果 されない としたら、 高樹の 一 生の 

希望が 失 はれる のであった。 茅 野 も柘植 も、 友達の 心の中 を 推察して、 喑 然として 顏を 見合せ た。 

夕方、 熱で 疲れて 病人が 眠った 間に、 茅 野と 柘植は 食事に 出た。 近所の 小 料理屋で 友達の 身の 

上 を 心配し、 どうした もの かと 結着の つかない 相談 をして みたが、 いつの 間に か 茅 野 は 頗る 雄 辯 

に 彼の 此の頃の 戀愛 事件 を 語り はじめた。 他人の 話 をき く 辛抱 は 乏しく、 自分の 話に はどうして 

も 同感 させない では 承知 しないの が 彼の 性格だった。 

茅 野 は 明治維新の 際、 最も 武士ら しい 出處 進退 をし、 遂に 悲壯な 最後に 終った 東北人の 血を引 


228 


M の教倫 


いて ゐた。 それに も拘ら す、 極端な 近代 型だった。 父 は 事業から 隱 退して、 東海道線の 或る 海岸 

に 住んだ が、 其處を 天皇陛下の 御 召 列車が 通過す る 時 は、 たと へ眞 夜中で も 家人 を 起し、 禮 服に 

あらため、 線路の 近くへ 出て 送迎 するとい ふ 人物だった。 あまりに 嚴 格な、 あまりに 古風な 家訓 

に對 する 反抗 か、 息子 は 生意氣 盛になる と、 極端な お洒落に なった。 彼 は 素晴らしく 早熟だった。 

文學的 才能 を 認められ たの も、 僅かに 十九 か 二十歳の 頃だった。 戀愛ゃ 遊蕩の 味 も、 それより 早 

く 知って ゐた。 明治 文學 史上 最も 大きい 運動だった 自然 派の 末期で、 歐 洲頹廢 期の 文學が 移入 さ 

れ、 ポオ ドレ M ルゃ ラム ボ 才を氣 取ったり、 ォス カァ. ワイルド や ダヌン チォが もてはやされた 

時代で はあった が、 頭髮 をき れいに 分け、 鼻眼鏡 を かけ、 はでな 洋服に、 うす 茶色の 山高帽子 を 

と き 

かぶり" 淡紅色の 半 巾 を 胸の かくしから のぞかせた 彼の 姿 は、 到る 所で 人目 を 引いた。 時には 顏 

面に 美容術 を 施して ゐる事 もあった。 そんな 事が、 男の E には氣 障に 見えても、 女の 目に は 別に 

映った。 殊に 聲が 特別の 朗 かさ を 持ち、 オル ゴルの 響 を 含む 笑聲 や、 情熱の 籠った 話 振が、 心 を 

捉へ るのに 充分の 力が あった。 いろいろの 階級の 女を戀 し、 誘惑し、 それが きまって 長つ ゾ きし 

なかった。 長つ ぐき しないの は、 あき 易い 性質の 爲 よりも、 寧ろ 東方の ド ンファ ンを もつ て 任じ 

てゐた 彼の ほこりであった。 それが 最後に 知人の 夫人と^ 倫の 戀に 落ち、 振 切らう としても 鎚り 


229 


つかれ、 事態が 重大に なって 来たので、 突然 日本 を 去って 渡歐 したので あった。 どっち かとい へ 

ば、 手輕な 仕事 をし て も 容易に 名の 成せる 故國の 文壇の 寵兒 としてもて はやされた ダ ン デ ィ ズ ム 

の 劇詩 人の、 浮々 した 藝術觀 は、 歐羅 巴の 諸藝 術の 記念 塔に 直面して、 ひとたまりもなく 打ちの 

めされた。 纖細 華麗な 詞華を 弄んで 得々 として ゐ たのが、 レオナルド 才ゃ、 ミケ ラン ヂ M  口 や、 

トルストイ や、 シ H クス ピアの のこした 包括 力の 大きい、 立 體感の 強い、 現 實直寫 の 形式の 中に 

深き 理想 をう ち 込む 驚く 可き 力量に よって 制作され たもの、 前で は、 面 を 覆って ひれ 伏した。 は 

じめ て覺 めた 眼 を 以て 內 省した 時、 こざかしい 機智 を 廻らし、 多彩なる 形容詞に うき 身 を やつし、 

會 話の 巧妙 を 專ら競 ふ 一 幕 物に 溜飮を さげて ゐた あさはかな 心 構と 絕緣 する 事 を 誓った。 古典の 

偉大 さに 傾倒し、 將來の 目標 を 一段 高い ところに 置く やうに なった 經過 は、 高樹の 場合と 同じ だ 

つた。 それ 以來、 茅 野 は 相手 をえ らばす 故國の 文壇の ヂャ アナ リズム を 罵倒し、 f て は 自分 も模 

倣を敢 てした ホ フ マンス タ アル、 メ  M テル リンク、 ダヌ ンチォ の 如き 近代の 名匠 さ へ 、 故意に 否 

定 しょうと 努める やうに なった。 茅 野 は 自分の 目的の 爲に は、 あらゆる 周 圍の物 を、 道具と し、 

•  .•  あげ. 

踏臺 として 憚から なかった。 さう しなければ、 自分 を 生かし、 きづき 上る 事 は出來 ない と 信じて 

ゐた。 彼に いはせ ると, 當 面の 戀愛も * 決して 戀 愛の 爲の戀 愛で はなく、 藝術 完成の 爲の 止む を 


230 


宿の 敦倫 


得ざる 犧牲 だとい ふの だった。 その 意味 は、 彼の 藝術觀 は 根底から くつが へされ、 光明 ある 新生 

活に 人ら うと 思 ひ はする が、 扨て 長い間の 遊惰な 身 持が 心身 をむ しばみ、 くさらせて しまって、 

氣カを 鈍らせ、 スタ アト を 明朗に しなかった。. 殊に 過去の 不倫な 戀 愛の 桦は 未だ 絕 ちきれ す、 事 

毎に 彼の 心 を 暗く し、 不純に した。 彼 は 長い間、 何 かしら 今迄の 生活の 名殘 をき れいに 振 捨て.^ 

悔いない やうな、 きっかけ をつ かまう と あせって ゐた。 

折 柄、 ロンドンの 中心に 近く、 日本の 商會 の經營 する 喫茶店が あって、 日本 娘が 五 人、 袖の 長 

い 紫の きものに 紅い 帶を しめ、 英吉利 娘に まじって 給仕して ゐた。 商店 側の 宣傳 では、 娘 達 は 皆 

學校敎 育 をう けた 良家の もので、 普通の 雇人で はなく、 見學 旁々 來て 貰った の だ。 だから 保護 監 

督を嚴 重に して、 決して 間違の 無い 事 を 期して ゐ ると 云って、 三十 代の 日本 婦人 を 監督に 置き、 

一 人 歩き は 許さす、 日本人の 客に は 給仕 さ へさせなかった。 茅 野 は その 五 人の 中の 一人に、 ひそ 

かに 想 ひ を 寄せ、 毎日. IK 茶店に 通 ひ はじめた。 日に 二度三度 行く 事 もあった。 一人で、 いっぱい 

の臺灣 紅茶 を 前にして 二 時間 三時 間と ねばる 事 もあった が、 一人で は 流石に 氣まづ いので、 友達 

の顏を 見れば、 時 をえ らばす 誘って 行った。 行った からといって、 日本人の 客に は 口 もき かない 

の だから、 どうす る 事 も出來 ない の だが、 茅 野 は 驚く 可き 根氣を 見せた。 


231 


I 日本人の 客に サ アビ ス させる の は危險 だなん て、 生 意 氣な事 をい ふうち なんかに 行って やる も 

んか、 人 を 侮辱して るぢゃ あない か。」 

高樹ゃ 柘植が • 本氣 になって 罵っても, 茅 野は朗 かな 笑 ひ聲を 立て、、 少しも 抗辯 せす、 この 場 

合 丈 は 下手に 出て、 同行 を 求める のであった。 最初の うちこ そ本氣 かどう か を 疑った が、 茅 野 は 

どうしても 其 娘と 結婚 するとい ひ 出した。 彼 一流の 獨斷 的な 理論 づけで、 この 少女の 外に は 自分 

の 靈魂を 救って く^る もの は 無い と說 いた。 

少女 は、 うす 皮の 皮膚の 色の 蒼白い、 少し 病身ら しくう るんだ 隨、 固く はし まらない 唇の ち ひ 

さく 厚い の もこ どもらし く、 五 人の 中から 此の 一 人 をえ らんだの は 無理 も 無かった。 茅 野 は その 

少女に、 ラフ ァ H ルの 描いた マドンナの 優し さ を 感じる とい ひ、 その 淸淨な 胸に 鎚 つて 過去の 汚 

れを 洗ひ淸 め、 滿 身に うづく 惡血を 根 だ やしに して、 はじめて 自分 は 更生の 道 を濶步 する 事が 出 

來 るの だとい ふので ある。 それ を 彼 獨特の 自信に 滿ち、 熟 情の あふれた 言葉で、 幾度と なく 繰 返 

して 友達の 同情 を 強る のであった。 さう いふ 時に、 高 樹は生 來の冷 かな 判斷 から、 茅 野の 幼稚な 

論理 を 嘲笑し、 柘植 はこの 人生の 經驗 の淺ぃ 少女 を犧牲 にして 自分 を 活かさう とする 茅 野の 利 R} 

主義に 反感 を 持って 罵った。 


232 


宿の 15: 倫 


. その 晚も茅 野 は 夢中に なって、 自分と 喫茶店の 少女との 結びつけられた 運命 を 論じ、 幻を追 ふ 

騎士の 愚か さ を 示して 憚から なかった が、 一面 極めて 押の 強い 彼 は、 目的の 爲には 手段 をえ らば 

す、 着々 として 筋 書を實 行し っゝ ある 近狀を 物語った。 彼 は 自分の 容貌に 充分 自信 を 持って ゐた。 

又 彼の 半生の 經驗 から、 自分が 手 を 差 延ばして、 それ を 振 切る 女 はない ときめ 込んで ゐた。 今度 

の 場合に も、 若しも 自由に 少女に 近づく 事が 許されるならば、 何の 苦 もな く 目的 を 達する 事が 出 

來 ると 思って ゐた。 たぐ 商會 側の 監督が 嚴 重なので、 毎日 顏は 見て ゐても 口 をき く 機 會が與 へら 

れな いのに 弱って ゐた。 たうとう 茅 野 は 最近に なって、 直接 少女に 接近す る 事の 不可能 を 見抜き、 

戰 法を變 へ て、 先づ 監督の 年增 によし み を 通じる 策 をと つた。 

監督 は 給仕の 娘 達と は 違って、 日本人の 客に も輕ぃ 挨拶 位 はした。 うすく 化粧 はして ゐ たが、 

平 顔の 額 ゃ頰に 小皺の 寄り はじめた 皮膚 は、 二十代の 者の 目に は、 實 際の 年齢よりも ひどく ふけ 

て 見えた。 茅 野の 仲間 は、 かげで は 婆さんと か、 ばばあと か 呼んで ゐた。 その 人に 對 して、 茅 野 

はしき りに 微笑 を 送り、 愛想の い、 言葉 を かけ、 用事 を賴ん だり した。 たと へば 監督と 視線の 合 

つた 時 手 を あげて 呼び、 ほしく もない 紅茶のお か はり をしたり、 菓子 を 註文した りした。 それが 

毎日の事 だから、 先方 も 段々 馴々 しく 卓の 測に 來て、 無駄話 をす る やうに なった。 偶然 は 思 ひも 


233 


かけない 喜び を 茅 野に もたらした。 監督が 五 人の 少女と 共に 日本 をた ち、 生れて はじめて la 船で 

大洋に 浮んだ 怖ろ しさ を 話した 時、 その 船 は 曾て 茅 野を乘 せて 来たのと 间 じ もの だと 知った。 船 

長、 機關 長、 事務長の 名前 をお 互にい ひあって、 ひとつの 家に 住んだ やうな なつかし さ を 感じた。 

それ以来 監督 は睐に 親し さを增 し、 こっち からき、 もしない 身の上 話 迄 しゃべる やうに なり、 何 

かに. つけて 娘 達の^ や、 此の 一連の 住む ァパァ トメ ントの 生活 迄 知る 事が 出來 た。 おまけに、 今 

度 叉 その 船 は ロンドンへ 向って 近づきつ、 あって、 娘 達の 家々 から 托された 品々 を携 へ、 船長 は 

喫茶店 を 訪れる 事に なって ゐて、 自分 達の アバ アトで も 娘 達が 日本料理で 船長 歡迎の 晚餐會 を 開 

く 害で あると いふ 話 迄き かされた。 茅 野 は 押せる 丈 押して 見ろ とい ふ氣 になって、 自分 も 是非 船 

長に 逢 ひ 度い と、 いかにも 特別に 親しい 人で ある やうに なつかし がって みせた。 監督 も 調子に 乘 

つて、 それで は 自分の はから ひで、 ひそかに 招待して もい、 といった さう だ。 

「それが ねえ、 ほんと にないし よなん です よ、 この 店の 支配人に 知れる と大變 なんです からね と、 

幾度 も 念 を 押 すんだ。 こいつ は 毎日 二度 も 三度 もき かされる の だが、 しかし 偸 快 だね、 わが あこ 

がれの 靑き海 は、 ひろびろと 眼の 前に ひらけたり。」 

茅 野 は 何 かの 芝居の せりふで も あらう か、 すまして 云って、 あたりの 客 や 給仕 人が びつ ぐり す 


234 


S の敦淪 


る 程 朗な聲 で 笑った。 

食事 を濟 ませて、 柘植は 茅 野と 別れ、 下宿に 歸 つて 見る と、 高樹は 疲れて 眠って ゐた。 暗い 電 

燈の つくる 影が 眼 や 鼻の 周圍に 深く、 唇ば かりが 病的に 紅かった。 

その 晚柘植 は 自室で 机に 向 ひ、 本 を 開いた が 少しもみ が 入らなかった。 彼の 頭に 浮ぶ の は、 遠 

い 異國へ 出て 血 を 吐きながら、 只管 伊太利の 旅 をお も ふ 高樹の 學問藝 術に 對 する 熱情と、 本氣な 

のかい たづら なのか わからな いが、 みっともない 迄 手を盡 し、 どうしても その 人 を 自分の ものに 

しないで は 置かない とい ふ 茅 野の 野望の 強さだった。 最後に、 はっきりした 目標 もな く、 近代 文 

學の 作品 を 無 系統に 讀み、 經濟 政治 社會學 —— 何に でも 與味を 持ち、 その どれに も 熱中す る 事の 

出來 ない 自分^ 生 甲斐の 乏し さが、 彼の 熟睡 を 妨げた。 

高樹 の病狀 は、 みんなが 心配した 程の 事 もな く、 神妙に 醫 者の 命令 を 守って 靜に 寢てゐ るう ち 

に、 段々 熱 も 下り、 食慾 も 日 ましに 加って 來た。 再び 咯血 する 事 も 無かった。 

「僕 はどうしても 豫定 通り 伊太利に 行く。 フロレンス の 土 を 踏まない うち は 日本に 歸ら ない と 決 

心した。 この 氣持 だけで も病氣 はな ほる よ。 一 


235 


全 精神 を 伊太利の 旅 へ の 憧憬に 打ち込んだ 高樹の 身邊に は、 何 か 眼に は 見えない 力が ほとばし 

る やうに 感じられた。 それでも、 一週間 二 週 問で は、 ベッド を 離れる 事 は出來 なかった。 

その 間に 下宿の 客 は頻々 と變 つた。 戰禍の 爲に家 を 焚かれ、 親子 兄弟 を 殺された 佛蘭西 人 や 白 

耳 義人が、 幾度と なく 来て 泊った が、 短 いのは 二日 三日、 長くても 一 週間と はゐ つかなかった。 

はじめから、 知らない 土地へ 着いた 當 座の 假の 宿と 思って 來た人 ももと よりある が、 居心地の 惡 

さに 堪 へられす、 出て 行く もの、 方が 多かった。 さう いふ 消息 は、 先客の 白 耳 義の 女の 口 を 通し 

て 聞かされた。 英語が 充分 出来ない ので 佛蘭西 語 を まぜ、 素敵な 早口で、 いかに 英吉利 人と いふ 

ものが 冷酷で、 無情で、 おも ひあがって ゐ るか、 いかに 此の 家の 主婦が 不親切で、 慾 張で、 客 あ- 

つ かひ を 知らす、  禮儀を わき まへ ないか を訴 へる のであった。 つい 此 間なん か は、 自分 達 兄妹の 

部屋に、 ノックし すに 入って 來た事 も ある、 鍵穴から 萌 いた 事 も ある、 何とい ふ 失禮な 所行で あ 

らうと、 聲を震 はせ て 憤る。 ぶんぶん 怒って ゐる 女の 様子 を、 にゃにゃ 笑 ひながら、 さも 可愛ら 

しさう に 眺めて ゐる 兄と 稱 する 禿 頭 は、 妹と 稱 する 女が 脫 線して、 自分 達の 寢 部屋の 事に 迄 言及 

したので、 思 はす しらす 赫く なり、  - 

「は、 あ、 この 御嬢さん は 又 御機嫌が 御惡 いやう だ … … 」 


235 


宿の 教淪 


てれかくし を 云って、 い、 加減に しろと 目 額で 合圖 をす るの だが、 女 はわ ざと 禿 頭 を 睨みな が 

ら、 

「だって、 ほんと なんです もの。 だって、 ほんとの 事なん です もの。」 

と 甘つ たれる やうに 體を 動かした。 

兄妹 だと 云 ひながら、 その 二人が ひとつの ベッドし かない 部屋に 居る 事 を、 宿の 主婦 は 再三 柘 

植 達に 話した。 歐羅巴 大陸で は、 さう いふ 事が 許される のでせ うか、 英吉利で は 絕對に 無い 事 だ 

と、 獨 身の 主婦 は 多分の 惡意を 籠め て 繰返した ものだった。 

その 白. 斗 義人 も、 やがて 此の 下宿 を 立 去る 事に なった。 それ は 或 日の 食卓で、 ふとした 事から * 

主婦と 妹と 稱 する 女と が ロ爭ひ をした のに 起因す る。 

いつもの 通り、 冷い 肉が 薄く 切られ、 主婦と、 その 妹と、 白 耳 義人 二人と、 柘植が 食卓に 着い 

た。 佗しい 霧雨が 窓 硝子 を 濡らし,、 窒內 も陰氣 だった が、 郊外の 岡の 草地に 演習に 行く 兵隊 は 「テ 

ィぺ レリ」 をうた ひ、 口笛 を 吹きながら、 幾 組と なく 通った。 無器用に 重たい 靴の 音が、 希望の 無 

い 交 戰國の 憂鬱な 空氣を 強く 感じさせた。 期せす して 食卓の 話題が 戰 線に 及んだ。 獨乙は 野蠻だ 

とか" 人道の 敵 だと か、 潜水 艇で 旅客 船を擊 沈した の は 何とい ふ 卑怯^ あらう とか、 紳士 淑女の 


237 


感傷に 訴 へる 新聞の 論調 を その ま、 に、 主婦と 白 耳義の 男女が 語 合った。 いつの 間に か、 妹と 稱 

する 女 は、 不自由な 言葉 を あやつる もどかし さと、 國土を 敵軍に 蹂躧 された 繫 憤に 堪 へられな く 

なり、 それにつ けても 戰爭の 悲慘を 充分に 味 はす、 悠々 として 事 を 運んで ゐる 英吉利の 態度が 佾 

らしくて 爲 方が 無くなった。 

「全く 獨 乙は惡 魔です。 です けれど、 その 悪魔の 暴行 をい つ 迄 も 許して 置く の は、 英吉利が 本氣 

になって た、 か はない からです。 何故 英吉利 は、 もっと 澤 山の 兵士 を戰 線に 送らない のです か。 

私共の 國 白耳義 は、 年寄 も 子供 も、 みんな みんな 武器 をと つてた、 かって ゐ ます。 それな のに あ 

なた 方の 國、 英吉利 は …… 」 

英語と 佛語 をち やん ぼんに して、 むきになつ て 喋り 出した。 

「それ は 無理で は 無いで せう か。」 

主婦. はっとめ て 冷 靜を裝 ひながら、 大國 民と 小國 民との 差別 を 年中 忘れない 英吉利 人 特有の 態 

虔で、 はっきりと 遮った。 

「どうして 英吉利の 責任で せう。 英吉利 は島國 です。 歐羅巴 大陸の 爭 ひに は關與 しないでも、 幸 

福に 暮らして 行ける 國 柄です。 それが あなた 方、 白 耳 義ゃ佛 蘭 西の 爲に遙 々兵隊 を 送り、 多くの 


238 


^の 敦怜 


若者の 命 を 失 ひ、 莫大 も 無い 戰費 をつ かって 戰 つて ゐ るの は 何故 だか 御存じで すか。 みんな 人道 

の爲 なのです。 現に 私達の たった 一人の 兄弟 も、 名 譽の戰 死 を 遂げました。 それでも 英吉利 は 本 

氣 になって た、 か はない と 云 はれる のでせ うか。 私に はわ かりません わ。」 

「人道の 爲? 人道の 爲 にた、 かって ゐ るの は 白耳義 です。 白 耳義が 無抵抗で 獨乙軍 を やすやす 

おち 

と 通過 させたら、 巴 里の 陷落は 問題ではありません。 巴 里が 落れば、 その 次 は&ン ドンです。 獨 

乙 は 容易に ドォヴ ァ海峽 を 越て、 この 大都市 を 占領して しまったで せう。 それが 今、 あなた 方が 

斯うして 安全に 生活して ゐられ るの は、 我が 白耳義 のお かげです。 さう です、 たしかに さう なん 

です。」 

兄と 稱 する 禿 頭が 心配して なだめる の を 振 切って、 妹と 稱 する 女 は 顏色も 白ける 迄 昂奮した。 

「私に は 同意 出來 ません わ。 それよりも、 あなた 方の やうに、 國を奪 はれた 人が、 住家 を 求めら 

れ るの も 英吉利 のお かげで はないで せう か。」 

主婦 は、 相手が 堪へ性 を 失った と 見る と、 か へ つて 冷靜を ほこる 氣 になって、 つめたく なった 

珈琲 をす、 り、 ナプキン を 叮嚀に 銀 環に さし 込み、 口 邊に徵 笑 を 浮べながら 立 上る と、 妹 を 促し 

て 食堂の 外へ 出た。 出た と 思 ふと、 今迄のお ちついた 態度と は 反 封に、 手荒く 扉 をし めて、 流行 


239 


唄 をうた ひながら、 地下の 厨房へ 下りて 行った。 いつも 廊下 を 步く時 は 鼻歌 をうた ふなら はしで 

はあった が、 場合が 場合 だけに 相手 を 馬鹿にする 效果が 手強く 表現され た。 

その 靴の 音が 聞え なくなる と、 みんな は 不快な 顏を 見合せ たま、 食阜を 離れた。 秃頭 は、 妹と 

稱 する 女が 目に いっぱい 淚を ためて、 汚れた 卓 布の 一 點を 注視して ゐる 横から のぞきこみ、 背中 

を輕く 叩いて なだめた が、 そのな だめ 方の もの 柔 かさが か へ つて 氣に 喰はなかった ので あらう、 

女 は 邪慳に 振拂 つ て、 恰度 後 を 通 つ て 室外 へ 去らう とする 拓植を 呼びと めた。 

「あなた は、 あなた はどう 思 ひます。 英吉利が いけない と は 思 ひません か。」 

面と むか つ て、 どうしても 自分の 爲に 同意 させよう とする のだった。 

「英吉利 は 何故 もっと 澤 山の 兵隊 を戰 線へ 送らない のです。 私達の 白. 耳義 は、 國を あげてた 、か 

つて ゐ るので す。 私達 は、 こんな 冷酷な 無情な 無禮な 英吉利に 逃げて 來 なければ ならなかった の 

です。」 

この場合 英吉利と いふ 國と 下宿の 主婦と は 一 體 であった。 突然 はげしい 感動が、 か ぼ そい 全身 

を 襲 ふと、 いきなり 兩 手で 顏を覆 ひ、 柘植の 肩に 額 を 伏せた。 小柄に は 見えても、 脊は 低くな か 

い き 

つた。 す \ りあげる 度に、 熟い 呼吸が 柘植の 首筋に か \ つた。 


240 


浩の敦 倫 


禿 頭が あわて、 おしへ だてる と、 靜 脈の はっきり 見える 女の 兩 手の指の 間から、 淡紅色の 薄絹 

の 上着の 胸に、 淚が 光って 落ちた。 

柘植は その 足で、 食堂の 隣の 高 樹の窒 に 立 寄った。  , 

「今日 は 食卓 で 英白 衝突 さ 。 」 

病床で 麪麴を 食べて ゐる 友達に、 一部始終 を 話した。 

「例の 御 令妹が ロ惜 がって ね、 こ 、ん ところへ 顏を 持って 來て 泣かれち やった。」 

「さう か、 肩のと こ 濡れて るぢゃ あない か。」 

高樹の 指さす 胸に おも はす 手 を やって、 いっぱい 喰った なと 思 ひながら、 機嫌の ぃ& 病人と い 

つし よに 笑った。 

「冗談い つち や あいけ ない。」 

口で はさう いひながら、 柘植の 掌 は 何 かな まあった かい? i つぼ さ を 感じた。 

「僕 は 理非曲直 は 問題で ない、 あくまでも 白 耳義の 味方 だ。」 

レ モ ンを 浮べた 紅茶 をす、 りながら、 高 樹は血 を 吐いた 日 以来の 元氣を 見せた。 

その 晚の 食卓で は 誰 一 人口 をき くもの も 無かった。 珍しく 顏を 見せた 印度の 學生 も、 みんなの 


241 


て 隣の 小窒で 男女の 聲が 聞え た。 柘植の 好奇心 は 本 を閉ぢ させた。 彼 は 自分の 行爲 を恥ぢ ながら、 

壁に 耳 をつ けて ゐた。 一 脚し か 椅子が 無い 爲に、 ベッド を 代用す るので あらう か、. <體 の 重みの 

  こ は.,? とさ 

か、 る寢臺 のきし みが 聞え、 忍び 笑が 聞え た。 小 半時 もた つて、 又 廊下と 階段に 足音 を 忍びな が 

ら 階下 へ 下りて 行く 氣 配が したが、 隣窒 では 男が 大きな あくび をした。 

それ 以來. 殆んど 毎晩、 隣に は 女が 忍んで 來た。 柘植は 或 日の出 來 心で、 いつもの 通り ひそ ひ 

そ 話 をし、 忍び 笑 をし、 沈默 し、 そっと 戶を 開けて 階段 を 下りて 行く 足音の^ えない うちに、 便 

所へ 行く ふり をして、 いきなり 廊下へ 出て やった。 その物 音に、 一段々々 足音 を 忍んで 下りて ゐ 

たのが、 あわて、 馳 F りて 行く の を 見た。 寢衣 姿の 宿の 主婦だった。 

それでも 隣室へ 忍んで 來る事 は 止まな か つた。 

「この頃 僕の 隣の 室に、 白 耳 義人 だとい ふ 奴が 來 たんだが、 そいつの ところへ 毎晚 かみさんが 遊 

, ひに 來る ぜ。, I 

柘植 はたい くっして ゐる 病友に、 あらゆる 出来事 を 報告す るの だった。 

「その 男が ね、 僕の 直感なん だが、 少し あやし いんだ。」 

「何が? 」 


244 


宿の 敦倫 


「獨 探ぢゃ あない かと 思 ふんだ が …… 」 

r 獨探? 」 

髙樹は 驚いて ベ ッドの 上に 起 直った。 

「何から 何 迄 臭いんだ。 いったい、 ヘイドン なんて 白耳義 名前 かしら。」 

第一 に. その 男は壯 年で、 しかも 人並 以上 頑丈な 體格 なのに、 どうして 戰爭に 行か, ないで 濟 むか * 

あや ふ 

彼の 骨格 は 白耳義 よりも 寧ろ 獨 乙の やうに 無骨 だ。 危く國 を 逃れて 來 たとい ふのに、 毎晩の やう 

に 酒場 や ダンス -ホ オル や 寄席に 行く。 それ 程金づ かひの 荒い 男が、 他に 筌窒が あるのに わざ わ 

ざ 往來へ 向いた 小窒を えらび、 しかも 獨 乙の ッ H ペリ ンが 飛来して 爆彈を 投下す るお それの ある 

爲、 全市 中 消燈し、 象々 の 窓 は必す 窓 かけ を 下さなければ ならない とい ふ 布令が 出て ゐ るのに、 

その 男の 窒の窓 は屢々 窓 かけ を 下さす、 あかあかと あかりが 空に 向いて ゐる 事が ある。 どう 考へ 

て も あやしい と、 柘植は 嫌疑の 數々 を 並べた。 

聞かされる 高 樹には  一 &5 探偵の 興味が 強かった。 彼 は 戰爭の はじまる 迄 一 一年間 獨 乙に ゐた 生々 

しい 記憶から、 伯林の 街路の 夜景の 中に、 一人の 怪人物 を點 綴して 想像す る 事 も 出来た。 何氣な 

く 話しかけ、 その 男の 言葉の 訛の 中に 獨乙人 を 見つけ 出す 冒 險も胸 を 打った。 この頃 元 氣を取 返 


245 


し つ 、ある 自分が、 一 日 も 早く 室の 外 へ 出られる 事 を 待ち こがれて ゐる やさきに、 新しい 事件 は 

1 1 心 を 緊張 させた。 

遠 寄せに 寄せて 來た春 は、 灰色の 霧に 包まれ 勝た ロンドンの 町中に も、 光と 影 を はっきりと 描 

き 出した。 つい 此間 迄、 煤烟と 濃霧に 塗 消されて ゐた 空の 一角に、 思 ひも かけない 敎會の 尖塔 や、 

戰捷 記念碑 を 見出して 驚く 事 も 珍しくなかった。 太陽が 輝き、 暖氣が 加 はり、 もの ゝ 成長が 著し 

くなる と共に、 高樹の 健康 囘復も 加速度 を 示した。 

やがて 病牀を 離れる 日に は、 茅 野 も 喜び を 述べに 來た。 ふだんから 色の 白い 皮膚 は、 久しぶり 

で 剃刀 を あて、 象牙 石鹼の やうに 半透明に 見え、 まばらな 髯 ながら 剃 痕は靑 く、 それが 病後の 衰 

を 深く 隈取り、 眼 はうる み, 唇 は 異常に 紅かった。 それでも 本人 は素晴 しく 元氣 だった。 

「君、 新しい カラ ァの 肌觸 りも惡 くないね。 ふだん は 窮屈に 感じて ゐ たけれ ど。」 

ネクタイ 

高樹は 友達の 眼の 前で、 彼の 好みの 稍 高めの ダブル • カラ ァに、 黑 地に 赤い 班の 入った 襟 飾 を 

結び、 縞の 洋 袴に 黑ぃ 上着 を 身に つけて、 姿見の 中の 自分の 姿 を、 幾度と なく 見直した。 一い 服 

と、 雪白の カラ ァは、 病み あがりの 氣色 をく つきり させる 效果を あげた。 


246 


宿の 教倫 


「君、 瘦せ たかねえ。」 

くるりと 二人の 方へ 向 直って、 尖った 顎 を 撫でながら 訊いた。 

一-そ r- は瘦 せた さ。 痩せる 位は爲 方が 無い よ。 僕達 は、 ひそかに 再起 覺束 なしと 思って ゐ たんだ 

ぜ。」 

「そり や あ ひどい や。」 

坧植の 言葉に 不服 さうな 高樹 を、 側から 茅 野が 押 へ てし まった。 

「ほんと さ、 意外に 早くよ くな つたと、 あの 醫者も 驚いて ゐた ぜ。」 

「でも、 僕が 伊太利へ 出かけて もい、 かと 訊いたら、 もっての 外 だとい ふ 顔つきで 笑殺され ちゃ 

つた。」 

「叉 伊太利 か。 そのから だで 旅行が 出來る もの か。 君の は 熱心 を 越して 執念 だよ。」 

冗談に して 笑った もの、、 高樹の 胸中 は 充分 想 察する 事が 出来た。 

「執念って 事 は 無いだら う。」 

「 ハ や 全く 執念と い ふ 外 に は 適當な 表現 を 見出さな い ね。 恰も 茅野哲 夫の 喫茶店の 少女に 對 する 

が 如き もの だよ。」 


247 


薄暗い 部屋の 中に、 幾日ぶ りかで 笑聲が あふれた。  . 

「喫茶店と いへば、 君 は 矢 張日參 して ゐる のか。」 

「日參 どころ か、 茅 野 君 は 日に 二度 だ。 午前と 午後と。」 

「いや、 三度 通った 事 も ある。 あの 時 は 流石に 僕 も 入りに くかった。 しかし、 我事 旣に 成らん と 

す、 頗る 順調に 運んで ゐ るんだ。」 

しばらく 

暫高樹 の 見舞に も來 なかった 茅 野 は、 その 間に 彼が 勝手に 設計した 戀 愛の 筋 書 を 追及す る 事に 

- -  f  ,  V  ■  みき はめ 

忙しかった の だ。 當の めあての 娘に 接近す る 事の 困難 を 見 極て 以來、 彼 は 只管 監督の 年 增に取 入 

つた。 娘 達が 待 氣てゐ た 曰 本からの. 船 も 無事に テ H ム ス 河口に 着いた。 船長 は、 娘 達の 親許から . 

托された 品々 を 持って、 樊 茶店 を 訪れた が、 豫て 監督と 示し合せて ゐた茅 野 は、 偶然ら しくつく 

ろって 其 場に あら はれ、 船長と 一別 以来の 挨拶 をし、 極めて 自然に 同じ 卓に 着いて 茶を飮 み、 は 

じめ て 娘 達に 取 園 まれて 談笑す る機會 をつ かんだ。 その 曰 は 船長 を 晩餐に 誘 ひ、 次の 曰 は 叉 喫茶 

店で 落 合 ふ 約束 をした が、 此の 日 こそ は、 娘 達の ァパ アトで 日本料理の 御馳走の ある 曰で, 茅 野 

はづ うづう しく 船長に くっついて 離れす、 遂に 客の 一人と して 款待 を 受けた。 日本に ゐる 頃から 

和服 は 身に 着けす、 米の 飯 や 味噌汁 を 口にしないで、 歐羅巴 風の 衣食住 を 好んだ 茅 野 は、 心から 


248 


宿の^ 淪 


喜んで 舌鼓を打つ 船長に、 調子 を 合せる のが 苦勞 だった と 話した。 

「さしみ だと か、 酢の物 だと か、 僕に は 苦手の ものば かりなので、 おかげで 翌日 は 腹 を こ はして 

しまったが、 しかし 偸 快だった よ、 女の子に して みても、 白髮 頭の 船長より は、 僕の 方が 相手に 

して 騷 ぐに は 面白い 害 だからな あ。」 

彼は獨 特の朗 かな 聲で 笑った。 

「伊豫田 春 代、 町 田 琴 子、 山 住 文 子、 木場 千惠 子、 峰 村 雪 江、 - 1 わが マドンナが 卽ち雪 江さん 

さ。」 

5 ちぶと ころ  -.. 

その 晚彼 は內悽 にかくして 持って ゐた 手紙 を、 その 少女に 渡して 歸 つた。 

船長の 船 は 又 日本へ 向って 碇を あげたが、 茅 野 は 一 層 しげ じげ と樊 茶店に 通 ひつ.、、 けて ゐ るの 

だ。 店の 手前、 人前で は 娘 達と 口 をき く 事 は 許されな いの だが、 當の 娘と は ひそかに 文通 をし、 

目顔で 心 を 通 はせ る 間柄と なった。 

一女の 手紙って もの は、 稚拙で あれば ある 程眞情 流露の 美し さ を あら はす やうに 思 ふんだ が、 ど 

う. だら う。」  . 

茅 野 は 衣袋から 大切 さう に 一 束の 手紙 を 取 出して、 友達に 見せよう とした。 


249 


. 「よせよ。 たどたどしい 女の子の 手紙なん か 見たくない や。」 

高樹は 唾棄す る やうに 遮った。 

その 晚の 下宿の 食堂 は賑 かだった。 主婦と 妹と、 ヘイドンと 印度人と、 柘植と 高 樹と茅 野と、 

外に 新来の 佛蘭西 人の 母親と 未成年の 息子が ゐた。 此の頃め つきり お洒落に なった 主婦 は、 夜食 

め爲に わざわざ 衣服 を着換 へ、 紅粉 を 刷いて 食卓に ついた。 その 隣に 手 助 をす る 妹が 坐ら うとす 

るの を、 突然 ヘイドンが 押の けて、 自分が 姉妹の 間に 席 を 占め、 雨 手に 花と いふ やうな からか ひ 

而で、 右と 左 を 見比べて は、 にゃにゃ 笑 ふの だった。 いつもの 通り 葡萄酒 をが ぶの みして、 顏面 

筋肉が ゆるんで 來 ると、 少し 足りない 妹の 無表情な 頰 ベた を 指で 突く。 

「まあ、 あなたと いふ 人 は、 なんとい ふい たづら 者で せう。」 

主婦が 人前 も 憚らす、 下手な 横 眼で 睨む と、 ヘイドン は その 頰 ベた を 突く のであった。 

柘植は 茅 野 を 一同に 紹介し、 高樹を ヘイドンに 轺 介した。 

「髙樹 さん は隨分 長く およって ゐ らっしゃ つたのに、 別段 御變 もな いぢゃありません か。 あなた 

の 顔 は、 寧ろ 輝いて ゐ ますよ。」 

上機嫌の 主婦 は、 平生 烟 つたがって ゐる 日本人-にも 珍しく 愛想 を ふりまいた。 


250 


宿の 教倫 


こらへ しゃ 5 

■ 何に つけても 堪 性が なく、 策略の 乏しい 高樹 は、 かねて 柘植 からき かされて ゐる獨 探の 疑の あ 

も 又 

る 男に、 かくし 切れない 憎惡と 好奇に 燃る 眼 を そ、 いで ゐた。 彼 は 主婦の 方に は 答へ す、 いきな 

り へ イド ンに話 かけた。 

「あなた は 白耳義 から 逃げて 御出でにな つたの ださう です が、 私 も 曾て あなたの 御國に 行った 事 

があります。 あれ は 私が 獨 乙に ゐた 頃で、 夏 休 を 利用して 行った のでした。」 

彼 はた くんで、 會 話の 中に 獨 乙の 國名を はさむ 事 を 忘れなかった。 

「さう です か、 白耳義 では 何 か 面白い 事が ありまし たか。. 一 

へ イド ン はうる さ  >- う に じた。 

「私 は 美術史 專 攻の學 生です から、 當然 美術に 興味 を 持ちました。 建築 だの、 繪畫 だの、 彫刻 だ 

の。 しかし、 美しい 町 も 今 は獨乙 軍の 爲に 破壞 された のでせ う。」 

「破 壤? あ、、 吾々 の國土 は、 ダムダム 彈、 毒 瓦斯、 あらゆる ものに よって 汚されました。 あ 

の 憎む 可き 獨乙 兵の 爲 に。」 

すっかり 芝居が かった 調子で 云って、 天井 を 仰いで 嘆息した。 

「實際 獨乙は 憎まれても 爲方 があります まい。 しかし 不思議な ものです ねえ、 私はミ ユン ヘンに 


251 


も 伯林に もな つかしい 思 出 を 持って 居る の で、 心から 獨乙を 憎む わけに は 行かない の です。」 

「は、 あ、 あなた は 獨乙& 負か。」 

ヘイドン は 大きな 口 を あけて 笑 ひながら、 同意と 救援 を 求める やうに、 主婦の 方へ 顏を 向けた。 

「まあ、 おそろしい 事。」 

主婦 は兩 手で 耳 をふさぎ、 眼 をつ ぶり、 頭 を 振って いやいや をした。 獨乙 とい へば 人類の 棲む 

國で 無い やうに 云 ふの が、 戰 時に 於る 敵國 民の 感情で あり, 宣傳 であり、 又儀禮 でもあった。 

「い、 え、 私 は 決して 獨乙 焱 負ではありません。 しかし、 あなた 方 だって 平和の 時代に は、 獨乙 

人 を 左程 憎んで はゐ なかった でせ う。 彼等 は 多少 粗野で あり、 行儀が 惡ぃ かもしれ ません が、 今 

a の 世界の 文化 を きづく 上に、 多大の 貢獻 をした 國 民です …… j 

「高樹 さん. もうよ して 下さい。 私共 英吉利の 家庭で は、 獨 乙と いふ 言葉 を閜く 事を好みません。」 

主婦が 又 口 を さしはさん だが、 高樹 はすつ かり 昂奮して、 眞 正^から ヘイドンに 迫る 態度 を 執 

「全く 此の 大戰 前に、 誰が 獨乙 人に 對 して 今日の 如き はげしい 憎惡を 感じた でせ う。 あなた は 勿 

論獨 乙に 行った 事が あるで せう が、 恐らく 樂 しい 記憶 を もって 囘顧 する 時 も あるので は 無いで せ 


252 


うか。」 

高樹 は、 自分が 筋 を 立てた 芝居の 頂點に 達した やうな 緊^ぶ りで、 眼鏡の 底に 細い 眼を銳 くし 

てゐ た。 

「樂 しい 記 意? は > -、、 。 何を樂 しい 記憶と いふので すか。 夜の 街 上の 貴婦人との 散步 です 力 

は、、、。 さう いふ 話なら、 英吉利の 貴女 達の ゐ らっしゃらない ところでし ませう。」 

ヘイドン は 相手の 質問よりも、 質問の 態度に 惡意を 直感して、 俄かに 不機嫌の 度 を 加へ、 つつ 

放す やうに いひ 切った。 それでも 髙樹は 執拗に 迫って 行った。 

「兎に角、 あなた も獨 乙に 行った 事 は あるので せう。」 

「え、、 曾て……」 

突然 高 樹は獨 乙 語で 訊いた。 

「可 時、 何處 に、 どの位 長く ゐ たのです か。」 

それ は 食卓の 一同 を 驚かした。 彼が 何故 獨乙語 を用ゐ たか、 その 眞意を 疑 はない もの も、 何 力 

敦 しら 異様な 豫感 にけ たれた。 その 向 ふ 見すな 遺 口に は、 柘植も 茅 野 も、 冷汗に 似た もの を 感じ ズ 

の 

〜 「私 は i 國の 言葉 を 使 ふ 事を好まない。」 


253 


へ イド ンは^ 怒に 燃えた 眼で 高樹を 睨み、. 飲み かけの 葡萄酒 をぐ つと 干す と、 食事な かばに 卓 

子 を 離れ、 猛然と いふ 形容詞 を 幅の 廣ぃ 背中に 見せながら、 扉を排 して 室外に 去った。 氣まづ い 

沈默の 中で、 誰 一人 口 をき く 者 も 無く- 珈琲が 出て 晚餐は 終った。 

その 事件が あってから、 ヘイドン は 食堂に もた まにし か あら はれ なくなり、 それが 叉獨 探の 疑 

を 一層 深く した。 たまに あら はれても、 酒 を 飲んで 醉 つて、 主婦と その 妹 を 相手に みだらな 口 を 

きくば かりで、 外の 者と は 言葉 を やりとりし なくなった。 高樹ゃ 柘植が 意地 惡く 話しかけても、 

露骨に 不快の 色 を 見せて、 最も 簡單な 返事 をす るば かりで、 忽ち 横 を 向いて 相手に ならなかった。 

「あいつ 愈々 あやしい ぞ。 昨夜 も 一昨日の 晚も、 あいつの 窒の窓 は あけつ 放しで、 あかりが つい 

てゐ た。」 

「英吉利の 警察なん て實に 甘い もんだ な あ。 どうして 氣 がっかな いの だら う。」 

一 一人 はあく 迄も獨 探と 睨み、 どうかして 尻尾 をつ かま へ て やらう と 機會を ねら つて ゐた。 

高樹の 健康 は 次第に 囘復 し、 又圖書 館に 籠って 終日 讀 書に 暮らす 生活に 復歸 する 事に なった が、 

柘植は それに 贊 成しなかった。 咯 血の 後の 肉體の 衰弱と、 神經の 疲勞を やすめる 爲に、 かねての 


254 


おの 敦淪 


計 畫の小 旅行に 誘って みた。 

「僕 は いや だ。 英吉利の 工業都市 なんか 見た つ て爲 方が 無い。」 

高樹は 寧ろ 不機嫌. に 担 絶した。 

「しかし、 君の 健康の 爲 にも 旅行 はい、 よ。 この 國の舂 は 素晴らしい ぜ。」 

牧草の 柔 かい 綠は、 汽車の 窓に も 反映す るで あらう。 煤烟と 塵埃の P ンド ン にしば らく 別れて、 

牛 や 馬 や 羊の 群の 遊ぶ、 前世紀 風の 繪畫の 趣 その 儘の 岡 や 野 や 水流に、 自然 詩人の 感懐 を 追慕す 

るの も惡 くないで はない かと、 柘植は 叉 押して 勸 めた。 

「僕 は 自然の 移り 變 りなん かに は 何の 興味 も 無い。 あんな 幼稚な セ ン ティ メ ンタ リズ ム と は 完全 

に絕緣 した。」 

人間の カを盡 してつく りあげた 繪畫、 彫刻、 建築、 音樂、 詩歌、 小說、 戯曲に は 憧憬 讚美 を惜 

まない けれども、 , 山 川 草木の やうな ものに 感慨 を 寄せる の は、 女 こどもの 感傷主義に 過ぎない、 

否 その 感傷 さへ、 主と して 過去の 詩歌 繪畫 によって 培 はれた 感興 の 再現に 外なら ない の だと 高樹 

は 強く いひ 張る のであった。 

「君、 知って る だら う、 ォ スカァ . ワイ ルド は 斯うい つてる ぜ。 ロンドン の 霧はク アナ ァが 描い 


255 


てから 密度 を增 したって。」 

「さう か、 そんなら 爲 方がない。 僕 一人で こどもの 感傷に ひたつ て來 よう。」 

かたくな 、友達の 態度に 反撥して、 拓植は 一 厣 旅へ 逃れ 度い 心に なり、 旅券 を 整へ ると 直に、 

手飽を さげて 宿 を 出た。 

シェフ ィ ルド、 二 ユウ • カツ ス ル.、 H ディン バラ、 グラス ゴォ と、 氣に 入らない ところ は ー晚" 

氣に 入った ところ は 三 晚四晚 泊り、 それから 海峡 を 越て 愛蘭 土へ 渡り、 ベルファストと ダブリン 

に 行き、 引返して マン チェス タァ、 バ ァ ミ ン ガム を 經て 再び 口 ンド ンの 下宿に 歸 つた。 

烟 突の 林立す る 町々 は、 軍需品の 製造に 忙しく、 何處に 行っても カァ キイ 服の 軍人と 喪服の 女 を 

多く 見た。 愛蘭 土へ ゆききの 船 は、 獨 乙の 潜航艇の 襲擊を 恐れて、 夜 更に 燈火 を滅 して 出帆した。 

恰度 その 頃、 西部 戰線 では、 一時 は ブダペスト 迄 進む だら うと 思 はれて ゐた 露西亞 が、 段々 に 

盛 返され、 ヮルソ ォも獨 軍の 手に 歸 して、 愈々 前途 は 暗く 想像され て來 た。 旅 中手に する 新聞の 

戰報 も、 聯合 軍に 不利な ものが 多かった。 柘植 は、 旅へ 出る前に 空想して ゐた 輝かしい 綠の 野原 

に 遊ばす に、 漫然たる 旅 をして ゐては 申譯が 無い とい ふやうな 肩身の 狹さを 感じながら、 三 週間 

近い 日 を 過して しまった。 


256 


宿の 敦倫 


歸 ると 直に 髙樹の 部屋の 扉 を 叩いた。 

「や あ、 歸 つたね。 どうだった。」 

机に 向って 本 を 讀んで ゐた靑 白い 額が、 なつかし さう に 振 向いた。 柘植 は、 どうしても 今度の 

旅行 を 面白い ものにして 話し 度かった。 

「面白かった よ。 殊に スコット ラ ンドと 愛蘭 土が よかった。 君 も いっしょに 来れば よかった のに 

と 度々 おもった。」 

「さう か- しかし 羨し くないな。 僕 は 伊太利 以外の 土地に 行く 氣は 毛頭な いんだ。」 

ひと 筋に 自分の 道 を 追求す る 事に 熱中して ゐる 友達の 言葉が、 ひどく 冷淡に 聞え た。 君 はさう 

いふ 人間なん だ II 心の中で つぶやきながら、 椅子 を 離れて 立 上った 相手 を 見捨てる やうに、 柘 

植は 自分の 手で 扉 をし めて、 二階へ 引上げて しまった。 

しばらく しめ 切って あった 部屋の 中 は 埃 臭かった。 窓 を あける と、 下宿の 前の 共同 園の 綠に、 

初夏の 微風 を 感じた。 長方形の 芝生 を圍む 家並 や、 いろいろの 形狀の 屋根が つくる 空との 限界 は- 

見馴れた 線と 色彩で 迎 へて くれた。 こんな 下宿で も、 住めば 旅 中の ホテルよりも 親しみ 深い II 

ゆったりした 氣の たるみと、 輕ぃ疲 勞が四 眩 を 重く し、 柘植 はふと 疊の 上に 寝たい 思 鄕症を 感じ 


257 


た。  - 

其處へ ノックして 高樹が 入って 来た。 たった今、 些かの 感じ 方の 違 ひから、 親しい 口 もき かす 

に 別れた のが、 追 ひ鎚る やうに 側に 来て、 

「君、 旅 は 面白かった か。, - 

と、 先刻と 同じ 事 をい ひながら、 椅子 を 並べて 腰かけた。 

「 エディンバラ はよ かった。 町 全體が 岡の 上に あって、 石造の 家が 崖の ふちに 立って ゐる 景色 は 

素晴 しかった。 それから、 ダブリンから 歸る 船で は、 愛蘭 土 劇圑の 連中と 同船した よ。」 

近代劇の 一分 派と して、 地方色の 強さ を 特色と する 此の 劇 M は、 日本の 釗 作家に も 大きい 影響 

を與 へ、 模倣者 や 剽 竊者を 出した 位 だが,、 農民の やうな 粗末な 服装で、 頭から 毛布 を かぶり、 星 

の 降る 夜船の 甲板に 立って ゐた。 女優 は 船室に 引 込んで ゐ たらしかった が、 n ンド ン の 劇場で も 

たてもの  1 

度々 見た 一座の 立 者、 ォ ドノ バン、 ケ リガン、 シンク レア 達 は、 柘植の 身近に かたまって ゐた。 

「さう いふ 連中が ゐ るかと 思 ふと、 一方に は、 休暇 を 貰って 歸國 した 兵隊が、 又戰 地へ 引返さな 

ければ ならない ので、 やけに なって 醉拂 ひ、 けだもの、 やうに わめき 歌って ゐる のがあった。 若 

しも 獨 乙の 潜航艇に 見舞 はれたら、 かう いふ 連中と いっしょに、 海の 藻屑と な るんだ なと 思った 


253 


M の敦淪 


よ。」 

熱心に 聽く 相手が あると、 實 際の 旅よりも 話の 中の 旅行の 方が 柘植の 感興に 熱を與 へた。 各地 

で 見た 名畫、 殊に バ ァ ミ ン ガム の 美術館に は ラフ ァ M ル前 派の 作品が 夥しく、  I! セ ツチ ゃバァ 

ン. ヂョ オンス の 下 繪百數 十 枚 を 見た 事な ど、 後から後から とつけ 足して 話した。 

「時に、 こっちに は 何にも 變 つた 事 は. ない のか。 茅 野 はどうして ゐ る。」 

「あの 男 は 例の 小娘と 手紙の やりとりが はじまつ たので、 もう ー步 だと 勇みた ち、 あせりに あせ 

つて 通 ひつめ てゐ る。 あんまり 馬鹿々 々しいから、 僕 は その 話なら 一 切 聞き 度ない と 云って やつ 

た。 先生 ひどく 憤慨して、 それつ きり やって来な いよ。. 一 、 

高樹 は高樹 らしい 心 構で、 今更 遊戲 じみた 戀愛 ごっこに、 一生懸命 になって ゐる 友達のお つき 

あひなん か出来る もの かと、 腹立たしい 色 を 示した。 

「それより もね、 あの 獨 探が、 こ、 のうちの 妹の 方に も 手 を 出した か 出し かけた かで、 かみさん 

が 怒って、 大暄嘩 を やった 事件が あった。 獨探 にも 猛烈に 喰って か、 る、 半 馬鹿の 妹に も、 お前 

がう きうき して ゐ るから いけない の だと 叱りつ ける、 手の つけられない 荒れ 方だった が、 結局 仲 

直りの 爲に獨 探と 二人で、 どこかの 海岸へ 泊り がけで 出かけた さう だ。」 


2^9 


それ は 填 太 利 人の 下僕から き、 込んだ 顚 末だった。 

「それから 君の 留守中に、 英吉利 人の 夫婦 者が やって来た。 これ は 頗るい」 夫婦で、 こんな 下宿 

に 落ちて 來る 人品で はな いんだ。 すくなくとも 知識階級の 人間で、 僕 は その 夫人 を 美術館に 連れ 

て 行って 說 明して やった。」 

三階の 一室に ゐ ると いふ 新來の 客の 噂 を、 高樹 はかなり の 興味 を もって 傳へ、 柘植も 期待 を か 

けて 聞いた。 いつ 迄も盡 きない 話 をと りか はす 二人の 眼の 前の 高い 空 は 暮れ はじめ、 遙か向 ふの 

敎 會のゴ シ ックの 尖塔の 上 あたりに、 星が ちらちら 光り 出した。 

夜の 食 t 十に は 主婦 も へ イド ンもゐ なかった が、 英吉利 人の 夫婦 者 は 高 樹ゃ拓 植と向 合った 席に 

着いた。 良人の グレイ は, 半白の 稍 長い 髮を きれいに 分け、 口髭 を蓄 へた 瘦 身の 紳士で、 グレイ 夫 

人 は 荒れた 皮膚に 小皺の 多い、 發育 不全と いった やうな 小柄な 人だった。 

高樹が 紹介す ると 直ぐに、 

「あなた は 方々 旅行して いらっしゃつ たさう です が、 いか^でした。」 

夫人 は 虚弱の 爲か、 育ちの 爲か、 ひどく 物柔 かな 態度で 話しかけた。 

此の 夫婦 は柘植 にも 好感 を與 へた。 一 般の 英吉利 人が 異國 人に 對 して 示す 高慢な 無關心 ゃ輕蔑 


260 


宿の 教^ 


の 色 を 示さす、 寧ろ 異國 人で ある 爲に、 自分 達と は 違 ふ 思想、 文化 を 持って ゐ るので はない かと 

いふ 謙讓な 好奇心で、 一 語々 々 にも 心 を 働かして ゐる 事が わかった。 常に 安 下宿で 貧しい 生活 を 

し、 無智な 人間と しか 口 をき く 機會の 無い 者に とって * よし ありげ な 夫婦 者の あら はれた 事は少 

なからぬ 興味だった。 何 を 勉強して ゐる のか. - いつ 此の 國に來 たか、 いつ 迄 滞留す るつ もり か、 

歐羅 巴大戰 について はどうい ふ 考へを 持って ゐ るか —— きまりきった 質問 も、 た^ 口先の 會 話で 

なく、 日本と いふ 遠い^ 可 思議な 國 から 來た 若者が、 いかに 英吉利 を 見、 いかに 感じて ゐ るか、 

彼と 我と を 比較して 見ようと する 用意が 含まれて ゐた。 

食後 も 高樹と 柘植は 食堂に 殘 つて 夫婦 者と 話して ゐた。 

「あなた も あの 一 一階の 人の 行動 を 不審に 思って ゐ らっしゃる のです つて?」 

突然、 夫人 は聲を 低く して 柘植に 訊いた。 その 額面に は憎惡 よりも 恐怖の 表情が 著しかった。 

「え、、 最初に. o やしい と 思った の は 私です けれど、 それ は. 全く 無資 任な、 據所 のない 想像に 過 

ぎません。 果して あの人が …… 一 

もう 高樹が 喋って しまった のか II これ は 事件が 大事になる ので はない かしらと いふ 豫感 が柘 

植を ました。 


261 


「でも、 を かしいで はありません か。 獨乙 人の 爲に鄕 土 を 奪 はれ、 身 ひとつで 逃げて 來 たとい ふ 

のが、 毎晩お 酒に 擗 つて、 遊び 步 いて ゐられ る もので せう か。 それに * あれ 程 贅澤な 人が 此の 家 

で 一 番狹 ぃ窒を 借りて ゐ るの は、 その 室の 窓が おもてに 向いて ゐ るからで はないで せう か。 第一. 

獨 乙に 散々 な 目にあ はされ た 白 耳 義人と して、 飛行船の 目標と なる 燈火を 消さす、 窓 かけ をお ろ 

さすに 平 氣でゐ ると いふ 事が ある もので せう か。. 一 

グレイ 夫人 は 低い 聲 ながら、 何 處迄も 追及し ないで は 止まない 熟 心を籠めて、 深く 窪んだ 眼 を 

異常に 銃く してた、 みかける。 

「その 點は 全く 私達 も 不思議に は 思って ゐ るので す。」 

「い、 え、 それば かりではありません。 この間 迄 こ、 に ゐた佛 蘭 西 人の いふに は、 あの人の 佛蘭 

西 語 は 訛が 強 過ぎて、 白 耳 義人と は 思 はれない とい ふので す。 ねえ、 さう いふ 話でした ねえ。」 

夫人の 言葉の 後見人の やうに、 默 つて 寄 添って、 ひそかに 力 をつ けて ゐる 良人 を かへ りみ て M 

意 を 求めた。 

一 さう です。 私 も 別段 證據を 握った わけで はない ので、 此の 場 限りの 話です けれど、 若しも 吾々 

の 想像の 通り、 あの 男が 獨 探だった として、 先づ 第一 に 知らなければ ならな いのは、 彼が 獨乙人 


262 


おの 敦倫 


であるか" 或は 白 耳 義人で ありながら 敵に 內 通して ゐる 者で あるか、 それ を 確め 度い と 思 ふので 

す。 それに は 幸 ひ 此の. 冢に は、 填 太 利 人が ゐ るので すから、 あれに 訊いて みたら どうかと 思 ふの 

です が …… 」 

グレイ は 妻と 同じ く 自分 も 疑 を かけ、 しかも 妻よりも 自分の 方が 遙 かに 思慮 深 い 考察 を 廻 ら し 

てゐ るの だとい ひたさう に 口 を 切った。 

「この 人 は あ、 いふので すよ。 けれども、 あの 填 太 利 人に そんな 事 を 訊く の は あんまり 無謀 だと 

私 は 思 ふので す。 だって、 填 太 利 も 吾々 の敵國 ではありません か。」 

「な あに、 あの こども はいたって おひとよしの 正直者 だ。 それに 本来なら ば敵國 民と して 拘留 さ 

れる 害な の を、 寛大な 處 置で 斯うして 働いて ゐられ るの だから、 英吉利と 英吉利 人に は 感謝 こそ 

すれ 敵意 は 無い よ。」 

「そんな 事 を 云 つ て、 あなたの 方が よっぽどお ひとよし です わ。」 

夫婦 は 高樹ゃ 柘植を そっちの けにして、 何時 迄 も 二階の 小 部屋の 客の 身柄に ついて、 疑惑の 網 

を ひろげる のであった。 


263 


グレイ 夫妻 は、 一日々々 と、 髙樹 拓植の 二人に 親しみ を もって 近づいて 來た。 良人よりも 讓書 

好きで、 知識 的な 夫人 さへ、 一般の 英吉利 人と 同じ やうに、 日本に ついては 何も 知らなかった。. 

ラ フ 力-、 テ ィォ. ハ アンの 日本 も、 ピエル •  ロティの 日本 も 知らな か つ た。 

「正直に いひます が、 私 は B 本の 方と お話した の はこれ が はじめて なのです。 往來で 見かける 朿 

洋 人の、 どれが 日本人 か 支那 人 か、 私 どもに は區 別が つきません。 私の 知って ゐる曰 本 は、 マダ 

ム • バタフライと ミカ ドと、 二三 の 浮世 输だ けです もの。」 

それが 此の 宿へ 來た おかげで、 遠い 未知の 國 にもよ き 敎養を もつ 人の ゐる事 を 知った の は 何よ 

りの 喜びで あると、 夫人 は眞 正面から ほめたて、、 屢々 二人 を 苦笑 させた。 

或 日の 朝の 食卓で は、 一 枚の 世界 地圖を ひろげて 夫妻が 待って ゐた。 

「お、、 昨晚は あなた 方の 御國を 探し出す 爲 めに、 午前 一時 半 迄 か、 りました。 支那が これ 程大 

きい 國 とも 知らなかった が、 日本が これ 程ち ひさいと も 想像し なかった のです よ。」 

グレイ は 地圖の ー點 に、 眞 紅の 虫の やうな 帝 國を發 見した 驚き を、 下宿の 主婦に も、 その 妹に 

も、 填 太 利 人の 下僕に も 分た うとした。 誰も 彼 も 額 を 集めて、 グレイの 指さき を 好奇と 輕 蔑と 微 

笑 を もって 眺めた。 その 人々 の 眼に は、 二人の 日本人 はた^ 顏 色の 黄色い、 體 格の 貧弱な、 風采 


264 


宿の 敦倫 


の あがらない、 そのく せ變に 氣むづ かしく、 理窟つ ぼく、 頭の 高い 人間と しかう つって ゐ たかつ 

たの だ。 グ レ ィ 夫人 は 自分 達の 心 持 を 汲み取らない 人達の 耳に 聞え よがし に 歎息した。 

「あ、、 このち ひさ 小島 國に、 どんな 固有の 文明が あるか、 いかに 賢い 人間が 住んで ゐ るか、 自 

負 心の 強い 英吉利 人 は 知らないので す。」 

「全く、 全く。」 

よくいって くれたと いふ やうに、 良人の グレイ は 妻の 肩 を輕く 叩いた。 

日本 を 知らないと いふ 事が、 やがて 反動的に 日本人 を 買 ひかぶ る 原因と なった。 未開 國の 若者 

と 思って ゐ たのが、 意外に も 自分 達より 世界の 大勢 を 知り、 學問も あるの は 驚くべき 事であった- 

その外に、 言葉の 不自由な 事 迄 も、 かへ つて 奥底に 何 かを藏 する もの、 やうに 認めさせる 所以と 

なった。 

夫婦の もの、 身柄に ついては、 根深く 訊く の は禮を 失する やうに 考 へられる ので、 控 目に はし 

てゐ たが、 自然に 明かに なって 來た。 

一. あのお ゃぢは 競馬の 仕事に 關 係して、 はでな くらし をして ゐ たんだ さう だね。 僕に は その 方の 

事 はちつ とも わからな いが、 競馬 會 社の 重役な のか、 馬券で も 取扱 ふ 人間だった のか、 兎に角 宵 


265 


越の 錢は 身に つけた 事 も 無い やうな 贅澤 をして ゐ たらし いんだ。」 

直接 グ レイから き、 込んで 來た事 を高樹 は柘植 にも 知らせた。 

「競 馬屋なん ていふと ばくちう ちみた やうに 考 へられる が、 そんな 人柄で はな いぢ や あな いか。」 

「何しろ 戰爭の はじまる 前 は、 サヴ オイに 泊って ゐ たとい ふんだ から、 一寸 つきあ ひかね るね"」 

夫婦の ものが 彼等の 噂 をのべ つす る やうに、 一 一人 もグ レ ィ 夫妻の 身の上に 少なからぬ 興味 を も 

つて ゐた。 

サヴ オイ は 一流の ホテルの 名前 だが、 子供の 無い 夫婦 は 家 を 持た す、 其處に 暮らして ゐ たの だ 

さう だ。 競馬と、 骨牌と、 芝居と、 歌劇と、 音 樂會と 1 飲食店と、 旅行と —— それが 長い間の 生 

活の 大部分 を 占めて ゐた。 ところが、 突然 大戰爭 が 起り、 競馬 どころ の騷 ぎで はなくな つたので、 

牧 入の 途の 無い 不安から、 あせって 手 を 出した 株式相場で 痛手 を 受け、 夫人が 亡父から 貰った 遣 

產 にまで も 手が ついて、 たった 一年の 間に 宿所の 格が すり 落ちて、 たうとう 此の 下宿に 逼塞す る 

身の上と なった の だ。 

「この 戰爭 がすみ さへ すれば、 叉む かしの 景氣 のい、 日が かへ つて 來 るの だから、 ほんのし ばら 

くの 辛抱 だよ。」 


266 


おの 敦倫 


下宿 住居の 不如意 や、 宿の 主婦の つれな さ を かこつ 夫人 をな だめて、 グレイ はほんと に樂 しい 

日が 明日に も戾 つて 來る やうに 信じて ゐる のだった。 

「い 、え、 この 戰爭は それ 程簡單 には濟 まな. いさう です よ" ねえ、 あなた 方の 御意 見で は、 聯な 口 

軍が 獨乙を 打破る 事 は 不可能 だとい ふ の で したねえ。」 

ふところ 

夫人 は 母親の 懐で ねむたがる 子供の やうに、 横に 頭 を ふりながら、 高樹ゃ 柘植の 同意 を 求める 

のであった。 

「そんな 馬鹿な 事が …… 」  、 

グレイ は 妻の 心 を やすめる 爲 にも、 又 ほんと に 英吉利の 力 を 信じても ゐて、 此の 場合に は 若い 

異邦人の 說をこ k ろよ く 思 はな か つた。 

「僕達 も 聯合 軍の 最後の 勝利 は 信じて ゐ ます。 しかし、 大砲 や 飛行機 や 軍艦で、 獨乙を 降服 させ 

る 事 は出來 ない と 思 ふので す。」 

拓植 に 交 戰國に 在りながら、 誰の 前で も 自說を 公言して 憚らなかった。 

「大袍 や 飛行機で 獨乙を 降服させる 事が 出来ない とい ふと?」 

一 つまり 非常に 長い 年月の 間 四方に 敵 をう けて ゐれ ば、 貪 物の 不足 か、 財政 的 破綻 か、 革命で も 


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起る か、 そんな 事が 直接 原因と なって 負ける 事 は 想像 出來 るので すが、 幾度 突 莨しても、 肉彈を 

叩き つけても、 伯林 迄 進軍す る 事 はあり 得ない とい ふので す。」 

「たぶん その 說は 正しい. でせ う。 しかし, 私 は 信じて ゐ る。. 旣に 戰備の 完成した 聯合 軍 は、 早晚 

總攻擊 を 開始し、 遠から す 敵 を粉碎 する に 違 ひ 無い。」 

それ は戰 つて ゐる國 民の すべ てが 望んで ゐる 事で はあった が、 い つ 迄た つても 決定的に 勝利 を 

得る きざし は あら はれなかった。 反對 に、 獨乙は 潜航艇で 海上 を 荒し、 飛行船で 海に 近い 地方 を 

度々 脅し、 ロンドン も 何時 襲擊 をう ける かわからない 不安が、 人々 の 心を喑 くした。 

戰爭の 長引く 事 は、 グレイ 夫妻の 生活に、 陰影 を 濃く する ばかりだった。 眞 夏の 暑い 日中 も、 

グレイ は 諸 万の 知人 を たづね て 職業 を 探し 步 いた" 夕方、 高 樹ゃ柘 植が圖 書 館から 歸 つて 來る 頃、 

グレイと 扉 口で 落 合 ふ 事が 度々 もった。 日に 燒 けた 赤い 顏 をし、 帽子 をと つて 汗 を 拭きながら、 

「今日 も 一 日步 いた けれど、 こんな 年寄 を やとつ て くれる ところ はあり はしない。」 

といつ も の 通り 微笑し なが らい ふの が 吐息の やう に 聞 とれ るので あった" 

「あの人 はい K 人です。 たしかに 善良な 人です。 けれども 有能の 人 かどう か は 疑 はしい と 思 ひま 

す。」  ... 


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何事に も 批評 的な 態度 をと る 夫人 は、 自分の つれ あ ひの 苦 勞には 同情しながら、 客観的に 見る 

餘裕を 失はなかった。 若い者 は 兵隊に なり、 人手 は 不足して 來 たが、 到る ところで 女が 働き はじ 

め、 半白の 老人が 礬 はれる 餘地は 乏しかった。 肉體勞 働の 經験 も、 それに 堪 へる 筋骨 も 持 合さす、 

銀行 會 社の きちんとした 仕事に さ へ 半生の 經歷が 不適 當 にして しまった 人間に、 さう やすやすと 

• 蛾 業の 見つかる 害はなかった。 

或晚、 柘植の 部屋 を グレイが 訪れた。 夫人 は 仲 善の 友達に 誘 はれて 寄席に 出かけた とい ふ 事で、 

しばらく 無駄話 をして ゐ たが、 突然 改 つた 様子で 切 出した。  , 

「こんな 事 を 云って, 氣を惡 くされて はすまない のです が、 全く 困って しまった ものです から、 

づ うづう しぐ 御 願に 來 たのです けれど … … 」 

いひし ぶる 様子 を 見て、 金の 問題 だな と 直感す ると、 柘植は 共々 赤面して しまった。 

「實は 先週の 宿料が まだ 拂っ てな^ので、 宿の かみさんに 口ぎ たなく 催促され て 弱って ゐ るので 

すが、 十日 以內に はきつ と 御返しし ますから、 功け ると 思って 貸して 下さる わけに はいかないで 

敦 せう か。 一 

の 

宿 羞 しさの 爲 に上氣 して、 つとめて 平 靜を装 はう としながら、 グレイの 膝の 上の 手 はかす かに 震 


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へ てゐ た。 

「さあ、 お金です か。 金と なると 私に もちつ とも 餘裕 はない ので …… 」 

柘植も 唇が 乾い て 樂には 言葉が つで かなかった。 

「私 も 毎月 父親から 送金して 貰つ でゐる 身分で、 しかも その 金高 は、 やう やく 喰って 行かれる だ 

ほ で、 贅澤 をしたり、 他人 を 助けたり する 程の もの は 無い のです。」 

「だから 十日 以內に はお 返しし ますよ"」 

何とか 云 つ て斷 らうと する 出鼻 を、 相手 は無雜 作に 叩いて しまった。 

「一週間 や 二週間の 宿料なら、 家内に 話せば どうにかして くれる のです が、 何分 あれに も 迷惑 を 

かけた ので …… 」  • 

グレイ は くどくど とい ひわけ を はじめた C 妻が 父親から 赏 つた 遣 產は 相當の 額だった が、 大部 

分 は 自分の 手 違 ひで なくなして しまった。 あと 少し は 銀行に 殘 つて ゐ るが、 それ を 引出させ るの 

は 情に 於て 忍び 無い。 だから 一 時の 融通 をつ けて くれと いふので あった。 

柘植は そこに 自分 建と は 全然 違 ふ 西洋人の こ、 ろ を 見た。 良人と 妻と が 別々 に 財產を 持ち、 良 

人 は 一 文 も なくなって しまったのに、 愛する 妻に 心配 を かけまい とい ふ心づ かひから、 妻に 救 ひ 


270 


ffl の敦倫 


を 求める か はりに、 まだ 知合って 間 もない 異邦人に 頭 を 下げて 頼む の は、 頗る 勝手 違 ひに 感じら 

れて、 斷 りの 言葉 を 見出す のに 迷った。 結局 彼 は グレイの 手に、 一週間 分の 宿料に 相當 する 金子 

を 渡した。 グレイ は 幾度 も 感謝の 言葉 を 繰返した 後で、 

「もう ひとつ 御 願 ひして 置き 度 いのは、 どうか 此の, 事 を 家內に はない しょに して 頂き 度い の です- 

一時な りと も あなたから 金 を 借りた など、 いふ 事 を、 あれが 知ったら 何とい., ひます か、 私の 立場 

がな くな つてし まひます。」 

長い間 手の 中に 握って ゐた金 を 懐中に 納める と、 グレイ は 固く 柘植の 手 を 握って、 部屋 を 去つ 

た。 

十日 以內に は必す 返す とい ふ 約束で は あるが、 もともと 困りに 困った あげく、 借に 來 たのに 違 

ひ 無い の だから、 萬 一 返せない 場合に は、 月末に なって、 自分 も 宿料 を拂 へない 事に なり はしな 

いか II 柘植は 相手に 金 を 渡した 瞬間から、 不偸 快な 心配が 胸に 殘 つた。 翌日から、 グレイ 夫妻 

に 逢 ふの を 避けよう とする 氣 持に 煩 はされ た。 先方 はどうに も 融通が つか なくなり、 恥を忍んで 

年の 若い 異邦人に も鎚 りついた の だ。 さぞ かしば つの 惡 さに 惱 んでゐ るで あらう。 又 夫人の 方 は- 


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亭主が そんな 相手に 金 を 借りた と 知ったら、 一 I 恥 入る に 違 ひ 無い。 グレイ はきつ と 自分と 顏を 

合せ 度ない だら うと 思った の だが、 意外に も グレイの 方で は、 わざわざ 拓植を 探し 求める やうな 

態度で 近づいて 来て、 今迄よりも 親密の 度 を 加へ て來 た。 

數日 たっと、 約束 通り 金 を 返した ばかりでなく、 その 晚は 柘植と 高樹を 晩餐に 誘った。 多く 酒 

をた しなまない グレイ は、 少量の 葡萄酒で 眞赤 になり、 著しく 雄 辯に なった。 彼 は ロンドン 一流 

の 料理屋の 名前 を 並べ、 料理の 通 を 聞かせ、 いぜん • の 贅澤な 思 ひ 出に 醉ひ、 上機嫌だった。 そし 

て、 食後 は 寄席に 案內 するとい ひ 出した。 

「行かう、 行かう。 私 は 久しぶりで、 昨夜 は 骨牌で 勝った の だから"」 

喜び を かくしきれ す、 どうして 金が 手に入つ たか、 正直に 喋って しまった。 

「それから、 まだ. 確定と いふ わけで はない けれど、 火災 保險の 代理店で 人手が 入用 だとい ふので、 

つとめが きまる かもしれ ない のです よ。 幸運 はやう やく 吾々 に 廻って 來た。 さう は 思 はない かね、 

フ ロシイ。」 

圓 卓の 向 側の 妻に 唇 を 持って行く とい つた 様子で、 グ レイ は 有頂天だった。 

一. さあ、 いか r でせ うか) 幸運 は 不運よりも 吾々 を 訪れる 事が 少ない やうです よ。」 


272 


M の敦倫 


夫人 は 他愛の ない 良人の 上機嫌 を たしなめて 置いて、 一 一人の 方に 話 を 移した。 

「あたし は 此の 人が たまに 骨牌で 勝った からって、 決して 喜ばない のです。 勝つ よりも 負る 方が 

多い の ですから …… 」 

「あ、、 フ CI シィ。 それ をい つて はいけ ない。」 

グレイ は兩 手で 妻の 言葉に 蓋 をした。 

「これが 家內 のい つもの 癖です。 私に いはせ ると、 たちのよ くない 癖な のです。 何故かと いへば 

家內 はいかなる 場合に も、 喜び を 喜びと して、 單 純に 喜べない 性質な のです。 何の 益 もない 事な 

のに、 裏の 裏を考 へて しま ふので す。 それ は 家內の 思索的な 性格の 爲で せう。 しかし 悲しむべき 

性格ではありません か。」 

人間と いふ もの は 嬉しい 時 は 嬉しがる 丈で、 何も 外に 考 へる 必要 はない、 それがし あはせ とい 

ふ もの だと、 始終 夫妻の 間で いひ 爭 つて ゐ るら しい 事 を、 ひとかどの 哲學で r も ある やうに もつ 

ともらし く說 明す るの だった。 それ は 妻 を非雞 する よりも、 寧ろ 尊敬す る 心の 表現で あり、 同時 

に 妻に 對 する 好意のから かひで もあった。 

「兎に角、 私 は 肾 牌で 搽っ 事が、 負る 事よりも いかに 少ない か を 知って ゐ ます。 少なくとも 吾々 


273 


の 結婚した 曰 以來、 それ は 事實に 相違ない のです もの。」 

夫人の 諧謔が みんなに うけた ので、 グレイ はー曆 上機嫌に なり、 附近の 食卓の 人が 密かに 振 向 

いて 見る 程 笑った。 

「あなた 方 は 骨牌 はなさい ません の。」 

良人の 笑 ひ を 消す つもりで、 夫人 は 柘植に 話 を 向けた。 

「時々 ブ リツ ヂを やります。 しかし 賭けた 事はありません。」 

「まあ、 ブ リツ ヂ をして 賭けない のです つて。」 

のみこみ にくい 顏 つきでき、 かへ した。 

「僕達 は赌 事を好まな いのです。 偏見 かもしれ ません けれど。」 

「骨牌 をして 賭けない とい ふの は、 砂糖 を 入れす に 珈琲 を飮む やうな もの さ。 はつ はつ はつ は」 

恰度 運ばれて 來た 珈琲に 沈めた 砂糖 を かき 廻しながら、 グ レイ は 叉しても 笑 ひ 崩れる ので あつ 

た 

結局、 グレイ は みんな を 連れて 寄席に 行かない では 承知し なかった。 戰 時の 事で 客の 入り も少 

なく、 舞臺も 寂しかった が、 戰爭 あてこみの うたうた ひや、 諷刺の 後で、 戰線 の實寫 の 活動 寫眞 


274 


宿の 敦 倫 


が 撮され、 聯合 各國の 元首 ゃ將 軍の 寫眞の 中には、 大正の 御代の 天皇の 御 姿 や、 日章旗 を ひるが 

へす 軍艦 も 映し出され、 グレイ は 誰よりも 熱心に 拍手 を途 つて、 二人 を 款待す る こ、 ろ もち を 表 

現した。 

一週間と た、 ない うちに、 グレイ は 叉 柘植の 部屋 を 訪れ、 一週間 分の 宿料 を 貸して くれと 申入 

れた。 火災 保險の 方の 仕事が きまり か、 つて ゐ るから、 決して 長く は 借用し ない、 恐らく 三度と 

は 迷惑な 御 願 はしない であらう と、 最初の 時よりも 尙 深く 恥 入った 樣 子で 頼む ので、 拓植 も亦自 

分の 懐に 餘裕の 無い 事 を 繰返した あげくに、 それ 丈の 金 を 渡した。 

「矢 張 幸運 は 不運よりも 廻って 来る 事が 少ない やうです ね。」 

いはない でもい、 事 をと、 いってし まつてから 自分で も氣が とがめた が、 其の 場の 拍子で つい 

口にした。 グレイ は ひどく 參 つた 態度で、 

「あ \ 柘植 さん 迄 そんな 事 をい つて はいけ ない。」 

と 忙しく 手 を 振りながら、 逃げる やうに 去った。 

夫人 は 良人が 二度 迄 も柘植 から 金 を 借りた と は 知らなかった。 朝、 高 樹ゃ柘 植が圖 書 館へ 出か 

ける の を 見る と、 いっしょに 宿 を 出て、 みちみち 話 をして 步 くの を 樂ん だ。 二人が 散步に 出る 時 * 


275 


邪魔で なか つたら 自分 を 誘って くれと、 幾度と なく 云 ふので あった。 

歐米人 一般の 通念で、 實 際よりも ー厣 貧弱な 國 だと 思って ゐる 日本から 來た、 體格も 顔つき も 

みなり も惡 く、 おまけに 金 廻 もよ くない 學 生に 對し、 輕蔑か あはれ みか、 何に しても 對 等に はつ 

き あはない のが あたり まへ なので、 はっきり 意識す るし ない は 別と して、 誰し も 人情に 飢 ゑて ゐ 

るの がなら ひだった。 そこへ、 夫人の わけへだての 無い、 少しも 偏見 を 持たない 態度 を 見せた 事 

は、 少なから す 二人 を 喜ばせた。 英吉利 人に は 珍しく こまやかな 理解力 を 持つ 夫人に 對 して、 め 

いめい 自分 達. の 憧憬 讚美す る も の を押賫 りした。 高樹は 自分が 陶酔して ゐ る文藝 復興 期 の 美術 の 

特質 を說 き、 博物館 や 畫廊に 同行して 觀赏を 共に し、 柘植は 好んで 讀む トルストイ や ドス トイ H 

ブス キイの 小 說を勸 めて、 英吉利の 通俗小説 を 夫人の 手から 奪った。 そして、 化學 者が 寳驗の 反 

應を みつめ、 園丁が 蒔いた 種子の 發芽 を、 成長 を、 開花 を 待つ のと 间 じ 興味で、 夫人が いかに 理 

解し、 味讀 する か を 見極めよ うとした。 

「あれ 程 ものわかり のい 、英吉利 人 は 珍しい な あ。」 

「あれで もう 少しき りゃうが よければ 申 分ない が。」 

一 一人 はそんな 事 を 繰返して 噂した。 


276 


宿の 敦倫 


下宿の 客 は 頻繁に か はり、 一番の 古顏は 印度の 學 生と 高 樹で、 次が 拓植、 それから ヘイドン、 

グレイ 夫妻と いふ 順だった が、 新たに 二十 三 四の 英吉利 娘 二人と、 ォォス トラ リアから 軍人 志願 

で歸國 したと いふ 若い 男が 加った。 

娘 達 は ひとつの 部屋に 二人で 住んで ゐた。 パイ パァ とい ふの は脊が ひよ ろ 長く、 腰圍は 相當の 

發育を 遂げながら、 上半身 は 頗る 貧弱, で、 胸が 薄く、 前屈みに なり、 頭部が ち ひさく、 首が 長く、 

駝鳥の 姿勢だった。 髮も 眼も黑 く、 皮膚 も 焦げた 麥色 をして ゐた。 ボイスと いふの は脊の 低い、 

あばら 

がっしりした 體 格で、 胸が 厚く 張り、 一枚 肋の 感じの する、 顏の 道具 も 大きく、 強い 性格 を 示す 

ものが あった。 一方が あまり 化粧 もしす、 みなり も 無頓着ら しいのに ひき かへ、 この 方 は 濃い 化 

粧 をし、 衣服 も 派手 好みだった。 この 娘 達が どうい ふ 身柄で、 親 達の 家 を はなれて 共同生活 をし 

てゐ るの か は、 忽ち みんなの 疑問と なった が、 直に 聯想の 浮ぶ やうな 街 上の 女らしい そぶり は少 

しも 見えなかった。 甲斐性の ありさうな ボイスの 方 は、 市中の オフィスに 勤めて ゐ るの だと 云つ 

て、 朝 は 規則正しく 出て 行った が、 。ハイ。 ハァの 方 は 勤 口の 無い の を かこちながら、 別段 あせって 

探す 風 も 無く、 無性った らしい 體を、 下宿の 客間の 長椅子に 任せて ゐた。 

若者べ H ジは、 頓狂で おしゃべりで、 臆面な く、 誰もき、 もしない の に 身の上 話 を 好んで した。 


277 


吸した。 殊に 茅 野 は、 手酷し い 批評家から、 ダヌン チォと ホフマン スタ アルと メ  M テル リンクの 

三角 關 係の 私 生兒 だと 罵られた 事 も ある。 

「どうだい、 なつかしいだ らう。」 

み ちみち 柘植 のから かふ 言葉 の 意味 は、 誰に も はっきり わかる のだった。 

「うん、 なつかしくない 事 もない な あ。」 

茅 野 は歐羅 巴に 渡って から、 俄に 強い 意思 を もって、 近代 自然 派 以後の 文學を 否定し、 古典に 

復 らん 事 を 主張して 来た。 曾て は 非常なる 熱情 を 以て 崇拜 した 人に 對 しても、 悔恨に 似た 想 ひ 出 

の 方が 多かった。 その 古傷に 遠慮なく さ はられて、 顏を 紅く する やうな 性格 もあった。 

薄暗い 會 場に、 聽衆 はま ばらだった。 それ も 英吉利 人 は 少なく、 戰亂 地から 身 を もって 逃れて 

來 たやうな 人が 多かった。 詩人 は 想像 を 裏切って、 地味な みなりの、 肩幅の 廣ぃ、 がっしりした 

老人だった。 優 麗な詞 華 を 弄び、 神祕 象徴の 世界に 想 ひ を馳る 人と も 見えす、 寧ろ 英吉利 型の 實 

業 家 か、 工業 家と いった 風采だった,。 それよりも なほ 意外だった の は、 その 訥辯 だ。 欧洲 大陸の 

人に は 珍しく • 身ぶ り 手ぶ りが 少なく * 一  切 見榮を 切る やうな 態度に 出す、 稍う つむき 加減に、 

恥ら ふやう に、 嗄れた 低聲 で、 白 耳義の 立場 を、 人道 を、 正義 を說 くので あった。 徹頭徹尾 寂し 


2S0 


宿の 敦偷 


く, 陰鬱な 演說會 だった が、 最後に メ  M テル リンク 夫人が 歌劇 「ぺ レア スと メリ サンド」 の 一節 を 

うたって、 僅かに 聽衆を 喜ばせた。 

ほっと 歎息す る やうに、 三人 は會 場の 出口から 戶 外へ 吐出され た。 晚 夏の 暮れ 切らない 雲の 多 

いさに、 うつす りと 夕日が さし、 市中の 物の 音が、 その 空に 反響す る やうな" 靜 かな 夕方だった 

「驚いた ねえ、 メエ テル リンクって、 まるで 造船 技師み たや うぢ や あない か。」 

「しかし か へ つて あの方が い、 ぜ。 素晴 しい 雄 辯で、 身振澤 山で、 セ ンチ メンタルな 表情で もさ 

れ たら 堪らない からな あ。」 

も つ と 大き い 昂奮 を 期待した 三人 は、 カ拔け の した 感じ をい だきな が ら 印象 を 話 合 つ た。 

「お茶で も 飲まう か。」 

茅 野 は 町角で 足 をと めて、 二人 を 誘った。 

「君達に 是非き いて 貰 ひ 度い 話 も あるんだ。」  . 

「叉 例の 臺灣 茶へ 行 くんだら う。 僕 はい や だよ。」 

高樹 はこ だます る やうに 答へ た。 

「い、 や、 それが その 行きに くい 事に なって しまったんだ。 あそこの 支配人の 奴、 來て くれるな 


281 


とい ふんだ。」 

茅 野 はてれ かくしも まぜて、 自分の 役の 惡さを 笑った。 

「何? 足ぶ みして ぐれるな と 云 ふの か。 馬鹿な。」、 

腹立たし さう に 云って、 高樹 ははげ しく 唾 をした。 • 

「さう なんだ。 だから あそこに は 行かない。 何處 かほ かのうち へ 行かう。 詳しい 物語 は そこです 

るよ。」 

「いや だ。 僕 はメ子 テル リンクで 充分 疲れた。 この 上 君の 戀愛 事件なん か 聞かされて 堪る もの か。 

僕 は 失敬す る。」 

病氣以 來ー曆 白くな つた 額に、 ほんと に 疲勞の 色 を 見せて、 高樹は 何と 云っても 應 じなかった。 

「柘植 君、 君 は歸ら ないか。」 

氣 早に 步き 出した のが、 ふり かへ つて 訊いた。 

「僕 は 後 學の爲 にの ろけ を拜聽 しょう。 下宿に 歸 るより は 幾分 朗だ らう。」 

「さう か。」 

高樹は 自分の 輕蔑 する 事に は、 友達に も關與 させた がらない 強い 根性 を 持って ゐた。 嘲る やう 


282 


宿の 敦倫 


にい ひ捨 ると、 少しも 上體を 動かさない 姿勢の、 首筋から 兩 肩に、 孤 獨の影 を 宿した やうな 後 姿: 

を 見せながら、 さっさと 行って しまった。 

「同情の 無い 奴 だな。」 

茅 野 は 友達の 生一本の 性情 を、 心から 面白がって、 よく 響く 聲で 笑った。 

二人 は、 下宿と は 反對の ハ イド • パァク の 方へ 步 いた。 公園の 入口に は、 いつもの 通り 募兵の 

演說 をす る 者が あった。 勞働 者ら しい 體 格の 若い 兵士が、 さかんに 拳骨 を 振 上て 絕 叫して 降壇す 

ると、 次に は 中年の、 こ、 ろ を用ゐ てみ なり を 質素に した 上流の 婦人ら しいの が 登壇して、 しき 

りに 愛嬌 をば らまきながら、 祖國の 危急 を 救へ と訴 へる のであった。. そんな 風に、 街 上で は、 人 

を 昂奮 させ、 激昂させる 言葉 を盡 して 銃劎を 執れと 叫んで ゐ るのに、 廣く 圍む鐵 柵の 內 側の 芝生 

に は、 幾 組 かの 男女が、 いひ 合せた やうに 顔と 顏と をく つつけ、 堅く 抱 合って 横って ゐた。 男 は 

大概 カァ キイ 服の 兵士で、 相手 は 近所の 女中 達で あらう、 黑ぃ 服の 襟 や 袖口に 白い レ ェ スを つけ 

たのが、 中には 乳母車に 幼 兒を殘 した ま、、 我 を 忘れて ゐ るの もあった。 

一 一人 は 池の ほとりの ベ ンチに 休んだ。 貸ボ オト を 漕ぐ もの も 少なく、 さ^ 波 もた、 ない 水面に、 

白鳥 や 鵞鳥の 群が 悠々 と 泳いで ゐた。 同じ 交戰國 とはい ひながら、 先刻 メ H テル リンクが 摻禍を 


283 


訴 へた. 21 耳 義ゃ佛 蘭 西と、 こ の國 との 相違の 著し さ を 象徴す る やうな 平和な 景色だった。 

一. どうしても 島國の 人間に は 戰爭の 急迫した 實感は 起らない。 僕達 だって、 たと へち ひさい 時の 

事 だと はいへ、 日淸 日露の 戰爭 とい ふ もの を、 殆ん どお 祭の やうに しか 感じなかった が、 國境を 

接して 戰 つて ゐる 同盟 國が、 英吉利の 態度に 不滿を 感じて ゐ るの は 無理 はない と 思 ふね。」 

「しかし、 出来るだけ 少ない 犠牲で 濟 ませた いのは どの 國 でも 同じ だら う。 これが 若し 獨 乙の 軍 

隊が 此の 國の 一部 を 占領した とか、 ッ H ペリンが ロンドン を 爆破した とかい ふ 事に なれば、 いく 

ら 英吉利 人 だ つて あわてる だら う。 要するに 四圍の 狀況の 相違 さ。」 

「さう いへば さう だが、 怫 白の 悲惨に ひき くらべて、 この 國の 高慢ち きな 奴等に も、 砲火の 洗禮 

を 施したい 氣 がする ね。」 

柘 植はメ  M テ ル リンクの 訥々 たる 演說 と、 その 同國 人の 聽 衆の 暗い 陰影 をし よった みじめな 有 

様 を 想 ひ 出して、 何 か 英雄的な 行爲に 身を投じた いやうな 衝動に 驅られ た。 

「まして 況ゃこ の 非常時に、 喫茶店の 少女に 夢中に なって 仕事 を 放擲して ゐる 人間なん か 呪 はる 

べき だよ。」 . 

「なんの 事 かと 思ったら、 ひどい 事になる もの だな あ。」 


284 


' 宿の 氡倫 


茅 野の 朗な 笑聲は 水面 を 遠く 迄 走って 行った。 

「しかしね、 僕の 方 も 決して そんな 呑氣 な現狀 ではない の だ。 非常時と いへば 非常時なん だよ。 

だから 君と 高樹 にきいて 貰って、 力 を 借ようと 思つ たんだが  」 

「高樹 君に は 一 蹴され ちゃった ね。」 

「あいつ、 自分の 關係 しない 事に は 頗る 冷淡 だからね。」 

茅 野 は 髙樹に 逃げられた 丈、 柘植に 頼りたい 心 持が 強かった。 

「先刻 も 一 寸 話した けれど? ほんと に 喫茶店の 支配人に 木戸 をつ かれたん だ。 それと いふの がね 

え …… 」 

茅 野 は その後の 彼の 戀愛 事件に ついて、 一生懸命に 話 出した。 彼 は 相 變らす 毎日 茶店に 通 ひ、 

遠くから 意中の人と 目 額で 挨拶したり、 手紙の やりとり をして、 完全に 少女の 心 をつ かんだ が、 

外の 四 人の 女が 嫉妬 を 起し、 監督の 年增迄 も 態度 をー變 して、 敵意 を 露骨に 示す やうに なった。 

それ も 茅 野 を 憎む だけで はなく、 相手の 娘 も 仲間から つれな く あたられ、 監督に は 茅 野から 來た 

手紙 を 皆の 前で 開封す る やうに 強要され る やうに なった。 遠い 異鄕 に來 て、 今迄き やう だいの や 

うに 仲よ くして ゐた 友達に も 汚ら はしい もの 、やうに つまはじきされ、 白い 眼で 見られる 事に な 


285 


つて は、 日毎々々 が 悲しく 苦しく、 ゐた、 まれない と訴 へて 來る。 斯うい ふ はめに なった の を, 

茅 野 は 彼 一流の 解釋で 見た。 四 人の 少女が やきもち を やくの は爲 方が 無い が、 監督 は 怪しからん、 

あの 年增は ひそかに 自分に 好意 を 寄せて ゐて、 自分が あの 娘に 近づかう とする の を 知り、 中途 迄 

は 取 持顏を 見せ はした が、 ほんと に 二人が 接近した となると、 忽ち 嫉妬に 堪 へられ なくなつ たの 

だ、 あいつ はい やらし い 位體を 擦つ けて 來た 事が ある、 あいつ は 別れの 握手の ふり をして 堅く 堅 

く 手 を 握って 離さなかった 事が ある 11 と、 女と いふ 女 は 自分の やうな 美貌の 詩人に は 好意 を 持 

つもの だとい ふやうな 口吻 さへ まじへ るので あった。 

「ところが、 つい 一昨日の 事なん だ。 例の 通り 茶店へ 行って、 隅つ 子に 陣取り、 いっぱいの 紅茶 

でねば つて ゐ ると、 時々 あの 店で 見た 事の ある 支配人と いふ 奴が、 妙に にこに こ 笑 ひながら やつ 

て來ゃ あがって、 馬鹿 叮嚀な 態度で 名刺 を 出し、 初對 面の 挨拶 をして から、 僕の 眞 向の 椅子に か 

けた。 薄 禿の い、 年 をしながら、 年中 眼 尻に 微笑 を湛 へて ゐる, とい ふい やみな 奴なん だ。 そいつ 

あげ 

が、 まことに 御 無 禮な事 を 申 上て 御 氣持を 悪くな さって は相濟 まない がと、 無闇に 御の字 澤 山で 

切 出した。 聞けば 此の 店に 働いて ゐる 娘の 一 人を大 署御最 負に なすって、 御手 紙な ども 頂戴す る 

さう だが、 あれ 達 は 普通の 給仕 人で はなく" 相當の 親許から 堅い 約束で ぁづ かって 來てゐ るの だ 


286 


f さの^ 倫 


から, 無事に 見學 させて 日本へ 連れて 歸る 義務が ある。 間違 を 避ける 爲に、 日本人の 客に はサァ 

ヴ イス させない 位 注意 を拂 つて ゐる。 だから 此の 店を最 負に して 毎日 來て 下さる の はありが たい 

が、 あの 娘の 爲に來 て くれる のなら 迷惑 だ。 あなた さま も 御 出世 前のお からだ^し、 日本に は 親 

御 さま も 無事の 御 歸朝を 御 待 兼 だら うから、 雙 方に 間違の 無い やうに、 今後 は 此の 店に は來 てく 

れる なと、 實に はっきり いや あがる のさ。」  . 

都會 育ちの もの、 なら はし は、 我 身の 事 を 話す 時、 相手に 冷 かされる のを豫 期して、 わざと 先 

へ廼 つて 冗談め かすの が 普通な の だが、 茅 野 は 次第に 眞劍 になり、 憎惡を こめて 話す のだった。 

一, ふうむ、 おも ひ 切った 事 をい ふ もの だな。 それで 君 はどうし たんだ。」 

柘植も 友達の その 時のば つの 惡ぃ 立場に 我 身 を 置いて みて、 事の 理非よりも 先に、 その 支配人 

を 憎んだ。 

廣ぃ 公園 も 隅-々 迄 黄昏の 色に 包まれた。 ボ オト は みんな 岸に つながれ、 水鳥の 姿 も 木立の 影の 

喑ぃ 中に 消えて しまった。 何處 かで、 かすかに がっくが つくと 鴛 鳥の 啼 くの が 聞え るば かりだ。 

一., 僕 も 全く 豫 期しなかった 相手が 突然 眞 正面に あら はれて 來て、 言葉 は 叮嚀 だが 腰を据 ゑて 要求 

を 切 出した ので、 一寸 手の 下し やう も 無かった が、 こんな 事で 負けて 堪る もの かと 思った から、 


287 


自分 は 決して あの 娘 を 誘惑す る もので は 無い、 曾て は ふしだらな 行跡の あった 自分で は あるが、 

今 は 淸淨な 生活に 入らう と 堅く 心 をき めて ゐる、 あの人に 對 しても、 本人が 承知して くれるなら 

綺麗な つきあ ひ をつ ぐけ、 日本へ 歸 つてから 結婚す るつ もりな の だ、 だから 誰に 恥る 事 もない の 

だと 云って やった。 しかし 向 ふ はそんな 事で は 引 込まない。 結婚 をす るなら する でい、 が、 その 

話 は あの 娘が 日本へ 歸っ た 後の 事に して 貰 ひ 度い 、 今 は 自分が 全責任 を も つ て ぁづ か つ て ゐ る の 

で、 よしんば 本人が 何と 云 はう とも、 その 親 達との 約朿 によって 保護し なければ ならない、 其の 

重大な 責任者と して は 大事の 上に も 大事 を とらなければ ならない ので、 立派な 紳士に 對 して 氣の 

毒で は あるが、 今後 この 店に 出入. する 事は絕 對に斷 るし、 叉 あの 娘との 文通 も 一切 やめて 貰 ふ 事 

にす る、 娘の 方に は 旣に嚴 しく 申 渡した とい ふの だ。 さう いふ 押 問答 をして ゐ るの を、 監督 も 娘 

しょげ 

達 も 事態 を 察して、 遠くから 注視して ゐ るし、 一番 弱った の は、 當の 本人が、 s: 心 は怕氣 てゐる 

の だら うけれ ど、 さも 何も 知らない やうな 風で、 あっち こっちの 卓子の 給仕 をして ゐ るんだ。 流 

石に 僕も參 つた。」  , 

「それで 君 は 閉口して 引下った のか。」 

「い、 や、 勿論 僕 は 何の 言質 も與 へす、 結局 うやむや のうちに 物別れと なった の だが、 それにつ 


233 


おの 敦偸 


いて 君達に 是非 力 を 借りたい と 思 ふの だよ。」 

茅 野 はな ほ 言葉 を續 けようと したが、 ふと 思 ひか へ して、 

「や あ、 すっかり 暗くな つち やった。 何處 かで 飯 を 喰 ひながら 話さう。 今日は 久 振で お茶と いふ 

もの を 口にし そこなつ ちゃった。」 

公園 を 出た 二人 は 一番 最初に 目に 入った 家へ 上った。 階下 は 喫茶 部で、 二階へ 上れば 手 輕な食 

事の 出来る 粗末な 家だった。 時間 をはづ したので、 ほかに は 客 も 少なく、 話 をす るに はもって 來 

いだった。 百貨店の 賫 子の やうな 質素な 服 を 着た 娘 達 は、 註文の 品 を 持って来 ると、 窒の 隅へ 行 

つて 編物 を はじめた。 茅 野 は 食慾 を 忘れた やうに、 自分 を 主人公と する 話に 夢中だった。 

「それで だね、 僕 は あんな 支配人 なんか 相手に したって 爲 方が 無い から、 直接 本人へ 手紙 を 出し 

たんだ。 どんな 邪魔が 入っても 自分 を 信頼して くれと 云って やつたん だが、 本人の 手に入つ たか 

入らない か、 返事が 無い。 それで 昨夜 は あの 連中の ゐる アバ アトの 前で 歸 るの を 待って ゐて、 本 

人の 意中 を 確め ようとし たんだが、 監督の 奴が 邪魔 をして、 直接 口 をき く 事 を 拒 むんだ。 押 問答 

をして ゐる うちに、 本人 は 外の 娘 達と いっしょに うちの 中へ 入って しまった。 あく 迄 も 逢 はなけ 

れ ば歸ら ない といって やらう かと も 思った が、 それよりも ー應 君達と 相談して、 力 を 借りようと 


289 


思って ね……」  - 

「ありがたくない な。」 

拓植は 空腹に しみ 入る 麥 酒で 口が 輕く なって ゐた。 

「流石に 高 樹君は 悧巧 だ。 形勢 を 察知して 逃げた からね。」 

「それで だね、 僕 は 君と 高樹 君と 二人に 賴ま うと 思 ふ 事が あるの だが、 あの 樣子 では 高樹君 はい 

や だと 云 ふに 違 ひ 無い から、 是非とも 君に ひと 肌ぬ いで 貰はなくて はならない の だが …… 」 

彼 は 柘植に 支 I 人に あって くれと 云 ふの だった。 逢って、 今度の 事が 決して 浮氣 でな く、 眞劎 

に 女 をお も ひ、 眞 面目に 結婚 を 望んで ゐ るので、 本當 にいつ しょになる の は 二人が 日本へ 歸 つて 

からの 事に する が、 それ迄 自由の 交際 を 許して くれと 賴 めと いふの だ。 

「どう だら う、 君と して は隨分 迷惑な 話 だら うが、 僕 は あの 女 を 奪 はれて は、 又墮 落す る 外に 途 

がな いんだから …… 」 

ふいと、 茅 野 は 自分の 激情に うち 負かされて、 聲が かすれた。 

「そいつ は 弱った な。 第一 僕なん か f 何 を 云った つて、 支配人が 信用す る わけが な いぢ や あない 

ゝ o  一  r 

力 J 


290 


宿の 教 倫 


r そんな 事 はない よ。 少なくとも 僕 以外の 誰かぐ、 僕の 心 持 をよ く 知って ゐて くれる と 云 ふ 事 さ 

ベ わかれば い、 んだ。 僕 は 今度 こそ 墮 地獄 を 脫 出さう と 努力して ゐ るの だから、 その 僕の 心 持 を 

だね、 第三者が 說 明して くれ、 ば わかる と 思 ふんだ。」 

「駄目 だよ。 それ は 君の いつもの 流儀で、 他人 を 全然 無視した 考へ方 だ。 見 も 知らない 娘 を 勝手 

にえら び 出して、 自分の 魂を淸 め、 救って くれる の は 此の 人の 外に はない といった つて、 誰が 正 

氣と思 ふ もの か。 殊に 相手 は 文學靑 年ぢゃ あないんだ ぜ。 あきんど だ ぜ。」 

柘植は 自分の 迷惑と か、 茅 野の 虫の よさと か を 感じる より 先に、 此の 友達の 世間 知らす の、 夢 

想に 醉ふ 性格に 驚いた ので あ, つた。 

「君の いふの も 尤も だ。 しかし 僕に とって は 一 生の わかれ 路 なんだ。 結果の いかん は 問 はない よ。 

兎に角 支配人に 逢って くれない か。 最善の 努力 を盡 さなくて はならない と 思 ふんだ。」 

「勝手な 事 を 云つ てら。 そんな だ f を こねた つて 駄目 だよ。」 

「だ f を こねる はきび しいな。」 

茅 野 は なかなか 承知し さう もない 友達の 態度に 當 惑し、 その 當惑を まぎらす やうに、 例の 朗な 

笑聲を あげたが、 突然 その 笑 は中斷 された。 


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:「 なんだ? 」 

二人 は 一 齊に立 上って、 窓の 外の 筌を 見た。 殷々 たる 砲聲が 次第に 高く 閜 えて 來た。 

: 「ッ M ぺ リン か。」 

「まさか。」 

冗談の つもりで 云った ので あるが、 あわた^しく 階下から 馳 上って 來た 喫茶 部の 客 や 給仕 は 口 

. 々にッ H ペリ ンだ、 ツエ ペリ ン だと 騷ぎ 出した。 幾 筋 も 入り まじる 探 照燈が 雲の 多い 空 を 未來派 

の繪の やうに 照らし 出した。 何處 となく、 全市が うわ あっとい ふ 物音に つ、 まれた。 あとから あ 

とから、 二階へ かけ 上って 來る 人數が 殖え、 忽ち 窒內は 身 動 も 出来ない 混 雜を呈 した。 往 來を步 

いて ゐた 人達が、 命の 危險に 脅え て 逃 込んで 來 たの だ。 探 照燈の 光で ッ M ぺ リン を 見た とい ふ 者 

が ある。 來襲機 は 十數機 だと 叫ぶ 者が ある。 何 處其處 に 爆彈が 投下され、 家屋 は破壤 され、 多數 

の 人間が 死んだ と報吿 する ものが ある。 その 度 毎に、 窒: 2: の何處 かで 女の 泣き叫ぶ 聲が 高まった。 

砲聲は 愈々 さかんになった。 それ は 上筌を 飛翔す る 敵機 を擊 落さう と 懸命に なって ゐる もの だつ 

た。 英國 機が 追擊を 開始した と傳 へる ものが あった。 突然 市の 眞中 あたりに、 大きく 火の手が あ 

がった。 窒內の 人 は 思 はす 知らす 叫 聲を發 した。 つどいて 叉 少し 離れた 見當の 筌 が 不自然に 赤く 


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なった。 火事 だ、 火事 だと 人々 は 歎息す る やうに つぶやいた。 

「あれ は 僕の 下宿の 方角 ぢゃ あない かしら。」 

「な あに、 もっと 遠い さ。」 

それつ きりで、 又 窓の 外の 物凄い 光景 を 見守った。 

約 一 時間の 後、 砲 聲は途 切々 々 にし か閜 えなくな つたが、 窒內 にぎつ しり 詰った 人達 は 失神 レ 

たやう に 言葉 もな く、 身 動 もしなかった。 柘植と 茅 野 は、 ひとかたまり になって 泣いて ゐる 給: H 

の 女に い 、加減の 金 を 渡して 外に 出た。 探 照燈の 活動 はな ほやます、 行 手の 火事の あかり は 雲 を 

染めて すさまじかった。 街 上に は、 無言で 走る 人が 充滿 し、 その 人波の 中 を、 巡査 を滿 載した 自 

動 車 や、 消防 自動車が 疾驅 した。 茅 野 は 郊外の 宿の 婆さんと 孫娘が 心配して ゐ るに 違 ひ 無い と 云 

つて、 地下 鐵 道の 乘 場へ 來 ると、 我に あわてた 様子で 別れ を 吿げ、 地下の 階段へ かけ 込んだ。 

柘植は 少しも 命の 危險を 感じない の を、 自分ながら 不思議に 思った。 この 大都市の 隅から 隅 迄- 

素喑 しい 緊張 感の 漲った 光景が、 かへ つて 痛快だった。 それ は、 自國を 離れ、 肉 身の 者の 足 手 ま 

とひが 無い からで あらう。 よしや 自分が 爆彈 の犧牲 になっても、 左程 悔いないで 濟 みさうな 心 持 

だった。 彼 は、 夕方 公園で 茅 野と 話 合った 時、 この 國 にも 砲火の 洗禮を 施し 度い と 放言した のが- 


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嘘で なくなつ たの を 得意に 思 ふ 程の たかぶった 氣 持で 眞 暗な 夜道 を 歩いた。 砲聲は 全く やみ、 ッ 

M ぺ リン は 無事に 逃げ去って しまった らしく、 探照燈 だけが 絕間 なく 大さを 照らし 出して ゐた。 

火事 は 二箇所で 燃えつ t け、 一方 は 意外に も 下宿から  一二 丁し か 離れない 場所だった。 爆彈の 

お下した 附近の 家々 の 窓 硝子 は、 微塵に なって 落ちて 街の 錦 道 を 塊め た。 その 邊は 夜の 女の 奥窟 

だとい はれて ゐた。 或 家の 前に 自動車 を乘 つけた 若い 男と、 女優の やうな 厚化粧の 女が、 何處か 

へ. 避難す る 景色 を 見た。 いったん 自動車に 乘 つた 女が、 泣き叫ぶ やうに 犬の 名 を 呼びつ ぐけ ると- 

雇 女らしい 白髮の 婆さんが 一疋の 种を 抱いて かけ 出して 來た。 女 は それ を うけとる と、 ひしと 頰 

擦し、 自動車 は 人 を 分けて 走った。 

柘植が 下宿に 歸 ると >  入口の 扉 を 大きく 開き、 ー步 入った ところで、 壁に くひつ くやうな 形で 

女中が す \ り 泣いて ゐた。  , 

「お、, どうした。 無事だった かい。」 

奥から かけ 出す やうに 高樹が 出て 來て、 いきなり 堅く 握手した。 

「何處 に 行った かわから ないし、 あんまり 歸 りが 遲 いもの だから、 やられたん ぢゃ あない かとい 

つて、 みんな 心配して ゐ たんだ。」 


294 


宿の 敦倫 


高樹は 明かに 昂奮し、 友達の 無事 を 喜んで、 眼に は淚 さへ ためて ゐた。 止宿 人 も 宿の 者 もみん. 

な 食堂に 集って ゐた。 それが 先を爭 ふやう に 出て 來て、 彼の 無事 を 祝した。 

拓植は あまりに 平氣 で、 火事場の 見物 迄して 來た 自分の 爲に、 かう 迄 みんなが 心配して くれた 

のかと 思 ふと、 調子の 合 はない 自分の 處 置に 當 惑した。 彼 は 手 短に、 公園の 側の 料理屋で 茅 野と 

共に 食事 をし、 そこで 砲聲を 聞き、 ■ その 小 止みになる の を 待って 步 いて 歸 つて 来た 事 を 話した。 

「こんな 近くに 爆彈が 落ち、 火事が あらう と は 想像 もしなかった もの だから …… 」 

「そんな 事 をい つて、 この 家の 前に もニ發 落ちたん だ。 幸 ひに 不發彈 だった さう だが …… 」 

彼 は みんなに 取 園 まれて 食堂 へ 入った。 

「あ、 柘植 さん。」 

窒の 隅の 長椅子につつ 伏して ゐる 夫人の 介抱 をして ゐた グレイ も、 待 構へ て ゐて手 を 差 延ばし 

た。 

「フ& シィ、 柘植 さんが 歸 つたよ。 無事で。」 

良人に 抱 起された グレイ 夫人 は、 蒼白の 顏に淚 で へばりついた 前 髮を拂 ひもせ す、 放心した や 

うな 眼 をみ はると、 いきなり 柘植の 洶に鎚 りついて、 はげしく 泣 出した。 


295 


翌日の ロンドン は、 平生のお ちつき を 失 ひ、 何となく 騷 然として、 人心の 不安 は 街 上の 景色 を 

ー變 させた やうに 思 はれた。 新聞 は 戰時檢 閲の爲 に 詳しい 記事 も 誇大な 文字 も 禁じられ、 正確な 

報道 は 見られなかった。 それだけ 人の 噂 はさま ざまに 語り 傳, へ られ た。 

• 襲来した 敵機の 數も 明かでなかった。 或 者 は 僅かに 一 機に 過ぎない と確說 し、 或 者 は 三 機 だと 

いひ、 他の 者 は 五 機 だと 云った。 中には、 探 照燈に 照らし 出された 雲の 切目に、 はっきりと ッ M 

ペリン の 姿 を 見た とい ふ 者 もあった。 ッ ェ ぺ リ ンは 決して そんな 低い ところ を 飛び はしなかった. 

それ はッ H ペリン を 追撃した 英國機 を 見 間違へ たの だら うと 反對 する もの もあった。 ^彈の 被害 

を 受けた 場所 丈 は 誰の 目に も歷 然と わかる ので 爭 ひの 餘 地はなかった が、 不發彈 は 市中 到る 所に 

投下され たやう に 噂され た。 バッキンガム 宮殿 も 狙 はれた、 議事堂 も 狙 はれた、 英蘭 銀行 も 狙 は 

れ たと、 あらゆる 重要な 場所 や 有名な 建物 は、 あや ふく 難 を 逃れた やうに いひ はやされ、 その 噂 

は 忽ち 實話 風の 形 をと つた。 英蘭 銀行 を 狙った もの は、 僅かに ねら ひが は づれ、 折 柄 銀行の 前 を 

走って ゐた乘 合 自動車の 上に 落下して 乘客を 鏖殺した とか、 議事堂 を 狙った もの は、 トラフ アル 

ガァ • スク エアに 落ち" 一 人の 通行人 を粉碎 したが、 今朝に なって みると、 ネルソン 將 軍の 銅像 


296 


宿の 敦倫 


の 脚 柱の 下に、 長靴 を はいた ま、 の 片足が ころがって ゐ たとい ふやうな、 はっきりした 話が ひろ 

まった。 

朝の 早い 柘植 は、 同宿の 人達の 起きて 來な いうちに おもてに 出て、 ^と 噂の いりまじる 市中 や. r 

步き 廻った。 爆彈の 落下した 地點 は、 路面の アスファルト を碎 き、 大きな 凹み を 穿ち、 石 や 煉瓦 

で 造られた 家屋 は 空洞 を あけられて、 腦天を はげしく なぐられた 動物の やうに、 無 感覺に 突立つ 

てゐ た。 彼 は あてもなく 步き、 或る 町角の 喫茶店で、 .ー 片のパ ンと 珈琲 を 飲んで 朝食 を濟 ませた. * 

この 傣 下宿に 歸り 度くない、 誰と も顏を 合せた くないと、 自分の 中に 潛 むち ひさい 自分が、 絕間 

なく そ& のかした。 同宿の 者の 誰の 顏を 想像しても、 その 眼 は 銃く 自分 を 射る のであった。 

何とい ふ 事 だ、 あのし まつ は —— 彼 は 自分で、 昨夜の 事が 悉く 忌々 しく 想 ひかへ される ので あ 

つた。 突然の 出来事に 失神した 位 心の 顚 倒した グレイ 夫人 だと はいへ、 みんなの 視線に 取圍 まれ 

ながら、 自分の 胸に 全身 を 任せ、 た^ならぬ カを兩 腕に こめて 鎚 りつき、 いつ 迄 も 嗚咽して 止ま 

なかった 姿 は、 はっきりと 眼に 殘 つて ゐる。 出來 たての ブ.、 ティングの やうに、 なま あた、 かく、 

ぶよぶよして ゐる 女の 肉體 は、 むせび 泣く 度に こっちの 體へ 波動 を傳 へ、 二つの からだが 一 つに 

なった やうな 感覺 も、 胸 や 腕に 续 つて ゐる。 それよりも、 ぐるりと 取卷 いた 澤 山の 眼が、 いちい 


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ち 違った 光を帶 び、 いぶかり、 あやしみ、 嘲笑 ひ、 非難し、 叱責す るので あった。 その 中で、 グ 

レイ は柘植 にも 增 さる 當 惑に まごまごして ゐた。 なだめても、 すかしても、 柘植の 胸に 顏を 押つ 

けて 泣きじゃくる 妻 を もてあまし、 なさけない 苦笑で 僅かに 人前 をつ くろって ゐた 有様 は、 無言 

の 中に 柘植を 難詰す る もの k やうだった。 何にも 自分に はやまし い 事 はない と、 自分で 自分に い 

ひき かせても、 その 場の 光景 は 誰の 眼に も あやしく 映った に 違 ひ 無い の だ。 全く 意外の 事だった。 

それ は みんな を 驚かした が、 誰よりも 一 番 驚いた の は柘植 自身だった。 

彼 は 全く 不必要な 時間 を 費して、 あっち こっち 步き 廻った が、 結局 下宿へ 歸 るより 爲 方が 無 か 

つた。 しかも 其處 に、 彼 を 待 兼て ゐ たの は グレイ 夫妻だった。 

「何、 もう 被害地の 實地 踏査 をして 來 たのです つて。 あ、、 吾々 の 若き 勇士べ H ジ君 は、 たった 

今 パイ パァ孃 を 誘って、 多分 貴方と 同じ コォス を、 冒險の 旅に 出立した ところで したよ。 貴方が 

先鞭 をつ けたと は 知らないから、 前人未到の 地へ 赴く やうな、 悲壯な 決心 を 面に あら はして ゐま 

した。」 

柘植が 一番 あ ひ 度ない と 思って ゐた グレイが、 いつに もまして はしゃいだ 調子で 出迎 へた。 そ. 

れ がいかに も わざとら しく.' 不自然に 見える ので あつたが、 グレイと して は 傍の 椅子に 青ざめて 


298 


宿の 教倫 


埋もれて ゐる 萎れた 草花の やうな 妻の 心 を^; 立てる 爲の つけ 元氣に 相違なかった。 

「昨夜の 今朝 だとい ふのに、 爆彈の 落ちた 地點を 見極めに 行く 人が あるかと 思 ふと、 ごらんな さ 

い、 我が 親愛なる 妻 は、 よつ ぴて 一睡 も出來 す、 今でも 未だ 頭の 上をッ H ベリンが ぶうんぶ うん 

と 飛んで ゐる やうな 氣 がして、 ゐて もた つても ゐられ ない とい ふので す。」 

夫人 は 時候 違 ひの 長い 毛糸の 肩 かけ を 上半身に まきつけ、 血の 氣 の 失せた 顏は、 一夜に して 憔 

悴の 陰影 を 深く した。 

「ほんと に 責方は 現場 を 見て いらっしゃ つたので すか。 どんなに か 怖ろ しい、 悲慘な 光景だった 

でせ うね。 家を燒 かれ、 澤 山の 人 は 殺され …… 」 

「え ゝ、 往来で 聽 いた 話です けれど、 ネルソン 將 軍の 銅像の 下に、 長靴 を 穿いた 儘の 片 脚が ころ 

がって ゐ たさう です。」 

「長靴 を 穿いた 儘の 片脚? お、 何とい ふ… ..-.」 

夫人 は 心なく 云った 柘植の 言葉に 身 震 ひして、 

「人間と いふ もの は、 何故お 互に 殺し 合 はなければ ならない の でせ う。」 

とい ふかと 思 ふと、 兩 手で 顔 を 覆って、 うめく やうに 泣き出した。 


299 


グレイ は、 困った もの だと 口に 出して いふか はりに、 兩手を ひろげ 兩 肩をすくめる 怫蘭 S 流の 

表情 をして 兄せ たが、 直ぐに 後から 夫人 を 抱いて 長椅子へ つれて 行き、 無理に 横にして 置いて、 

又柘植 のと ころへ 戾 つて 来た。 

「今 もみん なで 話して ゐ たの だが ::: 」 

彼 は 急に 聲を ひそめ、 足音 を 忍んで 戸口 へ 行き、 廊下に 人の ゐな いの をた しかめた。 

「柘植 さん、 貴方 はどう 思 ひます。 あの 獨 探の 奴 二三 日 前から ゐな いのです よ。 昨夜の あの 騷ぎ 

の 最中、 此 處にゐ なかった の は 貴方と 彼の 男です。 貴方 は 結局 歸 つて 來 たけれ ど、 あの 男 は 今朝 

も 未だ 姿 を 見せない。 あんまり 不思議 だから、 填 太 利 人の ァ ドルフに 訊いて みると、 旅行で 留守 

だとい ふぢゃありません か。 ふだん 度々 窓 かけ を 下す 事 を 忘れる 男が です よ、 ッ H ペリン 襲來の 

晚に 限って ロンドン 以外の 地に ゐ ると いふの は を かし いぢゃありません か。 貴方の 賢明なる 判斷 

に まち 度い のです が、 どう 思 ひます。」 

グ レイ は 重大 事件に 直面した 人の 態度で 話す のだった。 

「へえ、 昨夜 あの人 はゐ ませんで した か。」 

柘植も 流石に 驚いて、 自然と 聲は 低くな つた。 


300 


槍の 敦^ 


「ゐ ませんで したよ。 それ は 彼の 男の 事 だから、 ー晚 ゃニ晚 うち を あける 事 は 珍しくない かもし 

れな いが、 ふだんと は 違 ひます。 たくさへ あやしい と 睨まれて ゐる 男が、 昨夜の やうな 非常時に 

ゐな いのです よ。 しかも 此の 附近が 一 番 多く 爆彈を 落されて ゐ るので す。 何 か 特別の 信號 をし あ 

ひ * 愈 々襲撃 決行の 日が 定まる と、 自分 は 任務 を果 したから 姿 を かくした とい ふ 筋 は 無いで せう 

か。 高樹 さん も を かしい と 云って ゐ ましたが ね。」 

グ レイ は 愈々 眞劎 だった。 

「を かしい といへば 最初から を かしかった が ••••: 」  :. 

柘植は 自分の 直感が、 夙に 彼の 素性 を觀 破した の だと 公言したい 得意 を 感じた。 今にな つて は、 

疑 は 疑の みで は濟 まされな いと 思った。 この 事に ついては、 彼 はかね てから、 何故 英吉利 人と い 

ふ 奴 は、 斯う 迄 うすのろ なの だら うと 齒が ゆがり、 自分が この 國の 人間なら、 徹底的に 調べ あげ 

て やる の だが と 憤慨して ゐた。 

「實に を かしい と 思 ひます よ。 私 個人と して は、 もう 何らの 躊躇な く、 彼 を獨探 だと 斷言 する 事 

が 出来ます。 ァ ドルフの. いふのに は、 荷物 は 其の儘 部屋に 在る とい ふので すが、 飽の 中に 何が 入 

つて ゐ るか は、 祌樣 以外に 誰が 知る ものです か。 私 はどうしても あいつの 尻尾 をつ かまへ なけれ 


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ば 承知し ない。 此の ロンドン を破壤 しょうと する 獨探 を、 うつち やって 置く とい ふ 法 はあり ま 亡 

ん よ。」 

グ レイ は 強い 決心 を 示す 爲に、 拳骨の 背で 卓 を 叩いた。 

「た^ 邪魔になる の はこ の 象の 雌鷄 です。 あの 女 は 何とい ふ 恥 知らす でせ う。」 

下宿の 主婦と へ イド ン のた^ でない 關 係に 言及して、 忌々 しさう に 舌う ちした。 

探偵 的 興味に 夢中に なった グ レイ は 何時 迄 も 同じ 問題 を 論じつ ^けたが、 その 間 長椅子に うつ 

伏に なって 横 つて ゐる 夫人 は、 背中に 波 を 打た せて、 病苦 を訴 へる もの、 やうに、 間歇 的に す 

、りあげて ゐた。 貧弱な 肉體は 何の 魅力 もな く、 意氣 地な くき わけなく 脅え てゐ るの は 寧ろ 腹 

立た しく、 踏蹓 つて やり 度い 位だった。 

それでも 柘植 は、 彼が おそれて ゐた 事に は 少しも 觸れ す、 グレイ は 日頃の 信賴を 持つ ^け、 些 

かも 變 つた 氣色を 見せない ので、 すっかり 氣 持が 樂 になった。 

グレイ はま だ なかなか 話 を 打 切り さう にもなかった が、 其 處に填 太 利 人の 下僕 ァ ドルフが、 日 

本の 紳士が 柘植を たづね て來 たと 取次いで 來 たので. • い、 機會 にして 立 上った。 

玄關に は 中年の 男が 立って ゐた。 


302 


M の敦 fife 


一 あ、, あなたが 柘植 さんで c」 

ナ ぎ 

いんぎん 過る ものごしで、 

「今日は ちょっと 御友 人の 事で 御 相談に あがりました のです が、 しばらく 御 邪魔 させて 頂け ませ 

うか。」 

いひながら 差 出した 名刺 を 見て、 柘植, は 忽ち 參 つてし まった。 茅 野が 通 ふ 喫茶店の 支配人 だつ 

た。 やった な —— 何 を やった のか はわから ない の だが、 何 か 不吉な 事が、 いやな 事が、 煩 はしい 

事が、 迷惑な 事が 起った に 違 ひ 無い と 思った。 

「失禮 です が 僕の 部屋へ。」  - 

柘植は 客 を 二階へ 連れて 上り、 椅子 をす、 めた が、 客 は 腰かける より 先に、 

一 こちらに は高樹 さんと いふ 方 もゐら つ しゃる さう です が、 出來る 事なら 其方に も 御 目に か、 ら 

せて 頂き 度う 御座いま すが。」  、 

と 申出た。 

一. さあ、 只今 ゐま すかしら。」 

口で はさう 云った もの、、 自分 一人で 不快な 話に ぶっかる よりも、 一人で も 味方の 多い 方が 氣 


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強いので、 彼 は 叉 階ドへ かけ 下り、 期待 を かけて 扉 を ノックした。 髙樹は 椅子の 背に 全身 を もた 

せか.. けて、 本を讀 んでゐ た。 カラ ァも ネクタイ もっけす、 ナイト. ガウン を 着た 姿 は、 靑 白い 額 

. と共に 病人ら しく 見えた。 

「茅 野の 事で、 例の 喫茶店の 支配人と いふの が 来て、 君に も 逢 ひ 度い と 云 ふの だが :••: 」 

「僕 はい や だ。」 

相手の 言葉 を中斷 して、 高樹は 露骨に 不機嫌に なり、 半分 起した 體を又 倒した。 

「昨夜 はよ く 眠れなかった から、 今日は 休息の 必要が ある。 下らない 話 はき、 度ない。」 

いや だと 云ったら、 いくら 勸 めても 駄 HI とわ かって ゐ るので、 拓植は 何となく むっとして、 モ 

め 儘 手荒く 扉 をし めた。 

「高樹 君もゐ るに はゐ るので すが、 病後の 事で、 おまけに 昨晩の 騒ぎで 熟睡して ゐた いので、 ひ 

どく 疲れて ゐる さう ですから …… 」 , 

「い、 え、 責方 にきいて 頂く だけで 結構な ので。」 

茅 野が 言った 通り、 この 支配人 は 始終 眼 尻に 微笑 をつ くる 事 を 忘れす、 若い者 を 相手に しなが 

1>に て  した 

ら 下手に 出る 態度 を 守り 通さう と 努めて ゐ るの だが、 その 癖 奥底に は、 ねばって 押さう とい ふ 下 


304 


宿の 敦倫 


心 を 持って ゐた。 

昨晩 茅 野 は 柘植と 別れてから、 自分の 宿に は歸ら す、 喫茶店の 娘 達の ァパァ トメ ントに 出かけ 

て 行った と 云 ふの だ。 ッ M ペリ ン襲來 に 震 へ て ゐる女 を 慰め、 守る 爲 にかけ つけたの だ。 監督の 

年 增が應 接に 出て、 規則と して 逢 はせ る 事 は 出来ない と 拒んだ が、 茅 野 は 承知し ない。 ふだんな 

らば 兎に角、 此の 非常の 際に、 そんな 無情な 規則が 何になる、 寓ー 爆彈が この 場に 落下 すれば、 

誰の 命 もなくなる の だ、 その 危險 にさら されて ゐる折 柄、 自分の 命に も かへ がたい 人と 離れて ゐ 

なければ ならない と 云 ふやうな 馬鹿々 々 しい 事 はない 一 こ の 際 自分 は 起る ベ き 可能性の ある 危險 

き  とびら、 j し 

に對 して、 愛する 人 を 守護す る 義務が あると いひ はって 肯 かない。 しま ひに は、 Is でも 窓 越で 

もい、 から 本人と 一言 話 を させて くれと 云って、 無理に も 押入ら うとす る。 監督 は 茅 野の 權 幕の 

はげしい 丈 不安 を 感じ" どうしても 逢 はせ る わけに はいかな いと 担む。 • 折 柄 爆彈騷 ぎで 昂奮して 

ゐる 同じ アバ アト メン トの 他の 止宿 人達 も あやしんで 出て 來て、 結局 茅 野 は 見 も 知らぬ 人間の 爲 

に戶 外へ 押出されて しまったの だ。 

「とい ふやうな^ 第でして、 學 間の ある 方の 事です から、 まさかに 匁 物 三味な ど、 いふ 事 は 御 

います まいが、 あの 御 様子で は问 をな さる かわからない と監瞥 も 當の娘 も 怖が つ て 居ります し、 


305 


手前 共と しましても 女の子 達の 親許と 堅い 約束が ありまして, 充分 保護 しなければ ならない 立場 

に 居ります ので …… 」 

支配人 はっとめ て 微笑 を 浮べた 服の 底で、 じっと 相手の 顏を 見つめながら、 繰返して 茅 野の 行 

動の 迷惑 を訴 へた。 

こら 

柘植は 話の 中途で 幾度と なく 笑を堪 へた。 茅 野 一流の 自分勝手な、 我馒 のない 遣 口が、 自然と 

を かしみ を 持って ゐ るの だ。 

結局 支配人が、 柘植に 求める もの は、 常規を 逸した 茅 野に 意見 をし、 おも ひ 切らせて くれ、 そ 

れが雙 方の 身の 爲 だと 云 ふので あった。 

「それ は 御 困で せう が、 あの 男 は 吾々 のい ふ 事なん かき、 ません よ。 それに その 娘さん も 自分 を 

想って ゐ ると 確信して ゐる やうです から。」 

あげ 

「い 、え, それが その 茅 野さん の 御考違 ひで、 娘の 方 も 今では 手紙 を 差 上た 事な ど を 後悔して 居 

ますし、 再々 ァパ アトの 附近で 待 伏して ゐ らっしゃ るので、 どんな 目に 逢 はされ るかと びくびく 

して 居ります のです。」 

若い 女の 身で、 遠く 異鄕に 在る 心の 寂し さから、 つい 求愛の 靑 年に 心 を 動かされ たが、 それ は 


306 


宿の 教淪 


全く 一  時の 迷 ひで、 今 は 茅 野の 追跡 を 如何して 逃れようかと 苦心して ゐ るば かりだと 云 ふので あ 

つた。 萬 一 自分の 言葉 を 信じないなら * 當の木 人に あはせ るから、 確め て くれと、 支配人 は 確 S 

を も つて 斷 言した。 

晝 食の 用意の 整った 事 を 知らせる 鉦の 音に 驚いて、 喫茶店の 支配人が 辭去 すると、 柘植 は高樹 

に 報告して 置かなければ ならない と 思 ひながら、 先刻の 彼の 態度 を 忘れ 兼ねた。 自分に 直接 か、 

はり の 無い 事に は 少しの 同情 も 持たない 人間に、 何 を 話す 必要が ある もの かと 反抗す る 心に 負け 

てし まった。 どうせ 食卓で いっしょにな るの だが、 その 時 も 先方から 口 をき いて 來る迄 は 何も 言 

ふまい と 思 ひ、 友達の 部屋の 扉 を ノックし すに 食堂へ 入った。 主婦と その 妹と、 グレイ 夫妻と, 

ぺ ェジと パイ パァ が、 冷酷な 感じの する 薄い 肉片の 盛られた 皿に むかって ゐた。 高 樹の姿 は 見え 

す、 たった今 何處 かへ 出て 行った と、 ァ ドルフが さ、 やいた。 

食事の 間中、 ぺ H ジは 一人で 喋った。 今朝 パイ パァと 二人で 見て 來た 被害地 點の 慘狀を 極度に 

誇張して 話した。 いかに ッ M ペリンの 爆彈が 強力 無慙 であるか、 それ は 石で も鐵 でも 防ぐ 事が 出 

來 ない、 まして 况ゃ人 間 の 如き は 人間が 虫 けら を 踏つ ぶす よりも 手輕 に、 一度に 數十 人數百 人が 


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骨 も 残さす けし 飛んで しま ふで あらう、 それ は戰 場に 於て なら 爲 方が 無い が、 何の 抵抗力 も 無い 

都市の 住民 を 襲 ひ、 ^人 小兒を 殺戮す るに 至て は 人道 上 許して 置け ない、 しかも 一度 味 をい:: めた 

ッ H ペリン は 二度三度 來 襲す るに 違 ひ 無く、  二度目 は 最初よりも 破 壌 力 を 加へ、 三度 目 は 二度::: 

よりも 更に 大 仕掛に なり、 遂に は ロンドン を 全滅す る やうな 事に ならない とも 云へ ない、 全英國 

民の 立つ 可き 時 は 今 だ、 自分 はこれ から 直に 役所へ 行って、 募兵 係に 督促し、 一 日 もせく 士官に 

住 命され て國 家の 危急 を 救 ふつ もりで あると、 肉 刀の 柄で 卓 を 叩い て 論じた。 

グ レ ィ 夫人 は 昨夜の 恐怖 を 再現して、 食物 も 咽喉 を 通らない とい つ て 食 占 十 を 離れて しまったが、 

外の 者 は 又 ひとしきり、 獨 乙の 非 人道的 行爲 を、 ッ M ペリンの 暴行 を 非難 攻撃した。 いつも は 止 

宿 人達 と 口 を き く 事を好まな い 主 婦 も 釣 込ま れて、 共々 に獨乙 を I? 懲 しなければ ならない とい ひ 

張った。  , 

「時に あの 二階の 白 耳 義の御 客が 見えない やう だが、 W 處か へ 引越しで もした のです か。」 

その 主婦に むかって、 突然 グレイが 質問した。 言葉つ きは柔 かだった が、 底に 含む 針 を 感じて、 

座に ゐる もの は 緊張した。 

「い、 え 引越しなん ぞ なさる ものです か。 ロンドン にも 倦き たから 二三 日 旅行す ると 云って、 あ 


303 


宿の 敦淪 


れは 一昨々 日でした かしら、 御 出かけに なった のです よ。 もう 一 兩 日したら 歸 つ てい らっしゃる- 

のでせ う。」 

主婦 は 相手の 質問に 深い 意味 の ある 事 は 感じな い で 、 無雜 作に^: へ た 。 

「ふうむ, ロンドン にも 倦き た? 何とい ふし あはせ な 人 だら う。 自分の 國は滅 茶々々 に やられ. 

てゐ るのに、 a ン ドンの 隅々 迄享樂 し、 それに も 返 屈して 旅に 出て、 ッ M ベリンの 襲撃 も 知らな. 

いの だから •:•: 」  * 

「え 、ほんと に 幸運な 方です わ。」 

主婦 は 未だ グ レイの 言葉 に 悪意 を 感じないで、 寧ろ 其 の 自由に 旅行 を 享樂す る 客 の あ る 事 を 誇:, 

る やうに 相植 をう つた。 

「だが あの人、 ほんと に歸 つて 來る かしら。」 

横 あ ひから、 ベ ェジが 明白にから かひ 面で きいた。 

「何故です か。 歸 つて 來 るに 違 ひ 無 いぢゃありません か y 四 五日の 旅行で、 御 部屋に はちゃん と. 

荷物 も御預 りして あるんで す。」 

力 

流石に 主婦 も 自分と 彼との 關係 をから か はれて ゐ るの だと 感づいて、 顏を あかく し、 聲を 高く  3 


して 答へ た。 

「しかしで. すね、 留守中に ロンドンが 爆彈の 御見舞 を 受けた と 知ったら、 もう 英吉利 なんかい や 

になり はしない でせ うか。 何故かと いへば、 彼の 入 は 自分の 國の白 耳 義が 敵に 攻め込まれ たので、. 

いやにな つて 逃げて 來 たので せう。 自分の 國 でさ へそれ なんだから、 他所の 國へ 爆彈が 降る とレ 

たら、 とても 辛抱 出來 ない 害で はないで せう か。」 

ぺ ェジは 相手に 反應 があった と 見る と、 益々 調子に 乘 つて 冷 かし 度な つて ゐ た。 

「失禮 です けれど 御言 葉が 過ぎ や あしません でせ うか。 彼の 方 は 紳士な のです。」  . 

「紳士? 勿論です とも。」 

山 高 かぶ つ てス テツ キ 持てば 

ジ ョ ンも チヤ ァ リイ も 立派な 紳士 

葉 卷くは へ て タク シィに 乘れば 

ジョン も チヤ ァ リイ も 立派な 紳士 

ベ ェ ジ はいきな り 立 上る と 剽 輕な顏 つきで、 床板 を 踵と つまさきで ことこと 踏 鳴: りして 踊った 9 

食事の 終った 人々 は 一 齊に笑 ひ 出した が、 中で も 腹 を ふたつに 折つ て げらげら笑って 笑 ひ 止まな 


310 


佰の敦 倫 


いのは 主婦の 妹だった。 その 妹 を 叱責しながら、 主婦 は 奮然と 立って 去った。 

n ン ドン を 見舞った 爆彈 は、 市街と 市民の 生命に 加へ た慘 害よりも 大きく 市民の 心に 衝擊 を與 

へた。 それ は 手近い ところに も、 いろいろの 形と なって あら はれた。 下宿の 人達が 今日 迄 密かに 

疑惑 を 抱き、 かげ 口 をき いて ゐた ヘイドンに 對 する 態度 は、 忽ち 此の儘に は 放って置 けない とい 

ふ處 迄の ぼり 詰めた。 萬 一 彼が 旅に 出た ま、 歸 つて 来ない とすれば、 最早 疑の 餘地は 無い が、 そ 

れ ではむ ざむ ざ 逃がして しま ふ 事になる し * さりと て はっきりした 證據を つかんで はゐ ない の だ 

から、 狼狽て、 訴へ 出る わけに も 行かない。 どうかし なければ ならない の だが、 どう すれば い、 

のか、 誰も 彼 も いらいらし、 その 不快と 無念と 心配が、 事毎に 主婦への 反感と なって あら はれて 

来た。 

茅 野が 何時 迄 も 時機 を 待って ゐる 辛抱 を 失 ひ、 喫茶店の 娘 達の ァパ アト へ 押 かけて 行った の も、 

爆彈の 衝動が せき 心に させた と 見ても 間違 ひ はないで あらう。 人生 を、 戯曲 制作と 同じく 自分の 

意志の 儘に 組立て ようとす る 彼の 性格 は、 敵機 襲來 とい ふ 素晴らしく はなばなしい 外的 條件を 利 

用して、 一 擧に 娘の 心 をし つかりつ かまう と 企てた に 違 ひ 無い。 

柘植は 人々 のた^ ならぬ 昂奮に 取圍 まれながら、 極めて 冷々 たる 自分 を 物足りなく 思った。 廣 


31! 


い 都 會の四 五の 地點に 爆彈が 投下され、 多少の 災害 を與 へたと はいへ、 &ン ドン は 殆んど 何の 變 

り も 無く 日常の 活動 を營 んでゐ る。 恐らく ツユ ペリン は 今後 頻々 と襲來 する であらう が、 何時 何 

處を襲 ふか 豫 測の 出来ない 危 險に對 して、 あわてた ところで 爲 方が 無い。 グレイ 夫人 は神經 をた 

かぶらせ、 半病人に なり、 虫の 起った 幼兒の やうに き、 わけなく 泣いて ゐ るが、 自分 は 頭の 上 を 

ッ M ペリンの 飛 過る 音響 も、 夕立に 濡れる 程の 動搖 しか 感じなかった。 夫人 は 前夜 來の 自分の 態 

度 を、 豪膽だ 沈着 だと 英雄 を ほめる 言葉で ほめ 立てる が、 それ は 自分に とって は 寧ろな さけない 

事な の だと、 柘植は 自己 厭悪の 心 持 さへ 持って ゐた。 -nn 分に は 何時の間にか、 死んでも 左程 惜く 

ない 命 だとす る 虚無の 心が 根深く 巢を 喰って ゐ るので はない か。 自分の 將來に は、 幼い 日に 描い 

たやうな 大きな 夢 は 無い。 自分の 天賦の 才能 は、 力 は、 大概 見 透 しがついて しまった。 色彩の 畳 か 

た 人生 は、 靑ぃ 鳥よりも 見つかる まいと 多寡 をく、 る 根性が、 自分 を 無 感動に したの だと 考 へた。 

い つ 迄 も 同じ 憎悪 と 憤慨 の 言葉 を 繰 返 して 止またい 人達に 愛想 をつ かして、 拓植は 食堂 を 出た。 

今日は 休息す るの だと 云 ひながら、 籠居の 無 爲に堪 兼ねて、 高樹は 平生 通り 圖書 館へ 行った の だ 

らうが、 自分 も 日課 は 休み 度ない と考 へ、 讀 みかけの 本 や 筆記 帖を 抱へ て 出た。 讀書窒 は 常と 變 

らす靜 かに 勉強す る 人で いっぱいだった が、 高 樹の姿 は何處 にも 見えなかった。 


312 


宿の 敦淪 


夕方 下宿へ 歸 ると * 廊下から 階段へ かゝる 足音 をき ゝ つけた 高樹 が、 異常に 緊張した 顔つきで 

追 かけて 來た。 

「君々、 僕 愈々 伊太利へ 行く 事に したよ。」 

眞劎な 様子で、 眼鏡の 中の 細い 眼 を きらきら させた。 

「昨夜 も考 へたの だが、 先刻 一人で 薄暗い 部屋の 椅子に 横にな つて ゐ たら、 もう ロンドンたん か 

に は 一時たり とも ゐられ ない 氣持 になって しまった。 僕 は 直ぐに 領事館に 行って 旅券の 手績 をし 

て來 た。, 一 

さっきの 不機嫌と はう つて 變 つて、 旅券 を 見せ、 それに 貼附 けた 一時間 寫眞の 出 來榮を 語る 高 

樹は、 遠足の 前の 日の 子供の, 喜び を湛 へ ておちつ かなかった。 

「まだ あぶない ぜ。 少し 氣が早 過ぎ や あしない かしら。」 

柘楝は 吃驚して 友達の 顏を 見た。 額の 廣ぃ 蒼白の 面 上に、 躊躇して ゐた事 を 決行す る 勇 氣と歡 

喜が、 あぶらの やうに 光って ゐた。 

「あぶない? あぶな いのは ロンドン も 同じ だよ。 いったん 警戒線 を 突破した ツエ ペリン は、 あ 

く 迄 も EI ン ドン 威嚇の 計畫を 進める に 違 ひ 無い よ。 奴等が どんどん 來る やうに なれば、 吒 處にゐ 


313 


るの も 非常に 危險 だからね え。 運命に 惠 まれない 人間 は 死 を 免れない。 元 來僕は 英吉利に は來る 

氣が 無かった の だが、 これが 歐羅 巴の 唯一 の 安全 地帶 だと 思って 信賴 して 來 たんだ。 それが 旣に 

安全で 無 い とすれば、 何も こん な薄喑 い 都會 の 不偸 快な 下宿 なんか に 逼塞 して ゐる事 はない と 思 

ふんだ。 第 一 僕 はこん なと ころで 死ぬ の はい や だよ。 萬 一 死ぬ 運命なら ば、 巴 里かフ ロレンスで 

死ぬ 方が い 、ちゃ あない か。」 

「しかし 君の 健康 は 未だ 囘復 して ゐゃ あしない の だぜ。 表面に は 何の 徵候 もない かもしれ ない が 

此 間の 咯 血の 時に、 醫者 は相當 重大に 考 へ たやう だった よ。」 

「それ も 考へ樣 さ。 こ、 に 不愉快に 暮 してんて、 間も無く 霧の 深い 季節に なると、 かへ つて 健康 

には惡 いだら う。 しかし、 そんな 事よりも 何よりも、 僕 は 一度 伊太利へ 行き度い。 伊太利 を 見な 

いうちに、 病氣ゃ 爆彈で 死ぬ の はい や だ。 大事に 大事 をと つたと ころで、 今夜に もッ M ペリンが 

二度目の 攻擊 にやって 來て、 運惡く 爆彈の 下に ゐれば それ迄 だ。 叉 此處に 愚圖々 々して ゐ たって 

僕の 體が 頑健になる わけ もない。 兎に角 何等かの 危險に 脅かされて ゐ るの は事實 なんだから、 一 

刻 も 早く 目的地 へ 急ぐ のが 肝心 だとい ふ 結論に 到達した のさ。 僕に とって n ン ドン は、 最初から 

何の 魅力 も 持って ゐ なかつ たんだ からな あ。」 


314 


宿の 敦倫 


自分 を 引留る 語氣を もらし、 何時 迄 も 煤烟と 濃霧の 口 ン ドンに 平 氣でゐ るら しい 友達 を 粦れみ ■ 

さげすみ、 非難す る やうに、 高樹の 言葉 は 強く 響いた。 

素早く 黄昏の 忍び込んで 來た 食堂に は、 もう 人々 が 暗い 顏を寄 集め、 今夜 も 亦 ツユべ リンが 來 

るので はない かと 脅え 切って ゐ たが、 伊太利 旅行 を 決行す る肚 をき めた 高樹 は、 俄かに 英吉利 嫌 

の 度 を 強め、 鈍感な 連中と いっしょに、 ぁぢ きない ド 宿の 飯 を 喰ふ氣 はしない と 云って. 柘植を 

戶 外へ 誘 ふので あった。 帽子 を かぶり 杖 を 手に して 扉 口へ ゆく 二人 を 見つけて、 グレイが 背後 か 

ら聲を かけた。  , 

「あなた 方 は 何處へ 行く つもり なんです。 今晚 も亦ッ ェ ベ リンが 來ゃ あしないだら うかと、 口 ン 

ド ン 中が 騷 いで ゐ ると いふのに。」 

わざお ざ 食堂から 出て 來て、 若い. 者の 血氣を 咎める やうに 云 ふの だった。 

「一寸 散步 して、 直ぐに 歸 つて 來 ます。 大丈夫で すよ、 昨晩の 今日で、 こっちの 飛行隊 も 防備 を 

嚴重 にして ゐ ますから、 ツエ ペリン だ つ て 用心して 來ゃ あしません。 一 

「それが いけない。 こっち は來 ない と 思っても、 すべて 裏 を かくの が戰爭 です。 それに 家の 中な 

ら まだまだ 安心 だけれ ど、 往來は 一番 危險 です よ。 およしなさい、 およしなさい。 一 


315 


„ii; 達 は 未だ 思慮が 足りない、 年長者の いふ こと はきく もの だとい ひたさう に、 おだやかに、 し 

かし 力強く 引留 るので あった。 

「御注意 はありが たう。 なるべく 早く 歸 ります から 許して 下さい。 吾々 は 吾々 の 運命 を 信じて ゐ 

るので す。」 

柘植は 素早く 切拔 けて、 高 樹の後 を 追った。 

「• 柘植 さん、 みんなに 心配させる ものではありません よ。 私の 妻 もどん なに 心配す るか  」 

追ひ鎚 つて 聲を 浴せ かける のと いっしょに、 銳 ぃ泣聲 で、 夫人が 彼の 名 を 呼ぶ の を 聞いた が、 

拍車 を あてられた やうに 柘植は 背後の 扉 をし めて 往来に かけ 出した。  - 

昨日と 间じ 雲の 多い さが、 何 か 不安な 豫感を 伴って 頭の 上に 暗く 覆 ひかぶ さって ゐ たが、 煩 は 

しい 下宿 をぬ けて 來た氣 安 さと、 安 料理と はい ひながら おも ひの 偉の 食事の 出 來る樂 みが、 二人 

の 靴の 音 を 錦 道に こ 、 ろよ く 響かせた。 

顔馴染の 伊太利 料理屋で、 藁に 包まれた 葡萄酒の 瓶 をまん 中に、 二人 は 心 置きな く 話した。 今. 

朝 喫茶店の 支配人が 來て 話した 事に ついては、 高樹は 例の 通り、 

一 馬^た。 i 


316 


fit の敦淪 


と先づ 吐き出す やうに い つてから 

「茅 野と いふ 男 は 實にを かしい よ。 あれ は 現實と 芝居との 區別 がっかな くな つて、 自分勝手な^ 

廻 をき め、 自分 は必す 王様の 役 を とらない では 承知し ない 人間なん だからね。」 

銃く 批評して、 それつ きり 其 間 題 は 打 切って しまった。 

久しく 口にしなかった、 め、 僅かの 酒で 眞赤 になり、 唇 を 病的に 滑 かにして、 高樹は 近く 旅立 

つ 伊太利に ついて、, 光り輝く 計畫と 想像 を、 何時 迄 も 語り あきなかった。 巴 里で 伊太利 入 國の手 

績を濟 ませ、 聳え 立つ アルプスの 山懐 をく^ り、 初秋の 廣野を 汽車 はジ エノ ヮへ 走る であらう、 

いかに 伊太利の さは 靑く、  口 ンド ン の 薄暗い 霧の 中で 眠って ゐた 感覺を 呼び さまして くれる であ 

らう か、 しかし ジ エノ ヮゃピ ィサに 長く 滞在して は ゐられ ない、 それ は 食前の アペリティフに 等 

しく、 一  呼,. 吸したら 花の 都フィ レンツ M へ 急がなければ ならぬ、 神 や 聖母 や 使徒 や 天使が 到る 所 

め 街角に 生きて ゐる 此の 古き 都 こそ、 自分の 一 生 を 生 甲斐 ある ものにして くれる であらう、 自分 

は先づ アル ノの 河岸に 宿 を 求める、 窓 を あければ 綠の 丘が 見え、 寺院の 塔が 望まれる であらう、 

この美し ぃ瑗 境に 包まれて、 文 藝復與 期の 美術 鑑賞に 精根 を盡 し、 やがて 秋 深い 羅 馬に 休息の 場 

所 を 見出す つもり-である II と 眼底 に 歡喜 の 淚 を满 ベ た 。 


317 


「君、 僕 は 僕の 未來を 信じる よ。 僕 はこの 感激 を 思索と 學 問に 融合させる 事に 一 生 を 棒げ るつ も 

りなんだ。」 

嗚咽す るので はない かと 思 はれる 程の 感動が、 高樹を 若々 しく、 健康に 見せた。 

その 晚はッ H ペリンが 來 ると いふ 恐怖で 市中 は 愈々 暗く、 人通り も 早く 絶えた。 宿へ^ ると み 

んなは 食堂に 居淺 つて、 不安 を まぎらして ゐる樣 子だった が、 愚に もっかない 會 話のと りこと な 

る 事 を惧れ て、 一 一人 は 足音 を 忍んで 各々 の 部屋 へ 引上げた。 

爆彈騷 ぎが 促進した のか、 豫て 募兵に 應 じながら、 なかなか 埒の あかなかった ぺ H ジも、 次の 

日の 晝 食の 頃、 何の 前觸も 無く カァ キイ 色の 軍帽 軍服 を 身に 着け、 卷ゲ H トルで おもてから 歸っ 

て來 た。 

「あは あ、 吾等の 勇士 あら はれたり。」 

昨夜 も 亦 衣服 も變 へす、 一睡もしなかった 夫人の ヒス テ リイに 惱み、 片時 も 傍 を 離れる 事の 出 

來 ない 退屈に 閉口し 切って ゐるグ レイ は、 氣 分の 轉換 の爲に はしゃいで、 

「どうです 皆さん、 此の 人に は 軍服が 實 によく 似合 ふぢゃありません か。 なんだか 急に 丈が 高く 

たり、 0? 幅も廣 くな つた やう だ。」 


318 


fit の敦倫 


抱擁す る やうな 形で 歡迎の 辭を述 ると、 他の 人々 も 口々 に、 お目出度う、 お 目出虔 うと 祝福し 

たが、 それに も 拘らす 一座の 筌氣は 決して 偸 快な もので は 無かった。 ぺ H ジは 漸く 願望が かなつ 

て、 かねがね 憧れて ゐた 軍服 を 着る 事が 出來 たの だが、 それ は 彼が 自慢 氣に 豫吿 した 士官の 制服 

では 無く、 普通の 兵卒の、 體に合 はない だぶだぶの ものであった。 それが 皆の 心 持 をつ まづ かせ- 

べ H ジ 自身に も 人の 眼に 背中 を 向け 度い 氣まづ さを與 へたので ある。 彼 は、 すっかり てれて、 眼 

の 置 所に 困 じて ゐた。 

.TV こに、 ふかした ての じ やが 薯の 入った 大皿 を兩 手で 捧げて、 宿の 主婦が あら はれた。 

一. まあ、 誰かと 思ったら …… 」 

仰山に 胸 を 張り、 反身に なって 驚いて 見せ、 

- ほんと に 結構で したわね え、 あなたが うちへ 見えた 時から、 一日 も 早く 軍服 を 着せて あげ 度い 

と 思って ゐ たのです よ。 その 爲に遙 々才才 ス トラ リアから 歸 つてい らっしゃつ たとい ふので すし 

あなたの やうな 若く、 強く、 穷氣 の ある 方が 軍人に なって こそ、 英吉利 も 安全と いふ ものです か 

もね。」 

早口に 喋りながら、 ま 拗くぺ H ジの立 姿 を" 頭の てつ べんから 足の さき 迄 見上げ 見下して > 


319 


「です が 私に はわ かりません わ。 何時の間にか 士官の 制服が 變 つたので せう か、 何 か戰略 上の 意 

味で もあって …… 」 

無敎 養の 強さ を 露骨に 見せた 意地の 惡ぃ 質問が、 恰度 食卓へ 着いた 人々 を 吃驚 させた。 それ は 

誰し もつ つ こんで 聞きた ぐし 度い と 思 ひながら、 き 、兼て ゐた 事だった。 

「あ、、 それ は 私 も 不思議に 思って ゐた 事な のです。, 一 

更に みんな を 驚かす 殘 酷な 言葉が、 パイ パァの 口 をつ いて 出た。 先刻から 一言 も y をき かす、 

人々 のかげ にかくれ てべ H ジを見 詰て ゐ たのが、 主婦の はげしい 詰問に せきたてられ、 思 ひ 決し 

た 聲を震 はせ たのであった。 

「あ、、 これ は 士官の 制服ではありません よ。」 

ぺ 一一 ジは 主^の 肚の 底に わ だか まる 邪悪な 意地に たじろいで ゐた ところへ、 更に 横 合から 伏勢 

が あら はれた ので、 かへ つて 度胸 を 定めた 様子で、 自分で 自分の 腕 を 見、 胸 を 見て 答へ た。 

「御 承知の 通り、 相 當の學 校 敎育を 受けた 者 は、 當然 士官に なれる のです が、 役所の 方が S 圖々 

々して ゐて、 何時 迄た つても 埒が あかない、 もう 少し 待って くれもう 少し 待って くれで、 しびれ 

を 切らして しまった もんだ から、 雜兵 でもなん でもい 、から 早く 取って くれと 強談 判に 及んで、 


320 


宿の 教倫 


やう やく 此のて いたらく なんです よ。 一 

誰も 首肯し ないい ひわけ に、 主婦 は 直ぐ さま 追及した。 

「それで は あんまり 馬鹿々 々し いぢゃありません か。 默 つて 待って ゐれば 士官に なれる もの を、 • 

何も 好んで 兵隊になる 事 はないで せう。」 

「いや、 もともと 資格 は あるんだ から、 いつ 迄 も 兵卒で ゐる わけはな いのです よ。 いったん 軍籍 

に 入って しまへば、 直に 抜擢して くれます とも。」 

「でも、 その 抜擢の 機 會の來 る 前に 戰 地へ やられたら 大變ぢ やありません か。」 

5 け 

「戰 地へ 行く 前に は 充分 敎練 を受る 期間が あるから、 そんな 事に はな りつこない けれど, しかし 

萬 一 事態が 差 迫って、 直ぐ さま 出かける 事に なれば、 それ も爲 方が ありま せんよ。 祖國の 爲に盡 

すに は、 士官 だって 兵卒 だって 變 りはありません。 私 は 甘んじて 一 兵卒と して 忠義 を盡 しませ 

う。」 

次第に 語氣を 強く、 一  死 國に報 ゆる 赤誠 を 見て くれと いふ 態度 を 示した。 

「よし、 よし、 その 覺 悟が あれば 立派な もの だ。 だが 吾々 は、 軍部が 君の 才能 を 認めて 重用す る 

日の 速 かならん こと を 祈ります よ。」 


321 


雙 方が つのめだち ささな 形勢 を 見て とって、 グレイ は 年長者の 義務と 考 へたので あらう、 柔和 

な 笑顏を 右と 左に迗 つた。 

「です けれど.、 私共で は あなたが 士官に なるとい ふ 御 話だった ので、 特刖の 御 便利 も はかって 來 

たのです から ::: 」 

主婦 はな ほと つちめ ないで は 置かない 氣勢を 見せた が、 グレイ は 一言に それ をう ち 消した。 

「商 賣 の 話なら 食後の 事に して 下さい。」 

いろいろの 氣まづ い 感情が 交錯して 食卓の 上 を 流れ、 今日 も 亦 變らぬ 冷肉が  一 I ぁぢ きな く、 

大きい 皿の 中に 薄く 乏しく 切られて、 各々 の 前に 分配され るので あった。 

食事が 濟 むと さっさと 立 上って、 い つたん 廊下へ 出た 主婦が 戾 つて 來て、 扉 口から ベ H ジに聲 

を かけた。 

「 一 寸御 話したい 事が あるので すが …… 」 

ベ H ジは 不快な 顏 つきでうた づき、 漉々 立 上って 主婦の 後に ついて 行った。 扉が しまる と 同時 

に、 外の 廊: トで屮 高く 詰責す る 主婦の 聲が 聞え た。 何 を 云って ゐる のか,、 一語々々 は聽 取れな か 

つたが、 誰し も 宿料の 滞り を 催促して ゐ るの だと 想像した。 ふだんから、 主婦の 素行 をから かつ 


322 


宿の 敦淪 


たり、 いやがらせ をい ひ 度が るべ H ジに對 して 含む ところの 多い のが、 平素の 高言に 似す、 だぶ 

だぶ の 兵隊 服 を 着て 肩身 狹く 思って ゐる ひけめに 乘じ、 嵩に か、 つて まくしたて るので、 いひ わ 

け も 出来す、 時々 何 か つ ぶやく やうな ベ H ジ の聲 がま じる ばかりだった。 

- いつ 迄た つても 果 しが 無い ので、 グレイ はきく に堪 へない とい ふ 表情で 舌う. ちしたがら 仲裁に 

出て 行った。 たけり たつ 主婦 をな だめて ゐ るので あらう、 扉の 外の 聲が 急に 低くな つた。 

しばらく すると、 グ レ ィがぺ ェ ジ の 肩 を 叩きながら 戾 つて 來た。 

「かんにん、 かんにん、 あんな もの を 相手に して 怒った つて 爲 方が 無い。」 

ぺ H ジは 自分の 立場の 惡 さに、 怒る よりも 悄氣る 方だった が、 さう いはれ てみ ると、 いかにも 

正しい 者が 邪し まな 者に 虐げられ たやうな 憤慨の 態で、 堅く 唇を嚙 み、 兩腕 をし つかり 胸に 組ん 

で、 兵隊 靴で 床 を こっこつ 鳴らしながら、 肩を聳 やかして 立って ゐた。 

面白くない 芝居の 大詰の 幕の 下りた 時の 空しい 感じ をいだ いて、 柘植は 自室へ 引上げた。 あん 

まり 事の 多い のに 疲れて、 圖書 館へ 行く 氣も 起ら す、 讀 みかけの 小 說本を 手に、 椅子の 背に 全身 

を 托して、 ぼんやり 時間 を 消した。 

扉をノ ッ ク する 音に 驚いて 立 上る と、 グ レイが 吹 出し さうな 顔つきで 入って 來た。 


323 


一-あ、 あ、 えらい 事に なりました よ。」 

空 椅子に ぐったり 腰 を 落し、 大袈裟に 額の 汗 を 拭いた。 

一 あなたが 引上げてから、 ぺ H ジの奴 パイ パァ 嬢. に アツ パァ • カット を 喰 ひました よ。 私 も かね 

て を かしい と は 思って ゐ たが、 あの 剽輕 者め、 士官に なるとい ふの を 餌に して、 まんまと 野 鴨 を 

はが ひじめ  , 

羽交締 にして ゐ たんです。 勿論 女の 方 もどう いふ 過去 を 持って ゐ るか、 祌樣の 外 御^じな いので 

すがね。 しかし 兎に角 士官 だ 士官 だと 前 觸は賑 かだった から、 いざ 出来 上った 軍人が だぶだぶ 服 

のどた 靴で は、 いかにも 見た目が よくない し、 期待 は づれが 大きい から、 反動 は 物凄かった。 何 

故 自分 を 欺いた かと 云って 詰る と、 ぺ H ジは 先刻の 辯 解 を 繰返して、 直きに 士官に 取 立てられる 

の だと 云って ゐ たが、 今更 誰が 信じる もの か、 なんだかんだと 爭 つて ゐ るう ちに、 あの 女 もべ H 

ジに小 遣 錢位は 立 替てゐ るので、 そんな 事まで さらけ出し、 なだめる やつ をい きなり 横面 を 引ば 

たく、 さんざんの ていたらくで、 たった今 私が パイ パァを 三階 迄 送って 行った ところです。」 

.グ レイ は 更に 追加され た 一 幕 を、 寧ろ 面白さう に 話した が、 急に 眞 面目な 顏 つきで、 

「ベ H ジの 御難 は それば かりで はない のです。 かみさん はかみ さんで、 宿料の 滞りが とれな くた 

り はしまい かと 心配して、 猛烈な 催促 をし、 若し 明 曰 迄に 拂は なければ 荷物 全部 を 引渡して 出て 


324 


宿の 敦淪 


行けと いふので * あの 男 も 立つ瀬が ありません。 もともと 本人が 惡 いに は 惡 いので、 あんな 無敎 

育の 男が 士官に なれる 害 は 無い のです。 しかし 兵士と なって 戰 場へ 行けば、 生きて 歸れ るか どう 

かわからない 身の上 だから、 精々 今の 中に 人生 を享樂 させて やり 度い と 思 ひます よ。 その 勇士が 

すぎ  P 

荷物 を 差 押 へられて 追 出されて は、 可哀 さう 過る ぢ やありません か。 何とかし て^って やり 度ん 

と 思 ふので すが  」 

だて 

持って 生れた 世話 好で、 グ レイ は 自分自身 柘植に 宿料 を 用達て 貰って ゐる 身で、 何とか 心配し 

て やり 度い、 自分の ふ&に 少しで も あれば わけはな いの だが、 それが 御 承知の 通りの 次第で、 逼迫 

しきって ゐ るので、 今更 賴 める 義理で はない が、 愈々 火災 保險の 方の 仕事 も 確定して 來 週に は 必 

す 動き はじめ、 相 當の收 入に も ありつく 害 だから、 前のと あはせ て返濟 する 約束で、 ベ H ジ救濟 

の 金 を 一 時 貸して くれと いふので あった。 

天成の 樂天 家で、 窮迫して ゐ ながら 未だに 金錢を 大ざっぱに 取扱 ふ グレイの 心 持に、 かなり 不 

安 は 感じながら、 柘植は 心 弱く 紙 入 を 開いて、 自分自身の 處 置に 歎息し つ、 相手の 掌の 上に 札 を 

載せた。  - 


325 


あくる 朝 * 柘植は 扉 を 叩く 音で 起された。 高樹 は寢坊 だし、 そんなに 早く 訪れる 害の 人 はたい 

の だが、 誰 だら うと 我 耳 を 疑って ゐ ると、 又 こっこつ 叩く。 それ は 起きろ 起きろ と 威勢よ く 催促 

する 音で はなく、 他人の 耳 を 憚 かる やうな ひそ やかな 音だった。 寢.^ のま、 顏を 出して みると、 

ひどく 眞劍な 顔 をして グレイが 立って ゐた。 彼 は 隣の 小 室の 扉 を 指差してから、 その 指 を 唇に 押 

あて ゝ、 聲を 出して はいけ ない とい ふ合圖 をし、 足音 を 忍んで 入って 來た。 

「あいつが 戾 つて 来ました よ、 あいつが。」 

隣室との 境の 壁 を 指頭で そっと 突いて、 さ、 やいた。 

昨夜 も グレイ 夫人 はッ h ペリ ンの 飛來を 怖れて 寢 床に 行き 度 がらす、 萬 一 爆彈を 見舞 はれた. i. 

醜體を 示さない やうに と 着物 も換 へす に 食堂に 居残った。 外の 止宿 人 は 夫々. の窒に 引上げても、 

空 を, 飛ぶ 敵機に 少しで も 遠い 階下の 方が 安全 だとい つて、 三階の 自室へ 行く の を いやがる の だつ 

た。 グレイ も殆ん どもて あまし、 なだめす かしてみ るの だが、 直ぐに 泣 出して しまって 手が つけ 

られ ない。 やっとの おも ひで 抱 起し、 階段 を 上る 途中で、 突然 玄 I! の 重い 扉の 開く 音 を 聞いた。 

ふり かへ つてみ ると、 暗い あかり を 浴びて、 飽を さげた 大男が 蹣跚 として 入って 來た。 それ を 見 

ると グレイ 夫人 は、 良人の 胸に 取鎚 つて 呼吸が 出來 なくなって しまった。 


326 


宿の- 15: 倫 


一, 今晩は。」 

酒臭い 息 を 吐いて、 後から 通りぬ け、 先に 二階へ 上った の は, 數曰來 行衞の わからなかった へ 

ィ ドンだった。 グレイ は、 殆んど 失神した 夫人 を やう やく 三階 迄 抱 上げた が、 夫人 は 自分の 足の 

下に 獨 探が ゐ ると 云って 震へ 上り、 よつ ぴて 眠らす、 今朝 は 微熱と 頭痛で 全くの 病人に なって し 

まった。 

「どうも 實に 弱った が、 あなた は 彼の 男の 歸 つて 来たのに 氣 がっきませんでした か。」 

「ちっとも 知りません。 昨夜 は 熟睡して 夢 さ へ みませんで した。」 

「それ はし あはせ だ、 足音 をき、 つけたと みえて、 間もなく かみさんが 忍んで 行きました よ。」 

グレイ は 低く 聲を 忍ばせて、 嘲る やうに 笑った。 

「いや、 かう して は ゐられ ない。 親愛なる グレイ 夫人 は、 五分 間と」 人で は ゐられ ない。 すつ か 

り 精神が 顧 倒して しま つてね。. 一 

彼 は 又 唇に 人 さし 指 を 持って行って、 足音 を 忍ばせながら 三階 へ 上 つて 行った。 

朝の 食卓 は 叉しても そぐ はない 氣 分に 占領され てし まった。 ぺェジ も、 パイ パァ も、 ボイス も 

印度の 學生 も、 ^しむべき 三階の 男の 歸來を 知って ゐて、 殊更に 聲を ひそめ、 重大 事件に 關與し 


327 


てゐる 自分 達 だとい ふ 緊張 を 見せ 合った。 恐らく グレイ は、 今朝 早く 柘植の 窒の扉 を 叩いた やう 

に、 ほかの 皆の 窒 にも 觸 れて廼 つたので あらう。 誰も その 人の^ をしながら、 ヘイドンと 呼ぶ 者 

は 無く、 獨 探々々 とい ふので あった。 微熱が あり、 頭痛が するとい ふ グレイ 夫人 も、 一人で 三階 

の 窒に殘 つて ゐ るの は 氣 味が 惡 いので、 良人に 扶 けられて 降りて 來た。 

「柘植 さん、 私達 はどうな るので せう。 この 家に 住んで ゐて危 險な事 は 無いで せう か。」 

いきなり 胸の 中へ 飛込んで 行き さうな 夫人の 様子に、 一 同の 眼 は 忽ち 鋭く 光った。 

「何も 危險な 事はありません よ。 よしんば 彼の 男が 獨探 だからといって、 爆弾 を ポケットに 入れ 

てゐる わけで もない し、 此の 下宿 を 爆破した ところで、 軍事上の 手柄に もなります まいから。」 

柘植は 人々 の 視線 を 避ける 爲 にも、 夫人の 臆病 を輕 蔑す る 調子 を 出し 度かった。 

「それにしても 何とい ふづ うづう しい 奴 だら う。 爆彈騷 ぎの 晚を 中心に して 身 を かくし、 騷 ぎが 

濟 むと のこのこ 出て 來て, 知らん 面 をして ゐゃ あがる。 確に あいつ は獨 探なん だが、 殘 念ながら 

證據が 無い。 若 も 證據が あがったら、 僕 は あいつ を 叩き 斬って やる。」 

調練に 出かける 爲に、 だぶだぶの 兵隊 服 を 着、 どた 靴 を はいたべ H ジが、 無腰の 腰から 劎を拔 

く眞似 をして、 洋劍 術の 身 構 をして 見せた。 


328 


宿の 敦倫 


そこ へ 主婦が あら はれた ので、 一 同 は 急に 不自然な 沈 默に歸 つて 食卓に 着いた。 

「時に、 二階の 御 客が 歸 つて 来たさう です ね。」 

しばらく は 口 を 慎んで みた もの、、 直に 我慢が 出來 なくなって、 ぺ H ジは 主婦に 話 かけた。 

「え、、 昨晚遲 くお 歸 になった やうでした。 疲れて ゐ らっしゃ るので せう、 今朝 は 未だ 御 目 ざめ 

にならない やうです。」 

「へえ、 まだ あなた も 逢 はない のです か。」 

惡 意の 露骨な 質問に 主婦 は 忽ち 顏色 を變 へ た。 

「夜遲 く御歸 になった のです もの、 御 H にか、 れ ない のが あたり ま へ ではないで せう か。」 

「でも 大事な 御 客 だから. :… 」 

「何です つて。 え 、 え、 あの方 は 私共の 大切な 御 客 さまです。 宿料 もき ちんき ちんと 拂 つて 下さ 

る 大切な 御 客 さまです。 その 御 客 さまに 對 して あなた は 何 をい ふ權 利が あるので す。 あなたみ た 

いな  」 

一 何 をい ふの だ。 吾々 の 前で さう い ふ 口の き、 方 はつ、 しんで 貰 ひ 度い。」 

グ レイが 横手から 聲を はげまして 叱责 した。 


359 


「私 は 正直に 申 上 る だけです。 私 こそ 外の 御 客 の 陰口 を きく 方 と は 同席 致 度く 御座 いません。」 

いひ 切る と、 泣 出し さうな 表情で ぺ H ジと グレイ を 睨みつ け、 もら あらしく 席 を 立って 行って 

しまらた。 

「あ、 あ、 爆 彈騷ぎ 以來、 ロンドン 人 は 兎角 昂奮したがって 困る。」 

グレイ は 持 前の 諧謔 を取戾 して、 隣席の 夫人の 肩 を 叩きながら 笑った。 

主 !p はゐ なくなっても、 薄 野呂の 妹が ゐ るので、 惡:! をい ふ 者 もなかつ たが、 食事が 濟 んでモ 

の 妹もゐ なくなる と、 叉 ヘイドンの 嗨が、 前よりも はげしく 取替 はされ た。 

「君 はどう 思 ふ。 矢 張 あいつ は 臭いと 思 ふが ね。: 

拓植は 食堂 を 出て、 はじめて 眞劍 になって 高樹に 訊いて みた。 

「勿論 怿 しいさ。 僕. が 英吉利 人なら 夙に 警察へ 訴 へて やる。」 

「英吉利 人で なくた つてい、 ぢゃ あない か。 交戰 國にゐ て、 敵國の スパイ をつ かまへ るなん て 素 

晴ら しい 事 だ ぜ。」 

「どうで もい 、や、 僕 はもう 伊太利 へ 行って しま ふから。」 

高樹+ (全く 冷淡に、 何の 興味 もな く、 寧ろうる さいと いふ 語氣で 答へ た。 拓植 にわけ もな く 腹 


330 


宿の 敦偷 


が 立って、 それつ きり 何もい はす、 自分の 窒へ 引上げた。 何とい ふ 利己主義. だ。 あの 男 を 最初に 

獨 探と 睨んだ の は 自分に 違 ひ 無い が、 それ を 肯定し、 一番 憤慨し、 どうしても 尻尾 をつ かまへ て 

やらう とた くらみ、 露骨な さぐり を 入れて 相手 を 不快 がらせ 迄した の は 誰 だ、 それが 近く 伊太利 

•  す.. i 

へ 行く からといって、 俄に 自分に は關 係の 無い 事 だから 勝手にし ろと いふの は 我儘 勝手 過る、 よ 

し * 自分 はあく 迄 も 彼の 獨 探の 身柄 を 警察へ 引渡して やる ぞ —柘植 は高樹 への 面 あてに も、 斷 

然獨探 捕縛の 功名 を あら はして やらう と 決心した。 

だが、 其の 手段 は? 彼 は その 曰圖書 館に 行っても、 その 事で 頭が いっぱいで、 本なん か讀む 

氣に はたらなかった。 自分で 警察へ 出かけて 行く の はま づぃ、 萬 一 ねら ひの は づれた 場合に、 自 

分が 全責任 を 負 ふの は 馬鹿々々 しい、 それ は 卑怯で は 無い、 この 戰 時に 少しで も 怪しい 奴 はニ應 

調べる のが あたり まへ だ II 柘植は 自分で 問 ひ、 自分で 答へ て 段々 態度 をき めて 行った。 結局 彼 

は 警察 宛に 投書す るの が 一番 利口な やり y だと 考 へた。 晝の 食事に も 宿へ は歸ら す、 投書の 文案 

を ノオト . ブ ックに 書いて は 消し、 書いて は 消し、 異邦人の 身で 獨探を 捕へ る ロマンス の 空想に 

醉 つた。 そ れ は 全 ロンドン 中 の 評判に なる であ ら う、 彼 こ そ は獨探 の 首魁 で 大都 爆擊. の 手引 を し 

た 張本人に 違 ひ 無い、 彼の 窒か ら 重 要 な ^書が 發 見され >  そ れ に よ つ て 敵の 筌 軍の 本據 がわ かり 


331 


一掃され る、 あの 大男 はめ かくし をされ、 英吉利の. 華麗な 服装 をした 兵の 銃口の 的と なり、 烟の 

中に 倒れる のか、 この 出来事 は 日本に も傳 はって、 父 も 母 も 喜ぶ であらう と、 空想 は 何 處迄も 伸 

びて 行く のであった。 

ひとつの 樂 しさと、 大事 を 決行す る 恐怖と で、 身. 2: に はげしい 血 を 感じながら、 柘植は 日の 暮 

に 下宿へ 歸 つた。 今晚 手紙 を 認めて 投函 すれば、 明日 か 明後日 は 捕縛され るで あらう、 さうな つ 

た曉 は、 流石の 高樹も 驚き、 利己主義 を 恥る に 違 ひ 無い と 思 ふと 偸 快で 堪らなかった。 

今晩が 彼の 男の 顏を 見る 最後-かも 知れない と 思った が、 へ イド ンは 夜の 食卓に も 出て 來 なか つ 

た。 主婦 は 今朝の 事 を 根に持って、 一言 も 物 をい はす、 外の 者 も その 氣 分に 拘泥して、 多く 口 を 

きかなかった。 肉の 皿が かたづき、 干からびた 果物と 珈琲が 出る と、 主婦 は 俄に あらたまって、 

1 同に 呼びかけた。 

「一寸 承り 度い のです が、 どなた か 今朝、 警察へ いらっしゃった 方はありませんで せう か。」 

わざと 何氣 なく、 寧ろ ふだんよりも やさしい 聲, をつ くって きいた が、 一座 はぎよ つと して、 互 

に 相手の 肚を 探る やうに 顏を見 あはせ た。 

「どなた かい らっしゃった 方はありませんで すか。」 


332 


宿の 敦倫 


もう 一度 同じ 事 を 繰返した が、 誰も 返事 をす る 者 は 無かった。 すると、 主婦 は 一寸の び 上る や 

うにして、 一番 遠い 席に ゐた 高樹 にむ かってき いた。 

「失禮 です けれど、 あなた 警察へ いらっしゃり はしません か。」 

「いきま せんよ。」 

高樹は 憤に 顏色 を變 へて、 ぶっきら棒に 答へ た。 

「柘植 さん は。」 

主婦 は 隣の 席に 聲を 移した。 

「決して。」 

柘植は 自分の 聲の滑 かに 出ない の に 苦しんだ。 決して 行き はしない と 口で は 立派に 答へ たけれ 

ど、 腹の 中 を 見 透され るお も ひに 惱ん だ。 警察に は 行かなかった が、 密告して やらう と 決心して 

ゐる 自分 だ。 しかも その 文案 迄出來 上って、 二階の 自分の 窒の 机の 引出の 中に あるで はない か。 

い つたい 誰が 先んじて 訴へ 出た のか しら II その 時 柘植は 高樹が 決行した ので はない かと 思った。 

口で はつれない 事 を 云った が、 間も無く n ン ドン を 去る とい ふ 強味で、 行きが けの 駄賃に やった 

なと 田 3 つた。 


333 


主婦 は 陰險な 目つ きで、 一 一人の 日本人の 顏色 をう か,.、 つ てゐ た。 

「失 禮 です がもう 一 度 伺 ひます。 どなた か <fr 朝 警察 へ 行った 方 は あ り ません, f  。」 

r 一  寸御 待な さい。 何の 爲に 警察 へ 行く 必要が あるので す か。」 

グレイ は堪り 兼て、 抗議す る やうに 反問した。 

「さあ、 あたくし も 何の 必要が あって そん な眞似 をな さるの か, つからな いので 十が、 私:^ こ お^ 

がゐ ると 云 つ て 警察 へ 密告した 人が あるの ださう です。」 

つとめて 冷靜を 装って ゐた 主婦 は、 そこ 迄 行く ともう 我慢が 出來 なくなり、 怒った 聲丈 震へ、 

愼 みの 無い 高調子に 急變 した。 

「獨 探? それ は 容易なら ぬ 事で はない か。」 

グレイ も語氣 強く 主婦に き、 か へ した。 

「さう いふ 事 を 密告した 者が もる として、 何故 あなた は 此の 日本の 紳士の 名 を さして、 警察へ-了 

つた かどう か を きくので す。 失禮 ではない か。 . 無禮 ではない か。 

「い、 え、 別段 その 御 二人 を 疑って どうかう いふので はありません けれど  一 

主婦 は グレイの 權 幕に 打 たれ、 うっかりした 事 をい つて 言葉尻 をつ かま へられて は 困る と^つ 


334 


宿の 敦倫 


た 様子で * 話 を 横に そらし、 みんなの 同情 を 求める やうに いふので あった。 

「 で も 何と い ふ 卑劣な 人間が ゐ るので せう。 御氣 の 毒な G 一は 彼の 二階の 白 耳義 の お 客 さま で 十。 

根 も 葉 もない 事 を 云 はれ、 その 爲に 警察へ 連れて行かれました。 あの方 を 獨捋た なんて、 何とい 

ふ出鳕 目で せう。 え、 出鳕 目です とも。 寃罪で T。 むじつの 罪です。 あの方が 獨 探か獨 探で たい 

か、 あたくし がよく 知って & ます。」 

一座 はすつ かり 白けて しまった。 グレイの 詰問に 主^の 鋒 先 は 鈍った けれど、 二人の 日本人が 

疑 を かけられて ゐる事 は 明白な ので、 誰も 彼 もさぐ り を 入れる 眼 ざしで、 じろ じろ 一 一人 を 見る の 

だった。 高樹は 此の 場の 空氣 に 谩が 出来な く な り 、 

「行かう、 馬鹿-々 々しい。」 

と 柘植を 促して、 さっさと 食堂 を 出て しまった。 柘植は 此の 場合、 敵に 後 を 見せる やうた やり 

口 は、 一 服 相手の 疑惑 を 深く-つる もの だと 考へ て * 腰 を あげな か つた。 

「は 、あ、 それで あの 白 耳 義 から 来たと いふ 人 はどうし ました。」 

ベ ェジ はいかに も ふざけた やうた 顏 つきで、 主婦 をい やがらせ た。 

一 警察へ 引 張られて 未だ 歸 されたい の で.. すか.。 J 


335 


「え、 未だ 御歸 になり ません。 それ は あなた 此の際 かりにも 獨探 だなん てい はれ、 ば、 警察の 方 

では 何も わからす に 重大に 考 へて、 直ぐに 戾 して はくれ ません わ。 ほんと に 御氣の 毒な :•:. 」 

r 實に氧 の 毒 だな あ、 明日に も^ 罪 だとい ふ 事が わかって 歸 つて 來 たら、 雪菟會 を 催して 慰める 

んで すね。」 

ぺ ェジ は、 いかにも 氣の毒 だとい ふ 表情 を 誇張して、 つくり |聲 を 出し、 逆 效果を ねらった が、 

もう 彼の 男 は 二度と 歸 つて は 来ない ぞ とい ふ 肚は、 はっきり 讀 みとる 事が 出来た。 

主婦 は 忿懣の やり 場が なく、 惡 意に 取圍 まれて ゐ るの を 知って、 堅く 口 を 閉ぢ、 やがて 妹 を 促 

して 退出した。 

「い つたい 誰が 警察へ 行った の だら う。」 

ベ h ジは 座長 氣 取で 一 同 を 見廻した。 

「神様が 知って ゐ らっしゃる。」 

そんな 事 はどうで もい、 ぢゃ あない かとい ふやう に、 グレイ はす かりと 切って 落し、 心のう つ 

ろに なった やうな 隣の 妻 を かへ りみ て、  . 

「さあ、 今夜 は あの 獨 探が ゐ ないから、 安心して 眠られる だら う。」 


336 


といた はる やうに いふの だった。 

「でも 許されて 歸 つて 來 たら、 あの人 は みんなに 疑 を かけて 仇 をし や あしない でせ うか。」 

「な あに 許されて 歸る 事なん か あり はしない。. あの 男 は 地獄へ 行く、 吾々 は 天國へ 行く、 永久に 

御 目に か k る 事 はない の さ。」 

爆彈騷 ぎ以來 毎夜 眠れないで 病人に なり 切って しまった 夫人の、 不自然に 硬直した 顏を、 グレ 

ィは あはれ み、 いと ほしむ やうに 見守った。 

一方で は、 ぺ H ジも パイ パァも ボイス も 印度の 學生 も、 めいめいの 思 ふが ま、 の 意見 を 述べて 

盡 きなかった。 ほんと に 此の 宿の 止宿 人が 密告した のなら、 それ は 誰 だら うとい ふの が 第一 の 問 

題だった。 或は 彼の 行動が 怪しい ので、 此の 宿の 外の 誰かぐ 密告した ので はないだら うか、 それ 

とも 警察 自身が 彼に 目 をつ け、 密告者が あつたと いふの をロ實 にして 引 張って 行った ので は ある 

まい か、 いつ 迄 話あって も きりのない 事だった。 そのく せ その 連中 は、 矢 張 高樹と 柘植の 仕事 だ 

と 睨んで ゐた。 何故ならば、 此の 二人の 日本人 こそ、 一番 最初に ヘイドンの 擧 動に 不審 をいだ い 

敦 た 者で、 且又 たった今 宿の 主婦から 名 ざしで 訊問され た 者であった から。 

の  . 

^ 拓植は 嫌疑の 的に なって ゐる 自分 を、 人々 の 眼の 前に さらして 置く のがい やだった。 いくら 打 


337 


あんな 獨探を かば ひ、 あんな 獨 探と 深い 關係を 結んだ の は 誰 だと" 罵り 度い 心 持で いつば いだつ 

た。. 

食事が 濟 むと、 グレイ は 今日 こそ 例の 火災 保險の 話が きまる の だと 云って、 いそいそして 出て 

行った。 いつもの 通り 圖書 館へ 行く 高樹 と柘植 は、 誘 ひあって 出かける ところだった。 柘植が 先 

に、 高樹が 後で、 扉 を 引く と、 外から も 出 あ ひがしら に 扉 を 押して 入って 來た 男が ある。 ヘイド 

ンだ。 ぎょっとして 立 止る 二人の 眼の 前に、 脊の 高い、. 肩幅の 廣ぃ 大男が 近々 と 迫って 立った。 

顎の 張った 赤ら顔に は 憎惡の 色が 深刻に あら はれ、 今にも 大きな 拳骨が 面 上に 飛んで 來る氣 勢 を 

感じた。 知らん 面 をして、 擦れち がって 出て 行かう とすると、 後から、 

「待て。」  . 

と 震 へ を帶 びた 強い 聲が呼 止めた。 

一 君達 はい k こと をして くれたね え。」 

へ イド ンは兩 の 拳 を 胸の 邊に 握りし めて、 鬪爭の 意志 を 示した。 

「何が? 吾々 は 何もし や あしない。」 

柘植は 心の底に 何 か 恥る もの を 感じながら、 平 氣を裝 つて 答へ た。 


340 


宿の 敦倫 


「何もし ない? 警察へ 行った の は 誰 だ。 君達の しわざ だって 事 はわ かって ゐ る。」 

「吾々 は 警察なん か へ 足踏みした 事 は絕對 にない。」 

「き つと か。」 

「ない。」  . 

拓植は 相手の 氣 勢の 弛んだ の を 見る と、 高樹を 促して さっさと 戶 外へ 出て しまった。 追 ひかけ 

て來 るかと 思った が、 來 なかった。 ふり かへ つて 見る と、 一人 を 吞んで 二人 を 吐出した 玄關の 扉 

は 堅く しまって ゐた。 

了 「どうしたんだ、 あいつ は。 證據 不充分で 許された のか しら。」 

高 樹は柘 植に追 ひつく と、 怒った 様子で, 云った。 

「矢 張、 獨 探ではなかった のかな。」 

, 柘植 は、 若しも さうならば 氣の 毒な 事だった と悔む 心が 動いた。 たと へ 自分が 警察へ 行った 本 

人ではなくて も、 疑 を かけた 第一 の 人間と して 彼の 前に 謝罪し なければ ならない と 思った。 

「な あに、 そんな 事が ある もの か。 英吉利の 警察なん て 手ぬ るいんだ。 あいつに うまく ごまかさ 

れた のさ。」 


341 


高樹 はあくまで も 彼は獨 探で ある、 い つかば 證據が あがって つかまる に 違 ひ 無い とい ひ 張った。 

獨 探の 嫌疑で 警 祭へ 引 張られた ヘイドン は歸 つて 来たが、 二階の 部屋に 閉 籠った きりで、 外の 

者と い つし よになる 食堂な どに は 決して 顏を 出さなかった。 朝晩の 食事 は 宿の 主婦が 大きな 錫の 

盆に のせて、 自分で 運んだ。 

主婦 は、 彼が 無罪で 歸 つて 來 たので、 すっかり 滿 足し、 い- - 着物 を 身に つけ、 化粧 を 濃く し、 

いそいそと 階段 を 上り下りして、 止宿 人の 反感 を 愈々 つのらせた。 どうして あんた 擧動 不審の 人 

間 を 手 輕に釋 放した のかと、 額 を 集めて 噂し あつたが、 進んで どう するとい ふ 手段 も 無かった。 

この 事件 はこれ でお しま ひと 思 はれた が、 一人の 犠牲者 を 出した。 その 卷添 をく つたのに 填 太 

利 人の 下僕 ァ ドルフで、 敵國の 者で は あるが 未だ 大人に なり かけの 若者で は あるし、 戰 前から 此 

地に ゐた 事が 證 明され、 何の 咎も 無く 働いて ゐ たのが、 突然 差 紙が 來て、 敵國 人收容 所に 入れら 

れる 事に なった。 

ァ ドルフ は 其の 身の 不運 を、 一番 古顔で、 おまけに 獨乙 語で 話の 出来る 爲、 誰よりも 馴染の 深 

かった 高樹 のと ころへ 訴 へに 来た。 


3)2 


宿の 敦 倫 


「あの 獨 探が 許されて、 この 善良な 薄 野呂が つれて 行かれる なんて、 こんな 馬鹿々々 しい 事が あ 

る もの か。」 

誰か ^密告した おかげで、 意外の 結果 を 招いて しまったの を殘 念が つた。 

「可 哀さ うだから いくらか 出し あ つて やら うぢ や あない か。」 

高樹と 柘植は 相談して、 心ば かりの 錢を アド ル フ の 掌に 握らせた。 

「タン キ ユウ、 タン キュ ゥ。」 

廻らない 舌で 幾度 も 感謝し、 淚と水 鼻と いっしょにす、 りあげた が、 たった ひとつ 飽を 手に 持 

つた? けで、 みんなに 別 を 告げて 行った。 氣の い 、若者で あつたが、 獨探 事件の 犠牲者と して、 

自由と 職 を 失った。 

高樹の 立つ 日 も 迫った。 

「だんだん 霧の 深くなる 頃で、 ロンドンの 一番 ロンドン らしい 時 だが、 愈々 御 別れと なると 多少 

名 殘が惜 まれる だら う。」 

「馬鹿い つち や あいけ ない、 僕 は 霧 や 雨 は大嫌 だ。 伊太利の 靑 空の 下 こそ、 僕の 健康 を 完全に 囘. 

復 して くれる だら ケ。, 皮膚 も 血液 も、 こんな 國 ではく ろす み、 停滯 する ばかり だ。」 


313 


すっかり 荷 造 も 終へ た高樹 は、 行 先の 旅の 樂 しさに 胸 を 躍らせて ゐる のだった。 

「ロンドン も ひどく 嫌 はれた もの だな あ。 しかし、 これが 最後と いふ 晚には 盛大な 送別 會を しょ 

う。 僕が 追 かけて 行って、 巴 里か羅 馬で 逢 ふ 日が あるか もしれ ない が、 兎に角 當 分の 御 別れ だ。 

茅 野 君 も 呼んで 大に 喋らう。」 

「それ はありが たい。 僕 は 久しぶりで 日本料理が 喰 ひたいな。. 一 

「それから、 いっか 御馳走に なりつ ばな しだから、 グレイ 夫婦 も 列席 させて やらう。 火災 保險の 

仕事に ありついた 御 祝 も 兼て。」 

「よから う、 あれ 程 僕達 を 理解して くれた 英吉利 人 はない からね。」 

一理 解と いふよりも 買 ひ かぶられた 方だぜ oil 

「殊に 君 はね。」 

高樹は 細い 眼 を 一 曆細 くしてから かった。 

「しかし 氣を つけない といけ ない ぜ。」 

「何 を。」  . 

柘植に ははつ きりわかって ゐ るの だが、 わざと 反問した。 


344 


宿の 敦淪 


「あの 夫人 さ。」 

「大丈夫 だよ。」  . 

冗談の やうに いひながら、 意外に 眞 面目な 二人の 視線が かちあって、 二人とも てれて 眼 を そら 

した。 

その 日 高樹は 買物 や、 銀行の 用事 をす ませて 會 場の 日本 料理屋へ 定刻に 行く 約束だった。 グレ 

ィも 新しい 仕事に 不馴な ので、 少し 遲 くなる かもしれ ないから、 その 積り で 待って ゐて くれと い 

ひ殘 して 行った。 

夕方、 柘植は グレイ 夫人 を 誘って 出た。 曰の 暮の あわた^しく なった 九月 末の ロンドン は、 つ 

めたい 薄 霧に しめつ ぼく、 街路樹の 落葉の 步 道, ^踏まれて 朽ちて ゆく 微かな 香が 漂って、 時々 鼻 

先 を 撫でる やうに 感じられた。 夫人 は 爆彈騷 ぎ以來 全く 外出し なかった。 殊に 日が 暮れる と 飛行 

船.. の 襲来が 刻々 迫って 来る 感じに 脅かされ、 心の 安靜を 失って しま ふ 位だった. から、 高 樹の途 別 

會に 誘っても、 ■  多分 出席し ないだ. らうと 思って ゐ たのが、 意外に も 非常な 喜びで、 日本人 同志の 

親しい 會 合に 自分 達 夫婦 を 招いて くれる 親切 を 繰返して 感謝した。 黑 いきもの 、胸に 雪白の レ ェ 

スの ついた 外出 着、 黑ぃ 毛皮 を W にかけ、 黑ぃ 15 子を斜 にかぶ り、 いつもよりも 濃く 白粉 を 刷い 


345 


夫人の 執拗な 辯 舌 は 柘植を 苛々 させた。 我儘な、 駄々 兒の やうな 相手に 對 して、 不當な 評價を 

されて ゐるゐ た、 まれな さは、 いくら 說 明しても わからな いに 違 ひない。 彼 は 嘲る やうに 答へ た。 

「吾々 がゐ なくなっても、 あなた は 一人ぼっちに なんかな り はしな いぢゃありません か。 あなた 

を 深く 愛して ゐるグ レ ィ 氏が ゐ るではありません か。」 

夫人 は 不意に たちどまって、 柘植の 顔 を 見守った。 手應 へがあった なと 思 はせ たが、 全然 反 封 

だっ^  .  .  .  • 

, 「その グレイと いふ 人 を、 私 は 見損. なって ゐ たのです。 あの人 は あなた 方 も 翁-負に して 下さる 通 

り、 恐らく 善良な 人に 違 ひないで せう。 けれども、 競馬と 骨牌と 玉 突と 賽 ころと、 そしてお 金が 

あるならば ホ テ ル の 食事と 上等の 葉卷 とレヴ ュ ゥの 外に 何も 無い 人です。 シ H クス ピ ァ が この 阈 

. の 偉い 劇作家 だとい ふ 事 は 人に. 聞いて 知って ゐる でせ うが、 自分で は 一 頁 も 讀んだ 事 はあります 

まい。 バイ ロン、 キ イツ、 シ M レイの 名 も 知って ゐ るで せう。 けれども 競馬の 馬の やうに 悉 しく, 

その 特質 を 知って はゐ ません。 あなた 方に 御 目に か、 つてから" 不幸に して 私 は グレイが いかに 

も 平 俗な 人間 だとい ふ 事 を、 つく づ く 感じる やうに なって しま ひました。」 

夫人の 語氣は 鋭く * いき^れの する 様子で、 殆んど 平生の その 人と は 思 はれなかった。 柘植は 


348 


齒の敦 倫 


さう いふ 昂奮 狀態 にある 相手 を もてあまし, 話題 を か へ る 事に 努めた。 

「もう それ 程遠く はありません けれど、 疲れ はしません か。 あなた は あの ッ M ペリンの 晚 以來、 

»L 來を步 いた 事 はない の だから。」 

「い、 え、 何ともありません。 私 は あなたが 側に ゐて 下さるなら、 決して 爆彈を 恐れません。」 

夫人の 體の あた、 かみが はっきりと 傳 はる 程 寄 添って 來て、 首に 卷 いた 毛皮の 柔 かい 毛が 柘植 

の 額 を 撫でた。 

「柘植 さん、 あなた は 宗敎を 信じない とい ふので したね。 さう すると、 吾々 が 死んで から 天國で 

逢 ふとい ふ 事 はあり 得ない 事な のでせ うか。」 

何 を 下らない 事 をと 思 ひながら、 柘植は 返事に 當 惑した。 下らない 口頭の 質問ではなくて、 夫 

人の 眞 意の ある 所 を 直感した からだ。 でも * はっきりと 答へ た。 

「私に は天國 なんか 信じられません。」 

突然、 夫人の 體は前 のめりに 倒れ か、 り、 あや ふく 柘植の 支へ た 手に つかまって 踏み止まった 

が、 その 俵 風船の しぼむ やうに、 步 道の 上に 膝 をつ いてし まった。 

「どうしました。 一  - 


349 


兩 手で 顏を: 後った ま、、 一言の 答 もな かづた。 繁華の 町 を 少し 離れた 場所な ので、 人 通 も 少な 

く, 鏜戶の 下りた 家が 並んで ゐて、 人目に はっかなかった。 柘植は 手の つけ やう もな く、 次第に 

深くな つた 夜霧の 中に つ つ 伏して ゐる女 を 見下して ゐた。 かねて 夫人の 心の中に ひそんで ゐる邪 

念に は 感づいて ゐ たが、 それが 今夜 は 露骨に、 積極的に 迫って 來て、 逃 場に 迷 ふ 位置に 追 込まれ 

て來 た^け、 うしろめ たさに 惱 まされた。 夫人の 柔軟な 肉體の あた、 かさや 感觸ゃ * 香料の 匂 は 

たった今 しがた の 記憶に ある。 夜の 路上に 失神した 女 を 眼前に して、 息苦しい 慾 情が 身內を かけ 

迴 つた。 これが 若し 美しい 人 だったら I 柘植は 忌々 しさに 敷石 を 靴の 尖で 蹴った。 

ぼか っぽ かつと 高く 足音 を させて、 大兵の 巡査が 霧 を 跛って あら はれた。 二三 間 行き過ぎて か 

ら、 戾 つて 來て、 

「どうしたので すか。」 

と叮重 いた。 

「腦 貧血 を 起したら しいので す。」 

言葉の 訛で はじめて 異國人 だと 知って、 巡査 は, 俄に 態度 を 改め、 うさんくさ、 うに 拓植 の顏を 

のぞき 込んだ。 


350 


宿の 敦倫 


「そして、 おな たは 此の 婦 人のお つれです か。」 

「さう です。 つい 此の先の 横丁の 日本 料理屋へ 行く 途中な のです が …… 」 

巡査 は それ を 信じない 樣 子で、 いきなり 夫人の 肩に 手 を かけて 抱 起さう とした。 

「大丈夫です。 何ともありません。 うつち やっといて 下さい。」 

夫人 はうる さ、 うに 巡査の 手 を振拂 つたが、 矢 張氣カ はなく、 大きな 手で 扶け 起された。 

「あ、、 突然め まひがして、 足が いふ 事 をき かなくな つてし まった のです。 すみません。」 

巡査に ではなく、 柘植 にあ やまって、 半 巾で 額の 冷汗 を 拭いた。 巡査 はま だ 合點の ゆかない 標 

子で 立 去らなかった が、 夫人 は 拓植を 促して、 元氣 らしく 歩き 出した。 それつ きり 何も 口 をき か 

す、 巡査の 眼 を 背中に 感じながら、 水底の やうな 霧の 中 を、 細い 模 丁へ 曲った。 

日本 料理屋の 一室に は、 夙に 高樹と グレイが 待ち あぐんで ゐた。 

「どうしたんだ、 君達 は遲 いし、 茅 野 はやって 來 ないし、 心配し ちゃった。」 

辛抱 氣 のない 高 樹は顏 を 見る と 直ぐに 不平 をい つた。 

「僕の 方 は、 夫人が 途中で 氣 分が 悪くな つた もの だから 遲 刻して しまったの だが、 茅 野 君 も^て 

ゐ ない のか。 一 


351 


「を かしい な、 來 ないなら 來 ない といって 来れば い、 ん だ。」 

鋅 先が 茅 野の 方に 向いた ので、 柘植 はわ づら はしい 釋明 をし ないで 濟ん だ。 

「い、 え 大した 事 はない の。 あんまり.^ しぶりで おもてに 出た もの だから、 め まひがして 柘植さ 

んを 驚かしち やつたん です。」 

夫人 は 存外 啧々 とした 顔つきで、 良人の 心配 を 押さへ、 室內を 飾る 浮世 繪ゃ、 京人形 や、 せと 

もの や、 蒔 繪の硯 を 物珍し さう に 見て 廻った。 

いつまで 待っても 茅 野 はやって 來な いので、 たうとう 來な いものに きめて 食卓に 着いた。 さし 

み、 吸物、 酢の物と 順々 に 膳に 並び、 夫妻 は 一 々說明 をき、 ながら、 はじめての, 手に 箸 を 持って 

丹念に 味った。 料理屋の 方で 氣を 利かした 積り の フ才ォ クゃス プゥン は 担んで、 夫人 は 杉箸の 美 

しさと、 その 觸覺 の柔 かさに 感服し、 漆器 や 掏 器の 纖 細な 趣味に 驚嘆した。 酒 も 味 は ひ、 どうかと 

思った さしみ さへ、 醤油の 深い 味と 共に 讚美した。 グレイ も かねて 舌の 贅澤 をして 來た男 だけに、 

夫人 程の つぼに はまった ほめ 言葉 は 持 合せて ゐ なかった が、 一 般の 英吉利 人の やうに 頭から 輕蔑 

して か、 る 風 は 無く、 鰹節の だしの 味まで も おろそかに はしないで、 高 樹と拓 植を滿 足させた。 

「あ、、 日本と いふ 國は、 何とい ふ 創意に 富み、 微妙な 感覺 と、 洗練され た 趣味 を 持つ 國 なので 


352 


稳 の 敦^ 


せう。」 

一驚くべき もの だ。 全く 驚くべき もの だ。」 

夫婦, H 心からたん のうして、 食事が 終っても 日本に か、 はる. 話題 は盡 す、 長々 とおち ついて し 

まった が、 どうい ふきつ かけから か、 叉しても 下宿の 二階に 巢を くって ゐ るへ ィ ドンの 身の上に 

話 は 落ちて, つた。 あれ 程、 誰の 眼に も 怪しい と 映る のに、 どうして 簡單に 許され た^だら う 

警察で は どこ 迄 突 込んで 調べた のか、 たった ー晚 かニ晚 留置した 丈で 歸 された の は、 證據 不充分 

の爲 なのか、 全く 身の あかりが 立った のか、 何時も 繰返して ゐる事 だが、 どうしても 怪しい とい 

ふの が 此の 場の 一 同の 意見だった。 

「それにしても、 誰が 警察へ 密告した のでせ う。」 

夫人 は考へ 深さう に 一人々々 の顏を 見廻した。 

とぐち 

「あの 男 は 吾々 二人 だと 思って ゐる やうです。 警察から 歸 されて 來た 日に、 偶然 扉 口で 出つ く は 

し. fJ 時、 まさにぐ わ あんと やられる ところでした。」 

柘植は 自分の 拳骨 を、 服と 股の 間に 擬し てうし ろに 反って 見せ^。 

r まあ、 あなた 方に 對 して …… 」 


353 


「え、、 僕 は 全く あの 男の 一 擊で ひつく りか へ つたと 思 ひました ね。 それ 程 彼 は 復讎 心に 燃えて 

ゐ ましたよ。」 

「あぶな いぢゃありません か。 です が、 どうして あなた 方 を 密告者 だと 思って ゐ るんで せう。 あ 

の 男に しても、 宿のお かみさんに しても。」 

「それ は爲 方が ありますまい。 最初に 怪しい と 睨んだ の は 僕です し、 高樹 君なん かわ ざと 獨 乙お 

で 話しかけたり なんかす るんで す もの。」 

「それ だって、 あなた 方 は 決して 警察へ なんかい らっしゃり はしない のでせ う。」 

「決して。 しかし あの 宿の 人達、 今 居る 人で も" 曾て 居た 人で も、 彼の 男 を 怪しい と 思 ふやう に 

たったの は、 吾々 の 深い 疑念 を 分けられ たからな のです。 吾々 が 其の 疑 を 口に 出し さへ しな かつ 

たら、 誰も 彼の 男の 行動に 疑惑の 眼 を 向けなかった かもしれ ない のです。 なぐられても 爲方 がな 

いやうな 氣 がします よ。」  . 

「何 を おっしゃる のです。 あなた 方が 密告 もしない のに、 したと 疑 はれて、 手荒な 復讎 をされ た 

ら どうす るので す。 とり かへ しがっかないで はありません か。 そんな 馬鹿々々 しい 事って ある も 

めぢ やありません わ。」 


354 


夫人 は へ イド ン の殘忍 性を帶 びた 弒貌を 想 ひ 描いて 身 ひした。 

『ねえ、 危な いぢゃありません か。 あ、 いふ 男 は 何 をす るか しれません わね え。. 一 

良人の 同感 を 求め. る 夫人の 顏は 暗かった。 

「どうで せう、 いっそ 警察へ 行って、 誰が 密告者 だか 調べて 来て は。 それでなければ 此の 御 二人 

では 無い とい ふ證明 書 を 貰って 来て は。」 

夫人の 昂奮 をな だめる やうに グ レ ィは 妻の 肩に 手 を 置いた。 

「まあい 、" まあい 、、 その 密告者 はわ かって ゐ るよ。」 

「わかって ゐ るので すって。 それ は 誰です。 誰な のです。」 

一 刻 も 早く 一 一人の 日本人の 寃罪を はらさなければ ならない とい ふ意氣 組で * 夫人 は 良人に 返事 

を 迫った。 

「まあ、 おちついて、 おちついて。」 

むきた は  .  • 

グレイ は高樹 と柘植 Q. 方に 向 直って、 

人, 

^  r 實は 私です。 此の グレイ その 人なん です よ。」 

め 

t 間の 惡さ を徵 笑で 覆 ひかくし、 夫人 を 納得させる つもりで、 兩手 をつ かんで 引 寄せよう とした 


355 


r なんです つて。 あなたで すって。 あの 密告者 は。」 

夫人 は 良人の 手 を 邪慳に 振 切って、 大き く^をみ はり、 臾 人の 颓 色で眞 僞を 確め ようとして ゐ 

るう ちに、 淚が 白粉の 頰に筋 を 引いて あふれて 來た。 

「それな のに あなたと いふ 人 は、 あの 宿のお かみさんが、 誰か 警察へ 行った 人 は 無い か、 高樹さ 

んか、 柘植 さんかと 訊いた 時に、 何故 自分 だと 云はなかった のです。 あなたの した 事の 爲に、 此 

の 方 達 は 疑 はれ、 もしかすると 彼の 男に 危害 を 加 へられた かもしれ ない のおゃありません か。 何 

とい ふ 卑怯、 何とい ふ、 W 知らす  」 

夫人の 聲は 激情に 震. へ て繽 かなくな り、 兩 手で 顔 を 覆 ふと 自分の 膝の 上に つ つ 伏して はげしく 

十 v-り なき 

駄欷 した。 

み.. -たぷ 

誰も、 一言 もい ふ ものはなかった。 す、 り-あげる 度に 薄っぺらな 耳 菜 を 飾る 金の 輪が、 きらき 

ら搖れ た。  - 

高樹 は、 その 翌 &  ロンドン を 立った。 落葉 を 追 ひかけ て 秋風の 白く 流れる 町 を, たった 一人の 

^送の 柘植 と、 タク シィ に同乘 して^ 車 場へ 向ふ途 すがら も、 彼の 心 は旣に 伊太利へ 行って しま 


356 


宿の 敦倫 


つて ゐた。 

「君 も 早く や つ て來 たま へ。 うかう かして ゐ ると あぶない ぜ。」 

何が あぶない のか、 相手の いた 3 らっこら しい 笑顔で、 柘植 にも はっきり わかった。 

「大丈夫 だよ。」  . 

「何が 大丈夫な もの か。 昨夜の けしき だって 隨分 眼に あまる ものが あった ぜ。」 

それ を 心配す るよりも、 寧ろ 無責任に 面白がる 程、 旅へ 出る 喜びに 醉 つて ゐた。 

「それで は 御機嫌よう。」 

「さよなら。」  / 

汽車 は 無表情に 驛の 構外へ 滑り出した。 高樹は 窓の 外の 風 をい とって、 葸 ぐに 顏を引 込めて し 

まった が、 柘植 はもう 一度 友達の 顏の あら はれる 事 を 期待して、 汽車の 見えた くなる 迄た つてん 

た。 病弱の 體で、 血 を 吐いて 間 もない のに、 學 問と 藝 術に 全 精 祌を打 込んで、 歐羅 巴の 古い 都 を 

訪れる 喜びの 外に は 何も 咸.) じな い ひたむきな 熟 情 をいだ いて 行った 高樹 を、 ひどく 悲壯な ものに 

思った。 

下宿へ 歸 ると、 茅 野から 高樹と 柘植と 連名の 手紙が 幕いて ゐだ。 折角の 迗训會 だから、 是非 出 


357 


席す るつ もりで ゐた ところ、 俄に 加った 朝夕の 寒さに 風邪 を 引いた のか" 突然 發熟 したので" た 

うとう 約束 を果 さなかった、 惡く 思って くれるな と、 寢 床で 書いたら しい 走 書だった。 もぎ だう 

に 人 を乘 せて 行って しま ふ 汽車 の 別れの 後で、 人な つかしく、 柘植は その 手紙 を讀丫 る と 直ぐに、 

郊外の 茅 野の 宿へ 見舞に 行く 氣 になった。 市中と は 違って、 靑^ の ゆたかな 傾斜 地に、 日光の あ 

ふれる 芝生に とり 卷 かれた 小ぢん まりした 家が 並んで ゐた。 

おさげの 頭に 大きな リボ ンを 結んだ 小娘と、 神經 質ら しい フォックス • テリアが ^口に 出迎 へ. 

た。 

茅 野は寢 床の 中から 手 を 出して 握手 を 求めた。 彼 は 心の 感動 を赓々 さう いふ 形で 表現した。 

「又 やられち やった。」 

發 熱の 爲か、 ふだんから 子供の やうに 頰ぺ たの 紅い のが ー曆 あかく、 熟し はじめた 果物の や,? 

につ や、 か だ つた。 

「風邪 か。」  , 

「風邪 だら うと は 思 ふの だが、 も 何も 出ない で 熱の あると ころ は 少し あやし いんだ。」 

旣 はに 胸 を 患った 事が あって、 いつ 再發 する かわからない 體 だった。 彼 は 自分で 作った 溫度^ 


:リ 3 


宿の 敦淪 


を 見せて、 高低の 著しい の を さし 示した。 

一 樹君も 今日た つたよ。 - 

「彼 遂に 目的 を 達した な。」 

茅 野 は 病人と は 思へ ない 朗な磬 で 笑った。 醫 者が 止めよう が、 友人が いさめよ うが、 どうして, 

も 伊太利へ 行く の だと 育 言し、 その外の 一切の 事に 振 向き もしす 執拗に 押 通した 性格 を、 稱 讚す. 

ると 同時に こ 、ろよ くひ やかし 度 か つたの だ。 

柘植は 茅 野の 枕 もとに 椅子 を 引 寄せて、 その後の 出来事の 數々 を 話した。 ッ M ベリン 襲來の 夜. 

ギ 野と 別れて からの 事、 下宿 を騷 した 獨探 事件、 髙樹の 送別 會の 事、 そして 最後に 奥 茶店の 支配 

人が たづね て 來た事 もつ 、みかくさなかった。 

「え、 あの 支配人が 君のと ころへ 行った つて? 君に 逢って どうしょうと いふんだ。」 

「君 も 僕に あの 男と 逢って、 君の 戀 愛が. 不眞 面目で ない 事の あかし を 立て、 くれと い つたが, 向 

ふで は 僕から 君 へ 意見 をして くれと いふの さ。」 

意見 だって。 失敬な I をい ふ 奴 だな。」 

茅 野 は 叉 持 前の よく 響く 聲で 笑った。  . . 


一 それ は 向 ふに して 見れば 無理 は 無い よ。 君 は あの 晚叉 女の子 達の ァパァ トメ ントに 押 かけて 行 

つて 一 芝居 打った とい ふぢ や あない か。」 

柘植は 冗談が 冗談で なくなって 行く 氣 持で、 茅 野の 輕擧を 非難した。 

「芝居 は, ひどい よ。 そんなつ もり ぢゃ あな か つたの だが  」 

「そんなつ もりではなかった かもしれ ない が、 好機 逸すべ か ら すと い ふ 氣持は あ つたら う。」 

「それ はあった。」 

茅 野 は 枕に 沈んで ゐる頭 を 更に のけぞらして、 偸 快 さう に 笑った。 

「それで 君 は 支配人に なんとい つて くれたんだ。」 

「僕 か。 僕 は 茅 野と いふ 男 は 自分で 一 人ぎ めに きめてし まふ 性質で、 他人が 意見 をした ところで 

决 してき 、 わける 男で はな いから 無駄 だと 答 へた さ。」 

「それ はいけ ない、 そんな 事 をい つて は 困る よ。 それよりも、 これ は 僕に とって 非常にい、 機會 

なんだから、 もう 一 度 彼奴に 逢って、 僕の 心 持 を わからせて 貰 ひ 度い な。」 

「駄目 だ。 君の 心 持 は 僕に も わからな いの だから。」 

「冗談 ぢゃ あない、 本氣 なんだ ぜ。 場合によったら 彼の 娘に も 逢って 貰 ひ 度い な。 支配人 立會ひ 


360 


宿の 敦淪 


なら 逢 はせ るに 違 ひない からね。」 

「逢ん 必要 は 無い よ。 あの 娘 も 君の 擧動を あやしんで、 匁 物 ざん まいに でも 及ばれ はしない かと. 

怖れて ゐる さう だから。」 

「支配人の 奴 そんな 事 を 云って るの か。 馬鹿に してや あがら。」 

茅 野 は 支配人 を 憎む よりも、 娘の 心が 旣に 自分に 傾いて ゐる事 を 知らない 迂濶さ を あはれ む も 

、の、 やうだった。 いかに 自分が その 娘 を 愛し、 その 娘 も 亦 自分の 熱情に 動かされて、 機會が あれ 

ば兩 手の 中に 飛込んで 來る 害で あると、 茅 野 は 自分の 言葉に 感激して、 微熱の ある 顏を あかく し、 

淚 ぐんで 來 るので あった。 

元來 此の 戲曲 家の 組立て た戀 愛に 同感 を 持たない 柘植 も、 何 處迄も 自分の こしら へ あげた 氣持 

を 追及して 止まない 熱心に は、 むげに しりぞけ 難い もの を 感じた。 拓植 はたう とう 彼の のぞむ 儘 

ひきとめ 

に、 もう 一 度 支配人に 逢 ふ 事 を 約束した。 そして、 いつ 迄 も 引 止る 茅 野に、 あまり 長居 をして 喋 

ら せて は、 熱度が 高くなる であらう とな だめて、 ふり 切って 別れた。 

夜の 食卓に へ イド ンのゐ ない の は 元よりだった が、 その 日 は 珍しく グ レ ィ 夫妻の 姿 も 見えな か 

つた。 柘 眩に は その 方が 氣が樂 で、 忙しい 日の 後に 休息 日の 來 たやうな 肩の 輕さを 思 ふので あつ 


361 


たが、 かねて 夫妻と 親しく- 信賴 され、 尊敬され、 最大 級の 言葉で ほめたてられて ゐる 日本人に 

反感 を 持ち 始めた 人々 は、 何 かから かつ て やり 度い, 心 持で 結ばれて ゐた。 

r 柘植 さん、 グ レイ 氏と 夫人 はどうな さった のでせ う。 あなた はき つと 御^じで せう。, • 

と 主婦が 先づ つくり 笑 を 浮べて 訊く のだった。 

「へえ. あなた も 知らない。 これ は 珍しい。 昨夜 も 夫人と いっしょに 御 出かけだった ぢゃ ありま. 

せんか。」 

ぺ ェジが 直ぐに その後に つ.,、 いて、 主婦に 媚る やうな 目く ばせ までした。 

「昨夜 はいつ しょでした。 しかし、 今日の 事 は 知りません。」  . 

1 ちゅうっぱら 

柘植は 中腹で、 きっぱり 答へ た。 誰の 眼 も あやしく 光り、 誰の;:: 邊 にも 意地の 惡ぃ 微笑が かげ 

を 見せて ゐた。 恰も 昨夜の 路上の 出來事 を、 みんなが 知って ゐる やうな 不安で、 柘植 は不覺 にも 

動悸の 高まる の を 感じた。 食事が 濟 むと 早速 自室に 引 上て 机に 向った が、 何 か 頭腦を 統一 する^ 

の 出来ない ものが あった。  J 

そこへ グレイ 夫妻が、 たった今お もてから 歸 つて 来たば かりの 外出 着の 儘で、 iE 分 達の 部屋 

行く 前に 立 寄った。 


J6?. 


敦^ 


. 昨^の 禮を あらためて 橾 返し、 晝間 たった 高樹は 今頃 何處迄 行ったら うか、 もう 海峡 を 越る 船. 

の 中 にんる ので あらう かと, 本題に 入る 前の 話 を, 夫人 は 綿々 と績 ける のであった が、 グレイ は 

その 途切れ-るの を 待 兼 嚯乂 

「それ はま あそれ として、 柘植 さん、 あなたの 御意 見 を 伺 ひ 度くて、 斯うして 二人 揃って やって- 

来たので すが …… 」 

妻の 口 を 封 じ、 椅子と いっしょに 體を乘 出した。 

「^の あの 獨探 事件です が、 家內は 警察へ 密告した のが 此の 私 だと 昨晩 はじめて 知って から、 あ. 

なた. ゃ高樹 さんに 疑の か \ つたの が申譯 無い、 早く その 疑 を 解く 爲に、 宿の かみさん か ヘイドン 

の 前で * 眞實の 密告者が 誰で あるか を吿 白し ろと 云って きかない のです。」 

- てれ は 夫人の 正義感から、 獨 探の 嫌疑の 晴れた 以上 は^びなければ ならない とい ふので はなく * 

高樹ゃ 拓植に 迷惑 を 及ぼす 事 を 惧れ、 當の 本人で ある 良人に は どんな 事が あって も^む を 得ない 

から、 い-さぎ よく 名吿 つて-:! 5 ろと いふの だ つた。 

「これの いふの も 尤もです。 尤も だと は 思 ふけれ ど、 さて 私と しても 困ります からね え。」 

グ レイ は 鼻の 上に 皺 を 寄せて、 どうも 弱った とい ふ 表情 をして 見せた。 


365 


「およしなさい、 馬鹿々々 しい。 あんな 奴の 前に 頭 を 下る 事が ある もの か。」 

柘植は 寧ろ 腹立たしく、 吐出す やうに 云った。 

「第一、 あの 男の 嫌疑が 杲 して 晴れた かどう か、 それが 問題 ぢゃ ありま せんか。. 一 

「でも、 この 儘う つち やって 置く と、 あの 男 は あなたに 危害 を 加へ はしない でせ うか。」 

夫人 は 良人に 話 を 任せて は ゐられ なくなって、 横から 割込んで 來た。 

「大丈夫で すよ。 危害 を 加へ るつ もりなら、 旣に加 へられた 害です。 あの 男 だって 一 曰々々 と 冷 

靜 になって 行く でせ うから、 今更 何 をす る ものです か。, 一 

「でも、 あ、 いふ 陰 險な男 は、 人 しれす 機會を ねらって ゐる かもしれ ません もの。」 

「若しも それ 程 執念深く 恨んで ゐる とすれば、 此の際 グ レイ 氏が 名吿 つて 出る の こそ 危陰 では あ 

りません か。」 

「だって グ レイ は爲 方が ありません わ。 自分で 蒔いた 種子な のです から …… 」 

柘植 は、 無理に 自分 を かば ひ、 自分に 親切 を 見せよう とする 夫人の 態度に むっとし に、 相手の 

顔 を 凝視した。 天性 發育 不全の、 最初から 若さ を 持って ゐ なかった やうに 小皺の 多い 顏に、 異常 

な艷と 光を帶 びた 股が、 自分 を まともに 見返して ゐた。 何 か、 すさまじい、 けがら はし さ を 感じ 


364 


宿の 教偸 


. て、 柘植は  一 I 不機賺 になった。 

その 晚は それで 濟ん だけれ ど, ッ H ペリン 襲来 以来の 夫人の ヒス テリ ィは、 獨探 事件の 密告者 

として 他人に 迷惑 を かけ、 知らん 面 をして ゐる 良人に 對 して 苛立ち はじめた。 誰の 前 を も 憚から 

す、 つれな く當 りちら したり、 いっしょに 外出す る 事 を 担んだり、 理由 もな く 反抗した りする 事 

が 度重なって 來た。 さう いふ 場面に 行き あたる 毎に、 柘植は 自分が グレイ を惱 まして ゐる やうな 

心苦し さに 責められた。 いつ 頃から か、 やがて 來る 結末 だと は 想像して ゐ たもの、、 斯う 迄 はつ 

きりと、 ぬきさし ならない はめに 陷 らうと は 思はなかった。 歐羅 巴の 小說に 見る やうな 人妻の. あ 

くどい 情慾が、 機會の ある 毎に 執拗に 押迫って 来る。 そこに は 良人 を は^かり、 怖れる 心 は 微塵 

も 無く、 良人 を 厭 ひ、 柜み、 しりぞけ、 侮蔑す る 態度が 露骨だった。 我饞 では あるが 敏感な 夫人 

は、 自分の 此の頃の 良人に 對 する 態度 を、 他人の 眼が 如何 見て ゐ るか 知って ゐた。 知っても: E の 

躊躇 もな く、 却って 逆に 出て、 自分の 態度 を 是認 させようと 努めた。 间 宿の 者 達に むかって、 良 

人が おひとよしで、 働が 無く、 稼ぐ 事 は 知らないで、 浪費癖が あり、 睹 事に 凝って 自分の 物 も 失 

くな した ::: とい ふやうな こと を、 非常に 重大な 惡德 として 數へ 立てた。 それでも 聽 手が 夫人 を 

なだめ、 グレイの 善良 親^な 事 をい ひ 立てる と、 かへ つて 機嫌が 惡く なって、 これで も かこれ で M 


も かとい ふやう に、 いふ 可らざる 事 迄 喋って しま ふので あった。 その 脫 線の はげし さに 柘槌は 或 

H 驚かされた。 彼が >  朝の 食堂に 出て ゆく と、 直ぐ 後から ボイスと。 ハイ パァ が、 手輕な 化粧 を濟 

. ませた 浮々 した 氣 分で 入って 来て、  - 

「拓植 さん 1 この間 警察へ 密告した の、 あなた 方で は 無 かったんで すって ねえ。」 

「あたし 達 も 矢 張 あなた 方の しわざ だと 睨んで ゐ たんです よ。 御免なさい。」 

二人 は 秘密の 寶 庫の 鍵 を 握った やうな、 まだ 知らない 他の 者に 一歩 先んじた 得意 さ を 見せて 云 

ふの だった。 

「それ は 僕達ではありません よ。 ほんと は 密告者 なんか 何處 にも ゐな いので はないで せう か。 警 

. 察 自身が 彼の 男に 疑 を か. t たんだ けれど、 表面 は 密告者が あつたと い つてば つ を 合せた ので はな 

い かと 思 ひます が。」 

「駄 HI よ、 そんな 事い つたって。 あたし 達 知つ てるのよ。」 

「すっかり グレイ 夫人に 聞い ちゃった わ。」 

い たづら っ兒 らしく 笑って ゐる 二人に 對 して、 拓植は 沈默を 守れと いふ 合圖 に、 人荖桁 を^に 

, あて K 見せた。 


36(3 


治の 敎磕 


その 事が あってから、 三 曰と はた、 なかった。 或晚 グレイが 何時に なく 昂奮した 樣 子で 柘植の 

窒を 訪れた。  • 

「は つ はつ は、 たうとう 私 も 此の 家から 放逐され る 事に なりました よ。」 

• 酒 氣を帶 びて ゐ るので は 無い かと 疑が はれる 程 あかくな つた 顏に、 かくし 切れない 怒 氣が眉 WE 

を險 しくし、 聲も 一 調子 高かった。 

「たった今、 かみさんが 話し 度い 事が あるから 別室へ 来て くれと いふので、 叉 少し 宿料の 支拂が 

遲れ たから、 それ を 愚圖々 々いふの だら うと 思って 行って みると、 どうで せう * いきなり 此の 家 

を 出て 行って くれ、 明日に も 立 退いて くれと いふので す。」 

さう いふ 侮辱 を 心外が つて * グレイ は 呼吸 を はす ませ、 ふだんの^ 和な 徵笑は 眼 尻に も 口許に 

も 見えなかった。 

「どうし たんです、 それ は あんまり 亂暴. おゃありません か。」 

「どうした も 斯うした もい はすに 立 退けと いったって、 おい それと 立 退く 馬鹿 はない から、 先づ 

其の 理由 をい へと いふと、 その わけ は 云 はない 方が 雙 方の 爲だ らうと いひます。 そんな 馬鹿な 事 

はない、 いやしくも 紳士に むかって 理由な く 侮辱に 値する 言葉 を 吐く 事 は 許されな いと 詰問す る 


367 


と、 そんなら いひ. K はない がいひ ませう、 私の 家の 大事な お 客 さまの 身柄に 無 實 の 疑 を かけ、 警 

察へ 密吿 する やうな 人 は 一日たり とも 置く 事 は 出来ない とい ふので す。 これに は 私も參 つた。 ど 

うして 彼の 女が 知った か、 不思議に 思った のです が、 柘植 さん、 このお しゃべり を 誰が したと 思 

ひます。」 

柘植の 眼の 前に は、 い たづら つ 兒の笑 を 見せた 二人の 女の 姿が 浮んだ が、 若 かする と グレイ は 

自分に 疑 を かけて ゐ る のか もしれ な い と 思 つ た。 

「どうして かみさんが 知った でせ う。 あの 事 は 私と 高 樹^の 外に は 誰も 知らない 害 だし、 その 一 

人 は旣に 此の 國を立 去って …… .ー 

「い、 え、 それが です よ、 矢 張 家內の 口から もれた のです。 はつ はつ はつ はつ。」 

笑 ふより 外に 爲 方の 無い 立場 を、 グレイ はやり 切れな がった。 主婦に 立 退の 宣吿を 受けた グレ 

ィは、 直ぐに 夫人に その 話 をして、 いったい 誰が 喋った の だら うとい ふと、 流石に 夫人 も 蒼くな 

つて 泣 出し、 うっかり 自分が ボイスと パイ パァに 喋った が、 ^く 口.^ をした にも 拘ら す、 二人 は 

更にべ H ジ にも 話して しまったから、 恐らく あの 口の 輕ぃ 男が、 何 かの 拍子に かみさんに 喋った 

ので はないだら うかと いふ 返事 だつ た 。 


368 


まの 敦淪 


「たしかにべ H ジに違 ひありません。」 

グレイ は、 どいつ もこい つも 思慮の 足りない 爲方 のない 人間 だとい ふお も ひ を 籠め て、 签虛な 

聲で 笑った。 

「でも、 いくら 口の 輕ぃ男 だって、 何の 爲に そんな 事 を 喋った のでせ う。」 

「それ はつい 二三 日 前、 私が あの 男 を 叱りつ けて やった のです。 例の パイ パァ との 關 係です が、 

奴さんし きりに 金 をね だる もの だから、 パイ パァ もやり きれ なくなって、 家內に 相談 を 持 かけて 

來る、 年中 いざこざが 絕 えない ので、 私が 奴さん を たしなめて やりました。 それが 不平だった め 

です ね。 あ、 いふて あ ひとい ふ もの は、 目 を かけて やっても 爲方 がありません よ。」 

グレイの 激も昂 段々 靜 まって 來て、 何事 も あきらめる 外 は 無い とい ふ 心 持が、 ものい ひに も 深 

く あら はれて、 聲 もやう やく 低くな つた。 

「それで 此の 宿の 方 はどうな さるので す。」 

「これ は 止む を 得ない から" 二三 日中に は 立 退かう と 思 ひます。 今更 此處 にゐる わけに も 行き ま 

せんから ね。」 

かうな つて は、 萬 一 ヘイドンと 顏を 合せる やうな 場合の 氣まづ さ、 宿の 主婦との 折 合 ひもつ く 


369 


喾 はなし、 どうしても 轉 宿の 外 はない のであった。 

「ところで、 叉しても こんな 事 はいへ た 義理で はない のです が、 さあ 引越す となると、 こ、 の 宿 

料 も 綺麗に して 行かなければ ならない ので、 此の 前拜 借の が 未だ その 儘に なって ゐ るのに、 重ね 

ての 御 願 は 面目ない 事 だけれ ど、 折角 ありついた 今度の 仕事 も、 固定給で なく 成功 報酬な ので、 

馴れない うち は 一寸 收入 になり 兼る やうな わけで、 どうしてももう 一度、 これ を 最後に 助けて 頂 

かなければ、 どうに も 爲樣. がない のです。 な あに、 それ も 長く 拜借 する 必要はありません。 火災 

保險の 方の 計畫も 立て、 あります から、 來 週から は 愈々 昔の 友人 知己 をた よって 成績 を擧る 見込 

も 立ちました。 決して 間違 ひはありません よ。 尤も あなたの 方から 見れば、 信用 出来ない とい は 

れ ても爲 方が 無い のです。 いつぞや ぺェジ を 救って やる 氣で拜 借した の も、 あの 男が ォォス トラ 

リアから 送金して 來る 害に なって ゐ ると いふの を 輕々 しく 信用して、 つい 引か、 つて しまったの 

でした。 あれ も 私が 拜 借した ものな の だから、 いづれ いっしょに お返しす る 事に します。 全く 金 

の苦勞 とい ふ もの は氣 持の よくない ものです な あ。」  . 

結局 グレイ は 二週間 分の 宿料 を 一時た て かへ て くれと いふので あった。 柘植 にと つて は、 ダレ 

ィ 夫人の うるさ、 が、 寧ろ 不氣 味に さへ 思 はれて 來 たやさき、 此の 夫婦が 立 退いて くれる の は 何 


370 


宿の 敦倫 


よりあり がたかった が、 此の 前貸した 金が 何時か へ つて 來る かわからない の. に 又貸して やる の は 

不安で も あり、 懐勘定 も 苦しかった。 きりつめ きりつめて やって ゆく 生活 だから、 こゝで グレイ 

め 申出 を 承諾す るの は、 この 冬の 外套 をつ くる 事 を 見合せ、 ぼろ 靴で 我慢し、 下宿 以外のと. ころ 

で飮 食す る 事を廢 し、 本 を 購ふ事 を 思 ひ 止まる のと 同じ 事だった。 それ は 迷惑 千 萬 だが、 グレイ 

の 立場 を考 へる と、 何とかして やらなくて はならなかった。 彼が 密告者 だと 知られた 以上、 この 

宿に ゐた、 まれな いのは 當然 過ぎる 事 だ。 え、 い、 爲 方がない、 まさか 返さない 事 も あるまい か 

ら>  追 拂ひ賃 として 承知して やらう I 柘植は 咄嗟に 心 を 決して、 その 申入 を 引受けた。 グレイ 

は 心から 感謝し、 幾度 も 繰返して 禮を 述べ、 間違 ひなく 返濟 する 事 を 誓 ひ、 その上に 何時もの 通 

り、 この 事 丈 は 妻に 知らせて くれるな と 念 を 押した。  . 

翌日、 柘植は 朝 も晝も グレイ 夫婦の 姿 を 見なかった。 獨探 事件の 密告者が グレイ だと わかり、 

宿の 主婦から 立 退 を 強要され た 以上、 その 儘 こ、 で 主婦と 顏を 合せ、 その 顏 合せ を 他の 者に 見ら 

れ るの もい やに 違 ひ 無かった。 柘植 にと つて は、 夫人の 姿 を 見ない 丈で も 氣が輕 くな り、 グレイ 

夫妻が こ の 家 を 出て 行ったら、 下宿の 居心地 は樂 になる だら うと 思 はれた。 

ところが、 其の 日の 午後、 彼の 窒の 扉を靜 かに 叩く ものが あった。 內 側から 引く のと、 外から 


371 


抻 すのと いっしょ になって、 倒れる やうに 入って 來 たの は グレイ 夫人だった。 何 か 思 ひ 決して ゐ 

る 様子に 壓 されて、 柘植は 安全な 間隔 を 保た うと 努めた が、 夫人 は それ を 知りつ-無視して、 ふ 

だんよりも 濃く 化粧した 額が 近々 と^ 前に 迫って 來た。 

r 柘植 さん、 私達 はこ の 家 を 立 退かなければ なら なくなりました。」 

夫人の 眼 は 異様に 輝き、 まばたき をし すに 柘植 の顏を 直視す るので あった。 年甲斐 もな く 濃く 

染めた 唇が、 濡 色に 光って 實 際の 距離よりも 一 厣 接近して 見えた。 

「それと いふの もグ レイの 思慮が 足りな く、 輕 率に 警察なん か へ 出かけた からい けない のです。 

私 は あなたの ゐ らっしゃる 限り は、 い つ 迄 もこの 家に ゐ たいと 願って ゐ たのです。」 

「それ は グレイ 氏が 惡 いので は 無くて、 あなたが お 喋の 女 どもに、 聞かせない でもい、 事 を 聞か 

せた のがい けない のです。」 

柘植 は年增 女の 厚顏に 苛々 して、 叱責す る やうに 云った。 

「あなた も 私 を 非難な さるので すか。」 

夫人の 眼に は 忽ち 淚が あふれ、 聲を震 はせ て 叫ぶ やうな 早口に 變 つた。 

「私 はた^ 正直に、 ほんとの, 事 を 話した 丈な のです。 いつ 迄 も あなた を 密告者 だと 思 はせ て、 知 


372 


宿の &f 命 


ら ない 顏 をして ゐる 事が 出来なかった のです。 私 を 咎めないで 下さい。 私 を 非難し ないで 下さい。 

鬼が 惡 かった のなら、 どうぞ 許して 下さい。 私 は あなたに 逢へ なければ 一 日 も 生きて ゐ たいと は 

思 ひません。 だから、 この 家 を 出て 行く の はい やなので す。 でも、 出て 行かなければ ならな くな 

りました。 私達が 此の 家 を 去っても、 一 曰に 一 度 は 逢って やる と 誓って 下さい。 私達の 家へ 來て 

下さる とも、 何處 か、 あなたの 好きな 所で 逢って 下さる とも、 それ は御隨 意です。 私 は あなたに 

逢 へない 位なら 死んで しま ひます。」 

きちが ひの やうに 泣聲で ロ說き 立てながら、 いきなり 兩手を 延ばして 柘植の 二の 腕 をつ かんで 

引 寄せよう とした。 驚いて 振 放さう とすると、 吸 ひつく やうに 片手 を 柘植の 首に 廻して、 眞 紅な 

# を 接しようと あせ つ た。 

あげ  . 

柘植は 相手の からだの 何處 をつ かんだ のか、 力任せに 持 上る と、 足 をば たばた しても がくの も 

かま はす、 ぐにゃぐにゃして 生溫 かい 女の 體を、 むしり 捨てる やうに ベッドの 上に 投 出した。 力 

が あまって、 机の 上の 水瓶と コップ を 床に 落し、 とくとくと 水の 流れ出る の を 見た 時、 はげしい 

物音 を 不審に 思った 宿の 主婦が、 扉 を あけて のぞき 込んだ。 ベッドの 上に は 裾の まくれ あがった 

姿で つつ 伏した グレイ 夫人が 絕 入る やうに 身 を 揉んで 嗚咽し、 片々 の 靴 は 脫げて 飛んで >  高い 踵 


373 


を その ま、 に窒 のまん 中 どころ にこ ろが つて ゐた。 

柘植は 主婦の 眼の 中に、 この 光景が 如何にうつつ たかを、 瞬間に 感知した が" いひ わけ をす る 

場合で は 無かった。 彼 は亂れ た髮を 五本の 指で 搔き 上げ、 ネクタイ を 直す と、 壁に か、 つて ゐる 

まつ 4*- ぐ 

帽子と 外套 を 取り、 出口 を 塞いで 立って ゐる 主婦 を 押の けて 廊下へ 出た。 その ま、 眞 直に 戶 外へ 

出る と, いっから 降 出した のか 冷い 秋雨の 顔に か \ るの を 寧ろ こ、 ろよ く 思 ひながら、 あても な 

く步き 出した。 

グレイ 夫妻 は あわたぐ しく 引越して 行った。 引越 先 は あまり 遠くない 裏町の しもたやの 二階で- 

今迄の 下宿のより ももつ と 貧しい 部屋だった。  . 

その 引越の 翌日、 拓植は 夫妻の しつつ こい 勸說に 負けて、 お茶に よばれて 行った。 同じ 下宿に 

ゐる間 も、 こっちから は 一度 も その 部屋 を たづね た 事の ない 無性な 拓植 にと つて、 この 招待 は 一 

I 迷惑な 事だった。 つい 二三 日 前の グレイ 夫人との 出來事 以來、 下宿の 人達と も 出来る 丈 顔 を 合 

せない やうに して ゐ たが、 主婦の 眼の 色に は、 明白に 意地の 悪い 冷笑と、 卑しい 輿 味が 輝いて ゐ 

た。 ゴシップ 好の て あ ひの 事 だから、 それから それと 話 を 大袈裟に 語, り傳 へたに 違 ひ 無い。 若し 


374 


宿の 敦倫 


かする と、 グレイの 耳に も 入って ゐる かもしれ ない の だ —— と 思 ふと、 あの 時の 忌 々しい 景色が 

まざまざと 服に 浮ぶ ので ある。 とりみだした 姿で、 ベッドの 上に うつ 伏に なって 泣いて ゐる 夫人、 

片々 の 靴 は 脫げて 床の 上に ころがって ゐる、 机 や 椅子 は 位置 をみ だし、 水瓶の 水 は 足下に 流れ、 

自分 は 呼吸 を はす ませて 立ちはだかって ゐる、 誰が 見ても た f ならす、 怪しから ぬ 部屋の 有様に 

相違ない の だ。 どう 疑 はれても、 いひ のがれられない 光景だった。 

それな のに グレイ はいつ に 變らぬ 態度で、 新居の 最初の 客と して 柘植 を迎 ひに 来た。 行けば 煩 

はしく、 行きたくなかった が、 別段 斷る 理由 も 無い のに 斷 るの は、 かへ つて グレイの 疑惑 を增す 

事の やうに も 思 はれ、 こっちに はう しろめたい 事 は 無い の だと 自分自身に いひき かせて、 結局な 

り ゆきに 任せる 考へ になった。 それにしても、 夫人の あのぐ にやぐ にやした 肉體 の感觸 は、 おし 

つけが ましく 今でも 消え失せない。 自制 を 失 ひ、 慾 情の 發 作と 同時に 起る 生理的 現象 そのもの、 

やうな 淫卑 な蛞蜍 となった 夫人が、 今日は 果して どんな 樣 子で 自分 を 待って ゐ ると いふの か。 拓 

植の足 は 重かった。 

「はは あ、 賓客よ、 いざ こなたへ。」 

扉 を 叩く と、 待 瞜 へて ゐた グレイ は、 古典 劇中の 人の 身 振で 出迎 へた。 


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「あたた、 さう いふ 惡 ふざけ は 柘植 さん 大嫌 ひです つて。」 

良人の 背に かくれた 小柄な 夫人が、 これ もい つもと 少しも 違 はない 調子で、 手 を 差 出した。 客 

を 待つ 心で、 よき 衣服 を えらび、 化粧に 念 を 入れた 事が 直ぐに 認められた。 だが、 強い 握手と、 

生 あた、 かい 感觸 が、 忽ち 不快な 聯想に 導く のだった。 

「さあ 吾々 の 新しい 城郭 を 見て 下さい。 これが 客間で あり、 寢窒 であり、 食堂で あり、 居間で あ 

り、 時には 叉臺 所で も あるので す。」 

グ レ ィは 此の 新居の みすぼらし さ を 嘆く よりも" 妻に かくして 柘植に 負 目 をお つて 敢行した 引 

越の あかし を 立てる 事に 一 生 懸命だった。 吾々 はこれ 程 貧しい 生活に 落ちた のです、 無理 を 願つ 

て 金 を 借りる の も 止む を 得ない 事と して 同情して 下さいと いふのに 等しい のだった。 

部屋の 片隅に は 二人に ひとつの 寢 所が あり、 鏡臺も 衣裳 棚 も 古ぼけた 備 つけの ものば かりだ つ 

た。 脇 机と もい ふべ きち ひさい 卓の 上に、 莉子維 色の 壺に 白い カァネ H ショ ン ばかり を さし、 そ 

れを 圍んで 三人の 席が きまった。 

夫人が 紅茶 を いれる と、 グレイ は 自分が 買って 來 たの だとい ふ 菓子 を勸 め、 パン をす、 めた。 

しかし、 柘植は 三度の 食事の 外に、 パンに^ 酷 をぬ り、 水 芹 を 添へ て 喰 ふ 英吉利 風のお 茶う け を 


376 


宿 こ 


好まなかった。 つい 卓上に 手が 出ない ので、 夫妻 は それ をし きりに 氣 にした。 

アル n オル ぶん  * 

「矢 張柘植 さんに は 酒精 分がなくて はいけ なかった。」 

「い、 え、 私 は 間食 をし ない 習慣な のです。 尤も 英吉利 人に とって は、 五 時のお 茶 は 間食で はな 

い かもしれ ません が …… 」 

「さう です。 吾々 にと つて は 三度の 食事と 同程度に 必要 缺く 可らざる ものです。 だから、 つい あ 

なた の飮 料の 方に 氣 がっかない 事に な るんで すね。 どうもお ちぶれ ると 萬 事に つけて 氣が きかな 

くなります よ。」 

グ レ ィは妻 を かへ りみ て 苦笑した。 

「ほんと に氣 がきかないで 爲樣 がありません ねえ。 角の 酒屋まで 行って いらっしゃいな。」 

その 事はグ レ ィ 一 人の 手 落で f も ある やうに、 夫人 もい ふの だった。 

「さう だね え、 さう しょうか。」 

グ レ ィは 明かに 當 惑の 色 を 見せた が、 それが 金錢の 心配 だとい ふ 事 を 柘植は 直感した。 

r 僕 はいりません よ、 それ 程の 飮助 ではない つもりです。」 

グ レ ィに 出て 行かれて は 叉い やな 場面に 遭遇し さうな 豫感が あるので、 柘植は あわて 、打消し 


377 


た。 

「でも、 折角 來て 頂いて、 何もお もてなしがなくて は 私 どもの 氣が濟 みません もの。」 

夫人 はさう いひながら、 素早く 良人の 方に 命令の 視線 を 送った。 グレイ は あまり 氣の 進まない 

樣 子だった が、 壁に か、 つて ゐる 帽子 をと つて 廊下へ 出て、 叉 思 ひ 切り 惡く 引かへ し、 

「柘植 さん は ゥヰス キイでした ね。」 

ときく のだった。 

「い 、 ぇ麥 酒の 方が 結構です。 それ も 頂く の は 僕 だけで せう から 一 本で 澤 山です。」 

ゥヰス キイと 麥 酒の 代價の 相違が、 いかに 現在の グレイの 懐に 大きく 響く か を、 夫人 は 知らす、 

柘植は 知って ゐた。 

「わかった、 わかった。」 

安心した やうな 笑顏を 見せ、 グレイ は 階段に 鈍い 足音 を させて 去った。 殘 つた 二人 はしば らく 

言葉 も 無く. 拓植は 自分に 直射され てゐる 視線 を 感じながら、 さて 自分の 眼の やり 場に 弱って ゐ た。 

「柘植 さん。」 

今か今かと おそれて ゐた聲 が 少し 震 へ て來 た。  . 


373 


宿の 敦倫 


丁 あなた は 私 を 憎んで ゐ らっしゃ るので せう。 不埒な 奴、 いけない 奴、 畜生の やうな 奴と さげす 

んでゐ らっしゃ るので せう。 さう に 違 ひありません わ。 です けれど、 私 は あなたに 憎まれ さげす 

まれて は、 此の世に ゐた、 まれない のです。 どうぞ 私 を 許して 下さい。 私 は 馬鹿です。 無智な、 

無敎 養な、 自分で 自分 を どうす る 事 も 出 事ない あはれ な 女な のです。 どうぞ 憎ます、 さげすます、. 

私 を 導いて 下さい。 あなたが 斯うし ろと いへば 必 すそれ を 守ります。 あなたの いけない とい ふ 事 

は 決して 致しません。 だから、 . これから も 以前の やうに、 へだてな くつき あって 下さい。 そして、 

少なくとも 毎日 一度 は 私に 逢 ふ 事 を 約束して 下さい。 あなたの 寛容な 心に ぉ鎚 りして、 自分の 精 

神 を淸め 度い のです。 でなければ、 私 は 生きて ゐる 事に のぞみが なくなって しまったの です。」 

語尾が 調子 はづれ になった と 思 ふと、 兩 手で 顔 を 覆って 咽び泣き はじめた。 肱 をつ いて ゐる卓 

上の 白い カァネ H シ ヨンが、 す、 りあげる 度に 微動す るの を 見ながら、 柘植は 何ともい ひ 兼て、 

いつ 迄 も 無言だった。 叉しても 自分 を $1 惑 させ、 惱 ます 場面に おとしいれた 相手 —— その 相手の 

年と つた 醜 さに 對 して、 堪へ 難い 憤 を 感じた。 

「どうぞ 私の 願 をき いて 下さい。 もう 二度と 失 禮な事 はしません から 1 私 を 避け、 担み、 しりぞ 

ける 事 丈 はしないで 下さい。 私 を 助けて 下さい。 救って 下さい。 敎 へて 下さい。 導いて 下さい。」 


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何 か 耶蘇 敎的 臭味 を 感じさせる 歎願の ことば や 身 振に 辟易し、 素早く 此の 場 を 立 去る のが 一 番 

利口な 道 かと 考 へた。 人妻との 間違 ひで、 良人の 銃口 を 胸に 受けて 死んだ 外國 の小說 作家の 事な 

どが、 混亂 して 頭に 浮んだ。 

そこ へ、 グレイが 歸 つて 來た。 

「お 待 遠 さま。」  . 

威勢よ く 入って 來 たのが、 目の前の けしきに 驚いて、 兩 手に 一本 づ、 持った 麥酒瓶 を その 儘、 

呆然と して 立って ゐた。 

「どうしたの、 フ 口 シ ィ。」 

やう やく、 妻の 耳へ 口 を 寄. せて きくと、 柘植に 疑が か、 つて はならない とい ふやう に、 夫人 は 

涙で 斑に 濡れた 顏を あげ、 途切れ途切れに いひと くので あった。 

「私が 柘植 さんに 無理な 御 願 をして ゐ たのです。 いつ 迄 もい つ 迄 もこの 國にゐ て、 毎日 私達に 逢 

つて やる と約朿 して 頂かう とい ふので す。 それが どんなに 御迷惑 だか、 どんなに 無理な 事で ある 

か、 私に もよ くわ かって ゐ るの だけれ ど •:.: 」 

「あ、 その 事 か。 それ は 私から も拓植 さんに 御 願し なければ ならない。」 


380 


宿の 敦倫 


グ レ ィは麥 酒 瓶 を 卓の 上に 置き、 帽子 をと つて 妻の 背後に 引 添った。 

「家 內は 全く あなた を 尊敬して ゐ るので す。 世な みも惡 いに は惡 いけれ ど、 私に 意氣 地が 無く、 

滿足 なくら しも させられな いので、 昔の 友達と も つきあ はなくな り、 今では あなたの 外に 信頼す 

る 人 も 無い やうな わけで、 平生 も 家- s: はいふので すが、 拓植 さんの やうな お 友達が 出來 たと 思へ 

ば、 おちぶれた 事 も 悲しくない、 かへ つてし あはせ だった と 繰返して ゐ ます。 今度 も 私の 輕率か 

ら、 下宿 を 追 出される 事に なった のです が、 これ は あなたと 同じ 屋根の 下にん る 幸福に 別れる の 

はい や だとい ひ 張り ましてね、 それで はせ めて あまり 遠くない 所に 越さう とい ふので、 この 邊に 

家 を 探した のでした。 私 は讀書 もしない し、 高尙^ 趣味 も 無い、 家內の 好きな 方面の 事 はまる つ 

きりわ からす、 御 承知の 通りの 骨牌と 競馬な の だから :•••• 」 

年齢の 力で 忽ち 平素の 自分 を 取り返し、 諧謔 を まじへ る餘裕 さへ 見せ、 どうか 妻の 孤獨を あは 

れみ、 よき 友達と なって くれと、 グレイ は懇々 とい ふので ある。 拓植は 全く 閉口して しまった。 

多分 この 善良なる 良人 は、 妻の 心の 內の 姦淫 を 怒って ゐ るの だら うが、 こっち は それ 以上に いや 

な 立場な の だ。 萬々 一 この 夫人が 若く、 美しかった なら、 自分に 今の 態度が 守りつ ぐ けられる か 

どうか、 恐らく は 否定す るより 爲 方の 無い 事に 立 至る に 違 ひ 無い が、 さりと て 此の 眼の 前の 夫人 


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との 間 を 疑 はれる の は、 疑 はれる だけで も 侮辱で あり、 心外で ある。 第一 斯うまで 膝 詰で もの を 

いはれ て は、 何と 答へ る 術 も 無い のだった。 

「は、、 、何とい ふ 事 だ、 吾々 は柘植 さん を 御 招きして 置きながら、 柘植 さん を 困らせて ゐ るの 

ぢゃ あない か。 かう いふ 話 は 男 同志の 方が い、。 いづれ 叉 私から お 願す る 事に して、 さあ 一杯 飮 

んで 下さい。」 

コップ をと つて 柘植の 前に 置き、 なみなみと 滿 たした。 拓植は それ をぐ つと 飲んで、 

「勝手です けれど 今日は 歸 らして 下さい。 奥さん は 少し 昂奮して ゐ らっしゃる やう だから  」 

立 上る と、 有無 をい はさす 手 を 差 出して 握手 を 求めた。 グレイ も 大きく うな づ いて、 堅く 握り 

返した。 

「では 引止めますまい。 いづれ 明日 御 詫に 伺 ひます。」 

叉 はげしく す、 りあげて 泣く 夫人の あら はな 背中の 肉の 波打つ の を たが、 柘槭は ー禮 して 夫 

妻の 新居 を辭 した。 

次の 日、 グレイ は 勤務先へ 行く 前に、 拓植 のと ころへ 立 寄った。 

「どうも 此の 家 は閾が 高くて 来に くかった が、 昨日の 事が 氣 にか、 るし、 家內も 是非 行って 來ぃ、 


382 


宿の 敦倫 


0. 

行かなければ いけない とい ふ もの だから …… 」 

この間 ァ ドルフが ゐ なくなって からか はりに 來た 愛蘭 土 種の 無口な 女中が、 折よ くお もての 石 

段 を 洗って ゐる ところだった ので、 それに 口止めし、 運よく 主婦に 見つからなかった しあ はせ を、 

持 前の 柔 味の ある 諧謔で いひ あら はしてから、 俄に 眞 面目に なって、 聲を 落した。 

「扨て 何から いってい、 か、 私 は 言葉の 持 合せが 乏しい ので、 うまく 聽 とって 貰へ るか どうか わ 

からない が、 まあ 辛抱して 聞いて 下さい。」 

グレイが いふの は 斯うだった。 夫妻が 贅澤な 生活に 見せされ、 曾て 想像 もしなかった 貧しい 下 

宿に 落ちて 來 てから、 生來 健康の 勝れない 爲め" 我儘 いっぱいに 育った 夫人 は、 ま、 にならない 

其の 日 其の 日 を かこって ゐた ところへ、 おも ひがけな く 柘植と 高樹を 知り、 はじめて 逢った 日本 

人に 對 する 好奇心が 段々 尊敬に 變り、 深く 心を捉 へて しまった。 

「家 內の心 持に して みれば、 同じ 家に 住み、 食卓 を 共に し、 散步に 連立ち、 年中 いっしょに 暮ら 

せるなら、 それが 最大の 幸 幅 だとい ふので す。 そちらに とって は 御迷惑な 話で、 あなたの 責 重な 

時間 を 奪 ひ、 勉強 を 妨げ、 うるさく、 しつつ こく …… 」 

どうも 困った 我儘 者ではありません かと 云 ふやう に、 グレイ は 鼻の 頭に 皺 を 刻んで 笑った。 彼 


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に は、 駄々 を こねる 妻 を 憎む 色 は 無く、 その 我儘 をい としが る 程の ゆとりが あった。 

「つまり、 家內が あなたに お 願 ひし、 私が ともども 御 願 ひしょうと いふの は、 汚ない 私共の 住居 

です が、 あなたの 家の 一室と 思 ひ、 私が ゐ ようと ゐ まいと おかま ひなく 遊びに 來て 頂き 度い ので 

す。 家內は 私と は 違って 學問 とか 藝 術と かいふ 事に 心 を ひかれる 性質な のに、 私 はまる つきり 其 

の 方 はわから ない の だから、 甚だ 失禮 ないひ 方です が、 つまり あなたに 家^の 心の 友達と なって 

頂き 度い のです。 どうい ふ もので せう、 柘植 さん、 承知して は 下さらないで せう か。」 

グ レイ は 膝を乘 出して、 卽 座に 返事 を 迫る のだった。 

「それ は 困ります。 第一 僕 は 夫人が 考 へて ゐる やうな 値 打の ある 人間ではありません。 これと い 

つて まとまった 學問 はなし、 世間の 事 も 知りません。 他人 を敎へ 導く とい ふ 柄で はなく、 自分 自 

身 を どう) I- て》 ゝカ  迷って ゐる 人間な のです。」 

「い、 えそん た 事 はない。 そんな 事 はない が、 よしんば あなたの いふの が眞實 だとしても、 こつ 

ちで は 高く 評风 して ゐ るの だから、 默 つて その 儘に して 置けば い 、ぢ やありません か。 お 互に 人 

間 は、 安く 見られる よりも 高く 見られる 方が 得です よ。 これ は 冗談です がね。」 

柘植が 愉快で ない 顔つき をして ゐ るので、 グレイ は 又 柔和な 笑を滿 面に 浮べて、 弛緩した 冗談 


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「それば かりではありません、 私 は あなた 方に あまりに 馴れ、 近づき 過ぎた とさ S へて ゐ るの 

です。 それが あなた 方の 爲 にも、 私の 爲 にも、 決してよ い 事で ない と 思 ふので す。」 

拓植 ははつ きりとい ひ 切れない 事 を、 自分で ははつ きり 感じて、 この 人の 前で 顏の 赤くなる の 

を, y め i た。 

一. 何も 吾々 と 親しくして 下さって、 それが 吾々 の爲 にならない なんて 事はありません よ。」 

「い  >- え、 たしかによ くないと 思 ひます。」 

何故よ くないの かとい ふ 質問の 來 るの を 惧れ て、 柘植の 不快 は 一段と 濃くな つた。 何とい ふ 煩 

ましい 事件な の だ、 女房に 不義の 心の きざしが あるのに、 この 男 は何盡 もお ひとよし の 亭主の 

役目 を果 さう とい ふの か —5 する 胸の 中 を靜 める 爲に、 彼 は 口 を閉ぢ てし まった。 

「拓植 さん、 私 は 何も彼も 知って ゐ るので すよ。」 

グレイ は 手 を 差 延ばして 固くなって ゐる 相手の 肩 を 叩いた。 

I 「昨晩、 家內の 口から きかされ たのです が、 大變 失禮な 事が あった さう で、 何とも 申譯 ありませ 

^ ん。 本人 も 悔い、 あやまり、 わびる 心 持が 強く. 今後 は 決して 間違った 事 はしない から、 せめて 


1 日に 一度 吾々 の 住居へ 來て 頂き 度い と、 それば かり を 願って ゐ るので す。 家內 は、 あなたが 此 

の 約束 をして 下さらな いと、 何 をし でかす かわから ないやうな 精神 狀態 なので、 あなたに は徹頭 

徹尾 御迷惑の 事な のです が、 家內を あはれ と 思 ひ、 吾々 を 助ける と 思って、 まげて 御 承知 願 ひ 度 

いのです。 私 は 私で 度々 金錢 上の 面倒 を かけ、 家 は 家 -SZ で …… 」 

グレイ は 不意に 自身の 感動で 聲が ふさがれ、 一一 一一 n 葉が つぐ かなくな つてし まった。 柘植も 重苦し 

い 心 持に おさ へ つけられ、 何 をい ふ氣も なくなった。 向 ふが 勝手に 一 人 相撲 をと り、 言葉の 出來 

ない 事、 國 情の 相違、 あらゆる くひ 違 ひ を かへ つて 高く 買 ひかぶ り、 勝手にう やま ひ、 勝手に 尊 

敬し、 勝手に 思慕の 情 を もって 働き かけて 來 たの だが、 その 評價に 値しない 自分に とって これ 以 

上の 迷惑 はない、 それに も拘ら す、 更に この 先 どうしょうと いふの だ、 誰が おめお めいふ 儘に な 

る もの か —— と 思 ふと、 あの 小皺の 多い、 軍鷄の 咽喉 部の やうな 皮膚の、 年上の 女の 病的に 執拗 

な 慾 情が、 たまらなく 不潔に 想 はれる のであった。 

や、 しばらくの 沈 默に堪 へられ なくなって、 グ レイ は 相手の 同情 を 求める やうな 吐 息をつき、 

再び たづね て來、 る 事 を 約束して、 歸 つた。 


386 


宿の 教淪 


グレイ は、 次の 日 も、 また 次の 日 もやって 來た C 

「どうしても、 家內が 行って 來 いとい ふので す。 あなたに 機嫌 を 直して 貰はなくて はすまない、 

若 もこの 儘 嫌 はれる やうな 事になる のなら、 死んで しま ふなん て 他愛の ない 事 をい ひまして ね、 

赵も實 に 弱って ゐ るので すよ。」 

鼻の 上に 潞ぃ笑 を 刻んで、 招かれない 客のば つの 惡 さに 同情 を 求める のであった。 

夫人 は グレイ を あやまりに 寄越しても 甲斐が なく、 柘植が 遊びに 來な いので、 駄々 を こね、 苛 

々し、 怒り 易く 泣き 易く、 食事 も 進んで は 喰べ ないやうな 有様で、 正氣の 沙汰と も 思 はれない が- 

本人 は 柘植が 毎日 遊びに 來て くれ、 ば、 すっかり 心 を 入れ か へ て 良人に 對 してよ き 妻と なると 云 

つて ゐ るから、 是非 氣持を 直して くれ、 若しも 自分の 留守中に 妻に 逢 ふの がいやなら、 自分が 勤 

務 先の 歸 りに 誘 ひに 來て もい 、と、 グ レイ はまる で 仲人の やうに 熱心に 言葉 を盡 すので あった。 

柘植は 自分の 意志の 強さ をた めし 度い 心 持 も 充分 あつたが、 この 氣の 毒な 良人の 立場に 對し、 む 

わ  ナぎ  I  に 

げに担 絶す るの も 意地が 惡る 過る おも ひがして、 たうとう 引 すられて 行って しま つた。 

「あ、 あ、 やっと こさで うちの 息子 も 御歸還 だ。」 

先づ 冗談 を 先にして、 グ レイ は 自分 達の 住居の 扉 を あけた。 


387 


「お ゝ 、 ほんと に 0」 

病人ら しく ナイト • ガウン を 着て、 椅子に 埋もれた やうに 沈んで ゐた 夫人 は、 立 上る と 手 を 差 

出した。 服の ふちに 不健康な 隈を 持ち、 疲れ切った 皮膚に は 光澤が なく、 年齢の 皺の くろ すんだ 

醜 さが、 柘植の 厭悪の 念 を 深く した。 彼 は 差 出された 手 を 握らす に、 帽子 を 膝に 置いた ま k、 扉 

口に 近い 椅子に かけた。 

「ほんと によく 來て 下さいました。 でも、 あなた は 未だ 私に 對 して 不快に おもって ゐ らっしゃる 

めです ね。 ^を 許して は 下さらな いのです ね。 それ は 無理 もない と は 思 ひます けれど、 私 はほん 

とに 惡か つたと 悔てゐ るので はありません か。 ですから、 どうぞ  」 

いぜんの やうに 親しくして くれと、 义 しても しつつ こく 同じ 事 を 繰返して ゐる うちに、 例の 通 

り顏面 筋肉が 痙攣し、 眼に は 涙が 光って 来た。 

もう わかった。 . いふ 事 はわ かって ゐる。 勝手に 人 を 買 ひかぶ り、 勝手に 挑み、 勝手にな げき、 

勝手に 悲み、 勝手に 駄々 を こねて ゐ もので はない か。 それに か、 りあって ゐた 日に は、 きりがな 

く、 どんな 犧 牲を拂 はなければ ならなくなる かわかった もので はない。 こんな 奴に か、 りあって 

たまる もの か —— と 柘植は 心の 紐 を 堅く 結んで、 一 言 も 物 をい はなかった。 


388 


の教倫 


「もうい、、 もうい、、 折角 拓植 さん を 引 張って 來 たのに, さう しつつ こくして はいけ ないで は 

ないか。 それ こそ 拓植 さんの 嫌 ひな 事 だ。」 

無理やり 引 張って 来た 客に、 その 客の 喜ばない 事 を 強る 妻の 態度に 辟易し、 グレイ は 持 前の 諧 

謔 でた しなめ た。 それ は柘植 さんの 嫌 ひな 事 だ —— と は、 豫々 夫人が 良人の 惡 ふざけ を 咎める 時 

の 言葉だった。 夫人 は 良人の その 言葉と 態度に むっとして、 憎惡の 視線 を 投げ、 今にも ヒス テリ 

ィの發 作が 来さうな 氣色を 見せた ので、 柘植 はもう これ 迄 だとい ふやう に、 ぶっきら棒に 立 上つ 

た 

「いづれ 叉 …… 」 

長居 は 無用と いふ 心 持 を 形に 示して、 さっさと 窒を 出て しまった。 グレイ は 狼狽して 追 かけて 

來て、 

「叉しても あなた を惱 まして 申譯 ありません。 全く あれ は 平生の 精神 狀態 ではない ので …… 」 

^のうしろ でさ、 やきながら、 ともども 階段 を 下り、 その 儘 いっしょに 往來へ 出た。 冷い 夜風 

が 落葉と 共に かけ 步く步 道に 高く 響く 靴 の 音で、 柘植は 自分 も 昂奮し て ゐる事 を 知った。 

「どうも 弱った。 あ k 迄 想 ひこ ませる と は、 あなた も 罪な 人 だ。 一 


389 


グレイ は、 まるで 他人の 家の 出来事の やうに 輕ぃロ をき いて 笑った が、 それ は 此の 場合、 眞面 

目く さつ て い ふよりも 相手の 心 を 柔らげ るよ すがと もなら うかと 察した 心づ かひに 違 ひなか つた。 

それから 又 繰返して、 妻の 願 ひ はた^ 親しくつ きあつて くれと いふ 丈の 事 だから、 安心して 自分 

達の 住居へ 來て くれ、 それが 落 ぶれて 心の 寒い 夫婦の 者 をい かに 慰める 事で あるか、 若し 叉 この 

願 ひ をき k 入れて くれない 場合に は、 妻 は 益々 手の つけられない 女に なり、 自分 は 愈々 苦しみ、 

手 こすらなければ ならない だら う、 それば かりで はなく、 あ \ までとり みだした 有様で は、 どん 

な 短 氣な眞 似 をす るか も わからな いから、 自分 達 を 救 ふ 心 持で、 自分 達の 希望 を いれて くれと い 

ふの だった。 いつの 間に か 柘植の 下宿の 前 迄 来て しまったが、 結局 柘植 ははつ きりした 返事 を與 

へる 勇氣 がな く、 氣まづ いま、 で 別れた。 

おひとよしの グレイ は、 その後 も 妻の 命 を 受けて、 度々 誘 ひに 來 るし、 夫人 は 毎日の やうに 手. 

紙 を 寄越して 柘 植を惱 ました。 いつもい つもき まり 文句で、 自分 を あはれんで くれ、 自分の 心の 

中 を 汲み とってくれ、 一日に 一度 は 逢, つて くれと 繰返した。 それよりも、 柘植 が圖書 館へ 通 ふ 時 

刻 を 見 はからって、 下宿の 附近 をう ろうろ して ゐる 夫人の 姿 を 見た 時 は、 彼 は その 儘 往来から 引 

返して、 終日 家の 中に 籠居した。 


393 


宿の 敦倫 


「い つ そ 自分 も 巴 里へ 行って しま はう かしら。」 

異人 種 の 動物 的に 執念深 い 慾 情の ひしひしと 身に 迫る の を 感じ、 自分 を 中心 に 何 か 不吉な 事 の: 

起る 豫感を 消す 事が 出来なかった。 巴 里へ 着く と 直ぐ、 高樹が 書いて 寄越した 其の 地の 風光が、 

忽ち 輝し く 想像され るので あった。 

郊外に 病んで ゐる茅 野 は、 微熱が とりきれ す、 段々 寒さに 向 ふ 此の頃の、 この 國 のしめつ ぼい 

筌氣を ひどく 恐れて ゐた。 彼 は 彼で、 かねて 柘植に 頼んで 置いた 例の 喫茶店の 支配人との 面談 を、 

早く 取 運んでくれ、 もう 逢って くれた かと、 再三 催促して 來 るので あった。 柘植 にして みれば、 

相手^ 病人 だとい ふ 事に 同情し * いったん は 約束した ので あるが、 役の 惡 さに 氣 が乘ら す、 つい 

その 儘に なって ゐ たの だ。 しかし、 催促され てみ ると、 今更い や だと も 云へ ない ので、 或 日 喫茶 

店に 支配人 を 訪問した。 

「これ はこれ は、 よくい らっしゃ いました。 さあ、 どうぞ、 こちらへ。」 

愛想よ く迎 へた 支配人 は、 客の たてこまない 時間 だから、 店 さきの 一 卓で、 商賣 物の 紅茶と 菓 

子 を 運ばせた。  . 

「先日 は 突然 御宿へ 伺 ひまして、 つまらない 愚痴ば かり 御 耳に 入れ ましたが、 その後 あの 先生 は 


391 


どうして ゐら つ しゃいます。」 

明かに 茅 野を輕 侮した 態度が 柘植を 不快 がらせた が、 先方 はそんな 事に は 頓着な く、 揉 手 をし 

たがら、 慇齄 叮嚀 を 表面に 見せる 事 を 忘れなかった。 

「その 先生が 病氣 でして、 その 爲か ひどく 氣を 揉んで、 是非 あなたに 御 目に か、 つて 來 いと 私 を 

攻め立てる のです。 あなたの 方で は 私 を 通して あの 男に、 こちらの 娘さんの 事 は あきらめろ とい 

ふ 御 話 だし、 あっち は あっちで、 あきらめる どころ ではなく、  二人 は 堅く いひ か はして ゐ るの だ 

から、 その 點 あなたの 諒解 を 得て くれと いふので す。」 

柘植は 相手の 腰の 低 さと 反比例に、 何 を こ の 若僧が とい ひ 度い もの 、潜んで ゐ るの を 感じて、 

茅 野の 爲に盡 してやり 度い 氣持 があった。 

支配人の 方で は、 こ、 の 娘 も はじめは 茅 野の 熟 心な 求愛に 心 を 動かし はした が、 何分 常規を 逸. 

した 振舞に 薄 氣味惡 くな り、 今では 全く 輕 はすみ を 後悔して ゐる とい ふ。 

「それでなければ 私 も、 無理に 憎まれ役 は 買って出ません ので ::,. 」 

あちらこちらに かたまって; 5 そめいて ゐる 日本人と 異人と、 それぞれの 給仕の 娘 達が 何事 かと 

驚いて 一 齊に 視線 を 集めた 程、 支配人 は 心地よ さ、 うに 笑った ので ある。 その 給仕の 娘の 中には, 


592 


の敦 ff 


今^され てゐる ひと もま じって ゐた。 蒼白い、 輪郭の 柔 かい 顔に、 うるんだ やうな 大きな 眼 —— 

それが 心配 さう に 見て ゐた。 

「ところが 茅 野 君の 方で は、 決して そんな 害 はない、 それ は あなたが 二人の 仲 を さかう とする 手 

段で、 あの人 は 自分 を 信じて ゐ るから、 直接 逢って きいて くれと いふので す。」 

「それ は 直接 御 話になる の も 結構です が、 いったい 茅 野さん とい ふ 方, は、 本氣 であの 娘 を 細君に 

なさらう とおつ しゃる のです か。」 

「さう だと 云って ゐ ます。 茅 野 君に いはせ ると、 自分の 半生の 不淨な 生活 を 一切 清算して 新 生活 

に 入る に は、 あ、 いふ 初心な、 淸淨な 感じの 人の 身心に よって 救 はれる 外に 道 は 無い、 その 道に 

入らなければ 自分の 藝術は 仲び 無い とい ふので す。」 

「は、 は、 私共 俗人に はよ くの みこめません が、 いったい 彼の 娘が それ 程の 人間 かどう か、 こい 

つ はちつ と 先生方の 御 買 ひかぶ りが 過ぎ や あしない かと 存じます が。」 

女の子な ど、 いふ ものに、 人 を 救ったり 向上 させたり する 力が ある もの か、 あれ は 綺麗で 安價 

な 品物に ひとしい ので はない かと 云 ひ 度 さうな 嘲笑 を ほの 見せた。 

「その 點は私 も 疑 はしい と 思 ひます が、 兎に角 友人に 頼まれて 來 たのです から、 直接 本人の 口 か 


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ら、 ほんとの 心 持 を 聞き 度い のです。 若しも あなたの 御 許が あるなら …… 」 

「え、 御 安い 御用です とも。」 

支配人 は無雜 作に 椅子の 背に 反 か へ つて、 背後に 聲を 投げた。 

「雪 江さん、 ちょっと。」 

聲には 出ない 返事 をして、 小柄な 曰 本 娘 は、 底の 厚い 草履の 音を立て ゝ 急いで 来た。 

「一寸 君に 逢 ひ 度い とおつ しゃる ので。 こちら は柘植 さん。 例の 茅 野 先生の 御 親友。」 

日本人に は 給仕 させない とい ふ 店の 锭の爲 に、 口 こそき いた 事 はない けれど、 茅 野と つれだつ 

て 時折 は 來る顏 見知 だから、 娘の 方 も 知って ゐ ますと い ふ顏 つきで 會釋 した。 

「こちらが 今日 御 出に なった の は、 茅 野さん に 頼まれて、 君の 心 持 をき、 にい らっしゃ つたの だ. 

が、 何も 後々 迷惑になる やうな 事 はない の だから、 はっきりと 君の 立場 を 御 話し 申 上げる とい 

さ 

「それ は 駄目です よ。」 

拓植 は、 自信の ありさうな 口 をき く 支配人 を 遮った。 

「失禮 です が、 あなたが ゐて は、 私の 方で もき、 たい 事 もき、 にくい し、 叉 この 方に しても 一寸 


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具合が 惡 いでせ う。 尤も あなたが ゐ らっしゃらなくても、 旣 にあな た を 通しての 直なん だから, 

まんとの 事 はい ひにくい かもしれ ない けれど。」 

「いや、 そんな 事 はありますまい。 何しろ 茅 野さん の 奥さんになる かならない かとい ふ大 問題な 

ん だから。」 

支配人 は 明かに 不快の 色 を 浮べた が、 口で は 至極 平靜 に、 

r では 邪魔者 は 退散し ます かな。」 

と 冗談め かして 座 を 立って、 店の 奥の 方へ 姿を消した。 

「かけません か。」. 

「え V」 - , 、 . 

折角 二人に はなった もの、、 外の 給仕の 娘 達が、 眼の 黑 いのも 碧 いのも、 何 か 重大 事が 起った 

のかと、 あやしみ 見守って ゐ るので、 當の娘 は 腰 を 下す どころ では 無かった。 支配人 は計畫 的に 

わざと 店頭で 會談 したの だった かと、 柘植は 思ひ當 るので あった。 

i 「茅 野 君 は 今 病氣で 寢てゐ るので すが、 知って ゐ ます 力 」 

の 

宿 「まあ、 御病氣 です の。」 


3?5 


蒼白い 顏に ぼんやりと 血の 色 を 見せて、 

「この頃 やかましい ものです から、 御手 紙 も 頂きません の。」 . 

と、 すこし 舌たら すの やうな 口の き、 方で 云った。 

「私 は 茅 野 君に 頼まれて 來 たのです が、 それより 先に こ 、 の 支配人が 私のと ころへ やって 來て、 

茅 野が あなた を 追 かけ 廻し、 本人 も 困って ゐ るから 意見 をして くれ、 思 ひ 切らせて くれと いふの 

です。 ところが 茅 野 君に いはせ ると、 あなたと は 堅い. 約^が あって、 自分の 心 持 はよ くわ かって 

ゐる笋 だ、 それ を 支配人 や 監督 や、 その外の 人が 邪魔して 逢 はせ ない の だとい ふので す。 あの 先 

生が 口癖の やうに いふの は、 自分の 今日 迄の 墮 落した 生活から 救 ひ 出して くれる の は あなたの 外 

に は 無い、 あなたに 救 はれ、 あなたの 力 を 借りて 自分の 藝術を 完成した いとい ふので すが ::: 」 

拓植 にと つて は、 斯うい ふ签漠 たる 詩人の 夢 を、 たと へそれ が 他人の 言葉に しろ * 若い 娘に 封 

して 口にする のが 羞 しかった。 

「は あ、 あたくし にも 始終 さう いふ 事 を おっしゃる のです。 はじめの うち はよ くわ かりませんで 

した けれど、 たしかに あたくし の 力で さう い ふ 事が 出來 ると おっしゃる ものです から …… 」 

娘 は、 自分が たなびく 霞の 上に 乘 つて ゐる やうな 話に 一 服顏を 紅く した。 


396 


宿の 教偸 


「それで 茅 野 君 は、 あなた を 失って は 自分の 生涯 は 破滅 だとい ふので すが, 支配人の 話で は あ 

たたの 方 は それ 程に おもって ゐな いと かいふ 事で、 それ を 確め て來て くれと 私に いふので す。」 

相手 は 支配人の かけて ゐた 椅子の よりか k りに 兩手を かけて、 身の 置 所に も 弱って ゐる 風情 だ 

づた。 

「あたくし、 よく わからな いのです けれど、 なんだか あの方の おっしゃったり、 なさった りする 

こ は  , 

事が 恐い やうな 氣 がしまして …… 」 

「では、 はじめはよ かった けれど、 今 は 後悔して ゐる とい ふやうな …… 」 

「後悔って 事 はない のです けれど、 困ります わ、 あたくし。」 

い つ 迄た つても 埒の あきさう もない 相手の 様子に 當 惑して ゐる ところへ、 支配人 は 如何にも 事 

務家 らしく 忙し さう に戾 つて 來て、 

「いかぐ です、 お 話 はすみ ました か。」 

とい ひながら、 元の 椅子に かけて しまった。 それで 話 は否應 なしに 中斷 された。 

「矢 張 茅 野 先生の 御 註文 通りに は參 りませんで せう。」 

支配人 はどう だい 負けたら うとい ひ 度い 肚の底 を、 おも はす さらけ出した。 


397 


「 それ は 無理です よ。 こ 、 は あなたの 支配 下に あるの だから。」 

柘植は あっさり 應酬 して、 

「御 忙しい ところ を あり がた う 御座いました。.」 

と 支配人よりも 寧ろ 娘の 方へ 叮 重に 挨拶した。 解放され た 娘 は 仲間の 方へ 走って 行った が、 忽 

ちみん なに 取圍 まれて、 何 か 報告し、 何 か 問 ひた^されて ゐた。 - 

柘植に は 娘の 心 持が よく わからなかった が、 多分、 遠い 異鄕で 心寂しい 折 柄、 むやみに 自分 を 

讚美 崇拝す る 同胞の 靑年に 出逢 ひ、 心 を 甘やかされ、 嬉しがらせられて ゐ たのが、 周 園の 者の 白 

»  ひたすら 

い 眼と, 當の 男の 我儘 勝手な 求愛に 脅かされ、 どうしてい、 か 只管 弱って ゐ るので はない かと 想 

像した。 たしかに 綺麗 は 綺麗 だが、 あんな こども をつ かまへ て、 自分 を 救って くれと か、 その 救 

がなければ 藝 術が 完成 しないと か 云 つて ゐる茅 野の 文學靑 年ら しさが、 どうしても 眞實性 を帶び 

たものと して は考 へられなかった。 何とい ふ 他愛の 無い 會見 だら うと、 自分の 役 廻 を 嘲笑し なが 

ら, 直ぐ その 足で 茅 野に 報告 を 持って行った。 

茅 野 はめつき り 寒くな つた 朝夕の 氣 候の 變 化が 障った のか、 叉 熟が 高く、 不健康に 紅潮した 頰 

邊を 枕に つけて 眠って ゐた。 柘植は その ベッドに 近く 椅子 を 寄せて、 白い 額 を 小一時間 も 見守つ 


398 


佰 の敦淪 


た。 

「ぁゝ 君 か。」 

ぼっかり 眼 を あいた 病人 は、 夢の 中の 事 かと 思 ひ 迷 ふやうな うるんだ 眼 をして、 しばらく 柘植 

の顏を 見つめた。 

「どうだい、 よくない のか。」 

「よくない。」 

.• 茅 野 はいつ もの、 何事に も 自信 を 持ち、 光明 を 信じる 態度に 見放されて、 無氣 力な 返事 をした- 

「今日はた うとう 使命 を 果して、 例の 茶店へ 出かけた よ。」 

「さう、 それ はすまなかった な あ。」 

眼 尻と 口 尻に 子供の やうな 微笑 を 浮べた。 

「それで どうした。」 

「さあ、 何とい つてい、 かな あ。 元來 あの 店に 行って、 あの 娘に 逢って 話 を するとい ふの は不自 

然 だからね、 大した 期待 は 持た なかつ だが、 外に 方法 もない し、 君から は 再三の 御 下命 だから… 

〜」 


399 


先づ いひ わけ をして 置いて、 一部始終 を 話した。 

「僕の 解釋を 許して くれるなら、 あの 娘 は 君が 勝手に 作り あげた 人形で、 ラファエルの 聖母 だと 

か、 その 愛の 力 こそ 日本に はじめて 生れる 大戲曲 を 完成させる もの だと か、 最大 級の 形容詞 を 浴 

せかけ てお だてる もの だから、 何が何だか わからな いが、 無上に 嬉しくな つてし まった のさ。 と 

ころが はたの 者が 承知し ない。 あんな 不良 詩人に だま かされて はいけ ない、 ひどい めに 逢 ふぞと 

いはれ、 成程 さう かと 思って ゐる ところへ、 君の 方 は 君の 方で、 もう 手に入つ たと 思 ふし、 せか 

れ、 ばせ かれる 程 あせって 肉迫す る もの だから、 處 女の 本能と しても おっかなくな るの は 極めて 

自然 だと 思 ふの だが、 どう だら う。」 .  , 

ひけめ 

茅 野 はもと より 不滿 足な の だが、 いやな 役 ほ をお しっけて 頼んだ 控目も あるので、 苦笑し なが 

ら 聞いて ゐた。  . 

「まあい、 さ、 僕に は 僕の 考が ある。 それよりも、 もう 一度 君 を 煩 はしたい の だが、 君 は 支配人 

にも 信用が あるし、 あの 娘と も 公然と 話 をして 來 たの だから、 何とかし てこれ を 手渡しして くれ 

ないか。」 

枕の 下から 取 出した の は 封書 だ つ た。 


400 


宿の 敦偸 


「こっちから 手紙 を やる 事 はむ づ かしい が、 向から は 葉書 一枚 書く 位、 誰に も 見つから すに 出來 

る だら う。 それに 對 して 返事が あれば 僕の 勝利 だ。 勝利って やつ もない けれど。」 

茅 野 は 例の 朗な聲 で 笑 ふつ もりだった が、 咽喉に からんで かすれて しまった。 

茅 野に 托された 手紙 は、 ひそかに 喫茶店の 少女の 手に 渡す 事が 出來 たが、 監督が きびしい 爲か、 

本人が つ、 しんで ゐる爲 か、 いつ 迄 も 返事 は來 なかった。 茅 野 は 病牀で 苛々 し、 果して 柘植が 先 

方の 手に 手紙 を 渡した かどう か を 疑 ふ 口吻 さへ もらした。 柘植も むっとして、 元來 自分 はそんな 

役目 を 喜んで 引受けた わけで は 無く、 病氣の 友達の 爲に、 いやがる 自分の 心 を 抑へ つけ、 不愉快 

を 忍んで やって やった のに、 さう まで 云 はれる の は 心外 だ、 自分に いは せれば、 未だに 返事の 無 

いのは、 恐らく は 少女の 心が 旣に 遠ざかった 事 を證據 だてる もので はない かと、 はしたなく 爭っ 

た。 .  ■■• :  :. 

「失敬々 々。」 

茅 野 はふ だんの 強情に も 似す、 手 もな く 折れて 出た が、 それが 心から あやまった のか! もう 一 ー 

度 柘植を 煩 はして 先方の 心 を 探らう とする 下心 か、 どっちに もとれた。 彼 はしつつ こく 柘植を 口  ^ 


說き、 是非もう 一度 喫茶店に 行って、 返事 を 催促して くれと、 外聞 もな く輯 むの だった。 柘植 は、 

相手の 心の底 を 見 透しながら、 見 透され て ゐる事 を 知りつ ゝ 一筋に 賴む 熱心に 根 まけして、 不承 

不承に 承知して しまった。  . 

一人の 友達 は 病んで、 いったん 確實に 得た と 思った 戀 愛が、 段々 心許なく なって ゆく 不安」 惱 

んでゐ る 時、 一人の 友達 は 多年 夢に 描いて ゐた 伊太利の 旅先から、 歡 喜に 醉ひ、 感傷に 堪 へない 

通信 を頻々 と 寄越した。 高樹 は、 古典 藝 術の 研究に 沒 頭して から、 極端に 排斥し、 排斥す る 事に 

誇 を さへ 感じて ゐた 天地 自然の 風物 さへ、 それが 伊太利の 國土を 包む 時 は、 十七 八の 少年に ひと 

しい 感激 を もって 讚美す るので あった。 怫蘭 西の 國境を 越えて、 空と 海と 山と、 すべてが 金粉 を 

プラット フォ ォム 

散らして 光り輝く 伊太利へ 足 を 踏 入れて からの 歡喜 は、 汽車の 中、 停車場の 步 廊 で 認めた 繪 

葉書の 狹ぃ 紙面に あ ふる ゝ ばかり 畳 富だった。 途中の 小驛 で、 汽車の 窓から 手 を 差 延べて 買った 

苞 入の 葡萄酒の 味 迄、 批判 を 忘れて 稱 讚した。 彼 は その 樂 しい 旅に 醉 ひながら、 目的地 フ a ォレ 

ン ス に 着いて、 かねて 憧憬した アル ノの 河岸の 宿に おちついた 事 を 知らせて 來た。 

たうとう おも ひ を 達した か —— 柘植は 誰も ゐ ない 室の 中で 大仰に 嘆息した。 こ 、ろざす 事に 對 

して は ひたむきな 童心 を もって のぞむ 友達の 意 氣に打 たれる おも ひがした。 虚弱な • 血 を 吐いた 


402 


宿の 教倫 


からだで、 強烈な 日光の 中 を 美術 巡禮に 出立つ 姿 を 想像す ると、 义 ひそかに 微笑 も 止め かねる の 

であった。 

柘植 は、 病氣 見舞 旁々、 高樹の 感極まつ てうた ひ 出した やうな 手紙の 束 を 持って 茅 野の 宿へ 急 

いだ。 玄關の 呼 鈴 を 押す と、 いつもの 通り 小娘と フォックス. テリ ャが 先を爭 つて 顏を 出した が" 

意外に も 茅 野はゐ なかった。 

「あら、 あなた 御存じな いんです か。 茅 野さん は 急に 海岸 地方へ 轉 地なさい ました。」 

あんまり おも ひがけなかった 事な ので、 柘植 はう すい そばかすの ある 小娘の 顏を 見て 暫時 佇ん 

だ。 犬 は 彼の 足 許 を 嗅ぎ 廻り、 時.々 前脚 を. あげて ふざけよ うとした。 

日を經 て、 やう やく 茅 野の 消息 を 得た。 

僕 は 突然 こゝ にやって 來た。 何時までも 微 熟が とれす、 これから 霧の 深くなる n ン ドン にん 

るの は 健康 上よ くないと 思った ので あるが、 それよりも 正直のと ころ、 あの 女から 僕の 豫期 

しなかった 返事に 接した 事が 直接 原因で ある 事を吿 白しょう。 僕 は あの 處 女の 力に 鎚 つて 新 

生活に 人り、 劃期的の 作品 を 世に 問ふ考 へであった が、 今 は 逆に、 僕の 作品に よって あの 女 

を 獲得す る 事に 努力す るつ もりで ある。 集 は 自分の 隍康さ へ 許すならば、 輝かしい 未来の 待 


403 


つて ゐる事 を 信す る ものである。 向 ふ 一年の 間に、 僕 は 英語で 戯曲 を 書く。 舊約 聖書から 大 

きな 村 料 をつ かんだ。 これが 出版され、 ば、 &ン ドンの 劇場で 上演され る 幸運が 僕 を 待って 

ゐる であらう。 あの 女が どん. な 驚き を もって その 芝居 を 見る か。 僕 は 僕の 心に 受けた 打擊に 

へ こたれ るよりも、 寧ろ 二の 偸 快なる 希望の 深く 大 いなる 事を樂 んでゐ る。 

柘植は その 手紙 を 繰 返 して 讀ん だ。 自分 の 汚 濁の 生活 を 他力に よって 淸算 しょうと する 茅 野 を、 

一人 相撲 をと る もの だと 笑った が、 今日 この 破局に 來て みれば、 茅 野に は 茅 野 一流の 自信が 力強 

く 漲って ゐる。 空中に 樓閣を 描く. ものとば かり はい へない 情熱が、 その 短い 手紙から、 匂 ふやう 

に 感じられた。 

霧の 都 は 毎日々々 襟 陶 しく、 晝も燈 火がなくて は 本も讀 めな かやうな 日が 績く 中で、 秋 は あわ 

た f しく 更けて 行った。 獨 乙の ッ H ペリン に襲擊 されてから、 市街 は 一 厣 暗く、 夜 は 酒場の 戶さ 

へ 早くと ざされ、 行人の 數も 少なかった。 下宿 も 出て 行く ものが あるば かり; で、 後から 來る者 も 

なく、 おかみ さんの 機嫌 は 愈 々悪く、 したがって 客极 ひも 益々 ひどくな つた。 獨探事 件 以來、 み 

ん なの 集まる 場所に は 一 切顏を 見せ なくなつ たへ イド ンは、 何處へ 行く のか 宿に ゐ ない 日が 多く、 

その 行動 はあくまで も あやしかった が,、 前の 失敗に こりて、 誰 A おもてだって 非難す る 者 もなか 


404 


M の ^倫 


つた。  -, 

ぺ H ジは 毎朝 重たい 靴 を 穿いて 練兵に 出かけた が、 いつ 迄た つても 彼が 豫吿 した 通りの 士官に 

はとり 立てられす、 それが 唯一 のい ひわけ の やうに. しきりに 軍部の 不信 を 鳴らした が、 結局 兵 

卒は 兵卒の ま トで戰 線へ 送られる 事に なった" . . . 

『あ、" 愈々 カイゼル を 生 捕に 出かけます よ。」 

、 : •  \  f  i  .  -  Al.  *C.JT ふ ゝ . ,i マ- *  -  -  i  、  ■  ■ ' .  わかれめ  ,  ,  、  . 

口で は 月並な 諧謔 を賑 かにい ひ 立てた が、 流石に 生死の 別 目に 追 ひ 詰められた 運命 を 前にして、 

沈痛な 様子で 默 座して ゐる 時が 多かった。. かづい つたん は兵營 に收容 され、 それから 何處か 目的 

めの あかざれ ない 戰揚へ a ばれる の ださう だった。 しかも 此の 勇士 は、 叉しても 下宿の 支 拂が滯 

り、. かみさん にぎ やん ぎ やん わめきたてられて ゐた。 兵營に 行けば 一 文 も 支出 はない から、 貰 ふ 

もの は みんな 送って 寄越す と 約^しても きかれなかった。 パイ パァに 頼んでも、 もともと 豊かで 

ない 上に、 これ 迄に 幾度 も 小出しに せびられて ゐ るので、 なかなか うんと は 云 はたかった。 二人 

か 間に 激しい 爭 まや あつたが、 結局べ ェジの 要求 は拒絕 されて しまった。 彼 は柘植 にも 鎚っ • て來 

た。 人間 は 出鳕: HI でも、 おっちょこちょい でも、 よしんば 兵士 を 志願した の も 手當を 目. o ての 事 

だった にしろ、 生命 を かけて 戰 場へ 行く ものが、 僅かに 二週間 位の 宿料の 滞りで、 斯うまで み じ 


405、 


めに 扱 はれる の は、 あんまり ひど 過る と は 思 ひもした が、 柘植 自身の 懷 都合 も 惡く、 グレイの 頼 

みで 一度なら す 金子 を 用達て、 その 中には ぺェジ の 窮迫 を 救った の も あるの だし、 その 金の 返つ 

て來 ない 爲 にどの 位 不自由し たかしれ ない の だ, 結局 あれ を 餞別に やった ものと 見做せば 充分 だ 

と考 へて、 今 は 自分の 手許 も 全く 不如意 だから、 用達て ように も 用達 てられな いと 云って 斷 つた。 

しかし、 斷り はした もの、、 何 か 人道 上爲す 可らざる 行爲 をした やうな 心 を 咎める もの を 感じた。 

ところが、 その 次の 日に は グレイが やって来て、 ぺ H ジが 昨夜 來 ての 話に、 愈々 戰 場へ 行く 身 

として、 下宿料の 拂 へない 爲に 所持品 を 差 押 へられて は 堪らない から 救って くれと い ふの だが、 

御 承知の 通り 自分 も 金に は緣が 無い し、 ぺェジ の 爲には 迷惑もう けて ゐ るので、 斷 るの が本當 な 

の だが、 何しろ 相手 は 祖國の 爲に戰 ふ 若者 だ、 自分 は旣に 年老いて 銃劍を 身に 帶 びる わけに はい 

かない、 つまり 自分 達に なり か はって 戰ふ のが 彼. なの だから、 せめて は 何の 心配 もない からだで 

出征 させ 度い、 其處で 自分 も 半金 を 出す から、 柘植 にも 半分の 負擔を 引受けて くれと いふので あ 

る。  ゆ^  4 

「恰度 私の 仕事の 報酬と して 貰った 金が 少し あるので、 本來 ならば これ は あなたに 御返しし なけ 

れ ばなら ない の だが、 あなたの 方 はもう 少し 猶豫 して 頂いて、 あの 若者 を 喜ばせて やり 度い ので 


406 


すよ。」 


グレイ はさう いひながら、 あかし I る I、 懷の紙 入 から警拔 出して 卓^^, 

いた。 拓植は 此の 人の、 窮迫しながら も 他人 の舊を救は ないで は ゐられなぃ善^^れ 

U し ^ いやと は 云へ なかった。 又 こ、 で氣が 弱く、 群な 男 氣を 出して は、 I! 

"だぞ と、 募 を 戒める 心 も 充分 ありながら、 たうとう 自分 も 紙 入の 中の 紙幣 を 取 出して タレ 

ィの 置いた 上に 重ねてし まった。 

「t、 これで 立 f 兵卒が 一 人 I 上った。 蠢 します。 蠢 します。」 ま 力 アキぶ 

我 身の上の 事の やうに 喜んで * 直ぐに., へ 5 の 重へ 上って 行った が、 m 

本人 を つれて 來て、 共々 に禮を 繰返した。  I  、トー、 こ。 

その 。へ H ジも、 雨の びしょびしょ 降る 寒い 朝 、みんなに 別れ を 告げて 兵營 £レ" 、ぎ 一、 こ 

ま 目,」 も かくす 事の 出來 ない 仲だった パイ パァ は、 iin 盲 ju 

ナ t として、 厄介 拂ひ をした かの やうに 晴 やかに なった。 

I  i$f  111011 

^  i  iiiil  二  t 女 lii うに 動力な 


407 


いの を 見た。 それ は 完全に 入口 をふさいで ゐ るので、 柘植は 宿の 前の 共同 園の 鐵 柵の 外 を  一^し 

て戾 つて 来たが、 相 擁した 男女 は 依然 動かない。 もう 一度 廻り- 三度 廻った 時、 先方で も氣 がつ 

いて、 あわて & 離れ離れ になった が、 二人の 女 は 逃れる やうに 家の 中へ 入り、 二人の 軍人 は 靴の 

音髙 く、 鞭 を 鳴らしながら 立 去った。 

グレイ 夫人 は 相. 變ら す、 執拗く 手紙 を 寄越した。 柘植が わざわざ 時間 を 違へ、 遠 廻りして 行く 

の を 知らす に? 往來で 待 伏して ゐる事 も あるら しかった。 あれ 程 物 わかりの い k、 敎 養の ある 人 

が、 どうして 斯う 迄 あくどく、 人 困らせ をす るの かと、 柘植 は^ん ど 閉口して、 この 人 あるが 爲 

ばかりで、 B ン ドン を 去って 巴 里 へ 行かう と考 へる 事 も 度々 あった。 

十 一 月の 寒い 夜の 事であった。 柘植を たづね て來た 人が あると いふので 玄關へ 出て 見る と、 暗 

い あかり を 浴びて? 油と 石炭で 皮膚 も 衣服 も 汚れた 薄ぎ たない 婆さんが 立って ゐた。 向 ふで も兑 

馴 ない 日本人の 顔 を じろじろ見てから、. 何もい はすに 紙片 を 差 出した。 開いて みると グレイの 走 

書で、 至急 來て くれと だけ 書いて あった。 何 か 用事なら ば 自分で 來る 害な のに、 っひぞ 無い 事で, 

見 も 知. ら ない 婆さん を 使に 寄越した のが を かしく、. 不吉な 豫感が 胸 をつ いた。 彼 は、 一片の 銀貨 

と共に、 直ぐに 行く とい ふ 返事 を 婆さんに 與 へた。 


4(3 


估の 敦倫 


いったん 自分の 部屋に 戾り、 外套 を 着て おもてに 出る と、 珍しく 晴れた 高い 空に、 星屑が 意味 

ありげ に また 、いて ゐた i 異常な 出来事が 行 手に 待って ゐ るので はない かと 思 ひながら、 グレイ 

の 宿へ 急いだ。 待 兼て ゐた. グレイ は 握手した 手 を 放さす、 窒內へ 引 入れた が、 目の前の ベッドに 

は 蒼 ざめ た顏 をして 夫人が 寢 かされて ゐ た。, 柘植の 姿 を 見る と、 仰臥した ま、 の 姿勢で、 はげし. 

く戯欷 しはじめた。 

「どうかした のです か。」 

柘植 はわ ざと 夫人の 方に 背 を 向けて-グレイに 訊いた。 

「劇藥 を 呑んだ のです よ。」 

もう 危險は 過去った の だとい ふお ちつき を 見せて、 全く 過去の. 事の やうに 靜 かに 答へ た。 

•「 私が 少しば かりの 仕事の 報酬 を 貰 ふ 中から、 かねて 拜 借の 金 を 御返しし ようと 思って はゐ るの 

です けれど, 生れつき だら しがない もの だから、 ぺ H ジが 泣きつ いて くれば やって しま ふし、 此 

の 家の 窒代 もた まり 勝で、 いつにな つたら 餘裕 が出來 るか、 あなたからの 借金 を完 濟出來 るか、 

見當 もっかな いので、 もう 二度と は 手に 觸れ ない と 家內に 誓った 骨牌の 仲間に 飛込んで 行った の 

. おちめ  •  -  -  、 

です。 それが 落; H になる と 運が 惡く * すっかり とられて しまったので、 約束の 日が 來て も窒 代が 


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沸 へない。 度々 の 事な ので、 こ 、 の 主婦が 私の 留守に 家 内 をつ かま へ て 泣 言 を 並べ る。 家^: は 家 

內で 私に 喰って か、 る。 何故 誓 を 破って 骨牌に 手 を 出した か」 -、 あんまり はげしく やられた ので- 

今迄 かくして ゐた あなたからの 借金の 事 を 喋って しまった のです。 今の 私に は 骨牌に 運 を 托す 以 

外に 返金の 道が 無い と。 すると 俄にき ちが ひの やうに なって" いかに 自分 達が 困った からと いつ 

て、 拓植 さんに お金 を 借る と は 何とい ふ 事 だとい ひ 出して  」 

グレイ は 幾度 も 妻の 方に 氣を 配りながら、 その 日の 夕方の 出来事 を 話す のだった。 いくら 事 を 

わけてい ひ 聞かせても、 た V 泣き叫び 怒る ばかりで、 手の つけ やう もなかつ たが、 突然 鏡臺 の曳 

, から、 ッ M ペリン 襲擊 事件 以來 時々 用 ゐてゐ た 催眠 藥を とり 出し、 ありったけ 口に ふくんで 嚥 

下しよう とした。 咄嗟に グレイ は 妻の 咽喉 を扼 し、 あばれ もがく の を 押へ つけて、 あぶなく 大方 

は 吐出 させた。 それから、 今迄 か、 つて やう やく 平靜 になった が、 是非とも 柘植に 逢って あやま 

ら なければ ならない とい ひ 張る ので、 迷惑 は 承知の 上で 使 を 出した とい ふの だった。 

「それでも、 少し は 咽喉 を 通った のです か。」 

「大した 事はありません。 それよりも 精神的に 參 つたので せう。」 

グレイ は、 自分自身 にも 氣の 疲れ を 見せて、 力なく 話 を 結んだ。 その 間、 夫人 は かけぶとんの 


410 


病で 敦淪 


胸の あたりに 波 を 打た せながら す、 りあげて ゐた。 眼の-卜 にも、 兩頰 にも 暗い 隈の ある 醜い 顏 を. 

淚は 容赦な く  一  I 醜く 汚した。 

拓植は 此の 室に 在る 自分の 不快な 立場に ゐたゝ まれなかった。 い つ 迄 もい つ 迄 も 泣いて ゐる夫 

人 を 見て ゐ ると 愎だ、 しくな り * グレイの 自分に 對 する 思惑 を 想像す ると、 やりきれなく なった- 

逃げよう、 この 場 を 逃げる ばかりでなく、  ロンドンに おさらば しおう、 下らない 人情に とら はれ 

て 愚圖々 々して ゐ るべき でない、 自分が 此の 國を 立った 後で、 果して 夫人が 死ぬなら 死んでも 構 

はない、 逃げよう、 斷然 逃げよう —— と肚 をき めた。 肚 がき まると、 不快な 窒にゐ る 事 も 辛抱 出 

來た。 

「それで:、、 すね、 柘植 さん。 家內は あなたに お金の 迷惑 迄 かけて ゐて は、 もうお つきあ ひ を 願 ふ 

事 も 出来ない とい ふので すけれ ど、 どうか 吾々 を 救 ふと 思って、 時々 は 遊びに 來て 頂けない でせ 

うか。 それ は 家內の 唯一 の 願で あり、 又 私の 希望な のです。」 

グレイの 心 は、 それ を當 の. 拓植 よりも、 寧ろ 妻の 耳に さ、 やく もの 、やうだった。 

「承知し ました。」 

柘植は 自分の 立場の 芝居が かりなのに 閉口した が、 夫人の 寢臺の 側 へ 行って 手 を 差 出した。 


411 


「どうか 心を靜 め、 おちついて 聞いて 下さい。 私 は 修業 中の 者です。 自分の 勉強 を か. きみ だされ 

るの が 何よりい やなので す。 お金の 事なん か 問題で はない のです から、 そんな 事は氣 にしないで 

下さい。: 

夫人 も かけぶとんの 下の 細い 手 を 出して、 無言で 強く 握手した。 

「では、 今日は 靜に おやすみになる のがい.^ でせ う。 叉 明日う か^ひます から。」 

: 相手のう なづ くの を 見て、 手 を 振 放し、 グレイ. に裟ら れて辭 した。 

•  一拓 植は その 翌ョ、 運送屋 を 呼んで 來て、 書籍 を 荷 造して 日本の 汽船 會 社に 托し、 その 足で 佛蘭 

西 領事館に 行って 旅券の 手續を 一した。 あと は 二 つの トランクと、 一. つの スゥッ .ケェ スだ けだ。 

何時でも 旅へ 出る 事が 出来る.。 彼 は 安心して、 その 午後に は グレイ 夫妻の 宿 を 見舞 一った。 妻の 身 

t 心配して 勤めに も 行かない グレイと、 旣に 床. はは なれたが 病人の やうな 夫人 は、 柘植 の. 約束. の 

堅い 事を稱 讚し、. 感謝し、 何の もてなし も出來 ない 事 だけ を 嘆いた。 

「又 明日. も. 來て 下さい。」 

とい ふ 言葉に も そむかす、 何氣 なく 別れた が、 拓植は 次の 日に は 海峽を 越えて 巴 里 へ 渡らう と 

か 心して ゐた。 一 


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宿の 敦倫 


愈々 a ン ドンに も 別れる 日が 來た。 一週間 分の 宿料 を前拂 して、 突然 立つ 事 を吿げ ると 主婦 

はすつ かり 驚いて、 この頃 客の すくない 折 柄. 又 頭數の 減る の は打擊 である、 萬 一 何か不 滿の點 

があるなら ば 遠慮なく 云って くれと * 俄に 愛想よ く引留 るので あつたが、 柘植は 小 旅行 をす るの 

だとい つて、 也の 止宿 人に 挨拶 もせす に、 あわたく しく 宿 を 出て しまった。 

彼 はステ H ショ ン から、 グ レ ィ 夫妻 宛の 手紙 を 出した。 

私 は 今 正に 口 ン ドン を 立って 巴 里 へ 赴かん として ゐる。 私が 突然 此の 地 を 去る に 至った 心境 

は 深く 穿鑿し ないで 下さい。 私の 不信 を 許せ。 

誰 一 人 見 達る 者 もな く、. 柘植は フォルクス トン 行の 汽車に 乘 つた。 さきに は高樹 が、 血 を 吐い 

て 程 もない 虚弱な からだに も拘ら す、 古典 藝 術の 研究の 爲に命 を 賭けて、 眞 劍な歡 喜に 醉 ひなが 

ら 此の 驛 から 立った。 方角 こそ 違へ、 失 戀の惱 みと 病氣を 一身に 擔ふ茅 野 は、 世界 を 驚かす 戲曲 

の 完成 を 夢み っゝ P ン ドン を 去った。 今 自分 は、 醜惡 なる 年增 女の 執拗な 慾 情 を 逃る ゝ 外に、 行 

手に 如何なる 抱負 を 持って ゐ るか -II 彼 は 何もない 自分の 寂し さ を、 一人 ひそかに 恥ぢ た。 それ 

でも、 汽車が 構內を はなれる と、 流石に なつかしく  口 ンド ンを振 か へ つた。 大 都の 上に は戰 時ら 

しく、 雲の 絕 間に 軍用 輕氣 球が 浮び、 幾臺 もの 飛行機 は 大きく 圓を 描いて 警備の 任に あたって ゐ 


413 


た。 見る見る うちに ロンド ンは、 どんより と 低く かぶ さる 煤煙の 底に 沈んで しまった。 (昭和 八 年 

一一 一月 五日) 


414 


優女の 亞利太 伊 


伊太利 亞の 女優 


伊太利 亞の 女優 iMimi  Aguglia が ボストンの ハブ. セァ タァに 四日 間 出演す る、 出物 は 初日 

がヂ ュ マ の 「椿 姬」 一 一日 目が ホ フ マンス タ アルの 「ェ レ クトラ」 三日 目が サ ル ドウの 「フ M ドラ」 四日 

しば だより 

目が ワイルド の 「サ n  メ」 だと 云 ふ 芝居 消息 を 新聞で 見つけた の は 恰も その 初日と 云 ふ 正月 五日の 

朝であった。  - 

5* 'ライ • タク ン 

1 年 前 ケムブ リツ ヂに 到着した 第 一 夜に、 此の 町が 禁酒 地で 酒 を 賫る事 は 法律で 厳禁され てゐ 

るの を 少許も 知らす、 、ノ ァヴァ アド を 中心に したち ひさな 學校 町の 四 辻に 買物に 出た つい でに 力 

フエと 書いて ある 家 を 三 軒 廻った。 カフ M に は 酒の ある ものと 思 ひ 込んで ゐ たので、 不思議 さう 

. こっち 

に 自分 を 見ながら おあいにくさま を 云 ふ 給仕 人 を 此方から も 不思議に 思った ので ある。 三 軒 目 は 

伊太利 亞 人の 店だった が、 其處で 初めて 此の 町で は 酒 を 賣る事 は 許されて ゐな いと 敎 へられた。 


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その 日 定めた 下宿の 二階に か へ つても、 まだ 荷物 は 停車場に 預けて あって 明日の 朝で なければ 

來 ない 害 だから 何 を 爲る事 も 出来ない、 一 曆 芝居に でも 行って 見ようと 思った。 通りすがりの 若 

ぃ學 生らし い 男 を 呼 止めて、 芝居 を 見 度い の だが 劇場の 所在 を敎 へて 吳れ ないかと 云 ふと、 その 

男 も 亦 不思議 さうな 顏 つきで 自分 を 見下しながら、 此 町に は 劇場 は 一 つも 無い、 芝居が 見た けれ 

ば ボストン に 行けと 云 ひ 捨てて サッサ と 行って しまった。 學 校の 門 を 潜って 楡の 木立の 暗く 茂る 

校庭の 方に 消えて 行く 丈 髙ぃ後 姿 を 見送りながら、 酒 も 飲めす 芝居 も 見れ ない 土地に 來た 自分が 

頓 りなく ぁぢ きな く 感じられて ひとし ほ 旅の 愁を 強く した。 地下 鐵道を 取れば 僅に 十分で 行かれ 

る ボストン さへ その 時には 遙 かなる 他鄕の やうに 自分に は 思 はれた ので ある。 

其 後 一年の 間に ポスト ンの 重立った 劇場に は屢々 通った ので あるが、 ハブ • セ アクアと 云 ふの 

はつひ ぞ 名前 を 聞いた 事 もな く、 日 々 の 新聞の 廣吿ゃ 芝居 消息に も 一 度 も 見かけた ことが なかつ 

た。 

當 日の 新聞に は 簡單に Aguglia の 事が 記して あった。 それに よれば 此の 女優 はシシ リイの 生 

れで、 現代 伊太利 亞の 女優の 中で も 聞え た 一人で あると いふので あつたが、 此の 地の 新聞の 芝居 

消息 は總 纏頭 主義で、 なんでもかんでも ほめる の だから、 果して ほんと にい、 女優で あるか どう 


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優女の 亞利太 伊 


かこれば かりで は 信じ かねる。 ハブ • セ アクアの 廣吿も 其の 日に 限って 載って ゐ たが、 これ は 伊 

太利亞 語で 書いて あるので 自分に は讀 めなかった。 ただ その 劇場が ワシントン 街 の 下手に ある 

と 云 ふ 事 だけ わかった。  . 

晝飯 の 時 食堂 で 卓 を 共に する 伊太利 亞 語の 讀 める 男に 新聞 廣吿 の 切拔 を 見せたら、 「伊太 利 亞 

,  fc ぐ ひ  *- 

隨ー の 女優. 出演」 云々 と 云 ふの だと 聞いた。 これ はもと より ミツ ヮ 御園の 類で あらう と 決めて し 

まった が、 しかし 女優が 上手 だら うが 下手 だら うが そんな 事 も は 頓着せ す 自分 は 見に 行った に 違 

ひない。 四日 間の 出物が 自分の 心 を 誘 ふのに 充分 力強い ものだった からで ある。 

「椿 姬」 は ひと 昔 前, 長 田秋濤 氏の 譯が 新聞に 出た 頃 恰も 自分 は 小 說と云 へばなんでも かんでも 

夢中に なって 讀んだ 時代だった ので、 男女の 關係 殊に 佛蘭 西の あ 、云 ふ 種類の 女と それに 對 する 

男の 關係. など は、 はっきり 頭に 入らなかった が、 それでも 毎朝 學 校に 行く 前に 忙しく 讀ん だもの 

であった。 芝居と して はつい 先頃 帝國 劇場で 所謂 新派の 役者が 演じた が、 如何した もの か 氣が向 

かない で 見よう 見ようと 思 ひながら 見に 行かない うちにお しま ひに なって しまった。 そんな 事 も 

「椿 姬」 を 見 度い と 思 ふお も ひに 少なから す 力 を 添 へたに 違 ひない。 

「H レ クトラ. 一は. 英譯 で讀ん で大變 好きだった。 あれ を 松 居 松葉 氏が 譯 して 河 合 小 織が 演 ると 聞 


411> 


いた 時 は、 自分 は旣に 此の 地に 來て からだつ たから 到底 見られな いので はあった が、 原作者と 原 

作 を 尊重す る 心 か ら 何となく 心 もとな ぃ氣 がして 他人 事な が ら氣づ か はれた。 さう して 其の 芝居 

を 指揮 監督す る 人に 對 して あてもなく 不快に 思ったり した。 けれども 又 その 當 時の 時事 新報 紙上 

で 地下 一 尺 生 事 木 下 木工 太郞 氏が 松 居 氏に 對し 「前掛 風情が」 云々 と 無禮な 言葉 を用ゐ たの を 見て は 

賴 まれ もしない のに 義憤 を發 して 評者の 態度 を 憎み、 反動と して 「H レ クトラ」 の 上場に たづ さは 

つた 人達に 同情した くな つてし まった。 

それから 間もなく、 紐 育の 芝居と 云ふ雜 誌に 「日本人の 演じた る マクベスと H レ クトラ」 と 云 ふ. 

寫眞が 出た。 マクベスの 方 は 如何にも 素人ら しい 身體 中空 隙 だらけな 一人 立ちで、 H レ クトラの 

方 は髮を 振り 亂 して 地上に 倒れて ゐる 姿であった。 その 雜誌を 自分に 見せて 吳れた 女 は、 日本人 

ぉほピ パ 

が マクべ スゃ H レクト ラを演 つたと 知って 非常に 驚いたら しく、 多勢 集った 席で 頻りに 吹聽 した 

り、 更に 又 自分に 質問した りした。 さう して 人々 は 美しい H レ クトラが 男優の 扮 すると ころと 聞 

いて 一 着 驚いた のであった。 

「フ エド ラ」 と 云 ふ 芝居 は どんな 芝居 か 自分 は 全く 知らなかった。 

ゑ かき 

四日 目の 晚の 「サ U  メ」 は 一 番待 ちかまへ たもので ある。 自分 はよ く 畫ェ、 詩人、 小說 家、 音樂 


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浸 女の 亞利太 伊 


家な どの 傳記ゃ 逸話 を讀 むと > 今迄 別段 感心 もしなかった のが 急に その 作品 迄 好きで たまらなく 

なる 事が ある。 それと 反 對に傳 記 や 逸話 を讀 んだ爲 めに 今迄 好きだった 作品 を 嫌 ひに なって しま 

ふこと も ある。 ォス カァ. ワイルドの 場合 は 後者であった。 何故 ワイルドの 傳記ゃ 逸話 を 讀んで 

いやにな つた か簡 短に 云って 見れば、 若し 友 だち にして 一緒に 往 來を步 いたら さぞ 冷汗の 流れる 

おも ひ を させられる だら うと 云 ふやうな 氣 持の する 人間に 思 はれた からで ある。 それに も か、 は 

らす 「サ ロメ」 は 嫌 ひに ならなかった。 英語のと、 森鷗外 先生 譯 のと 兩 方で,、 度々 繰 返へ して 讀ん. 

だ。 近く 藝術 座の 公演に 松 井須 磨 子が サ P メに扮 した 噂 は、 新聞 雜誌 等の 評判で 知った。 

こんな 風に 屈 日間の 35 物の 中の 三 つ 迄が 最近に 日本で 日本の 役者に よって 演ぜられ たと 云 ふ 事 

から、 自分 は 特別の 興味 を 呼び 起した のであった。 

自分の 行く 食堂の 食卓に 並ぶ 男女の 間に は 殆んど 毎日 芝居の 噂が とり か はされ る。 多く は ハ ァ 

ヴァ アドの 學生、 卒業生、 敎 職員、 女 は 一人 住みの 學 校敎師 などで、 知る と 知らざる とに か、 は 

らす 提供され た 話題に ついては 必す ひとかどの 說を 立てなければ 承知し ない 國民 性から、 時には 

互に 眞赤 になって バ アナ アド. ショ ォは眞 面目なり ゃ不眞 面目なり や を 論じたり、 ミ ュ ウジ 力 ル* 

コ メ. ディの 匱 値 如何 を あげつら ふ 連中で ある。 


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その 夕べ 自分 は 食卓に 居並んだ 人々 にハブ • セァ タァの 所在 を 尋ねた が 誰 一 人知る 者 もなか つ 

た。 食後 直ぐに ボストンに 出かけて、 新聞 廣吿に 書いて あつたの を あてに して、 最も 繁華な ヮシ 

ン トン 街 を 下町の 方に 下って 行った。 

伊太利 亞と 云へば 空の 色 迄 も 他の 國と はちがつて 一際 鮮 かに 輝き、 鳥 は 梢に 囀り か はし、 花 は 

地 に^き 亂れ、 熟 情に 滿 ちた 男女 は 美しき 聲を 合せて 歌ふ國 と、 早くから 印象され てゐた 自分 は 

此の 地に 来てから はヂ ヤップ、 チャイナ マン、 アイリッシュ、 ヂ ユウ、 ニグ 口な ど、 共に、 イタ 

リ アンと 云へ ゆ 人の 1 斥す る國 民なる 事 を 知り、 道普請の 土方、 往來の 靴磨き、 物 乞 ひ 等 あら ゆ 

る賤 業に のみ 從事 する 彼の 國の 移民の みすぼらしく 不潔な の を 見て 驚いた。 オペラ. ハウスで 見 

る 歌うた ひの すぐれたる は 皆 伊太利 亞の 男女で あるが、 オペ ラ歌 ひの なら ひとして 聲 ばかり 美し 

く、 顏も姿 も 肥り 過ぎて 美し いのは 稀な ので 愈々 うらぎられた 心であった。 實の ところ 自分 は 伊 

太 利亞の 女と 云 へば いづれ もヴ イナ スか マド ンナの やうな 氣 髙ぃ顏 をして ゐる ものと 一 人で きめ 

てゐ たので ある。 

それに も か、 はらす ハブ. セ ァタァ に 急ぐ 時 は 又も その 筌想を 心に 樂ん でゐ た。 シ シ リイ 生れ 

の 女優と 云 ふの はきつ と美し いに 違 ひない、 亞米利 加に 來てゐ るの は 多く は勞働 者と 其の 家族 だ 


422 


優女の 亞利太 伊 


からうす 汚ない ので、 オペ ラ うた ひは大 なる 聲量を 要する ので 肥大な 體 格の 者が 多い ので あらう- 

あれから 推してす ベての 伊太利 亞人を 美しくない とする の は 早まって ゐる、 伊太利 亞の女 は 矢 張 

り 美しい に 違 ひない、 殊に 女優 は 美しい に 違 ひない、 MimiAgtiglia も すぐれたる 美人に 違 ひな 

いと 考 へる 丈で も、 その 華やかな 舞臺が 想像され て 胸が を どる。 自分 は 音 樂繪畫 文 學に埒 はれた 

想像の 南歐の 景色 を 再び 夢み、 曾て 愛誦した 「卽興 詩人」 の 中の 忘れぬ 記憶 も 更に 新しく 光 を增し 

て 輝いて 来る のであった。 

狹ぃ ボストンの 町, は 東西南北 何の 方面に 向っても、 少し 步 くと 直ぐに 場末に なって しま ふ。 自 

分 は 間もなく 繁き 人通りの 中 を 自然と 拔 けて、 見る から 喑ぃ 場末の 町を步 いて ゐた。 

1 昨日の 雪に ケムブ リツ ヂは まだ 白く 埋れ てゐ たが、 ポスト ンは旣 に 取 まられ て 其 處此處 の 道 

の 凹みの 雪 解の 泥水に 燈火を 映して ゐる。 暗い 曇り空 を 風の 走る 夜で、 繁華な 區域を 離れる と 俄 

に 寒く 感じる のであった。 

バ ァ  レス 卜 ラント 

その 町 はま だ 自分の 來た 事の ない 方面で、 汚ない 酒場 や 料理屋 ゃラ ンチ などの 無闇と 立ち並ぶ 

間 々 に 場末 におき まりの 仰々 しい 立て看板 を 出した 活動 寫眞 小屋が あ るので ある。 其 處ら邊 を さ 

まよ ふ 男女 は あさましい 服裝 をして ゐる 移住 民で、 醉拂 ひの 多 いのも 目に 立った。 好み もなん に 


423 


からだ 

もない けばけば しい 裝ひ をして やたらに 身 體を振 り 立て、 步 くお 白粉 の 厚い 通りすがりの 女に、 

あっちから もこ つちから もから かひ かける と、 女の 方で も 負けて はゐ ない で 罵り 返 へしながら サ 

ッサ と切拔 けて 行く。 

そんな 町のと ある 町角に ハ.. ク っセ ァタァ はあった。 

切符 賫 場の 前に 集って ゐ るの は 何れも 常に 往来で 見かける 種類の 伊太利 亞 人で 母 昔の 多い 言葉 

で騷々 しく 話し合って ゐる。 自分 は 二階の 安い 席 を 求めて うす 喑ぃ 階段 を 上って 行った。 . 

芝居小屋 は 有樂座 位の 大きさで 三階 迄 ある けれども 電氣も 充分に は 用 ゐてゐ ない の で、 どんよ 

りと 暗く 古ぼけて ゐる。 入口に 立て かけて あった 看板 を 見ても、 舞臺を かくして ゐる 緞帳に 貼り 

つけて ある 次の 週の パァ フォ マンス の 廣吿を 見ても、 ふだん は 芝居 を やる 小屋で はなく 活動 寫眞 

や 輕業ゃ 流行 唄な どで 客 を 呼 ぶヴ ォ ヲ、、 テ ビルの 中で も あまり 上等で ない 部類 の ものら しく 思 はれ 

る。 っひぞ 今日 迄 新聞に 廣吿も 出す、 誰し も 知らなかった の も 無理 はない と 思 ふと、 か \ る 小屋: 

に來る 役者 はいかに もケ レ ン澤 山な 可哀 さうな 旅役者で あるら しく 考 へられ、 又しても 美しく 夢 

想した 事 は 傷 けられて しま ふので あった。 

#  みんな  I 

見物 は 悉皆 伊太利 亜人ら しく、 亞米利 加 人らしいの は 一人 も 認められない。 殊に その 伊太利 亞 


424 


t: 女の 亞利太 伊 


人と 云 ふの が 矢張り 始終 往来で 見かける 汚なら しい 連中で あるから、 まだ 開かぬ 序幕の 待 遠し さ 

に 頻りに 手を叩いて 催促し、 醉拂 つた 高聲で 亂雜に 怒鳴り 合 ひ、 どいつ もこい つも チュウ イン ガ 

つば 令 J 

ム を嚙ん では 眞 赤な 唾 をと ころ かま はすべ ッ ベ ッと 床の 上に 吐き出し、 そい つ を 更に 靴の うらで 

踏み にじるので 不愉快な 物音 は絕 間な く 自分 を 苛^: させる ので ある。 おまけに 場 s: すべ て 伊太利 

亞 人らしい 中に たった 一 人 自分が 現 はれた ので、 いかにも 珍ら しさう に 遠慮 もな く 四方八方から 

視線 を そ 、ぎ かけ、 チャイナ かヂ ヤップ かな ど、 聞こえても かま はす にさ、 やき か はす ので あつ 

た。 

自分 は隨分 我慢して ゐ たけれ ども、 恰も 隣席に 來た 若い 男が のべ つ 幕な しに チ ユウ インガムの 

唾 を 吐き出す ので 胸が 悪くな り、 たうとう 辛 棒し きれす に、 切符 賣 場に 行って 土間の 中程の 席に 

移る 事に してし まった。 

流石に 二階の 客と は 違って 多少 行儀 もい K ので あるが、 それでも 取り 濟 した 他の 芝居の 見物と 

は 比べられない 程騷々 しく 落ちつかない のであった。 

幕開き 前の 音 樂 はしき りに 各 國の國 歌な ど を 奏して ゐ たが、 それが やむ と 客席の 電氣は 消えて 

緞帳 は靜に 天井に 卷き あがった。  . 


425 


その 時、 今迄 空いて ゐた 自分の 右 隣り の 二つ, の 椅子に あわたぐ しく 來て 坐った 男女が あった。 

女の 方が 自分に 近かった ので、 手ば しっこく 帽子 針 を拔き 帽子 を 取り、 外套 を脫ぐ 順序の 間に 柔 

撓に 動く 手 を ほの 白く 眺めた。 ほつ そりした 横顏が 暗い あかりに 美しく 想像され る。 

幕が 開いて 第 一 に 目に 觸れ たの は 背景 衣裳 道具 すべてが 間に合せの みっともない 安物だった 事 

である。 毒々 しい 駄菓子の 色で 塗られた 背景 は 全く 活動 寫眞の 看板で ある。 古び 汚れた 衣裳 はつ 

づらに 押 込れ て 田舍の 村々 の 祭に 招かれて 行く 忠臣 藏の 衣裳に 劣らぬ ものであった。 さう して 其 

の 舞 臺に現 はれる 役者 達 は  一 二 を 除いて は # 皆 往來の 伊太利 亞人と 同じ 顏付 きをして ゐた。 

びっくり  うく わつ 

舞臺の 上の 會 話が 始めて 耳に 入った 時 吃驚した 程迂濶 にも 自分 は 其の 時 迄 「椿 姬」 が 伊太利 亞語 

で 演ぜられ ると 云 ふわ かりきった 事に 些か も考へ 及んで ゐ なかった。 自分 は 伊太利 亞語は 全く 知 

らな いので ある。 シニ. ョ— レ、 シニョ ー ラ、 シニ ヨリ— ナが ミス タァ、 ミセス、 ミスに 相 <虽 し、 

度々 繰 返へ される シ、 シと云 ふの は イエス、 ィ H スと云 ふの だら うと 見當 をつ けた 位の もので、 

自分 は 彼等の 身ぶ りと 聲の 高低 緩急に よってす ベ て の 意味 を 想像す る 他はなかった。 

やがて Aguglia の 椿姬が 華美な 卵色の 衣裳に 數 限り もな く 寶石を 輝かして 現 はれた。 見物 は 

一 齊に 拍手し 且つ 喜 悅に堪 へ ぬらしく ヮァ I ッと云 ふ聲を 立て、、 彼等が 捨て ゝ來 た故鄕 から 遙 


426 


優女の 亞利太 伊 


々廻って 來た 女優 を歡迎 した。  - 

しばらく  さ ぢ 

その 歡迎に 舞臺は 暫時 行き 惱み、 椿姬 は椿姬 として^ はなく 生地の 女優と して 舞臺 から 見物の- 

熟^な る 歡聲に 感謝の 意 を 表し、 あまた 、 び 腰 を か ヾ め、 あまた 、 び 濃き 紅の 唇に 掌 を 觸れて は 

接吻 を 撒き散らす のであった。 

攻優は 全く 肉體の 美を缺 いて ゐた。 美しくな いと 云 ふよりも 醜い と 云 ふ 方が 正直で ある。 額に 

低く 前髮を 押しつけて 無理に 形 をつ けて はゐる けれども 大きな お凸 はかくし きれなかった。 頰骨 

の 張った ゴ ッゴ ッ した 顔の 形 は 自分の 最も 嫌 ふ 猫の 顏 である。 さう して その 高い 頰 骨の 上に 大き 

ほくろ 

過ぎて 愛嬌に はならぬ 黑 子が ある。 太い 首、 柔 かみの ない 肩 腰の 肉 づき、 と 一々 數へ て 行って 何 

處 にも 取り どころ を 見出さな いのみ か、 その 立 姿 は 極めて 低い 脊の 如何と もす る 事の 出来ない 不 

可抗の 缺點を 示して ゐ るので ある。 且叉 醜い女ながら ひどく コケ ティッシュ に 見える のが、 其 時 

• の 自分に は惡 女の 深情けと 云 ふ 連想 を 起させた。 

序幕 は 見物 を 失望せ しめた。 感情 を 抑へ る 事 を 知らぬ 伊太利 亞 人の 客ば かりで あるから、 あつ 

ちで もこ つちで も 故意と らしく ざわめき、 聞え よがし に 欠伸 をす る 者が ゐ るので あった。 

女優 は 容貌が 美しくな いば かりで な く 聲も亦 決 して チヤ アミ ングな もので はなが つた。 不快な 


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聲 ではない けれども 所謂 澄み渡った 淸ぃ聲 でもな く、 人の 心に 押迫る 力 ある 聲 でもな く、 至極く 

ありふれた 聲 であった。 かくの 如く あらゆる 點に 於て 美しくない 女優が、 お 粗末な 舞臺 装置の 前 

で 動きの ない 此の 幕の 間 我儘な 見物 をして 緊張した 心地に あらしめ る 事 は 至難の 業に 違 ひない。 

幕が 下りても 拍手 も 起ら す、 二三 人お 義理に 手を叩いた 者 もあった がそれ さへ 直ぐに 叱々 の聲に 

葬 むられ てし まった。 そして 見物 は 吾れ 勝に 外套 を 着、 帽子 を かぶって 場外に 出て 行く の-で、 自 

分 は 彼等が 立 去って しまった ものと 思 ひ、 その 氣の 早い のに 驚いた が、 自分自身 も あんまり あつ 

けない 芝居ら しい の で 駄目 だと あきらめて 居た。 

あかりが つくと 隣席の 女の 横顏 がくつ きりと 目の前に 浮んで 來た。 目鼻 口耳す ベ てが 細い 線で 

なりたつ たい 、顔立ちで、 皮膚 も 英米の 女に はない 底に うすく 濁り を帶 びた 色な のが か へ つて 情 

ビ a オト  エフェクト 

深く 思 はれる。 黑ぃ 天鵞絨の 着物の 胸に うす 卵色の 薔薇の 花 を さして ゐる のが 單 純で 力強い 效果 

を與 へて ゐる。 どうかして 正面から 拜み 度い と 思った が、 他の 有象無象の ざわめく 中で、 その 人 

ばかり は 身動き もしない ので、 あく 迄 も 正しい 橫顏の 大理石に 刻んだ やうな 鼻の さきに あかりが 

さして 透き通る やうな の を 面白い と 思って 盗み見た。 

亭主ら しい 男 は 頑丈 造りの 色の どす 黑ぃ勞 働 者に よく 見る 型の 男だった が、 みなり は 立派で 0f 


428 


優女の^ 利 太 伊 


つもの ものし い カイ ゼ ル 髭を蓄 へて ゐる。 絶えす それ を ひねりながら 女に むかって しきりに 何 か 

話しかける。 女の 方 は それに 對 しても あまり 返事 もしす n 數の 少ない のが、 なんとなく ありがた 

かった。 

さっき 

二 幕 目の 幕が あくと、 先刻 場外に 出て 行った 連中が ぞろぞろ 歸 つて 來た。 下等な ブォヲ デビル 

おもて  バ ァ 

のなら ひとして 幕 合 ひ 毎に 戶 外に 出て は、 酒場で 引かけ て來る 自由 を 客に 與へ てゐ るので あった。 

此の 幕 も 亦 最初 は 見物の 倦怠 を 招いた。 女優の 注意深い、 あて 込みの ない 藝風 は、 肉 體の美 を 

缺く爲 めに、 い たづら に 陰 氣な單 調な ものに なり 易かった。 けれども 其の 間に 自分 は 此の 女優の 

特 徵を少 しづ 、見出して 行く 事が 出來 た。 

Aguglia は 誰よりも よく 自分自身の 特徵と 缺點を 知悉して 居る らしく 見える。 一 擧 一 動に も 細 

かく 氣を 配り、 かりそめの 手足の 置き どころ も 工夫 苦心の 結果ら しぐ 考 へられる。 しかし 其の 苦 

心 も 苦心 負け がして 舞臺は 暗く 寂しく 生氣を 失って 行く 傾が 無い と は 云へ ない。 

何處 となく 此の 女優の 寂しい 藝風は 喜 多 村 綠郞の それに 似て ゐる やうに 思 はれた。 喜 多 村の 芝 

居と 云っても 五つ か 六つ 位し か 見た 事 はない の だけれ ど、 有名な 工夫 屋 だと 聞く 彼の 舞臺は 消極 

的で 時に 細かい 味 ひの 到底 他の 役者の 企て 及ばない 寂しみ を 出す けれども、. その 寂し さはと もす 


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しぐさ  し すぎ 

ると 單調 なく すんだ 色 合 ひの ものに なりやすい。 動作の 多い 時には 他の 役者の やうに 演 過る いや 

みがな く 度 を はづす 恐れの ないか はりに、 動きの 少ない 時には 考へ 落ちに 落ちて 舞臺 の 暗くなる 

事が ある。 レ guglia の 場合に も 自分 は 同じ 物足りな さ を 感じた。 此の 時の 自分 は 女優の 苦心が 

持來 した 舞臺 上の 效果を 味 ふよりも、 苦心 そのものに 與味 をつな いで ゐ たやう である。 

けれども 劇が 進む に從 つて、 女優の 持って ゐるカ は 次第に 強く 押廣 がり、 工夫に 工夫の あと を 

止めす 極めて 自然な 動作と して 現 はれて 来た。 同時に 女優の 全身 は 情熱に 燃え 初め、 底力の ある 

壓迫を 見る 者の 胸に 加 へ て來 た。 騷々 しい 行儀の 惡ぃ 見物 も 尊き 技藝の 持つ 威に 打 たれて 靜 まり * 

舞臺の 上の 女優の まばたき を さへ 見逃さぬ 緊張した 心 持が 場内に すべ て 行き わたった。 

さう して 人々 の 心が 次に 起る 可き 事件 を 息を殺して 待ち 構 へ る 迄 誘 はれて 行った 時、 恰も 舞臺 

は 悲劇の 頂 點に 達せん と 加速度で 進んで ゆく ところであった。 

椿姬は アル モンドの 手紙 を 讀んで 居る。 女優の 技巧 は 俄に 光輝 を 加へ て來 た。 文字 を讀み 下す 

まぶ, t 

目蓋 は 震へ、 堅く 結んだ 唇 は 乾いて 痙攣し、 指輪の 輝く 白い 指 は 蛇の やうに 微妙に 動いた。 

今迄 他人だった 見物と 役者と は旣に 全く 相 觸れて 居た。 女優の 一 擧 一 動が 直ちに 見物の 一 擧 一 

動であった。 工夫と 結果と は 融合して 力強く 押迫る のが、 喜 多 村の あく 迄 も 消極的な のと は 全然 


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優女の 亞利太 伊 


性質の 異なる ものと なって 現 はれて 來た。 

女優の 黑. い 瞳の 流る、 ま、 に ひき つけられて 從 つて 行く 見物 は、 咽び泣きに 震 へ る殆ん ど聽き 

取り 難い 程 かすかな 苦悶の 叫び を さへ 聽 きもら さなかつ たに 違 ひない。 舞臺の 片隅の 長椅子に 顏 

あら は 

を 埋め、 見物に 背 を 向けて 嗚咽す る 女の 露なる 肩の 肉 —— その 一片の 震へ る 白い 肉が、 すべて 彼 

女の 內 心の 苦悶 を 語って あまり ある ものだった。 

此の. 時の 女優の 苦痛の 表情 は 非常に 肉感的だった。 その 笑 ふ 時よりも 人 を ひき つける 力の 強く 

思 はれる 複雑な 表情 だ • つた。 且吾々 は 女優の 技藝の 高潮に 達し. た 時には、 女優の 肉體の 美しから 

ぬ 事、 衣裳のお 粗末な 事、 背景の 劣悪な 事 を 一 切 忘れた。 ただ 目の前に 迫る もの は 一 人の 女 —— 

悶え 泣く 女であった。 

ためいき 

幕が 下りる と 見物 は 一時に 吐息 をした。 その後に 堪へ. きれない 急 調な 拍手が 起った。 一度 下り 

た 幕が 卷 上って 舞臺の 中央に 女優が 現 はれた 時 は 抑 へても 抑へ きれない 喝采が 熱狂した 人々 の 間 

に 湧 上った。 

いましがた 

女優 は 今方の 全身の カを盡 した 演技に 疲れて、 胸の 鼓動の 高く 波打つ ま ゝ 幾度と なく 呼び出さ 

れては 身 を 低く して 挨拶した。 


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四 幕 目の 幕が あくと 自分 は 再 び 背景 の 極端に 粗惡 なのに 驚かされた。 思 ひ 切って 眞 赤な 窒內の 

いたど 

壁紙、 思 ひ 切って 濃き 栗色の 板 扉 は安繪 具の 毒々 しさ を 極めて、 その 背景の 前に 立つ 一切の 物 を 

壓 倒した。 自分の 目に 迫る もの は 役者の 演技で はなく、 た^ 赤と 栗色 を 見詰める 上目の 痛くなる 

色彩であった。 

椿姬の 愛人の 役 をつ とめる Agtiglia の 相手役 者 Stprni は 肩幅の 廣 いがつ しりした 若者で あ 

つたが 容貌 は 極めて 美しかった。 自分 は 彼の 美貌 を 好む。 

敢て 芝居と 限らす、 路上 を 行く 時で も 行き 違 ふ 男女の 中に 自分の 知って る 誰か に似てる 人 を 見 

つける の は 自分の 一 つの 樂 しみで ある。 極めてよ く 似た 人 を 探した 時の 嬉し さはなん とも 云へ な 

い 位で、 あんまり よく 似て 居る 時 なぞ は うれしい やうな くすぐった いやうな 氣持 がして 思 はすし 

らす笑 ひ 出して しま ふ 事 も ある。 ケムブ リツ ヂの 下宿の 直ぐ 近くに 住んで る學 生で、 友人 梶原可 

吉 氏に 歩きつ き 迄 そっくりな のが ゐる。 度々 路で會 ふ 生徒の 一 人に、 澤木梢 氏 を 想 ひ 出させる の 

きざし 

がゐ る。 その 人力に 出會 ふの を 毎朝の 樂 しみに して、 逢へ なかった 時 は 何 か 惡ぃ兆 で^も ある や 

うに 心が、 り を覺ぇ もす る。 つい 此間友 だち に 誘 はれて 見た 探偵 芝居に 出て 來た 女優の 中に、 日 

本の 或 閨秀作家に いきうつし なのが ゐた。 あ K 云 ふ 顏は每 曰 違って 見え、 髮の結 ひ 方で 他人 かと 


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優女の 亞利太 伊 


思 ふ 程 見 違へ る 顔立ちで ある。 春になる と 虫齒が 痛み 其の 頃 は 一 曆 女らしい 感じの する 顏 立ちで 

ある。 あんまり よく 似て ゐる のが 面白く、 又 何となく 心が、 りで、 そのつ まらない 芝居 を 二度 見 

たりした。 

Sterni が 初めて 舞 臺に現 はれた 時、 直ぐに 誰か 自分の 知って る 人に 似た 顏 だと 思った。 誰 だ, ら 

う 誰 だら うと、 その 事ば かりが 氣 になって、 かんじんの 芝居 をお 留守に して 考 へた。 

なかなか 想 ひ 出せなかった の は 彼に 似て ゐる 人が 男性でなかった からで ある。 それ はつい 先頃 

自分 の 友 だち と 結婚した 他所 の 令孃 に似て ゐ たので ある。 けれど も 彼が そ の 令孃 に似て ゐ ると 云 

つて、 決して 彼の 顏 立ち は 女性的で はなく、 その美 人の 評判の 高かった 令孃が 男らしい 顏 立ち だ 

つたので ある。 

渐 くにして 誰に 似て ゐ るか を 想 ひ 出して 自分 は 安心した。 Sterni は 力の ある ほがらかな 聲を 

持って ゐる。 自分の 氣 儘に 描く ァ ル モ ンド にして は 強 過ぎる やうに も 思 はれ、 殊に 四 幕 目の 女の 

心 變りを 怒る 場で は、 度に 過ぎた 感情の 激發を 示して 稍と もす ると 無闇に 狂暴なる 憤怒に 終らう 

とする 恨みが あつたが、 それでも 南歐の 血の 氣の 多い 人に 特有な パ ッ シ ョ ネ I トな藝 風 を 自分 は 

寧ろ 好ましく 思った。 


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けれども 幕が 下りた 後、 最も 鮮明に 自分に 殘っ たもの は、 椿姬 でもな くその 愛人で もな く, 彼 

の 赤と 栗色 の 不快な る 安繪具 の 眩惑 である。 

さも あらば あれ 大詰の 死んで 行く 椿姬は 女優の 量り 知られぬ 細密な 技藝を 最もよ く 示す もので 

まぶた  おつや 

あった。 蒼 ざめ た顏の 目蓋の 邊りは 暗く かげり、 泣き濡れた 後の 今 は 熱病む 乾いた 瞳、 こわ はつ 

て 滑 かに は 動かぬ 唇、 その 唇 を もる、 嗳 れ嗳れ の聲、 すべての 苦心 は 苦心の あと を 止めす 自然の 

ま 、 に 陰 狻 なる 臨終 を 描き出した。 

日本の 役者の 演じた 椿 姬の死 は 必す滿 場の 女 客の 淚を しぼった に 違 ひない が、 Ag.ug.lia の椿姬 

, の 臨終 は 淚を誘 ふ 寂しみ のま さった 哀れ さではなかった。 女優の もたらした 舞 臺效果 は 決して さ 

う センチメンタルな もので はなく、  ^ける 生の 亡びて 行く 肉體の 苦痛 を 強く 感ぜし めた。 苦痛の 

中の 女 は 幾度と. なく 己が 病み 亂れ たる 髮を かきむしり 床の 側に 膝 まづく 愛人の 方に 惱亂 せる 震 へ 

を帶 びた 手 を 差し延べた。 死の 瞬間に も 忘れぬ 執着の 惱 みに 震へ た 手であった。 

芝居が はねて 歸る 時に 二日 目 三日 目 四日 目の 切符 を 買 ひ 求めた。 

自分 は 非常に 疲れて ゐた。 何時でも 芝居に 行けば 疲れる の は 誰し もの 事で あらう が、 其の 夜の 

疲勞は 自分自身が 劇中の 人と 同じ 痛苦に 惱み 疲れたの だと 思 はれる 程であった。 


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遂 女の 亞利太 伊 


二日 目の 夜 は 昨日に ひき か へ て靜 かに 冴え渡り、 凍てつ いた 家々 の 窓に 町の 物音の f 響す る 風 

め 無い 星筌 だった。 

自分 は 芝居に 急ぎながら、 旣にホ フ マンス タァ ルの情 熟の 詩 を 華々 しい ものにして 幻想し つ 、 

あった。 我が 伊太利 亞の 女優 は あの 美しい せりふ を 如何に 熱烈なる 調子で 聽 かせる であらう、 例 

によって 熟 狂的な 憧憬に 自分 は 胸 を を どらせ てゐ た。 

自分の 席 は 昨夜と は 違って ゐ たのに、 隣席に は 再び 昨夜の 夫婦が 來た。 今日は 自分の 方が 通路 

あ ひだ 

に 近かった ので、 カイゼル 髭の 亭主の 方が 直ぐの 隣り に 坐った。 一人 間 を 置いた 方が 反って 女の 

形の い 、横顏 を 見る のに 都合が よかった。 

女 は 昨夜と 同じ 服装だった が 胸に さした 薔薇の 花 はもと より 一 夜で 散った であらう、 今宵 は 紫 

の 童の 束であった。 誰の 小說 だった か 忘れた が、 父 を 失った 娘が 黑ぃ 喪服に は 何の 花が 一 番 似合 

なぐさめ 

ふか を 鏡の 前で 考 へた 末、 僅か 二三 本の 紫の 童 を 胸に さして、 やがて 慰藉に 來る箬 の 戀人を 待つ 

と 云 ふ 一節が あった。 心憎い 巧みな 描寫 だと 思った が、 隣席の 女の 姿 を それに 結びつけて うれし 

く 思った。 

かき ゎリ 

幕が あく。 狭い 舞 臺をー 曆狹く 限った 庭の 書 割 はお 粗末 を 極め、 むかって 右手の 建物 も、 左手 


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によった 石造りの 井戶 もす ベ て 貧しい 景色であった。 その 黄昏の 井 戶の邊 りに 二人の 召使の 女が 

水瓶 を 持って 立って ゐる。 一言二言 せりふの 取り か はされ ると、 直ぐに Agdglia の H レ クトラ 

が 小 走に 現 はれる。 見物 は 其の 姿に 旣に血 を 湧かして 歡聲を あげ、 どうしても 舞臺を 他所に して 

: 挨拶 させなければ 承知し ない。 

からだ 

H レ クトラ は 蒼い と 云 ふよりも 灰色に 近い 顏色 をし、 髮を ふり 亂し、 鼠色の 布 をぐ るぐ る身體 

に卷 きつけ、 露 はな 足に は 草鞋に 似た 金色の 靴 を はいて ゐる。 二度三度 喝采に 報いた 後 H レクト 

ラは 舞臺を 退く。 

ただ 一 瞬間で はあった が H レ クトラの 肉 體は衰 へ て 行きながら 復馨の 恨みに 燃える 一 念に のみ 

生きて ゐる 姿が 暗い 舞臺に 浮上って ゐた。 

原作に よれば 召使 ひの 女 は 五六 人出た やうに 記憶す るが 無人の 此の 一 座で はやむ を 得ない ので 

あらう、 僅に 二人 丈だった。 それが 引 込む と 直ぐに ェ レ クトラが 再び 現 はれて 長い せりふに なり、 

さう して H レ クトラの 殆んど 一 人 芝居と も 云 ふ 可き 芝居が 始まった。 

激烈. なェ モ オシ ョ ンを 表白す るのに 女優 は 三尺 四方の 舞臺さ へ あれば 足れり としたで あらう。 

大げさな 運動な しに、 內 部に 波打つ 感激 は あらゆる 變化を 以て 現 はされ た。 よく 動く 額面の 筋肉 


436 


優女の 亞利太 伊 


は 絶えす 起伏す る情緖 とともに 移り か はり、 さう して その 動く がま、 に 動く 復 響の 念 は 次第に 強 

度 を 強めて 行く。 か、 る 感情の 表白に 肉體を 苛む Ag.ug.lia の 胸の 鼓動 は 如何にも 苦しく、 聲は 

自然に 嗄れて 行き、 物 狂 はしく 倒れ伏して 地上 を かきむしる 時 は 女優の 息 は絕 える ので はない か 

と 思 はれた。 

ェ レ クトラの 妹 は zop.petti と 云 ふ 若い 美しい 女優だった。 昨日の 芝居の 仕出しに も 出て ゐた 

に 違 ひない が 自分 は 認めなかった の だ。 濡れ色の 瞳の よく 動く 顏 立ちが 自分の 嫂に 似て ゐた。 ど 

うかして 伏目に なると 口 セ ツチの 繪の 女に も 似て ゐた。 いきいきした 目 を 持って ゐる にも か 、は 

らす、 細 そりした 姿 形から 眉 根の 影 を帶び やすいの が 寂しい 風情だった。 けれども 自八刀 を ひきつ 

けたの は その 寂しい 風情 だけで 舞臺の 上の 役者と して は 全く 物足りなかった。 自分の 番が 廻って 

來 ると、 暗記した せりふ を その ま、 讀 みあげる やうな 素人く さいと ころが 目立つ。 

姉妹の 母になる 肥り か へ つた Angeloni は 極端に 人の 好 さ、 うな 藝の 無い 女であった。 

Aguglia の H レ クトラ は 全く 情熱の 燃 ゆるが 如き 強き 表現であった。 此の 忍耐強い 女優の 藝風 

は、 それ を 一時的に 誇張した 表白に 取らす、 連續 して 執念 I! く 抉って 行く やうな 深刻な 效 果を與 

へ ん とつと めて ゐた。 


437 


しかしながら 長い 時間 を 取る 芝居の 始めから 終り 迄、 全力 を盡 して 內 部の 苦悶 を 現 はす 事に の 

み 傾注して ゐる 女優の 限り ある 肉體は 次第に 疲勞 して 來 たやう に 思 はれる。 

自分の 勝手に 想像す る H レ クトラ は、 身の 丈 は 高く, 備 はれる 氣 高さ を も 持つ 女で あつたが、 

その 點に 於て Aguglia は 自分の 描く  H レ クトラの 資格 を 全然 缺 いて ゐる。 脊は 低く、 それ を 補 

ふ爲 めに 一 インチ 以上 も ある 靴 を はいたの でか へ つて を かしかった。 幾度 見直しても 醜く、 且つ 

下品な 顏 である。 聲は 美しい 詩的な せりふに は 適して ゐす、 時々 は 病的に 咽喉に つか へ る惱 みさ 

へ. あった。 女優が 最も 苦心 を 極める の は、 如何にして 先天的の 肉 體の缺 點に打 勝た うかと 言 ふ點 

鲁 

にある と 思 はれる 程、 その 姿 は災 した。 か、 る 事 を考へ 得る 餘裕の ある 時 は、 女優の 舞 臺は重 苦 

しく 色彩 を 失って 行く 時で ある。 女優の 苦心が 全き 力と なって 現 はれ、 見物 をして その 缺點を 忘 

れ しめた 時 は卽ち 女優の 情感 的な 演技の 高潮に 達した 時な ので ある。 Ag.ug.lia の 態度に は 他の 多 

くの 女優に 見る が 如き、 舞臺の 上の 役 を 忘れて 單に 役者 を商賣 にして ゐる 女と して 見物に 媚びる 

いのちが 

ところが 少しもな く、 與 へられた る 役 を 命 賭け でつ とめ る 熱心 と 苦心の 他に 心の ない 有樣に 見え 

る。 

女優 の 全力 的 演技 —— それ を 自分 は肉體 の 缺點と あ く 迄 も 努力 を績け て 打 勝たん とする 技藝と 


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© 女の 亞利太 伊 


の鬪爭 だと 思 ひもす る —— は 見て ゐても 傷まし い 思 ひがあった。 殊に 女優の 精力が 弱って 來て顏 

面の 表情に も 疲勞が 現 はれて 來 てから は、 一 曆 此の 感を 深く した。 

J  i  つ-, お メ,  あら  あだ 

. 自分 は 見て ゐても ハラハラして 來た。 聲 はい たづら に 粗く 亂 れんと し、 父の 仇敵 を 呪 ふせり ふ 

も 路傍の 女の 漫罵に 近くな らん. として 來た。 狂 熱 は藝の 範圍を 越えた。 一度 女優の 演技に 魅せら 

れ吾を 忘れて 頂點迄 のぼりつめた 見物の 心に、 再び 批判 を 思 ひ 出す 冷めた さに 襲 はれて 來 たので. 

きぬ ャ 

あらう、 何處 となく 場 內の氣 配 は 緊張 を 失 ひ、 騷々 しい 衣擦れの 音が うるさく 耳に ついて 來る。 

かくて その 苦しい 鬪爭 II どうしても 技藝の 完全に 達せん とし、 渐 くつの り 來る疲 勞に打 勝た 

ん とする 努力に 一 歷 精力 を盡 すため、 身心の 力の すべて を 失った もの 、如く、  Aguglia の H レク 

トラ は 地上に 倒れ、 その 動かざる 姿を靜 にかくして 幕 は 下りた。 

まきあが 

再び 喝采 裡に捲 上った 幕のう しろに 頭 を たれて 立った 女優の 疲勞 しっくした 姿 は 見る も殘 酷な 

ものであった。 波打つ. 胸 を 押へ、 亂れ たる 顏に 強ゐて 笑を湛 へて 喝采に 應 へる 女優の 目 は、 愛嬌 

をつ くって 笑 を 浮べん としても、 なほ H レ クトラが 復饕の 表情 をと 1- めて ひき つって ゐた。 

一 杯の 麥 酒に 乾いた 咽喉 をうる ほし、 か へりの 地下 鐵 道に 身 を 置いた 自分 は 昨夜よりも 更に 疲 

勞を 重ねて、 氣 はものう く身體 は 篁く、 それで ゐて頭 は 妙に 冴えて ゐた。 


439 


三日 目の r フ ェ ドラ」 を 見に 行く 時 は、 自分 は 少し 氣 分が 悪く 額に 手 を あて 、見る と 多少 熟 も あ 

つた。 ふだん は 丈夫な くせに、 ふとした 風邪に も 必す發 熱し、 發 熟すれば 直ぐに 四十 度 近くの ぼ 

る の をお きまりと する 自分 は 些か 不安に な つ て體溫 器を檢 して 見た。 その 體溫器 は 日本 を 出る 時 

母が 注意 深く 心に かけて くれた ものである。 病氣 になれば 直ぐ 醫 者に 見て 貰 ふから そんな もの は 

いらない と 担んだ けれど、 かさばる もので ないから と. 云って、 下熱 劑 催眠 劑 その他 四 五 種の 粉藥 

と 一 緖に 無理に 飽の 中に 入れて くれた。 氣 候の 變 化の 激しい 土地に 馴れぬ ため ケムブ リツ ヂに來 

ると 直ぐ 病氣 をし, て 様子の わからない 旅の 心細 さ を 知った 時 も、 自分 は その 體溫器 を用ゐ なか つ 

た。 高度の 熱 をた しかめる のがい やだった ので ある。 それな のに 今日は 外出 を ひかへ てゐ るので 

人中で みっともない 事が あって はと 思って 撿 して 見た ので ある。 ところが まだ 一 度 もっかった 搴 

かたま 

もない 中に、 母の 心づ くしの 體溫器 はこ はれて ゐて 水銀 は 固った ま、 どうしても 上らなかった。 

しばらく 

行かう かよ さう かと 暫時 考 へて ゐ たが、 たうとう 足 は ボストンに 向いて しまった。 心の底に は 

Aguglia の すぐれたる 舞臺を 想像す るば かりで なく、 今日 も あの 天^絨の 女 は來る だら うかな ど 

と考 へて ゐた。 

自分 は 天鵞絨 を 好む。 その 淡い 光 は 夕 « の 海の 落着いた 深さ 柔 かさ を 持ち、 その 指さき に觸れ 


顿 


S 女の 亞利太 伊 


る溫 かさ は, 母の 乳 を 探った 心地 を 思 ひ 出させる。 着物と しても 天鵞絨 は 好きで ある。 歩む がま 

、に ひだ をつ くる 女の 裾の、 絹の やうに キス キスした 響 をた てす、 しっとりと 波打つ のが ゆきす 

りの 女の 姿ながら 嬉しい ものに 思 はれる のであった。 

か  ほそおもて 

彼の 伊太利 亞の 女に は 殊に その 黑ぃ夭 鵞絨が 似合って ゐた。 細面の 蒼白い 顔 は 際立って 美し か 

つた。 胸に さした 一昨日の 薔薇 も 昨夜の 童 も 心憎い 風情であった。 今宵 は 何の 花 を えらぶ だら う 

か、 矢張り 天鵞絨の 同じ 服が い、、 あの ま k の 服装で たぐ 花の みは 新ら しい 調和 を 見せて 貰 ひ 度 

い、 そんな 事 迄 想って ゐた。 

芝居の 客 は 相 變らす 伊太利 亞 人ば つかりで 相變ら す 酒氣の 顔に あら はれた 連中が 多かった。 土 

ま 

間の 客 は 大概 初日から 績 けて 來る 連中で、 たった 一 人の 見馴れない ヂ ヤップ を いかにも 珍しく 思 

ふらしく、 自分 は屢々 人々 の 視線の 避け 場所に 困った。 

とな, 

不思議に も 天鵞絨の 女 は 今夜 も 亦 自分の 隣席だった。 自分が 希った 如く 同じ 服装で、 胸に は 白 

い カァネ I シ ヨン を 一 輪 さした。 あの 花の香 は蟲 干の 日に なつかしい 母親の 古風な 着物に しみて 

- -  みせさき 

残って ゐる 麝香の 匂 ひで ある。 女 は 花屋の 店頭に 立った 時, あの 金の 腕輪の 光る しなやかな 手 を 

さしのば し、 きゃしゃな 指さき に 細い 莖を 持って その 花の香 を 試みた に 違 ひない。 幕 あき を 待つ 


^1 


間に 自分 は 美しい 横顏 をた のしみながら 想像した。 

幕 合に 女の 夫なる カイ ゼ ルは 自分よりも 一 曆 拙い 英語で、 毎晚 隣り合 ふの は 不思議 だと 切 出し、 

それから Aguglia の 偉大 さ を國を 愛する 熱情 を 籠め て說き 初め、 亞米利 加に は 役者ら しい 役者 

は 一人 もゐ ない、 亞米利 加 人 は 藝術を 解さぬ 國民 である、 と 日頃の 不平 を 加へ て 熟 心に どもりな 

がら 云 ふので ある。 さう して 自分が 伊太利 亞語も 知らす に 毎晚ケ ムブ リツ ヂ から 通って 來 ると 聞 

いて ひどく よろこんで ゐた。 女 は 英語 を 解さぬ らしく、 カイゼルが 伊太利 亞 語で 自分の 事 を 紹介 

して ゐる 様子で あつ、 た。 

「ェ レ クトラ」 は 自分に は 「椿 姬」 よりも 深い 印象 を殘 したが、 それ は 主として aguglia 一人に 

か、 る 興味で ある。 全體 として は 決してす ぐれた 出来ではなかった。 一座の 者の 出來榮 えから 見 

たなら ば 「椿 姬」 の 方が 遙に 上で あった。 此の 點に 於て 「フエ ドラ」 は 一 歷 よかった。 「椿 姬」 では 

椿姬 「エレ クトラ」 では H レ クトラ、 と 殆んど Aguglia 一人にば かり 興味が 集注され てゐ たのに 

此の 芝居で は Ag.ug.lia のフ M ドラの よかった の はもと よりと して、 他の 役々 殊に 美しき ZOP1X, 

tti の 伯爵 夫人、 Sterui の ロリの 如き も 光彩 を 加へ たもの だった。 想 ふに Zoppetti はコメ ディ 

H ン として 相當の 技倆 を 持って ゐる らしい。 容貌の 美しい 事、 聲 のい 、事 はあり ふれた 會 話の や. 


442 


優女の 亞利太 m 


りと りに も 人 を ひきつける 一得が ある。 その上に 亞米利 加の 女優が 專ー に 心掛ける 場當 り、 無意 

味に 見物に 向って 笑顏 をつ くり、 媚を賫 る 厭味が なく- 自然にして 巧まざる 快い 心 持 を 舞 臺の上 

に 漂 はした。 Sterni は アングロサクソンの 民の 持たぬ 熱情 を 持って ゐる。 

. 役者の 衣裳 は 流石に 變 つた けれども 背景 は 持 合せが 無い と 見えて 「椿 姬」 の 時と 同じ もの も用ゐ 

られ た。 彼の 駄菓子の 繪の 具で 塗られた 赤と 栗色の 壁紙 を 以て 圍 まれた 窒 -5: で、 又 他の 悲劇が 演 

じられ たので ある。 

Aguglia は 再び 喜 多 村 を 想 はせ た。 殊に 初めの 二 幕 は控へ 目に と 心掛けた ので 一 暦 その 感が深 

かった。 けれども 此の 女優の 忍耐強い 演技 は 始めからし まひ 迄漸增 的に 力 を 加 へて 三 幕 目の クラ 

ィ マックス を 過ぎて カタ スト 口 フに 至る 迄 決して 舞臺に 空隙 を殘 さなかった。 

曾て 本鄕 座で 伊井 喜 多 村 藤 澤と云 ふ 顏觸の 一 座が 泉 鏡 花 先生の 小說 「白鷺」 を 脚色した 芝居 を演 

しぐさ  ます 

たの を 見た。 幾 幕 目だった か舞臺 では 伊井が 厭味な 動作 をして 泣いて ゐた。 すると 隣の 桝にゐ た 

銀杏 返しの 町 娘が 自分 もハ ンケチ で淚を 拭きながら、 伊井 はほんと に 泣く ところが 上手 だ わね え 

と 連の 娘に さ、 やくと、 その 娘 も 貰 ひ 泣きし ながらうな づ いた。 自分 は その 場の 伊井の 動作 を 

頗る 不快に 思って ゐ たので、 まんざらでもない 娘だった が 憎らしい おちゃつ びい だと 思った。 


443 


Aguglia の 咽び泣く 姿 を 見て ゆく りなく も その 時の 事 を 想 ひ 出した。 今度 は 自分が 此の 女優の 咽 

び 泣き を 賞 讚したい 心持ちだった。 女優の 泣く 姿 は 哀れと かし をら しいと 云 ふ 風情ではなかった。 

ほんと に淚が 咽喉に 詰って 泣いても^ * の 出ない 苦し さで ある。 ほんと に 泣き 死ぬ ので はない かと 

不安に な つ て來る 苦し さで ある。 

最後の 幕は殆 んどパ ント マイムに 近い せりふの ない 幕だった が、 刻 一 刻と 殆んど 限りなき 變化 

をつ くす 微細に して 豊富な 感情 を 示し、 復 響に 對 する 忿怒の 怖ろ しい 結果から 人間が 耐へ 忍び 得 

らる k 極度に 達した 苦痛 を、 女優 は 吾々 の 目の前に 描き出した。 嫉妬 忿怒 恐怖 悔恨 憐憫 あらゆる 

感情の 起る がま \ に 女優の 肉 體は銳 くそれ を 感じる やうに 見えた。 

子供の 時分に 見せられた 芝居で 最も 長く 記憶に 殘 つたの は、 殘 酷な 殺し 場 や 切腹 場で 血 まみれ 

の 役者が 手足 を もがきながら 極力 示さん とする 死 際の 光景であった。 舞臺の 上に 血 まみれ を 見る 

事 を よろこばぬ 西洋の 芝居 の 斬 合 ひや 自殺 の手輕 なの は、 凄い 殺氣立 つ た 芝居ば かり 見て 育った 

者に は を かしい 位で ある。 

然るに Aguglia は 毒薬の 體 内に 廻り 行き、 最後の 息の 絕 える 迄の 經過を 日本の 芝居の 細か さ 

,  .みづから  - 

で 演じた。 振り 亂 した 髮を かきむしり、 自の唇 を 裂かん とする 程の 極端な 型 も 見せた、 手と 足と 


444 


女の 亞利太 伊 


あらゆる 苦痛の 姿體を 示す 間に は齒 ぎしり の 音 も 高く 響いた。 自分 は それ を 度に 過ぎた 細工 だと 

: 思 ふ 反感 を 持ちながら も、 眞に 全身 毒に 惱む 苦痛 を 力強く 感じた 事 を 否定す る 事 は出來 ない。 

なきがら  よこお 

フ エド ラは 悶え 苦しんで 死んだ。 その 死骸 は寢臺 から 落ちて 床の 上に 橫 はった。 

しばらく 

誰 一 人と して 物 音を立てた 者 もなかった。 幕が 下りて 暫時して から 初めて 思 ひ 出された 狂 熱の 

拍手喝采が 幾度と なく 女優 を 幕 外に 呼出した。 

カイゼル は歸り 際に 自分に 握手 を 求めて Goodnight を 云って 別れた。 女は默 つて 笑顔で 會釋 

して 行った。 

氣づ かった 熱 はの ぼった とも 思 はす、 た^ 連夜の 芝居 見物の 爲め であらう か 疲勞は 一 曆甚 はだ 

しく、 場外に 出る と 冷い 冬の 夜 を 殊更 強く 感じた。 

次の 朝目覺 めた 自分 は 深き 疲勞に 起き 上る 氣カ もな く、 愚圖々 々して 正午 近く 迄寢 床の ヰ にゐ 

た。 

氣 分の 惡 いのは 今日 も 引きつ^き、 確かに まだ 熱が ある、 それにしても 此の 疲勞は Aguglia 

の 芝居の 爲 めの やうに 思 はれる。 女優の 演技 はどうしても 見物 をして 他人の 心で は 見せしめぬ 力 

が ある。 冷 かに 俐巧 さう に 批判し つ k 見る 事 を 許さない 力 を 持って ゐる。 女優の 情熱 的な、 感覺 


445 


的た 特點は 直ちに 見る 者の 上に も 襲 ひか 、り、 實際 幕の あがって ゐる 間に 人 は 女優 をうまい とも 

まづ いと も考へ る 餘裕を 持たなかった^ らう。 たど 女優の 動作 表情の ま 、 に 共に 動かされて ゐた 

に 違 ひない。 自分の 疲勞も 其の 爲 めに 強い ので あらう と 思った。 

午後から 學 校の 授業に 出席して 見た が 講義 は 少しも 頭に 入らす、 ぼんやりして ゐ ると 魔睡 劑の 

きいて ゆく 心 持に 陷 るので あった。 その 間に も 自分 は 今夜の 「サ 口  メ」 の 強烈な 舞臺を 想像して ゐ 

だし.?;; 

た。 四日 間の 出物の 中で も 最も 期待され たもので ある。 銀の 皿に 盛られた 豫言 者の 首に 接吻す る 

半裸 體の女 はあり ありと 目の前に 浮んで 來る。 

夕方 食堂 に 行く と 今日の 夕刊 新聞で 讀んだ 記事 を 話題に して ゐた 人達の 中で、 女學校 で 英詩 を 

講義して ゐる 老嬢が 「サ P メ」 の 上場が 禁止され たと 云 ふ 話 を 持 出した。 二三 日 前 ハブ. セ ァタァ 

の 所在 を 尋ねた のを覺 えて ゐて、 皆が 自分に 話 を 向ける。 自分 は あらん 限りの 稱讚を Aguglia の 

鷥 めに 惜しまなかった が、 ピカピ 力した 劇場 で キャン 、、テ ィ を 喰 ベ な が ら 不作法 に 笑 ふの を よろこ 

ぶ 米 人の 常と して、 貧しい 場末の 町の 名も無い 芝居に 行く 事 は見榮 にも 樂 しみに もなら ない ので 

伊太利 亞 語で 演 るので はわから ない とか、 又は 米 人の 得意と する 云 ひぐ さ —— 芝居 は H ン タァテ 

イン メ ントを 目的と する 場所 だから 悲劇 はいけ ない、 と 云 ふ 意味の 言葉 をうる さく 橾返 へ し、 そ 


446 


te 女の 亞利太 伊 


んな 芝居に 輿 味 を 持つ 者 はいかに もレ フ アイ ン されて ゐ ない 人間で あると 云 はんば かり、 生意氣 

を 鼻の さきに 浮べ てゐ るので あった。 そして 「サ &  メ」 の 禁止 は 道 德宗敎 藝術等 あらゆる 方面から 

見て 當然 だと 云 ふので あった。 

自分 は 部屋に か へ ると 戶 口に 置いて 行かれた 夕刊 を 開い て 一 大事の やうに その 記事 を 求めた。 

かんたん 

「サ n  メ」 禁止の 記事 は簡 短で ある。 

今 晚ハブ • セァ タァに 於て 伊太利 亞の 女優 Mimi  As^lglia によって 演ぜら る 可き 害な りし 

ォス カァ. ワイルドの 「サ &  メ」 は 其の 筋より 禁止され たり。 王はサ ロメに 求められて 豫言者 

の 首 を 斬ら しめたる が、 「 サ ロメ」 の 上場 を 禁止す るに 至らし めしもの は 誰ぞ。 道德的 ヒス テ 

リアに か 、れ るボ ス トン の 市民なら すして 誰な らん。 

それから 「 サ ロメ」 のか はりと して は 現代 伊太利 亞 の 作家 Roberto  Bracco の 悲喜劇 N.emmeno 

un  JBacio(Not  Even  a  Kiss) が 上場され る 害 だと 書いて あった。 

自分 はがつ かりして 寢臺の 上に 横にな つた。 橫 になる と 疲勞は 更に 重く 押し迫り、 抵抗力の 無 

い 睡眠に 捕 はれて 來る。 今夜 は 芝居 はやめに しょうと 思 ふと 何だか 責任 を 免れた やうな 氣安 さも 

あつたが、 叉殘り 惜しく も 思 はれて 來る。 これつ きり 二度と は Aguglia の 芝居 も 見られな いか 


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も 知れない と 思 ふ 側から、 天鵞絨の 女の 横 顏も誘 ひかけ る。 今夜 はもつ と 近し くなる に 違 ひない 

しばし 

あの なだらかに ふくらんだ 胸に は カァネ ー ショ ン の 次ぎに 何が 匂 ふで あらう か。 自分 は 暫時 決し 

かねてう つらう つらして ゐ たが、 一 度 や はら かな 枕の 上に 親しく 置かれた 頭 は S 々重くな つて、 

今 は 持 上げる 氣カ もな くな つてし まった。 

寢 たま、 胸, のかく しに 手 を 入れて 今 衣の 芝居の 切符 を 探り出す と、 思 ひ 切って きれぎれに 破い 

て 窒內に まきちらした。 

それで 一方の 心 を片附 けた 安堵 を 得て、 自分 はかへ りみ る 事 もな く 疲勞の 眠りに 身 を 任せた。 

再び 熱が 額に のぼって 行く 氣持 がする。 (大正 三 年 四月 二十 五日) 


443 


代 一- H: —の ン ソ ト アバ 口 


ロバ アト ソンの 一世一代 


はしがき 

自分が 日本 を發 つて 北米 合衆國 マサ チ ュ セ ッ州ケ ムブ リツ ヂに 落着いて、 間もなくの 事で あつ 

た。 丁度 同じ 頃に これ も 初 旅の ロンドン に 行った 小 泉 信 三 氏から Sir  Jotmston  Forbes-Robert- 

son の ハ ム レットの 繪端書 を 送って くれた。 有名な 役者の 事と て P バ アト ソンの 名 は 自分で さへ 

餘程 以前に 聞き 覺 えて ゐ たし、 何 かの 雜誌 に そ の 舞台 面 の 寫眞 の 出て ゐ たの を 見た こと も あ ■ る や 

はっきり  - 

うに 思 ふ。 けれども それが どんな 寫眞 だつ たかは 明瞭し ないから、 小 泉 氏の 繪端 蕾で 見た のが 自 

分の 心に 刻まれた ロバ アト ソン の 姿の 最初の もの だと 云っても い ゝ。 

その 端 書の ハ ム レット は 半身で いかにも 寫 眞の爲 めに 特に レ ンズ にむ かった ものら しく 正面 か 

ら t した もので、 ロバ アト ソン は稍顏 をう つむけ 氣味 にして、 目 は 少し 上目だった。 


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一 目 見て 自分 は P バ アル ソ ンが 大好きにな つてし まった。 好きと 云 ふよりも もっと 尊敬の 念の 

伴 ふ 特殊の 感情の 湧 起る の を 止め かねた 程 力に 充 ちたい 、顏 である。 

思慮の 深い 廣ぃ 額、 鋭い 光と 柔 かな 笑 を 含む 目、 小鼻の 締 つた 正しい 鼻、 大きく 一文字に 引い 

た 意志の 強い 唇、 璺 かな 耳と ひとつひとつ 數へ るよりも 一 目 見て 直ちに 感じた の は 崇高な 人格 を 

持つ 人の 顏 である。 若い 時から あつたか 如何 か は 知らないが 顔面の ところどころに 極めて 思 ひ 切 

つた 深い 皺の 描かれて ゐ るの も 自分に は 好ましかった。 眉 際の 立 皺、 小鼻から 口 尻 を かすめて 長 

く 延びた 一 線な ど 非凡な 彫刻家の 羨望す る顏 ではない か。 

壁に 掛けて 毎日 見て 飽かなかった。 學 校から 疲れて 歸 つて 來た時 も、 その 力 ある 眼光の 自分の 

方に 向いて ゐ るの を 見る と 新しい 元氣 を囘復 する やうな 氣 もした。 

どうしても 高貴な、 面と 向 ふと 威に 打 たれる 顏 である。 どうしても 馬鹿に出来ない 顏 である。 

自分 は フト 我が 父の 顏を想 ひ 比べて 似て ゐ ると 思った。 

ロバ アト ソン は 筋 立った 細面で あるが 父 は璺頰 の丸顏 である。 ロバ アト ソン の 稍 角張った 幅の 

割に 簿ぃ胸 は 父の 厚い 胸と は 全く 違 ふ。 脊の 高さうな の は ロバ アト ソ ンで父 は 寧ろ 低い 方で, ある。 

かくの 如く 大體の 輪郭 は 全く 違 ふけれ ども 直ちに 人に 迫る 額面の 感じに 否む 可らざる 相似 を 見た 


450 


代 一- ffi: 一の ン 'ノ トァ パロ 


ので ある。 

父の 顏 にも ロバ アト ソンと 同じ やうな 深い 立 皺が ある。 ロバ アト ソン 程 大きくな いが 堅く 締っ 

て 容易に 開かぬ 唇、 物 を 見る 時 銳ぃ光 を 持ち、 それで ゐて笑 ふ 時 は 思 ひも 掛けぬ 愛嬌 皺の 目尻に 

浮び 出る 事な ども 自分 をして 一 一人の 間に 似た ところの あるの を 認めさせる の に 力が あつたで あら 

うが、 それよりも その 額 を 見守る 時、 近づき 難い 氣 持の 起る ところが 最大の 共通 點 である 事に 自 

分 は 直ちに 思 ひ 到った。 

父の 前に 出る と 口が きけ なくなる と 云った 人が 澤山 ある。 自分 は 父の 前で は 戲談を 云ふ氣 持に 

なれない、 どうしても 膝 を 正して 眞 面目に なって しま ふ。 父に 叱られた 記憶 を迪 つて 見ても、 自 

分 は 叱られながら 父 を 尊敬して ゐた。 どうしても 生 意氣な 口返答 をす る餘裕 はなかった。 若し 反 

抗 するならば 直ちに 腕力に 訴 へ る ほかにな いと 思 ふ 壓迫を 感じた。 さう して 自分 は 曾て 父 を 馬鹿 

にす る氣 になった 事 は 一 度 もない。 

自分 は ロバ アト ソンの 寫眞を 父の 寫眞と 並べて かけた。 時には あまり 嚴 かな 氣 持に なって 堪 へ 

られぬ 事 も あるが、 义 時には 意氣 地の ない 貧弱な 自分 をして その 前に 膝まづ かせ 度く 思 ふ 宗敎的 

感情 を 起して 長く 見詰める 事 もあった。 


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小 泉 氏に は 手紙の 度 毎に 禮を 云った。 自分の 好きな 顏は あれなん だと 繰 返へ して 寄いた。 それ 

程 自分 は 興奮して ゐた。 

小 泉 氏から, は、 P バ アト ソンが 氣に 入った と 聞いて 調子に 乘り 今度 は 誰某の を途 るな ど、 書い 

て 他の 名高 い 役者 の 寫眞 を引繽 い て澤山 寄越し て くれた。 子供の 時からの 友 だち で 我儘 者 の 自分 

を 許して つきあって くれる 人で あるか ら 自分 の 片寄 つた 好み は よく 承知し てゐ て、 どれ もこれ も 

自分の 好きな ものであった。 しかし^に 尊い もの は 稀で ある。 いかに 小 泉 氏が 心を盡 して くれて 

も 無い もの は 得られ やう 害がない。 自分ば ロバ アト ソ ンと 比ぶ 可き 立派な 顔の 持主の ない の を 寧 

ろ よろこん だ。  . . 

その フォ V ブス •  ロバ アト ソンが 一 ぼ 一代と して ボストンの Shubert  Theatre に來 ると 云 ふ 

芝居 消息 を 或 朝の 新聞で 見た 時 は 自分の 胸 は を ど つ, た。 

一 月 一 一十 六日 月曜日より 二週間 シ ュ ウベ ル トー. セァ タァに 於て フ ォォブ ス - &バ アト ソン 一 

世 一 代と して 出演、 

こんな 風な 短い 文句だった が 繰 返へ して 讀ん だ。 . 此の 英吉利の 名優 は a ン ドンに 於け る Fare- 

well Appearance を 終って から 大西洋 を 越えて、 紐 育 を 始めに 亞米利 加の 重なる 都市 を 順々 に 


452 


ft— 世 一の ンソ ト ァノ、 *  口 


廻り、 更に 加奈陀の 興行 を濟 せ、 それ を 最後と して 永久に 舞臺 から 退く 害で ある。 そして 紐 育の 

次ぎに は ボストンに 來 ると 云 ふので あるから、 自分 は 恰も 此の 國に 來てゐ て、 か、 る 名優の 舞臺 

を 見る 機會に 遭遇した 幸 ひ を 限り なく よろこんだ ので ある。 

1 IEAMLET 

未だ 文字の 讀 めない 頃 はお 話を聽 くの が 何よりも 樂 しい 事であった。 話の 上手な 祖母 や 母の 膝 

を 枕に して 面白い 悲しい いろいろの 昔 噺を聽 きながら 眠った 心地 は 今 も 忘れる 事が 出来ない。 父 

は 殆んど 無駄話 をした 搴 のない 程 無口だった から 話 は 極めて 拙かった。 それでも 自分 は 祖母 や 母 

の 話の種の 盡 きた 時 や、 祖母 や 母に うるさがられる 時には 父に せがんで は 無理に も 話 をき かして 

貰った。 - 

祖母 や 母のと は 違って 敎訓を 含む 話が 多かった 、めか、 或は 父に 封す る 畏敬の 念の 幼心に も 深 

く 刻まれて ゐた、 めか、 自分 は 父の 話 をき く 時 は 膝 を 正して ゐ たもので ある。 側に きいて ゐる者 

* ん! W 

も 皆々 行儀よ くして ゐ たの を 見る と 父 自身が 決して 膝 を 崩さぬ 人 だから 自然と 他の 者も改 つてし 

まふの かもしれ ない が、 それよりも 父に は 人に 迫る 特殊の 力が あるので あらう と Ha ふ。 多く は 支 


453 


那の 英雄 豪傑 君子 義人の 話で あつたが 中には 西洋の 偉い人の 逸話 もま じった。 ヮ シン ト ンが 父の. 

おち 

いつくしんだ 木 を 伐り 倒した 話、 フランクリンの 服の 話、 二 ユウ 卜、 V が 梢の 林檎の 落る の を 見て 

大 なる 發 見に 想 ひ 到った 話な ど、 錡の ある 父の 聲で ポッリ ボッリ 無技巧に 話される のを间 くな つ. 

て聽 いた もので おる。 中で 一 番 面白かった の は 「リップ • ゾァ ン . ウィンクル」 の 話であった。 晚 

酌の 醉 ひに 機嫌の い 、時、 叉 リップ かとせが まれて は 笑 ひながら 語り 出す 父の、 リップが 山路に 

迷 ひ 入った ところで 何處 ともなく リ ップ の 名 を 呼ぶ 聲が 聞え て來 ると 云 ふ 段になる と 父 は 殊更 聲 

を 低く して 其の 聲を眞 似た。 父の 口から 如何にも 拙く、 如何にも 迷惑 さうな 物眞似 をき くの を 待 

ちかまへ てゐて 座に ゐる者 は 笑 ふので あった。 

か 、 る 話の 間に 自分 は 父から ハム レット の. 話 —— 恐らく は 話の 筋 を 子供に 聞かせて もい 、 やう 

に變更 して —— を聽 かされた 事を覺 えて ゐる。 もの 、本な どを讀 みなら ふやう になって から 何時 

と はなしに 沙 翁に 就いての 朧氣な 知識 さ へ 持つ やうに なると、 好んで 集めた 西洋の 名 畫集汔 どの- 

中に 量々 彼の 黑ぃ 服 を 着た 王子の 姿 を 見出して なつかしい 心 を覺 えた。 

中學に 通って 英語 を 習 ひ 初めてから、 或 年の 夏の 蟲 干に 父の 窨齋の 書棚 を 整理 させられた 時、 

古 い 經濟書 の 間に 小形の 皮 表紙 帙入 の 沙翁 全集 の あるの を 見出 し た 。 沙翁 と 云 へ ば ゅ界 一 の 文牽 


454 


ft— tfr— のンソ トァ バ 口 


なりと 簡 短に 覺ぇ 込んで ゐ たから 如何 かして それ を讀み 度い と 思って 先づ ハム レットの 第一 頁 を 

開いた。 しかし 其の 頃の 自分に は いくら 熟 心 に 字引 を 引 い て も 到底 讀め る 害はなかった ので ある。 

今日、 自分 は沙 翁の 戲 曲の 中で ハム レットが 一 番 好きで ある。 或は もっと 押切って、 所謂 古い 

芝居と 新しい 芝居 を 通じて ハ ム レット は 自分の 最も 好む 戲曲 だと 云っても い 、。 

芝居と して ハ ム レット を 見た の は帝國 劇場で 文 藝協會 の 連中の 演じた のが 初めて ゾ、 あの 時の 

S! 分の 失望の 度の 強かった 事 も 忘れられぬ。 新聞 ゃ雜 誌の 批評で は 同 協 會の土 肥 東 儀 二 氏の 如き 

い t ゆる 

頗る 評判が い &の である けれども、 自分に は 所謂 舊 劇と 喜斜の 臭味が 強くて 全然 感心 出來 なかつ 

た。 

ボストン に來 てから 見た ハム レット は Robert  Mantel, B.  H.  Sothern 及び J0J5  Craig の 

三人であった。 

可の 役 を演て も、 たと へば シイザア たると 才セ P たると を 問 はす、 生地の クレイグ 以外に 出る 

事な く、 且つ その 生地が いかにも 武骨で 不器用で すべての 點に 於て Delicacy を缺 いて ゐ るので 

あるから、 ボストン 居つ きの 故 を 以て 其の 土地の人 か ら 特別 の 愛顧 を受 くる 風變り の 役者 ヂ ョ ン • 

ク レイ グは 暫く 措き、 此の 國の沙 翁 役者と して もてはやさる、 他の 一 一人に ついて 云 へば ソザァ ン 


455 


に は 熱心 努力に 對 する 報酬と して 或 程度 迄 同情 を 強要され る けれども 遂に 努力に 止って 光り ある 

技藝 として は 現 ばれす、 殊に ハム レット の裝ひ をし ハム レット の 身ぶ り をし ハム レット の臺詞 を 

口にする けれども ハ ム レットの 心の 惱 まし さはう か..,、 ひ 知る 事が 出來 す、 とも すれば ド ン. キホ 

ォテの 役 を 引受く 可き 役者の やうに 見える のであった。 世間う け は ソザァ ン に比べ て 稍 劣る らし 

いが マンテルの ハム レット の 方が 自分に は遙 によく 思 はれた。 けれども 彼の ハ ム レ ットも 何 役 を 

し  すぎ 

演 ても必 すつ いて 廻る 特有の 冷靜に 沈着に 過る 恨みが あり、 これ も 亦 強い 意力と 腕力から 直ちに 

劎を 執って 立ち さうな 勇ましい ハム レットであった。 と は 云 ふ もの、 ソザ アン、 マンテルの ハム 

レ ットを K ^た 時 自分 は 彼等に 著る しく 缺 けたと ころの あるの を 認めながら も 相應に 立派な ハ ム レ 

ット として 受 入れる 事 を 否まなかった。 その 缺點を 追及す るよりも それより 以前に 見た ハム レツ 

トの 貧弱な 姿 を 想 ひ 出して、 彼に 引 比べて これら 二人が 如何に 立 勝って ゐ るか を考へ るのに 忙し 

かった のか もしれ ない。 臺詞 にも 動作に も 癖の 多い、 品格の 無い、 チョコ チョコ と 取の やうに 動 

き 廻った 瘦 つぼ. ちの ハム レットの 九州 訛 も 忘れられなかった。 さう して 自分 は 單にソ ザ アン、 マ 

ン テル 等が その ハ ム レットの 裝ひ をした 姿 を 見る 丈で もい 、と 思って 同じ 芝居 を 二度 ニー 度續 けて 

見に 行った。 


456 


ft-" 世 一の ン' ノ トァメ ぐ 口 


然るに 今&バ アト ソンの 、ノ ム シット を 見る に 及んで は 彼等が 残した 印象 も 忽ち その 色彩 を 失つ 

て 初めに 擧 げた 物足りな さの みが 今更 明に なって 來た。 

名優の 齢 は旣に 還曆を 越え、 その 皺 は 深く その 聲は 若々 しい 響 を 失って ゐる故 を 以て 若き デ ン 

しぐさ 

マ ァクの 王子に ふさ はすと 皮相なる 批評 を 下す 者 もあった が、 彼ら は&バ アト ソンの 表情 動作に 

よって 喑 示さる、 感じ 易く か へ りみ 勝な 王子の 姿 を 詩と 情 熟と 思想の 世界に 認める 事の 出來 ない 

の を先づ 恥辱と 知らなければ ならない。 もとより g 分 とても 彼の 顏 面に、 姿. 體に、 殊に 膝つ きに、 

足取りに 爭 はれぬ 寄る 年の 影の 迫る の を 認める ので ある。 彼の 聲に 高く 響く ところの な いのも 若 

い 者の 身に 知らぬ 事で あらう。 しかし その 年齢が 持ち 来った 袂點も 名優の 身邊を 包む 光彩 を 覆 ふ 

事 は出來 ない。 . , 

自分 は 彼の 沈んだ 落着いた しかもよ く 人の 心に 迄と ほる 聲を 又な く 好む。 その 聲には 若々 しで 

はない けれども ォ ルガ ン の 深さ を 有して、 ハム レット の惱 まし さ を 描き出す 上に か へ つ て 效果の 

あ つ た 事 を 信じ て 疑 はない。 殊に ゆるく 長い 獨 白の 場合に 強く 壓 迫る 力の 波 を 描 いて 延びて 行く 

美し さは 比ぶ 可き もの 、ありと も 思 はれぬ ものであった。 

自分が ハム レット を 好む の は Sensitive であり Reflective である 若き 王子の 常に 惱み ゎづら 


457 


ふ遴 へ 易き 心の 故で あらう。 此點に 於て ロバ アト ソンの ハム レツ トは ソザァ ン に 比し マンテルに 

比して 寧ろ 若々 しい。 

彼の ハム レット は 王、 后、 ポロ  二 ァス、 レア テス、 オフ エリア、 ホレ M シォ、 其 他 その 身の 廻 

りに 動く 人々 の 心 を 一 々身み づ からの 心に 感じた であらう。 或は 叉 あらゆる 物、 心 ある もの 心な 

きもの の 心に 觸れ それ を 身に しめて 感じた であらう と 思 はれる。 他の 役者の ハム レット に は 自分 

の 持 役 以外に 问 情が ゆきわたらす、 相手の 臺詞 のきれ るの を 待って 自分の 臺詞を 云 ふ 事に のみ 專 

ら であって、 相手が 如何なる 心に あるかに は 頓着し なかった 事 を 今にして 氣が つくので ある。 

物に ふれる につけて その 瞬間の 心 は 此の 瞬間の 心で はなく 此の 瞬間の 心 は 次の 瞬間の 心で はな 

い 王子の 思慮 は、 時には 反省 を 伴 ひつ、 深く 惱み、 時には 己れ を控 へる 力 を 失って 燃 ゆるが ま、 

お = そ しばし  — 

に 燃えさ かる。 沈痛なる 獨 白は嚴 かに 暫時の 間 保 たれる けれども 忽ち 又 泣く が 如く 恨む が 如く 訴 

ふるが 如く 祈る が 如く その 聲は 高まり、 その 聲の 震へ る ま、 に 全身 も 亦お の、 く。 か、 る 時 ロバ 

アト ソンの オルガンの 調を帶 びた 聲が 微妙なる 震動 を 起して 吾ら の 耳に 訴へ る。 

更に 叉 記憶すべき は 最もよ く內 部の 苦悶 を 明かに 強く 現 はした &バ ァ卜 ソンの ハム レット は、 

めまぐるしく 動き 廻った 九州の ハム レット はもと より、 ソザ アン" マンテル、 クレイグ 等に 比べ 


458 


代 一世 一の ン ソ 卜 ァ パ' 口 


て 一 番 動きの 少なかった 事で ある。 兹 に&バ アト ソ ン の 特質の 最も 偉大なる ものが うか ゾ はれる 0. 

卽ち 彼の 演技の 特質 は 形と して 現 はれる 運動の 簡 短な ことで ある。 動作の 簡素で ある。 力に 充 

ち 暗示に 富む 簡素で ある。 その 簡素なる 動作の 中に 一瞬 毎に 異なる ム ウド を 明瞭に 描き出す 偉大 

なる 簡素で ある。 凡人の 所有す る 事 を 許されぬ 奧祕の 力に 觸れた 簡素で ある。 熟 情に 燃 ゆる 簡素 

で あ る 。 

一座の 役者の 1* 人 一 人に ついても 自分 は 他に これ 程 粒の 揃った の はないだ らうと 思った。 殊に 

感謝すべき は 彼等 は 些か も 自分 を 現 はさう とする 臭味が なく、 持 役に 對 して 忠實な 事で ある。 或 

は ロバ アト ソン 一 人 を 浮上ら せる ために 他の 役者 はすべ て その 背景 以上に は考へ ら れてゐ ない も 

のと 見ても い 、、 あくどく なり 勝な ボ ロニ ァ スも 極めて つ 、ましく 邪魔に ならす に 冥途に 行き、 

廣々 わざとら しい 滑稽に 安價な 喝采 を 求める 墓地の 場の 墓 掘 も 其 日の 勞 働に 忠實な 神妙な 人足で 

あった。 曲解 すれば 彼等 は 自分 一個の 完全なる 舞臺 上の 存在 を 持って ゐ なかった とも 云へ る。 口 

バ ァトソ ンの爲 めに 甘んじて 奴隸 となる 從順さ を 示して ゐた。 それが 一 暦 ハム レットの 如き 戲曲 

に 於て は有效 であった と 思 ふ。 自分 は 平民 的な 近代劇の 寫實 主義 を よろこぶ と共に 一 人の 名優の 

爲 めに 他 を 犠牲に する 貴族的な 舞臺の 存在 を も 否定し ない。 寧ろ ハム レット の 如き 戯曲に 於て は 


45^ 


それでなければ. いけない とさへ 思 ふので ある。  . 

オフ M リア をつ とめる a バ アト ソン 夫人 Gertrude  Elliott は、 未だ 若い 上に お凸の E 尻の 下 

つた 額で 身體 つき も締 つて ゐ るいかに も 子供々 々 した 人であった。 舞臺に 執着の 無い のが 物 足ら 

なく も 思 はれ、 些か もい やみの ない のが うれしく も 思 はれた が、 要するに 悲劇の 役者で はない や 

うに 見えた。.  . 

ロバ アト ソ ン、 ロバ アト ソ ン、 自分 は 大詰の 幕の しまった 後 もな ほ 明かに 目に 殘る ハム レット 

の 姿 をい つくしみながら ケムブ リツ ヂに歸 へ るみち みち、 我が 部屋の 壁に か、 る n バ アト ソンの 

寫 眞を迗 つて くれた & ンド ン の 友 だち を 想って 如何にも 生 甲斐の ある 緊張め た 心地であった。 

キップ リ ン グの 「森林 物語」 か ら飜譯 した 「狼 少年」 と 云 ふ の は 幼時 愛讀 した 「少年 世界」 に 遝載さ 

れ 最も 自分の 愛誦した もので、 少し 長 じてから 一 卷 一 號 からの その 雑誌の 積みた まった の を 紙:^ 

にして しま つ た 時 も 「狼 少年」 の 出て ゐ るの 丈 は 捨てる に 忍びないで 取って 置いた。 今でも それ は 

自分の 本箱の 中に ある 答で ある。 キップリング、 キップリング、 その 名 まへから いかにも 耳に 心 


460 


代 一世 一の ンソ トァ バロ 


地よ く 響いた。 

それに も か、 は らす 自分 は 今 日に 至る 迄 その 「狼 少年」 の 飜譯以 外に キップリングの 作品 を讀ん 

だ 事がない。 

此 の 地に 來 てから 知合 ひ になつ た 人の 家な ど を 尋ね ると、 絶えす 何 か し ら 話題 を 捕 へて 會 話の 

途切れない やうに 心掛けるなら はしから、 殊に 女 等 は音樂 美術 文學の 嗜好 は あるか どうかと 云 ふ 

うちそと 

やうな 事 を 尋ねる。 日本に ゐた頃 は 家の 內外 何れ に 於ても これらの ものに 心 を 寄せる 事 はい たづ 

らに 爪彈き され さげすまれる 周 圍の狀 態から 自然と 口にする の も はぐ かり 度い やうな 氣持 にた つ 

てゐ て、 たまたま 劇場の 廊下 や 珈琲 店の 一 一階な どで 所謂 文壇の 士 であらう と 想像され る 人々 が聲 

高に 藝術論 をた、 か はして ゐ るの を 見聞きす る 丈で も、 他人 事ながら ヒ ヤヒヤした。 さう 云 ふ 風 

1  しばらく 

に 馴らされた 自分 は 右の やうな 問 を かけられる 度 毎に 何と 答へ ようかと 暫時 は 思 ひ 迷 ふ 癖が つ い 

てゐ た。 それでも 噓を つく 程の 事で もない から 文學を 好む と 云 ふと * それで は 誰の 作品 を 最も 愛 

する かと 次ぎの 質問 は繽 いて 來る。 何と 限らす すべての 物事に 對し 好き 嫌 ひ を 明かに し、 且つ 好 

きとき めたら 無理に も 極度 迄 好きに してし まひ 度くなる 性質の 自分 も、 执て 誰が 好き かと 問 はれ 

て 一人 一 人の 名 を 擇んで 答へ るの は あまりに 大ざっぱに 過ぎて 後の 心が 條 るに ちが ひない から 流 


461 


石 一 寸答 へ しぶる。 すると 向 ふから 誰彼の 名 を 擧げて 彼の 人 は 好き か 此の 人の 作品 を讀ん だかと 

性急に た& みかける。 

さう 云 ふ 風に して a 々人々 の 口にの ぼり 其の 作品 を讀 まなくて は 共に 語る に 足りない と 云 ふや 

うに 話される のはケ ムブ リツ ヂの 事と て 詩人で は& ング フエ P ゥに 及ぶ 者 はない が、 小說 家で は 

ス ティ イブ ン ソンと キップリングであった。 ス ティ イブ ン ソ ンの もの は學 校の 敎科書 として 一 一 つ 

主 っ讀 まされた が 英語の 文章の 面白味 を 細かく 味 ふに 足る 丈の 力の 無い 自分に は どれ もこれ も郎 

合の い、 話で つまらなかった。 キップリングに 至って は 前記の 「狼 少年」 が 唯 一 の ものであるから 

到底 調子 を 合せる こと は 出来ない。 自分 は 正直に 英吉利の 作家の もの は あまり 讀 んでゐ ない、 若 

し 強ゐて 自分の 好む 作家の 名 を擧げ よと 云 ふの なら 今のところ 死んだ トル スト ィを 第一 に數 へて 

置き 度い、 戧曲 の 作家なら チ H ホフで ある、 その 他ド スト ィュ フス キイで も ツル ゲ ネフで もゴ ル 

キイで も 露 西亞の 作家 は 一 體に 英吉利 はもと より 佛蘭 西の 作家よりも、 自分に はよ く 理解し 得ら 

れる やうな 氣 がする と 云 ふと、 人々 は 仰山に 眉 を ひそめて 露 西亞の 作家 は 懐疑 的で 陰 is でい や だ 

と 云 ふ。 

誰も 彼 も、 女學 校で フット ボ オル、 ベ H スボ オルに 熟 中す る 娘 も、 來世を 信じて 凝 はぬ クリス 


462 


世 一 のンソ トァハ '口 


チ アン サイエンスの 婆さん も, ス ティ イブ ン ソン, キップリング を 護んで ゐる、 恰も 日本の 女學 

生で 「不 如歸」 を讀 まない 者の ないやう に。 

よく 我 國の敎 育 家 や 洋行 歸 りの 紳士が、 西洋人 は 蛾 業 階級 男女 を 問 はす 何れも 文藝の 趣味, が あ 

つて 大作 家の 作品 を讀 んでゐ ると 如何にも 感服して 說 くの を 靨々 聞いた が、 かくの 如く 新聞 小說 

を 讀む心 持 又は 單に 人も讀 むから 讀 むと 云 ふ 態度で 讀み、 且つ 有名な 人の 作品 だからい k に 違 ひ 

ない ときめて ゐる やうな 有様 を 自分 は羡 しいと は 思 はない。 寧ろ 日本の 現在の 狀態卽 ち 父母の 時 

代に 屬 する 者 は 純 文 學に對 して 強き 偏見 を 持ち、 少數 の專門 家が 少數の 讀者を 相手に してい かに 

も い ぢけ た繼子 根性 で やって ゐる 方が 遙に氣 持 がよく 尊い やうに 思 はれる。 自分が 愈々 キップ リ 

ング 等の 作品 を 讀む氣 のなくなる の も ひとつに はか 、 る 世間 一 般 が愛讀 して ゐ ると 云 ふ 事 實に對 

する 反感に も 負 ふと こ ろが 多い ので ある。 

直き 近所に 住んで ゐて、 姉 は ピアノ を 敎へ妹 は女學 校に 敎鞭を 取りながら かたはら 劇の 創作な 

どもして ゐる 姉妹の、 姉 は 古典が 好き 妹 は 近代の ものが 好きで 自分が 遊びに 行く 度に 姉 は 姉で 自 

, 分の 好む 本 を 持って来て はこれ を讀め あれ を讀 めと す、 め、 妹 は 妹で 自分の 好きな 本 を 持ち出し 

i て 讀め讀 めと す、 める。 そんな 風に して 無理に 貸つ けられた 本の 多く は學 校の 課業の 忙しい のと 


463 


あまり 興味 を 引かない のとで 暫く 手許に 止め 置いて は、 讀んだ ふり をして 返へ す 事に きめて ゐた 

が、 それらの 本の 中に TheLia.ht  That  bailed もあって 讀 後の 所感 を 問 はれて 返事の 出來 なか 

つた 事が あった。 それ は餘程 IS の 事だった が ロバ アト ソ ン の レパ アト リイ 中に あると 知ったら 讀 

んで 置く のだった と 些か は悔 まれ もした。 

其の 日夕 食の 卓子で tr 、ハ アト ソ ンの 話が 出て 自分に も 見に 行く かと 云 ふから、 自分 は 昨夜 ハ ム 

だし^の 

レット を 見、 今夜 もこれ から 出かける ところ だと 云 ふと、 今夜の 出物 は キップリング だから 是非 

見る 可き である、 自分 も來週 は必す 行く つもり だ、 他の は 見なくて もこれ 丈 は 見 度くて しかたが 

ない、 とその 小說を 讀んだ 時の 面白かった 事から 說き 出して 胸 を 叩いて よろこんで ゐる 女が ある 

ほか 

と、 他の 者 も 之に 和して キップリング、 キップリングと 欽 仰の 聲を張 上げて 語り合 ふので あった- 

自分 はさう 云 ふ 人々 と、 他方に は 芝居に 行く 事 を 罪惡視 する 傾きの ある 曰 本人 留學 生との 間に 立 

つ 事 を を かしく 思 ひながら 寒い 夜をボ ス トンに 急いだ。 

原作 を讀 ますに 初めて 見る 劇で は 幕の あがる につれ て少 しづ、 現 はれる 背景、 舞臺 装置が 特別 

に 注意 を 引き、 知らぬ 世界 を 展開して くれる よろこびが ある。 此の 劇の 序幕 は 埃 及に 於け る陣營 

と 云 ふ Kipplingsque  Atmosphere を 持つ 舞臺に 置かれた。 けれども 粗末な 極めて 拙劣な 卄^ 


464 


代 一世 一の ンリ トァバ d 


はさの 色 迄 もちが ふ 害の 遠い 國の 心地 を あら はさす、 折角の 埃 及が 些か も H キゾ テ イツ クな 興味 

を 刺戟し なか つた。 

椰子 樹の 下の _天 幕 を 圍んで 語り合 ふ戰 友の 聲の絕 間に 時々 幕屋の 內 から 聞え て來る 譫言 * 其 人 

を 魅す る 力 ある 聲は 忽ちに 人の 注意 を その 片言隻語 を 捕へ る 事に のみ 傾けし める。 我が 歌舞伎に 

於て屢 々見る 揚 幕から 立 役の 現 はれる の を 待つ 瞬間の 心地で、 何時 ロバ アト ソンの i)ick  Helder 

が 姿 を 見せる か、 その 期待ば かりが 興味の 著しい ものになる。 

遂に 手探りで よろめき 出る, ディックの 姿に 人々 は 待ち かねた よろこびに 堪へ 切れす に 喝采す る。 

さう して 愈々 仕出しの 存在 を危 くしつ 、&バ アト ソ ンの 芝居が 進行す る。 

顔面、 目の 上に 負傷し 繃 帶に卷 かれて, 光 を 見ぬ 此の 場の ヂ イツ クを 演じる のに _1 バ アト ソ ン, は 

その美し い 力強い 聲 を用ゐ るのに 最もよ き機會 とした。 怪我の 爲 めに 病臥の ためにい らいら して 

ゐる 男の 聲、 その 獨 白の 爲 めの 序幕ではなかった らう か、 銑 をと つて 敵に むかって 走り去った 戰 

友の 銃聲を 聞きながら 高く 低く 急 調に 響く 獨白、 その 獨 白の 爲 めの 序幕ではなかった らう か。 さ 

うでないならば 筋 を 賫る爲 めと しても あまりに つまらない 序幕であった。 

1 一幕お は 女 主人公 gaisie の畫 窒でゲ ル トル ウド •  H リ オットの メ イシイに は 持 前の 些か もい 


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やみの ない 極めて 自然な 演拔 のうちに、 女に 特有な 無益に 執拗な 意志 を 持つ ところが 面白い 味 ひ 

ほか 

を 見せた、 恐らく 他の 女優だった らば もっとお 芝居に して 喝采 を購ふ 事に 努力 じたで あらう。 そ 

れに對 して a バ アト ソ ンの 男らしい Tenderness を 持つ 聲と 態度が つまらない 戲 曲に 深味 を 添 へ 

た。 一寸 聞く と 低 過ぎて 音階の 少ない 彼の 聲は、 殆んど 動かない と 云っても い、 位 動きの 少ない 

動作と 俟 つて 廣く 深く 變 化に 富む 暗示 力 を 持って ゐる。 ロバ アト ソン は 決して 銃い 線 を 以て 目に 

0 へ る 人の 形 を 描き出さ うと はして ゐ ない、 描かるべき 人格 を 見る 者の 心に 暗示す るので ある。 

自分 は ロバ アト ソン の聲と 動作に は Tenderness が あると 云 つたが、 これ は ハム レット を 見た 

時に も おぼろげに 氣が ついて ゐ たが、 此の 劇の 二 幕 目で 殊に 明瞭に 認める 事が 出来た。 而 して そ 

れが 若い 男女の 間に 生じる Tenderness でな く、 親と 子の 間に 見ら る、 Tenderness であると 

思った。 其爲 めに, ディックと メ イシイの 間に は戀 愛よりも 別の 愛情の^ する やうに 見え、 初め か 

らし まひ 迄 一 一人の 間に 戀 愛が あると は考 へ られ なかった。 今にな つて 思 へば ハムレ ットも 后に 對 

し才 フ H リアに 對 して 親が 子に 對 する 慈愛に 似た 感情 を 持って ゐ たやうな 氣が L て來 た。 これ は 

I! バ アト ソンと 他の 役者との 關係、 卽ち 年配 も 位置 も 技 藝も或 間隔 を もって- Q ると 云 ふ 事から も 

1 麿 強められ たに 違 ひない。 


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代 一世 一の ンソ トァノ ' d 


役柄から 見て 此の 親ら しき Tenderness は缺點 として 擧ぐ 可き もの かもしれ ないか あまり 

樂 しからぬ 此の 戲 曲の 兎角 散漫に なり 勝な の を 引き締めて ゆく 上に 此の 特點が 力 を 持って ゐ たと 

思 ふ。 正直に 云へば 自分 は 舞臺を 離れて そのした しむ 可くな つかしむべき 心 持 を 起させる や はら 

ぎに 老年の 父に 對 する 溫 さを覺 えて ゐた。 從 つて 自分 は 自分の 癖と して 义 しても 劇 を 批判す るよ 

り も 劇から 引 起される 殆 んど剷 とは關 係の ない 感情^ 勝手に 樂 しみ 耽って ゐ たので ある。 

三 幕 目の ディックの 畫室は 最も 無理な 舞臺 であった。 男ば かりの 宴 會客を 仕出しに つかって 筋 

を 運ぶ のが、 ディック 一人 を 浮上ら せる ために は 幾度と なく 彼等 を 次の間へ 立た せ、 叉 必要な 時 

に は 呼び出す と 云 ふやり 方で、 それ は 寂しい ディックと 他の 人々 の 陽 氣な心 持と を照應 させる 手 

段と しても あまり に 露骨で 智慧が なさ 過ぎる。 

しかしながら ロバ アト ソン の 劇 を 型と して 見る 時、 自分の 最も 忘れられ ぬシィ ンは 此の 一 場で 

あった。 

次. の 間に 賑やかに 酒 を 酌む 人々 の 時々 あげる 高 笑 ひの. 通って 來る 他に は 物音 も な い ガ ラ ン と し 

た畫 窒に殘 つて ゐる 失明の ディックの 姿 は 端然た る 容貌で ある 丈に 哀れが 深 か つた。 

その 時 窓の 下の 往來を 過ぎ ゆく 軍隊の 樂隊の 奏する 進行 曲が 窓ガラスに 遮られながら かすかに 


467 


: 聞え て來 る。 ディックの 胸に は 健全に 光 を 見た その かみの、 埃 及の 陣營 にさ へ. M つた 時の? 右々 し 

い 血潮が 湧き かへ つて 來る。 彼 は 思 はす しらす 立 上る と 聞き耳 を 立てながら 手探りで 窓際に たど 

り ゆき、 漸くに して 窓の 扉 を 大きく 開く。 同時に 流れ 入る 月光と 共に John  browns-  body  lies 

(太郞 がむ くろ も 倒れたり) がー 際 高く 聞え て來 る。 その 曲に 合せて ディック は 握りし めた 拳 を 

あげ 遙に 窓外に 感慨 を 走せ ながら r  Soldiers  !  Soldiers  !" とつ ぶ やき つ 、 足拍子 を 取 つて ゐ る。 

その 瞬間の 稍々 ふり 仰いだ 額から 胸に かけて 靑 白い 月 あかり を 浴びた 悲壯な 美し さ を 忘れる 事 

が 出来ない。 

自分 は 右に あげた 場面の 如き は 一 般の 人の 好みに 適 ふ あり 来りの 使 ひ 古しの ものである 事 を 否 

. む もので はない、 た r か、 る 陳腐な 場面 をも單 純な セ ンチ メンタ リズム に陷ら ない で活々 した 力 

-ぁ る 人生 の 一 斷面 として 見せる ロバ アト ソン を 偉な とす るので ある。 

MIC ほ AND  A1EN 

Madeleine  I、ucette  Ryley なる 作者の 名 を 自分 は 初めて 聞く。 

P 分 は 文藝の 作品に 附 さる ゝ檫 題に 特別の 輿 味 を 持って ゐ るが ノ Mic-e  and  Men と 云 ふの はい 


4&S 


.代 一世 一ん ン 'ノ 卜ァ パロ 


か にもい き/、 した 新しい 感じが して 嬉し か つた。 けれども 想像した と はちがつて 劇 は 至極く 甘 

いものだった。 

育兒院 の孤兒 なる 少女 を 養女に して 自分の 考へ 通りに 敎 へ 導き、 やがて それ を 自分の 妻に しょ 

うとす る 浮世に 遠い 哲學者 は 結局 自分の 企ても 若い 女の 萌え出る 心 を 支配せ す、 た: M 恩愛の 情の 

みが 二人の 間 をつな ぐ 事 を 知って、 若き 甥の 手に 娘を殘 し、 若き 二人の ピアノに 合せて 歌 ふ 歌の 

あんちょく 

聲を 後に して 立 去る、 と 云 ふ 筋で 筋 丈 聞く と 非常に 面白い けれども、 推察す るに 原作者 は 安値な 

喜劇と して 笑 ひ を 購ふ事 を 目的と したら しくな くもが なと 思 はれる 惡 ふざけの 場の 多いた め 月並 

な ものに なって しまった。 た V  II バ アト ソ ンの嚴 かな 人格が 到底 惡 ふざけ を 許さない ので 彼の 姿 

が 舞 臺に現 はれる と、 本來惡 ふざけに 陷る 可き 場 も 輕ぃぺ M ソ スを殘 して 特別の 味 ひ を 保つ 事が 

出來 た。 更に 邪推 を 逞しく すれば 原作者の 描いた 心 持で 演すれ ば 主人公 は 馬鹿な 學者 となる 可き 

を、 ロバ アト ソンの 舞臺に 於て は 世 なれぬ 學者 として 現 はれた のではなかった らう か。 

• 年た けた 男が 初心な 小娘 を 拾 ひ 上げ、 それ を 自分の 思 ひ 通りに 敎へ 込んだ 後で 自分の 妻に する 

と 云 ふの は、 たと へ 此の 戯曲の 哲學 者の 心 持に 些か も 近代的な ところ はたく とも" 自分に は ひど 

く 面白く 思 はれた。 さう 云 ふ 結婚なら ば 自分 も 試み t い と 思 ふ。 


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M リ オットの 小娘 は 最もよ く 此の 女優の 特 點を發 揮した。 子供ら しい お凸 も 可愛らしく、 ハム 

レツ 卜の オフ エリアの 狂亂の 時と はう つて か はった 出来であった。 輕 ぃヒュ モ ラスな 持ち前の 演 

技が わざとら しい 動作 を用ゐ すに、 殆んど 役者が 持 役 を 演じて ゐ ると 云 ふ 努力の あと さ へ^めぬ 

程度 迄 &然に 動いた。  . 

昨夜の キップリングの 劇と 同じく 序幕 一 一幕 目 三幕冃 はたく 大詰の 一 場を說 明す るた めだった か 

の 如く つまらなく 筋 を 運んで 行く。 たまたま 現 はれる 仕出しの 見え透いた を かしみ が 見物 をよ ろ 

こばせ るば かりで、 淡々 たる &バ アト ソ ン の 哲學者 は あまりにお 芝居に 遠い 爲め 寧ろ 彼等 を隆怠 

に 誘ったら しい。 そのために 一 曆 仕出しの くすぐり を 待ち かま へ て ゐて思 ひ 切り 笑 ひませ うと 云 

ふ 群衆 心理が 土間から 三階 迄 漲り 渡って ゐて、 * 々度 は づれな 笑聲が 湧き か へらう とする。 けれ 

ども 口 バ アト ソンの 姿が 再び 現 はれる とその 笑 聲は其 場 に 不相當 な も のだった と氣が つくらし く 

てれた 調子で 消えて 了 ふ。 

歐羅巴 諸國は い ざ 知らす 亞米利 加の 芝居 客 は 無智で 行儀が 悪くて 心底から 憎む 可き である。 彼 

等 はどう かして 笑 ひ 度い と 待ち 構へ てゐ るので、 一寸した 事に も聲を 惜します に 笑 ひ 出す、 笑聲 

を 張 上げ る 事に よつ て 自分 の 存在 を舞臺 の 役者 にしら しめ んと思 ふ 色 氣を持 つて ゐ るの かと考 へ 


470 


ft 一 ifr 一の ン ソ トァノ ぐ 口 


られる 程 わざとら しく 廣吿 的に 笑 ふ。 此の 笑聲 と、 ところ かま はぬ 拍手と は 芝居に 行く 度に 疳頫 

の 種になる の である。 

それでも 口 バ アト ソン の 芝居に 於て は 此の つ 、しみの ない 笑聲が 比較的に 少なかった。 思 ふに. 

P バ アト ソンの 前で は 馬鹿 笑 ひ を 恥 かしい と 思ふ氣 持が 自然と 起る ので あらう、 習慣 的に 笑 ひ 出 

す 者 はあって も 直きに 忍 笑 ひに なって 消える のであった。 

自分 は 憎らしい 亞米利 加 人に 對 して ざま あ 見や がれと 云って やり 度い 心 持 を 感じ、 且. っ實に a 

バ アト ソ ンを 尊敬した。 

くすぐり を 以て 綾と した 前 三 幕と は 違って、 大詰 は 稍々 古き 時代の 繪ゃ音 樂に引 起される 上品 

な 淡い 情趣に つ、 まれた。 それ は 確かに 花の 散る を 見て 心 はかなみ、 夕べの 雲のう つろ ひに 歎く 

やうな あり 來 りの 哀調だった にち が ひない。 けれども 自分 はか、 る あり 来りの 哀調 を 今 もな ほな 

つかしと する。 

H  メラ ルドの 芝生 を圍ん で哚き 亂れる 花の 中に 置かれた 腰掛に 哲學者 は 若い 娘 を 伴って 來て、 

近く 一 一人が 結婚す ベ き 事 を 告げる。 ロバ アト ソン の 落着いた 眞 面目な 顔に あふれる ばかり-の 慈愛 

. かんたん  71, 

が 浮び 出る。 娘 は 無 邪 氣に簡 短に 義理と 情に 育てられた 自分で ある 事 を 思 ふが、 心に は哲學 者の 4 


甥の 活々 した 若く して 派手に 賑やかな 姿 を 描いて ゐる。 M リ オットの 初心ら しいく、 り 顎の 顔に 

淡い 儍 さが 漂って ゐる。 

その 瞬間に は 此の 戯曲 を全體 として 見る 時に 感じる 不滿 から 離れて 緊張た 心 持で 見た。 此 場に 

於け る 二人 は 誇張の 伴 はぬ 純粹 さからし みん \ 湧いて 出る 力の 中に あった。 

更に 叉 若き 甥と 少女と が 同じ 腰掛に 並んで、 少女 は 母親が^に あるならば 其の 胸に 鎚 つて 泣 じ 

やくり 度い やうな 顏 をして、 自分 はどうしても 哲學 者と 結婚す るの だと 云 ふ。 それ を片 かげで 聞 

いて ゐた 哲學 者の 再び 現 はれて 來た 古びた 姿に も 力 ある 寂莫 があった。 

最後に、 慈愛の やるせな さに 自を はかなむ 溫情を 持ちながら 少女の 手に 鍵を與 へ、 若い 二人が 

家の 中に 入る と 間もなく、 ゆ るく 高く 響い て 來るピ ァノ につれ て 一 切 を 忘れた 若々 しい 聲で 合唱 

する 歌の 聲を 聞きながら、 矢張り 落着いて 眞 面目な 顏 つきで、 靜に枝 折戶の 外に 出て 行く 哲學 者: 

の 稍. かぐんだ 背の 後 姿に 寂莫は 一 暦 重い 影 を 投げた。 

、rrIE  PASSING  ()F  、niK 闩 hir.d  fl(>cr  BAG ハ 

朝の 食卓で 幼稚園の 先生 をして ゐる 女が、 昨夜 ボ ス ト ンの 町で 自分の 姿 を 見た が: E 處か 芝居に * 


ft—ffr-"^ ン ソ ト ァ ノぐ n 


行った ので はない かと 尋ねる ので、 叉々 シ ユウべ ルト だと 答へ ると、 女 は 仰山な 磬を 出して、 實: 

翁 

は 自分 も 友 だち の 一 家と ロバ アト ソン を 見に 行った の だと 云って 聲丈は 若々 しいの がしき りに 手 

ぶり 身ぶ り で 話し 始めた。 間もなく 勤めの 時間が 迫って 來 たので 卓 を 離れた が 更に 自分の 側に 寄 

だしもの  1 

つて 來て、 今夜の 出物 は 昨夜の よりも 面白い から 是非 見なくて はいけ ない、 自分 は ロバ アト ソン. 

が 千 九 百 八 年の 亞米利 加 興行の 時 見た がその 印象 はい まだに 忘れられな いと 云 ふ。 自分 は P バ ァ 

ト ソン の 芝居 はすべ て 見る つもりで 切符 も旣に 買って あると 答へ ると、 それで. は 今夜の 戲 曲の 原 ■ 

作 を 讀んだ 事が あるかと 聞き、 自分が 讀 まない と 云 ふと、 一寸 待って ゐ. て くれと 云ひ殘 して 二階 

の 部屋に 馳 上って 行つ だが、 直ぐに 下りて 來て 自分の 前に 厚ぼった いその 本 を 投げ出す やうに 置: 

くと 今度 は 何も 云 はすに、 あた ふた 馳け 出して 行って しまった。 

學 校から 歸 つて 今朝 借り た 本 を 開いて 見た。 三 幕の 戲曲だ と 云 ふから 小說 がかな り 長いの だら 

うと 思ったら、 厚ぼった いその 本 は 作者 Je3nle  IC.  Jerome の 短篇 集で、 戲曲 にしく まれた の 

ありがた 

は卷頭 僅 に 十 頁ば かり を 占める ものであった。 短 いのは 何より も 雉 有 いと 思って 直ぐ に讀み 始め 

たが、 たんと いってい、 かっか まへ どころ のない 程簡 短で、 おまけに あんまり 面白くない。 小說 

ではなくて 小說の 梗概に 過ぎない やうな 書き方で 且つ 會話 らしい 會話 もない ので あるから、 いか 


なる 職人 的 技能 が ュ れ を 脚色 した かと 云 ふ點に 好奇心 を 誘 ふ 位な ものであった。 

ジ M  ロォム • ケィ • ジ M  E! ォ ムと云 ふと 自分 は 直ぐに 慶應義塾の P 敎授を 思 ひ 出す。 丁度 敎校 

が 初めて 日本に 渡って 來た當 座だった の だら うと 思 ふ、 豫 科の 自分 達の 組 を 受け持 たれた。 英吉 

利に も 雲突く ばかりと 云 ふ 形容が 行 はれる だら うと 思 はれる 身長と 姿勢 を 持ち、 バ アナ アド . シ 

ョ才 の顏を 持つ 敎授は 無愛想に その 癖羞 かし さう に 教場に はいって 来られた。 さう して 其 時 初 め 

じょ 5 だん 

て 聞く の で 不思議と 響 いた ジ H  口才 ム . ケィ. ジ M  &ォム と 云 ふ 戯談ぢ み た 名前 の 作者 の Three 

JVIen  in  the  Boat と 云 ふ 本を敎 へられた。 ひどく むづ かしい 本で、 それ を 日本語 を 知らぬ 敎授 

なまけもの 

が 英語の 力の 極めて 贫 しい 生徒に 敎 へる ので あるから、 勉強家 は 苦しみ 怠惰 者は氣 をく さらして 

しまった。 

まだ 一 週間 もた、 ない 頃だった が 或 曰 自分 は 一 番 後の 席 を 占めて、 その 朝來 がけに 買って 來た. 

雜誌を 机の下に かくして 讀ん で ゐた 。教授の 流暢な 音讀が 高く 低く 績 いて 行く の を あだに 聞き 過" 

して ゐる とその 聲はピ タリと やんだ。 と 思 ふと 同時に 敎授は 思 ひ 切って いかめしい 聲で 自分の 名.. 

を 呼んだ。 

びっくり  まげ  • 

吃驚して 敎 壇の 上の 丈 高き 敎授を 見 上 ると、 震へ る 程 怒って ゐる らしい 顏の 髯に裡 もれぬ 白皙. 


474 


ft 一世 一の ンソト アバ H 


の 部分に サット 紅が 走った。 それが 怒って 赤くな つたので はなく、 大きな 聲で 生徒 を 叱った のが. 

羞 かしかった ために 赤くな つたら しく 感じられた。 直ぐに 又朗 讀は績 いたが 敎授は 息が はづ むと. 

云 ふ 様子に 見えた。  、 

かう 云 ふと ひどく 自分 は圖 太く 落つ き拂 つて ゐ たやう だけれ ど、 實 はかなり 驚かされた ので あ 

る。 何時も かう して 雜誌を 讀んで ゐても 日本人の 先生に はつひ ぞ 見つかった 事 もない 程 巧妙な の 

を 見つけた の も、 自分 達の 級に 來 てから 未だ 間 もない のに チヤ ンと 自分の 名 を覺ぇ 込んで ゐ るの 

も、 敎授の 含み 聲の 癖に 凛と して ゐる聲 と、 特色の ある 容體 とともに 自分 を 畏服せ しめた。 其 後. 

間もなく 自分 達 は 教授の 手 を 放れた にも か 、はらす、 自分の 頭に は その 時の 光景が 妙に はっきり 

とこび りついて ゐて、 敎授の 六尺 以上の 後 姿 を 凌い もの、 やうに 見送った 搴も ある。 不思議な の- 

はジ MP ォム. ケィ -ジェ 口才 ム の 名 を 聞く と 直ぐに P 敎授を 思 ひ 出し、 P 敎授と 云 ふと 直ぐに 

ジェロ ォム- ケィ. ジ H  口 才ム の 名 を 思 ひ 出す。 時には ジ M  & ォム *ケ ィ-ジ 14ロ ォム も P 敎授 

の やうな 髯に 埋もれた 雲突く ばかり であるに 違 ひない と 思 はれる 事 も あり、 時には P 敎 授がジ ェ 

口 ォム. ケィ. ジ Hp ォ ム 其の 人なん ではない かと 云 ふ 疑 ひが 起きる 事 もあった。 

その 夜。 


475 


、rlle  I-assing  of  the  H^^.o-.  Floor  Bade は 英吉利く さい ものである。 道 t 的な、 常 ^ 的 V- セ 

ン チメン タルな 喜劇で、 それ 丈に 英米の 見物 を 嬉しがらせる 要素 を 充分に 備 へて ゐる。 

多分 舞臺は P ン ドンで あらう、 英吉利の 中流 階級の 下宿屋に 集って ゐる 心の 邪し まな 入々、 利 

己、 貪慾、 鄙陋、 虛榮、 我傣、 いろくの 惡ぃ 根性 を 持った 一 群の 中に、 假の宿 を 求めて 來た思 

スト レン. チヤ ァ 

ひも 掛けぬ 旅 人の 身に 備 はる 德、 近づく 者の 心に 觸れ る溫 情、 懇切なる 言葉に 影響され て、 昨 

日 迄の 惡德 から^に 寛容、 博愛、 誠實、 あらゆる 善き 心根に 變 ると 云 ふの が 此の 戯曲の 观 つた 題 

目で ある。 しかも 此の 奇蹟 を 英吉利ら しい 寫實 的な 形式で、 英吉利ら しい 通俗な 諧謔で 運んで 行 

くの が、 大膽 で風變 りで ある。 けれども 此の 風變 りの 味 ひの 出た の も&バ アト ソン あっての 事で、 

若し 平 俗な 役者に よ つ て 演じら れ た の ならば 太郞 冠者 作 に 隣り したで あらう。 

ロバ アト ソ ン は 例によって 僅少なる 動作と 臺, 1 から 完全に 美しい 幻影 を 描き出す。 感情の 變化 

に 伴って 變 化する 彼の^が 此の 役に 於て は 動かなかった 。たぐ ヂット 相手 を 見詰め る HI に 白熱の 

光が 燃えて、 その 光に 射られ.^ 者 は 最早 や 彼の 一 百 葉の ま、 に從 ふより 他に 途 がない。 しかも それ 

が威壓 する 力よりも 溫く 親しまし むる 力 を 強く 持って ゐる。 その 聲に 於ても 低い 太い 聲が  一 ^低 

く ゆるく 一筋に 流れ出て 波狀を 描いて 延びて ゆく、 黑ぃ 衣服、 黑ぃ 外套" 黑ぃ隋 子に 杖を携 へた 


476 


ft- 一世 一の ン ソトァ バ 6 


姿 は 些か もつ くりあげた 舞臺の 人ら しくな く、 - 其の 家に 於て ありの ま、 なる 感情から 妻に 對し子 

等に 對 して 物語る 時の 口 バ アト ソ ン 其の 人で ある やうに 思 はれた。 

さう 見える 程 無技巧の 偉大 さから、 邪し まなる 人の 心に 透徹す る 溫情を 以て 相手をして 善に 赴 

かしめ る 力 は ロバ アト ソ ン の 身に 倫って ゐる 力で あると 思 はれる。 彼 は必す 他人に 對 して ゆきと 

どいた 理解と 溫情を 持つ 人に 違 ひない。 

此の 劇の 如き は 全く 形に 現 はれた 劇で なく、 形と して は 現 はれぬ 内に 潜在せ る 力の 劇であった。 

ロバ アト ソンの 技藝の 劇で はなく、  II バ アト ソンの 人格の 劇であった。 あまり 面白くない 害の 芝 

居 を 面白く 見た 事 を 感謝す る。 

MWR.CHAN.T  VENICE: 

,  If-  .  ユダヤ 

自分 は 此の 劇 を 好まぬ。 基督 敎國の 民が 執拗く 執念深く 意地 惡く 猶太 を 虐めて 喜ぶ のが 面憎い 

ので ある。 猶太に 對 する 偏見 を 持た す、 . 寧ろ 落つ く 可き 國も なく 何處に 行っても 猶太 々 々 と 厭 ひ 

嫌 はれる 漂泊の 民に は 哀れと 思 ふ 同情が ある。 何時でも 此の 釗を 見る 時 は 自分 は 猶太の 方に 同情 

する。 殊に ポスト ン に來 てから 見た シャイ 口 ックに 於て 殊に. 猶太に 问 情した。 それ は 下 は 土間 か 


4/7 


ら上は 三階 迄 男女 老幼 を 問 はすた に 一人の 獱太を 憎む 集 團を形 ちづく り、 ホ オシ ァが うす 唇の ひ 

るが へ る ま 、 に 拍手し 喝采し、 あくまでも 猶太 を 迫 寄せん とする 精祌を 露骨に 昆 たからで ある。 

w バ アト ソ ン 以前に 見た 米國の 役者 達に 比して 市 川左圑 次の シャイ ックは 少しも 見劣りが し 

なかった。 彼が 今日 迄 踏んで 來た 筋道 や 役者と しての 態度から、 人と して は已 わの^す ると ころ 

を 貫く 強い 意志 を 持つ 人ら しく 思 はれて ひそかに 尊敬して ゐる けれども、 將來 はい ざしら す 現在 

に 於て は 左 圑次を 上手 だと は 思 はない。 けれども シャイ n ックは 傑作 だ つたと 思 ふ。 丸 撟忠彌 よ 

り も * 藤 枝 外 記よりも * ジョン. ガ ブレル. ボルク マ ン よりも 確に よか つた。 彼の シャイ ロック 

は 我儘な 短氣な 怒り 出す と 威勢の い 、 さう して 根 は江戶 ツ子ら しい 猶太だった。 そわに 比べ て 東 

儀 氏 の は 憎く もなければ 可愛く もな いと ぼけた おやお で、 大そ れた 人肉 を抵當 に 金 を 貸す やう な 

因業なん で はなく、 朝顔 をつ くりながら 新聞に 狂歌 を 投書し さうな 猶太だった。 

&バ アト ソンの シャイ 口 ッ クは何 處迄も 上品な 猶太で ある。 たと へ 鈎な り に 曲った 鼻 をつ くり 

觳く物 を 見詰める 目つ きをしても、 持って 生れた 氣 高さ を 覆 ひかくす 事 は出來 なかった。 自分 は 

始め に 此の 劇 を a ると いかに も 無慈悲に いぢめ られ てる やう な氣が し て 猶太 を 哀れみ 同情す る と 

S つたが、 a バ アト ソンの シャイ & ックを 見る に 及んで 更に 一 層 此の 感を 強く した。 


478 


It 一  1M: 一の ンソ トァバ Q 


ロバ アト ソンの 身に 備 はる 上品な 威厳の ある 容體の 上に、 それ を 包む 溫 かさと、 それと 反對に 

銃い 神經 質さうな ところと がいり まじって、 あり 來 りの 扮 装に 從 つて 猶太の 老爺 を 装っても なほ 

且つ 人の 心に 親し さを覺 えしめ る ものが ある。 淸軀 鶴に 似たり と 云 ふ 形容の あてはまる その 姿 迄 

と *_1 よ 

が 直ちに 哀れと 感じさせて、 金 貸 をす るよりも 金 貸に いたぶ られる 時^時 節に あはないで 落魄し 

た 士族の 風情が あった。 

それに も か 、はらす 習慣 的に シャイ & ックの 姿 を 見れば 直ぐと 憎み 嫌 ふ 心地になる 見物 は 猶太 

の 因業 無慈悲 慾 張りの うら を かいた 小氣 味の い ゝ劇 として 喝采す るので あつたが、 自分に とって 

は 基督 敎 徒の 惡 だくみ に 娘 を も 奪 はれた 寄邊 なき 年老いし 猶太の 迫害 さる ゝ殘 酷な 悲劇で ある。 

若しも 此の 劇に 於て 憎むべき 忌むべき 猶太の 虐待され る の を 見て 喜び 嘲笑 は ん とす るなら ば & バ 

アト ソンの シャイ 口 ックは 其の 目的に 適 はない ものが あらう が、 自分の やうに 始めから 猶太の 方 

に 同情 を 持 つ 者に とって は 叉と ない シャイ ロックで ある。 

彼が 憎惡 忿怒 怨恨 呪詛に 熱して 全身 を わな 、 かす 時 最も 強く 感じられる の は 彼が 孤獨の 寂寞で 

ある。 彼に は何處 にも 落つ くべき 國も なく、 頼るべき 身 內も友 だち もな,、、 四方 を圍む もの は 常 

に 掛け M に陷 れんと する ヴ H  二 ス の 市人で 正邪 を 決する 法廷に さ へ も 信赖を 置; 事の 出来ない 此 


479 


め 中 疑 はしい 哀れ さが 瘦 せた 背中に まつ はって ゐる。 確實 なるべき 勝訴に 復 響の 熱情 を 煽られて 

. 寧ろ 自の 孤獨を ほこる 色の 現 はれる 瞬間に も、 か ゝる 事に よって 僅に 生 甲斐 ある 人と して、 その 

背景の 悲慘 が先づ 浮んで 來 るので ある。 殊に ボ才 シァが 詭辯と しるよ しもな く、 愈々 勝訴の 確か 

さ を 想 ひ歡び 極って 其 足下 に 膝まづ きその 衣の 裾に 接吻す る と こ ろ は 哀れ を盡 した 姿 に 見えた。 

さう して 彼 はヴェ 二 スの 市人の よろこび のどよ みの 中 を、 失望と 屈辱に うなだれて よろめき^ 

ぎ、 やがて 戶の 外に 消えて 行った。 

絶望の シャイ P ックに 於て 他の 役者と 異 つて 著しく 目立った の は、 U バ アト ソ ンに備 はる 品位 

の爲 めか 屈辱の 情の 現 はれた 事で ある。 それが 彼の シャイ 口 ックを 最も 鮮明に 區刖 する 色彩の ひ 

とつであった。 

思 ふに ロバ アト ソンの シャイ n ック は沙 翁の 描い た シャイ 口ッ ク ではない であらう。 少なく と 

も 幾人の 役者に よつ て 演ぜられ たる シ ャィ u ッ クとは 全然 類 を 異にした シ ャィ; i ックだ つたに 違 

ひない。  -汝ぶ J  ,a ふ  .  . 

〇yKSA ズ ANI)  CLKOPA 、「ズ A 


43.0 


ft— tfr— ® ンソト アバ a 


自分に はバ アナ アド • シ ョ ォの 作品 は 最も 理解し にくい。 もとより シ ョ 才が何 を 書かう とした 

かその 意味 を 捕へ るの は I 時には うるさく も 思 はれる シ ョ ォ 自身の 序文に よ. つても —— 容易で 

あるが、 一 々とり か はされ る會 話の 皮肉と 機智に つ、 まれた 樂屋落 を 理解す る 事が 出来ない と 云 

ふので ある。 憚らす 云 ふと 自分が 英吉利の ブ ル ジョァ でない 限り は 到底 も 駄目 だと 思って ゐる。 

これ は 何時でも 外國 人の 作品 を 讀む時 感じる 事で、 その 爲 めに 鉀ぃ味 ひ を 味 へない か はり に 充分 

買 ひかぶ つ て滿 足す る 事 も あるに 違 ひない。 さう 考 へ る爲 めで あらう か 自分に は 有名な 歐洲の 作 

家の 作品よりも 自分の 生れた 國の 作家の 作品 を 一字 一 句 贅澤に 味 ひながら 讀む 方が 面白い。 , 

或國の 公使館員 として 日本に 長く 居た 所謂 日本 通の 外國 人が 云った 事が ある。 日本の 芝居 を 見 

て 最も 自分 達外國 人に 解し がたいと ころ は 人々 が 舞臺に 同情して 泣く 時で はなく 笑 ふ 時で ある。 

しぐさ 

殊に 動作と して 現 はれぬ 臺詞の を かしみ は 到底 其の 國に 生れた 者 以外に は 通じない。 

自分が シ ョ ォの 劇に 就い て 同じ 歎き を 痛切に 感じた の は、 昨年 シ ョ ォ の 劇 を 三 つ 「人と 超人」 「力 

ンデ イダ」 「馬 泥棒」 と引績 いて 見た 時で ある。 それ 等の 劇が その 時 迄に シ ョォを 讀んで 得た 感じ 

と 全然 相 達した ものと して 舞臺 に 現 はされ、 その 相違の あまりに 甚 はだしい のに 驚, いたので ある。 

これより さき 大場惣 太 郞氏か ら 頂戴 し た 「自由 劇場」 と 云 ふ 本の 中に、 英吉利 に 於け る 自由 劇場 


481 


と 云 ふ 題だった か 或は それに 類似した 他の 題だった か、 兎に角 小山 內 先生の 筆になる 紹介だった 

が、 文中に 新しい 劇の 上演の 際 たまたま シ ョ ォとィ ェ —ッ の 喜劇 を 一 一つ 並べた 時、 初めから しま 

ひ 迄 劇場 內は樂 しい 笑ひ聲 にみ たされた と 云 ふ 一 節が あった。 それ を 讀んだ 時 一 體ショ ォの戲 曲 

は それ 程 笑 ひ 通して 見ら る 可き ものな の だら うかと 思 ひ 迷った。 それ迄に 夥しく 雜 誌に 出たり 單 

行 本と して 出版され た 日本 譯を 讀ん でも 笑 ふ 可き もの ゝ やうに は 思 はれす、 井上 正 夫の 「馬 泥棒」 

を 見に 行った 時、 有樂 座の 廊下で 文壇 知名の 人々 が 集って、 井上の 馬 泥棒 は 沈痛な 調子が あって 

かた ぎ 

い 、とほめ 合って ゐ たの を 傍へ 聞きした の も 忘れられなかった。 あの人々 は 一 度たり とも 笑 ひな 

ん かしす にむ づ かしい 顏 をして 考へ 深さう に 見て ゐた。 

實を云 ふと 自分の 如き はシ ョォ を讀む 時, 時々 は 吹 出し 度い やうな 箇所に も 遭遇した の だが そ 

んな 時に も 笑って は 自分の 沽券に か、 はる やうな 氣 がして 無理に しかつめらしく しょうと 努めた 

傾き さ へあった。 

それが 上記 三 つ の 戲曲を 舞臺の 上に 見た 時に、 見物人 は 始めからし まひ 迄 嬉し さう に 笑 ひ 通し 

に 笑って居 るので 自分 一 人 笑 はない のが か へって 恥 かしい 位だった。 さう して その 笑 ひ はあり ふ 

れ たくすぐ りの 喜劇に 對 すると 些か も 違 はぬ 笑 ひだった やうに S3 はれた。 


482 


^一世 一の ンソト ァハ' d 


其の 時から シ ョ ォに 就て ひそかに 自分が 考へ て ゐた事 を 人前で 云っても 恥し くない やうな 氣が 

して 来たので ある。 それ は 自分 は ショォ の 戯曲 は それ 程眞 面目に 考 へないで もい、 もので、 五 口々 

にと つて は 意味 あり 氣に 聞え る臺詞 も 英語 の國の 人に は 存外く すぐり で あり 駄洒落な ので はない 

かと 云 ふ 事で ある。 從 つて ショ ォの 戯曲の 面白み は樂屋 落に 傾く 爲め 自分 達外國 人に は 解りに く 

い ので あると 思 ふ のであった。 

「馬 泥棒」 を 演じた の は 彼の 愛蘭 土の ィ H 1 ッ、 シ ンヂ、 グレゴ リイ 等に 指導され た 一座で ウイ 

ッ ト に 富む 愛蘭 土人の なら ひで あらう か、 沈痛なる 井上の 泥棒に 比して いかにも 氣輕 なお どけた 

泥棒であった。 そして 笑 ふ 事の 嫌 ひな 自分 は 井上の 太々 しい 泥棒の 方が ほんと なんだ と 思 ふ 心 を 

禁じ 得なかった。 

その 人々 の 話の 間に もシ ョォと 云 へば いかにも ふざけた 頓智の い 、作者 だと 云 ふやう に、 殊に 

女 仲間に 愛讀 されて ゐ るの を 見て 面白く も を かしく も 思った。 もとより その 人々 はショ ォを 正統 

に 理解 出来ない のに は 違 ひない が、 又シ ョ ォの惡 ふざけ を さへ 悪ふざけと 知る 事の 出来ない 自分 

の 如き も 誤解の 方向 こそ 違へ ぼん くらの 點に 於て は 五十 步百步 の 差に 過ぎない と 思った。 

一方に 於て、 ショ ォの戲 曲が 會我廼 家 を 見る 大阪 人の 心 持で 見られて ゐ ると 云 ふ 事 は、 自分 を 


483 


して 愈々 外 國の讀 書の 範圍 の廣く 一  般 的なる 事から 生じる 不快 さ を 思 はせ、 叉シ ョ 才 自身に も此 

の 一般の 讀者觀 客 を あてこむ、 くすぐ りのある 事 は 否まれ まいと 思 ふので ある。 

「シイザアと クレオ パト ラ」 は 現代の 唯 一 人の 古典 役者なる 故 を 以て フォ才 ブス •  &バ アト ソン 

の爲 めに 書 下した ので、 ロバ アト ソンが ゐ なかったら 書かれなかった もの だと、 噓か眞 か 知らな 

いが、 ショォ 自身 斷 つて ゐる。 此の 劇に 於け る シイザア は 古. い 舞臺の 英雄に 對し 要求され た 信す 

冗らざる 超人的 英雄で はなく、 普通人の 肉と 血 を 持ち、 あまつ さへ 所謂 英雄ら しい 英雄の 殆んど 

すべてに 缺け てゐた Humor を 持つ 人間で ある。 

しかしながら 紀元前 幾年の ァ レキサ ン ドリアの 背景 II たと へそれ は 近代 印象派の 影響 を 受け 

た 色彩で 塗られた りと は 云 へ -II の 前に 姿 を 現 はした 時、 ロバ アト ソンの シイザアの 外 觀は鲭 の 

出た 歷 史的 傳說 的に傳 へ ら れたジ ュ リアス • シイザアであった。 彼の 輪郭の 正しい 男らしい 顏に 

桂の 枝の 冠 はう つりよ く 古典 劇で 毅 へた 身體は 力に 充 ちた 美しい 立像 を 描いて 立った。 

ドラマ ティカル  ジ ズスチ ユア 

けれども 一 度 口 を 開いて 極めて 散文的な 調子で ヒ ュ ゥモ ラスな 臺詞を 戯曲 的で ない 身 振で 運び 

始める と、 幾 世紀の 間繪畫 彫刻 演劇が 與 へ た 模型 的 英雄と は 全く 違 つたなつ かしむ 可く 親しむ 可 

き シイザアが 現れる。 玆 にショ ォ のどう だ 驚いたら うと 叫び 度くて たまらぬ 歡喜は 忽ち 有頂天に 


484 


R- 一世 一の ン 'ノ ト アバ 口 


なる であらう。 

時の 進む に從 つて 此の 近代の 色彩 を帶 びた シイザアの 著しく 理智 的で ある 事が 又 明かに なって 

來る。  , 

泉 鏡 花 先生の 作品 を 初めて 讀んだ 或 人が、 此の 作者の 小 說に現 はれる 人間 は、 その 江戶 ツ子た 

)  か たき やく  ー 

る と田舍 者た る と を 間 はす 男女 老若 を 間 はす 立 役た る と 敵役た る と を 間 はす、 何れ も 機智 に 富み 

警句 の やりとりに ひけ を 取らない 事 驚く ば かりで、 若し 世 の 中が こ んな 人間ば かりだったら どん 

な だら うと 想像したら を かしくて たまらなくな つたと 語った 事が ある。 シ ョ ォの 人間 も 同じく め 

まぐ るし い 迄 機智に 富み 警句に 畳 かで あるが、 それと ともに 彼等 は 何れも Fabian  Society に羼 

して 理窟 を 云 ふ 丈 充分 理智 的なる 事も顯 著で ある。 

シイザア も 亦 身邊の 一 切の 事から、 或は 征服した 民の 取扱 ひ 方に 於ても 戰爭 そのものに 於ても 

しかの みならす 

浪漫的で なく 實際 的で ある。 加 之 彼の 言動 は 全く 現代的で ある。 此の 一事から 卽ち 背景 衣裳 人 

物の 輪郭の 昔から 型に な つて 人の 心に 刻まれて 居る ところに、 現代の 思想 會話を 注ぎ入れた 事 か 

ら豫 期した ある 不調和 を 引 起して、 それでも 直ちに ヒ ュ ゥモ ラスな 筌氣が 舞臺に 漲って 來る事 を 

シ ョォは 始めから 蜆った に 違 ひない、 見物 はシ ョォの もくろんだ 通り 輕ぃ心 持で さは やかに 笑 ひ 


4S5 


つ > ける。 シイザアの 唇に 思 ひも 掛けぬ 輕ぃ 言葉 を 浮ばせる 事はシ ョ ォ自 最も うれしい 事だった 

であらう。 彼の 厳格な 义祌經 質な 顏に 一 人よ がりの い たづら 者の 人の 好い 笑 ひの 浮ぶ の は 想像す 

るに 難くない。 

更に J! バ アト ソン をして シイザア を 演ぜ しめたの もショ ォの 巧妙なる 謀 事の 一 つで あらう。 口 

バ アト ソンの 持 前の 生眞 面目 さに 諧謔 は 不調和の を かし さ を持來 すと 共に、 惡 ふざけになる^ か 

ら 距離 を 保 つ て 其處に 新鮮な 味 ひが 出た。 

くろ、 J 

見て ゐる 間に 自分 はシ ョ ォ 一 人が 黑衣を 着て 絲を 引く 人形芝居の 氣 がした。 さう して ロバ アト 

ソン はシ ョ才の 人形と なる 事 を 承知の 上で 苦笑 ひしながら、 手 を 動かし 足 を 動して ゐ たやう に 見 

えた。 

幕の 下りる 毎に 湧 起る さかんなる 拍手喝采に 酬 ゆるた め、 p バ アト ソ ンは三 幕 目が 終る と簡短 

な 挨拶 をした。 

友人 バ アナ アド • シ ョ ォの戲 曲が 亞米利 加に 於け る藝 術の 中心と も 云 ふ 可き ボ ス トン の觀寄 

にかく も 理解され 稱 讚され た 事 は 彼の 爲 めに 自分の 最も よろこぶ ところで ある。 

と 云 ふ 意味であった。  * 


4S6 


代 一世 一の ン' ノト ァ パ' 口 


tl バ アト ソンの ボストン に 於け る 一 世 一 代の 興行 は 一 一週間で 終る 箬だ つた。 けれども 此の 名優. 

の舞臺 から 永久に 退く の を惜む 人々 の 熱心なる 希望に、. 更に 一 週間 延期と なった、 め、 自分 は 彼,. 

の ォセ& を 見る 機會を 得た。 

自ら 此の 國の 最も 知識 あり 最も 藝術を 愛好す る 市民と 許して ゐるボ スト 二 ァ ンが 曾て 11 バ アト 

ソンの オセロ を 見た 事がなかった と 云 ふの は 彼等の ほこり を 全から しめぬ 事であった らしい。 何 

故に &バ アト ソン は ボストンに 於て はォセ 口 を 演じない かと 云 ふ 詰問 や、 此の 名優の ォセ & を 見 

ないで 終る の は 千秋の 恨みで あると 云 ふ 歎願 や、 さまざまの 形式で 劇場に、 ロバ アト ソン その 人 

に、 叉 新聞紙 上に 手紙 を 寄せた 者が 數 知れなかった と 聞く。 

一週間 延期の 記事の 新聞に 出た 日、 その 朝の 十 時から 次の 週の 切符 を賣 ると 聞いて、 その 一 衣 

をはづ して は 見られない ォセ ロを寓 一 見逃して はと 思って *  丁度 十 時 頃に ポスト ンに 行った。 

晴れて はゐる けれど 雪の 後の 寒い 朝であった。 恐らく 自分 程 早く 切符 を 買 ひに 來た者 は ある ま 

いと 思 ひながら M 場の 前に 來て 見る と、 旣にニ 街^も 列 をな して 待って ゐ るので あった。 自分 は 


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少し 羞 かしかった けれど その 列の 最後に 加った。 

芝居 を 見る 客の 大半が 女で ある 結果 列 をな す もの 、多く も 女で ある。 みんな 寒さう に 厚 ぼ つた 

い 外套に くるまり マ フに 手を溫 めながら 佇んで ゐる。 中には 氣 長に 落着いて 小說 本に 讀み 耽って 

ゐる者 も あり、 連れの 人と ロバ アト ソ ンを あたり は^からぬ 高聲に 論じあって ゐる者 もあった。 

一 步 一 步と 切符 賫 場に 近づいて 行く の を もどかしく 思 ふけれ ど、 か へり みれば まだ 後から も 後 

から も 人が 集って は 自分の 後に つらなる の を 見る と、 何れも 同じ 希望 を 持つ か、 る 多くの 人の 中 

に 在る 事 はお 祭の やうな 氣も する のであった。 約 一 時間 も 待って 渐く 順番が 廻って 來 たので ォセ 

P の晚と 最終の 夜のと 一 一枚の 切符 を 求めた。 

それ 程氣を 入れて ゐ たのに 肝心の ォセ 口 の晚 に、 自分 は 友 だち と 夕食 を 認めに 行った 伊太利 亞 

料理で 無駄話の 興に 乘 じて 思 はす 知らす 酒 を 過し、 氣が ついて 時計 を 見た 時 は旣に 開場 時間の 八. 

時 も 少し 過ぎて ゐた。 

そこで 友 だち に 別れた が、 酒の 醉 ひに 落つ きを 失って ゐたゝ め 一 刻 も 早く 行う と 思って 折 柄の- 

人 ご み を 押 分け て馳け 出した。 

劇場 內の. 温められた 空氣と 人い きれ は た^さ へ のぼせ やすい のに 充分 廻って ゐた 酒の 上で 馳け. 


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代' 一世 一の ンソ トァ八 •  n 


. .  ちかづ . 

出した ゝめー I 酒 も 利い, て來 て、 額に は 汗が 流れ 息 はは づみ、 序幕 も 半分 は 終りに 近いて 舞臺 が. 

-X つき り 

朦朧と して 傷ついた 活動 寫眞を 見る やうに 判然し なかった。 

か 、 る 有様で & バ アト ソンの オセロ を 見た の は 名優に 對 する 自分の 尊敬から も 禮儀を 失した 振. 

舞 ひとして 悔 まれる。 

ロバ アト ソン の 役々 の 中ォセ 口 は 最も 毀譽 褒貶 まちまち だ つた もの ださう であるが、 どう 云 ふ. 

風に 議論が 分れて ゐる のか 自分 は 知らない。 思 ふに P バ アト ソン の 創造的の 天分が 到底 前代の 名 

優 達の 淺 した 型に よって 判斷 せらる 、ォセ 口と は 全く 違った ォセ P を 演出す る 事から 起る 見解の 

分岐で あらう。 

外 M 觀か らして ロバ アト ソンの ォセ n は 他の 役者の ォセ 口と は異 り、 煤けた むくつ けな 怖ろ しい 

形相で なく、 たと へその 肌の 色は黑 くと も 高貴な 感じの する、 一見 直ちに 尊敬すべき 將 軍の 風姿 

であった。 どんな 女に も當然 惚れら るべき オセロであった。 C! バ アト ソンの 身に 備 はる 貴族的な 

Ascetic な 特質が 當然 か、 る 相違 を もたらした であらう。 自然の 結果と して 彼に は殘 忍な ところ 

がな く、 オセロ に 於て 最も 自分の 興味 を 持つ 嫉妬から 起る 激怒の 中に 現 はれる 肉 慾 的な ところが 

見^れない。 寧ろ 冷 かにして 且つ 鋭い 纖 細な 神 經を 持つ レ ファイン された 人であった。 叉 時に 自 


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分 は 此の ォセ 口に ハム. レ ット らしい 菘 憂 を さ へ 見出した。 

衣服の 好みに 於ても P バ アト ソ ンは 全く 他 を か へ りみ る 事な く 己れ の 道を步 んでゐ る。 深紅の 

下着に 白い 外套の 姿、 白と 金絲の 寬濶な 衣服、 それが 宗敎畫 に 現 はれる 人に 見る 崇高 さを帶 びて 

ゐる。 

それに 對 して M リ オット の 、デス, デ モナ も 亦 些かの 肉感的な ところの ない 楚々 たる 風情から、 自 

分 は 此の 口 バ ナトソ ン の 一 座に よって 演ぜられた ォセ 口 を、 &バ アト ソン の 思 ひの ま 、 に 理想化 

され 詩 化された ォセ 口と 呼び 度い。 

彼の ォセ 口 は獸の 如く 怒りう めく 激し さを缺 き、 冷靜 なる 判斷の 下に 道德上 許す 可らざる 罪と- 

して 叉 自分の 體面を 維持す るた めに.. テス. チ モ ナ に 最後の 懲罰 を 加 へ るら しく 見えた。 

自分 はくり かへ す。 酒 氣を帶 びて 我が 尊敬す る 名優の 舞臺を 見た 事を悔 む。 

最終の 夜 

フォォ ブス •  &バ アト ソ ンが ポスト ンに 於け る 一 世 一 代の 最終の 夜、 二月 十四日の 夜の 出物 は 

1 つの 劇 を 通じて 演じる か はりに 彼の レパ アト リイの 中の 數 種の 戲 曲から 一幕 づ、 を 取って、 斷 


49Q 


代— 世 一の ンソ トァへ n 


片 的に 一 幕 物と して 見せた。 卽ち TThe  r-assing  of  the  Third  Floor  wack. のプ 口  ログ、 Mice 

nnd  Men,  Light  that  bailed, 及び Hamlet の 大詰で ある。 

死せ る ハム レット の 姿 を かくして 最後の 幕が 下りる と、 名優の 妙技 をた 、 へ ると 同時に その 名 

優の 舞臺 から 返く のを惜 むいり まじった 感情から 止 度な く 起る 拍手喝采の 中に ハム レットの 姿の 

ま、 なる n バ ァトソ ンは現 はれた。 

■ 彼 は 少しも 役者ら しく 氣 取ったり、 見物に 媚びたり する いやみな くし かも 距て なき 親し さを以 

て 短い 告別の 辭を 述べた。 

彼 は當然 云 ふ 可き 言葉と し て 見物の 自分 に 對 する 熟 愛 に 深く 感謝す る と 云 ふ 意味 を 述べてから 

進んで、 

自分 は 劇 の 時代 は旣に 過ぎて 活動 寫眞 ミュ ウジ カル. コメ デ ィ に 當然道 を 奪 はる 可き 運命 に 

ぺ シ ミ ス ト  ォプテ イミ スティック  ドラマ 

あると 說く懷 疑 論者に 耳を貸さぬ も ので ある。 自分 は樂 天 的な 考 へ を 持ち 戲曲は (彼 は 

Serious  Drama と 云 ふ 字 を用ゐ たと 記憶す るが 確かで ない) なほ 將來の 發展に 向って 進み 

つ k ある 事を實 際の 經驗 から も 確信す る。 活動 寫眞の 如き ミ ュ ウジ カルコ メ. ディの 如き 決し 

て 恐る 可き 勢力 を 永久に 保つ もので はない と 思 ふ。 


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と 云 ひ 更に 亞米利 加に 於け る 劇 及び 觀 客の 一昔前に 比して 全然 趣き を 異にした 事から、 近き 將 

來に 此の 國 にも 立派な 國 民的戲 曲の 出現 を豫 想す る 事が 出來 ると 斷 じた。 さう して 終りに つけ 加 

へて、 

まみ 

自分. は 愈々 舞臺を 退く。 役者と して 諸君に 見 ゆるの は 今夜 限りで ある。 けれども 若し 自分の 

演じた る 役々 が 諸君の 胸に 永く 印象され て殘 るなら ば 幸 ひも 甚 はだしく、 自分 はな ほ 舞臺に 

ある ものと 云 へ るで あらう。 叉 自分の 退隱は 自分 一 人の 退隱 であって 我が 最愛の 妻 ゲルト ル 

ウド . エリオット は 必すゃ 近く 再び 此の 地を訪 ふで あらう。 さすれば 自分の 一 心 を 打ち込ん 

だ こ の 一 座の 人々 の 間に 自分 はな ほ 存在し, その 人々. の 舞臺の 上に 諸君 は 過ぎし 曰 の 自分 を 

明かに 認めら る 、 であらう と 確信す る。 

最後に 自分 は 諸君に むかって Farewell を 告げようと は 思 はない、 單に Goodbye と 云 ふ 

のみで ある。 

再び 湧 起る 拍手の 中に 舞臺 のかげ から ゲル トル ウド . M リ オットが 現 はれて ロバ アト ソンと 並 

んで立 つた。 

さう して フォォ ブス . ロバ アト ソンの 姿 は靜に 下りる 幕のう しろに かくれて 再び あら はれな か 


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一世 一の ン ソトァ バ d 


つた。 (大正 三年 八月 十五 日) 


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作 女處の ィ ニン アブ 


ファン 一一 ィの處 女 作 

春の 遲ぃ マサ チュ セッの 岡 や 野 は 未だ 雪に 埋もれて、 晴れた 曰に は 青空の 靑 ければ 青い 程 雲 は. 

白く 輝いて ゐる。 チヤ アル ス • リヴァ は 去年から 凍った ま、 に 流れす、 氷滑りの 男女の 姿 はう ね 

くと 岡の 間に さかのぼる 川上から も、 末 は ポスト ンに績 く 川下から も數 限りなく 滑走して 來て 

彼方此方に ゆきち がふ。 何處を 見ても 寒く、  k 時に なったら 綠は萌 える の だら うと、 冬の 風の 殊 

に 嫌 ひな 自分 は 終日 閉ぢ 籠って 居た 部屋の 窓から 並木の 楡の枯 枝の 彼方なる 夕べ の S に 春 を 待つ 

心 を 寄せ てゐ た。 其の 時 町角 の 方, か ら 何時も の 夕刊 配達 の 子供が 跛 を 引いて やって 來る 姿が 見え 

た。 弱々 しい その子 供 は 外套 も 着ないで 鳥 打 帽子の 下で 鼻 をす、 りながら 步ぃ て來 るので ある。 

戶 口に 一枚の 新聞 を 投げ捨て 、又ト コ/ \ と 隣家の 方に 步 いて 行った。 自分 は 階段 を馳け F りて 

扉の 外の 雪の こびり ついて 溶けない ポオ チに 置かれた 新聞 を 拾って 叉 自分の 部屋に 馳け 上った。 

さう して 煖瀘の 傍で それ を讀ん だ。 


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ふと 芝居 消息の 中に て ark  H^op? で Bernard  >shaw の 「ファン ニイの 處女 作」 (Fanny ビ 

I-irst  play) が來 週から Granville  の 率る 英吉利の 役者に よって 演ぜられ ると 云 ふ 數行を 

見出した。 

丁度 食事時だった ので 自分 は 骨身に しみる 寒さの 戶 外に 出た。 餘程 前に 降った 雪が 未だ 往來に 

凍てつ いて ゐて、 その上 を 吹く 風が 目に しみて 淚の 滲み出る 夕暮 である。 學 校の 紀念 館の 暗い 塔 

上から 鐘の音が 冴えて 響いて 来た。 

何時も 行く 食堂の 食卓に 着く と 自分と 向 ひ 合 つて 坐って ゐ る女學 校で テ 二 ソ ンを 講じて ゐる 

!VIjss  A が、 自分の 姿 を 見る といきな り ショォ の 芝居が ポストンに 來 るの を 知って ゐ るかと 問 ひ 

■ 掛けて、 まだ 本と して. 出版され ない 「ファン ニイの 處女 作」 は どんな 芝居 だら う、 昨年 「人と 超人」 

を 見た が あれよりも もっと 面白いだら うかな ど 、肉. を 切る 手 を 休めて は 話す のであった。 それ は 

先頃 此の 女に 自分の 持って ゐるシ ョ ォ の 著作の 二三 冊 を 乞 はれる がま.^ に 貸して やった 時 自分の 

シ ョ 才に對 する 意見 を 尋ねられて、 ふ つ 、かな 英語 を はかなみながら 思 ふが ま 、 の 事 を 云った、 

いとぐち 

め それが 話の 緖ロ を與 へたので ある。 

すると 自分の 隣席の JMissB も 紐 育に ゐた 時分 「力 ンデ イダ」 と 「シイザアと ク レオ パ トラ」 を 見 


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女處の ィ- ンァフ 


たが あの 面白さ は 忘れられない、 丁度 来週の 水曜に は 友 だち と何處 かの 芝居に 行かう と 約束して 

Majestic  Theatre の Within  tlie  Law にしよう か :2ymoutll  Tnleatre の , Under  Cover にし 

ようかと 相談して ゐ たが、 それよりも ショォ の 方が 面白いだ らうから それに 決めようと、 探偵 芝 

居と ひとしな みに して 樂 しみに して ゐ るので あった。 

他の 男女 も その 話に 調子 を 合せて しきりに バ アナ アド. ショ 才のを かし さ を 語り合つ たが 自分 

の いやがる の を 知りながら 叉しても JMiss  A は 自分 は ショォ の 芝居 を あらかた 讀み、 それに 就い 

てきびしい 批評 をす ると 面白 づ くで 紹べハ する ので、 右から も 左から もどん な 考- へ を ショォ に對し 

て 持って ゐる のかと 湧き 立つ やうに 聲が 高くな つて 促し 立てる。 自分 は 少し 額が 赤くな つたなと 

感じながら グラ ス の 水 を 飲んで まぎらし たりして ゐ たが、 あまり しっこくす 、めら れるま X 

Miss  A に 聞かれた 時と は 違って 短い お 座爲り をし やべ つた。 

自分 は 此の 夏 愈々 英吉利に 行く 事に なった が 倫敦に 着いて 先づ第 一 に 見 度い のはバ アナ アド . 

ショォ の 芝居で ある。 それ は ショ才 の 戯曲が 好きだから では 無く、 自分が ショ ォの戲 曲に ついて 

持つ 疑 間 を 解き 度い 爲め である。 卽ち亞 米 利 加 人の シ ョ ォに對 する 態度と 英吉利 人の それと は 全 

然違 ふ だ ら う と 想像 される からで ある。 


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想 ふに 英吉利に 於け る ショォ の 芝居の 觀 客の 大半 も 此の 國の それと 等しく シ ョ ォ の惡 ふざけ を 

喜ぶ 人々 であらう けれども、 ショォ に 特有な 英吉利の 社會 殊に ブ ルヂ ョ ァ に對 する 銳ぃ 諷刺 は英 

米 人に は それぐ 別種の ものと して 受け入れられ るに 違 ひない。 階級 根性が 強く、 絹 帽子、 モォ 

ング. コ オトで 年中 杖 を 持って 歩く 英吉利 人 を、 多少 嫉妬の 意味 を 含んで 虫の 好かない 亞米利 

加 人 は ヴ才ォ デビ ル の 舞臺に 於て 0! 々見る 如く 英人 及び 英國 の社會 制度 家族制度 をボ ンチ にして 

喜ぶ 傾向が ある。 若し それ を 正面から 攻擊 する 者が あったら 米 人 は 小踊りして 喝采す るで あらう 

卽ちシ ョ ォは 階級 根性 を攻擊 し、 銪情子 を攻擊 する もので その を かしみ に 包まれた 奇警な 皮肉 は 

米 人に とって は 全く 痛痒 を 感じない 他人に 向けられた 攻擊 である。 だから 些か も 顧る 事な く 腹 を 

抱へ て 笑 ひ、 故意と 聲を 高く して 笑 ふ 事が 出来る。 乍 然 英 人に とって は 自分自身に 對 する あく 

どい 諧謔と して 米 人に はは かり 知られぬ 不快 さが あり はしない か。 

これが 自分の 第一 に 確め 度い 事で あると 食卓ら しい 話に して 結んだ、 人々 は 自分の 戲談 に聲を 

合せて 笑 ひ はした もの ゝ、 何事で も 一度 は 反論 を 述べなくて は 承知し ない 連中の 事と て、 そんな 

!EM 別 は ある もの かとしき りに あらそ ふ 者 もあって 更に 自分に 自說の 辯 護 を 促す ので 詮方な く 下の 

やうに つけ 足した。 


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作 女處の ィ ニン アブ 


少しく 不適 當な 例で あるが ツイ 此の間 ボ ス トン の 或 劇場に か 、つた コミック. オペラの 一 ミカ 

ド」 の 如き 沘の國 の 人 は無關 心に 高 笑 ひ をす る 時 自分 達 日本人 は 舞臺を 正視す る 事が 出来ない 程 

羞恥 を 感じた。 それ は 自分の 生れた 國に 鉢す る 侮辱に 堪 へられな いからば かりで はない。 殘 念な 

がら あの 誇張され た惡 ふざけの 中に 眞に 吾々 の 心の中に かへ りみ て 恥 ぢる弱 點を捕 へられて ゐる 

からで ある。 始めて 「ミカ ド」 を 見た 時, 同行の 曰 本人 は 非常に 憤慨して、 その 衣裳ず 景の 故國の 

それと 相違した 寫賞 的で 無い 點 からしき りに 攻擊 してね たが、 しかし 自分 は その 人と 雖も それ は 

表面の 論據 であって 內心 やましかった らうと 想像した。 

自分 は 自分の 愛する 故國、 自分の 父母で あり 自分自身 である 故國を 想って 何時の間にか 話が 眞 

面目に なり、 且つ わきみちに それ か、 つたと 氣 がつ いたので 突然 話 を 切って しまったが、 人々 も 

異國人 に 對す る禮儀 から 何ん と 云って い、 かわから す默 つて 自分 を 見 詰 めて ゐ るので 更に 結び を 

つけなくて はならない 場合に なって しまった。 

. つまり 此の 場合に も 一 方に は他國 人の 考 へ も 及ばない ところに 思 ひ あたる 事が あるた め 無關心 

に 笑って は ゐられ ない ので ある。 ショォ の 芝居に 於ても 英人は 恐らく は 笑 ひの 底に 何もの か 銃い 

痛み を 感じ はしない だら うか。 


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かう 云 つて 自分 は 冷くな り かけた 珈琲 を飮 み、 さう して 話 最中に ひとつに は 滑らかに は 出て 來 

ない 英語 を考へ るみつ ともな さ を まぎらす 爲 めに 剝 ぃてゐ た 果物 を 口にして 人々 に 話 をゅづ つて 

しまった。 

ひとしきり 賑 かに ショ ォ、, ショ, h と 云 ふ 聲が貪 後の 卓 を圍ん だが、 間も無く 一人 立ち 二人 立ち 

自分 も 寒い 戶 外の 夜の 風 を 想 ひながら 人々 に 別れ を吿 げた。 

その 週の 終り は 早春の 頃し きりに 來る 雨と 風に 暮れて しまった。 殊に 土曜の 夜から 日曜の 夕方 

へ かけて は 全くの 暴風雨に なって、 ズ 切った 窓の ガラ ス に 雨の しぶきの 音 高く 降り か 、るば かり 

でな く、 烈風に 吹き 折られた 並木の 楡の枯 枝 も かなり 大きい 枝ながら 飛び散る ので、 細心に 家事 

へや 5\ ャ ッタァ 

を 思 ふ 老いた る 主婦 は 室々 を 訪れて 窓ガラ スの 外に 開閉 扉 をた て 切った。 その 爲 めに 晝も燈 火の 

下で 本 を 讀んだ 寂しい 日曜であった。 

翌日 は 嵐の 後の 思 ひ 切って 晴れた空に 名殘 りの 雲 もない 春ら しさに、 學 校の 庭の 木立に は 木鼠 

がけた、 ましく 啼 きか はした。 此の 五六 日 つめて 勉強した 、め 頭が 疲れて しまったので 夜はボ ス 

ト ン に 遊びに 行った。 地下 鐵 道の 中で 「ファ ン 二 ィ の處女 作」 の 今日が 初日なん だと 思 ひ 出した が 

おちつき  , 

自分 は 初日に 芝居 を 見る の は 落着がなくて 嫌 ひなので マァ やめようと 考 へ てゐ た。 けれど 或 家で 


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作 女處の ィ ユン ァフ 


食事 をし、 適度の 酒の 心地よ さに 促されて、 その 劇場の 前 迄 行って 見る と、 恰も 食事の 後の 芝居 

時な ので ワシントン 街 の 人通りの 多い 四 辻に 近い^ ark  Theatre の 附近 は狹ぃ 往来 を 押し かへ 

す 人波で、 何時の間にか 自然と 劇場の 入口 迄 押されて 行った。 ところが 入口の 大葬 は閉 つて ゐ て- 

その上に 貼 紙が して ある。 r ファ ン 二 ィの處 女 作」 は今晚 初日の 害だった が、 前日の 暴風雨の 爲め 

鐵 道に 故障が あって、 背景の 一部 は 未着、 一部 は 雨に 濡れて 用ゐ 難い ためやむ を 得す 明晩 迄 延期 

すると 云 ふ 文句で ある。 其處 いらに 佇んで ゐる人 も 大概 は 此の 芝居 を 目的に して 来たので あらう- 

中には 切符 を 先週 中に 買って 置いた のが 賣 場で 取り か へ てゐ るの もあった。 自分 も その 場の 調子 

あした 

から 明日の 晚の席 を 取って 置く 事に した。 

火曜日の 夕食の 時 自分 は 話の 序いで から、 今夜 これから l」ark  Theatre に 行く と 云 ふと Miss. 

B は 自分 達 は 明日の 晚行 くの だから 今晩 見た 筋 を 明朝 話して くれと 云 ふ。 自分 は それ を 承知して 

食事 を濟 すと 直ぐに ボ ス トン に 急いだ。 

劇場の 前 迄 行って 見る と 今日 も 亦 扉が 閉 つて ゐて、 もう 一 日 延期す る 旨が 貼 出して ある。 明晚 

も 亦 無駄足 を して はつ まらない と 思って 切符 賫場 で 念 を 押す と 明日 は 必然 大丈夫 だ と 云 ふので そ 

の 切符に 取替へ て 貰った。 


? Q1 


風の 無い 靜 かな 夜で 冴え か へ つた {4! に 鮮明な 月が 掛り、 夜の あかりが 遠く 迄 ほの 白く 流れて ゐ 

るの を 望みながら 旅から 旅 を 廻る 役者め 身の上な ど をお ぼろに 想像した りした。 

水曜の 夕べ は 知人 を 尋ねて 郊外に 行った ので 一 度ケ ムブ リツ ヂに歸 つて 出直す の もお つくう だ 

から 直ぐに ボ ス トン に 行き、 手輕な 食事 をして から 劇場に 行った。 

少し 時間 は 早かった が 幕開き 前に 充分 時間 を 持ち、 自分より 後から 入り 来る 人、 殊に 女の 姿 を 

I  なぐさみ 

見て ゐ るの は 芝居 見物と 切 離す 事の 出来ない 慰樂の ひとつで あるから、. ォ オケ ス トラ. スト オル 

の 後の方に ゐて 舞臺と 自分の 間の 座席の 間 を ゆきち がふ 女 等の、 劇場 內 でのみ 見る 事の 出来る 稍 

昂奮した しかもと りすました 他所 行き の 態度 を あきすに 眺めて ゐた。 

フト賑 かに 話し合 ひながら 自分の 横手 を 過ぎた 女の 聲に 引かれて 見上げる と kiss  B が 今日は 

その 友 だち らしい 年下の 若い 娘と 前後して 自分のと ころ か ら 道路 を距 てゝ少 しく 舞臺 に 近い 席 を 

心 ざして 行く ところであった。 

案內の 女が はねあげて ある 椅子の 腰掛け を 一 ーッ ト ン, /-\ と 音 させて 下して 立 去らう とする の を 

呼びと めて MissB は プログラム を 受取. つた。 それから 厚ぼったい 毛皮の 外 袞を间 伴の 娘と ー緖 

に 重さう に脫ぃ で 椅子の よりか 、り に 掛けながら 視線 を あげた 時 自分 を 認めて 會釋 した。 直ぐに 


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作 女 處のィ - ンァフ 


つ れ  ささや 

同伴の 耳に 自分の 事 を 何 か 私語いた らしく その 人 も 振り かへ つて 無意味に 笑 ひ顏を 見せた。 まだ 

すぎ 

十八 九の 少し 頰の 肉の 足り 無い 輪郭から 云 へば メラ ン コ リック だが 上氣 したやうな 顏 色と 大き 過 

る黑ぃ 眼が か へ つてい きくした 顏 立ちに 見せる のであった。 

一 一人の 女 は 舞臺に 向って 並んで プ ログ ラム を 見て ゐる。 三十 女の .Miss  W の獨身 者ら しい 髮の 

結び やう、 肥り 過ぎて しかも 色 艷の惡 い 頸から 肩に かけての 肉色に 比べ て 若い 方の 肌に は 電燈が 

つ や  グァク 

思 ひ 切って 光 を 返 へして ゐる。 稍う つむいた 襟つ きと それに 匂 ひか 、 る 光澤の ある 暗 黑な髮 が 心 

ときめく もの に 思 はれた。 

間も無く 場 內は女 七 分 男 三分 位の 割合 ひで 充^に なった。 低い 聲で はありながら 多くの 人の さ 

、やき か はす 聲と 人い きれに 心 持が 緊張して 來る。 どうしても 入りが 無くて は 芝居 は 面白く 見ら 

れな いなど、 何時もき まり 切った 事を考 へながら、 波 も 打た すに 重く 垂れて ゐる 舞臺を かくす 鍛 

帳の けばけば しい 縫 取り を 見上げて ゐた。 

とかくして 時 もた ち、 三階から 下 迄 光り輝いて ゐ た電燈 がー ッく 消えて 行く と 直ぐに 力 タン 

力 タンと 板で 板 を 打つ 音が して その 緞帳 は そろく 卷き 上った。 

緞帳 は卷き 上った けれども その かげに は 叉 垂幕が 下って ゐる。 此の 殆ん ど黑に 近い 海老茶の 垂 


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幕の 前で プ 口  P 才グ が:^ まる。 

舞臺は Count  cydowda の 家で、 今 その 家の バ トラ ァが 喜劇ら しい 取り 濟し 方で 下手から 出 

て來て Mr.  Cecil  Savoyard の 到 來を吿 げた。 績 いて 夜食 服の これ も 喜劇ら しく 下品な 男が 現 は 

れる。 ロンドンの 或 劇場の マネ ヂャァ である。 二人の 會 話の 初 まりから ショ才 は旣に その上 機娥 

の 笑 ひ顏を 臆面 も 無く さらけ出して ゐる。 まことにい 、氣な ものである。 

.  あんちょく 

更に 正面の 幕の 間から 時代錯誤の 服装 をした 伯爵が 更に 一 曆 安値に 喜劇の を かし さで 現 はれる 

かくして 絕間 もない 笑聲の 中に シ ョォは 巧みに 觀客を ひき つけながら 此の 芝居の なり 立ちの 筋 を 

賫り つける。 

伯爵 は 常に 十八 世紀に 憧れて ゐて 十九 世紀 を 喜劇 的 の 極端 さで 憎んで ゐる。 今 は 二十世紀 であ 

る 事 さ へ 問題に ならない 程 十八 世紀に 績 いた 十九 世紀 は 忌 はしい ものな のであった。 從 つて 十九 

世紀 的に なり 切った 英吉利 を 嫌 ひ、 死んでも 此の 島に 骨 は 狸め ない と 云って ヴ M  二 スに 住む の を 

好んだ。 ヴ M  ニス は 彼の 理想と する 美しき ものに 對 する 渴 仰を滿 足させる 唯一 の 土地で ある。 

けれども 此の 喜劇の 伯爵の 愛孃 ファ ン 二 ィは之 亦 喜劇の 都合よ さで 父親と は 反 對の道 を 步む所 

謂 新しい 女で ある。 伯爵 は 自分の 母校の 所在地なる ケムブ リツ ヂに娘 を 置い. て、 僅に 十八 世紀の. 


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作 女處の ィ - ンァフ 


殘 つて ゐ るの は 其の 地ば かりだと 信じて ゐ たので あるが、 ファン ニイ は ケムブ リツ ヂ. フエ ビア 

ン. ン サイ M ティに 屬 する ばかりで 無く 女權 運動に も 肩 を 入れて ゐるシ ョ ォ 好みの 彌次 馬で ある。 

恰も 卒業の 間際にな つて 娘 は 誕生日の 贈物 を 父に 要求す る。 勿論 娘に 目の 無い 父親 はファ ン 二 ィ 

が 望みの ま、 の 贈物 を與へ る 事 を 約した。 其 處で娘 は 在 學中閑 を! i んで 書いた 自作の 脚本 を 口 ン 

ド ン の 家で 玄人 役者に 演じさせ、 それ を a ンド ン 一 流の 劇評 家に 誰 人の 作 か 知らせす に 見せて 彼 

等の 批評 を聽き 度い と 希望す る。 伯爵 は その 脚本 を讀み もしす に、 自分の 娘の 書いた ものなら 必 

す や 十八 世紀ら しい 芝居 だら うと 喜劇 的 迂濶さ を 持って 承知す る。 若し 伯爵が 生 意氣な 娘の 無責 

任 極まる あらさがし を社會 批評の 美名で 包んだ 三幕物 を 見たならば、 その あまりに 十九 f 紀 なの 

に 驚き 怒って 到底 此の 贈物 は與 へ られ なかった であらう。 その 意味に 於て 論理的に も 伯爵 は迂濶 

でなければ ならなかった。 

セ シル. サボ ャ アド は卽ち 伯爵の 乞 ひに 應 じて 役者 を 集め その 役者 等 は 今 此の 垂幕の 奥で 幕 開 

きを 待って 居る 害で ある。 P ンドン の 代表的 劇評 家の人 選 も 此の 十九 世紀の 紳士が 引受けた。 今 

朝の ポスト ン の 新聞に よると 此の 選ばれた る 批評家 四 人の 中 三人 は眞實 & ンド ン の 劇評 家に 模型 

を 取った もので Trotter は タイム スの、 Walkley,  vaushirn は デイリィ. 二 ュ ウスの、 Bauphan. 


505 


Gunn は 劇作家と しても 知られて ゐる Cannan で、 他の 一人 Bannal は 其の 他の 數 限り も 無い 

最も 一 般 的な 劇評 象 を 引つ くるめて 代表す るの ださう である。 シ ョ才 は單に 此の 人々 をお 笑 ひ 草 

に 引出した ばかり で 無く、 その 人々 の 人となりから 批評の 特徴 迄 さらけ出して 樂屋 落ち 好きの 樂 

屋 落ち 好きた ると, ころ を 露骨 に 示して ゐる らしい。 

其處に ファン 二 ィが馳 け 出して 来て 批評家 達が やって 來 たと 云 ふ。 さう して 批評家 達 は 誇張 さ 

れた カリカチュア を 描き出し、 樂屋 落ちに 更に 樂屋 落ち を 生んで、 ト o ッタァ の 前で はァ リスト 

ォ トルの 名 を 口に じて はいけ ない など、 云 ふ 洒落 迄 出て 來て 此の プ 口  P ォグは 終りになる。 

績 いて 劇中劇の 幕が 開く。 デ ンマァ ク • ヒルと 特別に 場所 を 指定した の も & ン ドン を 知らぬ 者 

に はたぐ なんとなく シ ョォの & 肉の 的になる 廻り 合せの 下に ゐる 階級の 住む 一 區劃 だら うと 想像 

される ばかり だ。  , 

兎に角 その デ ンマァ ク • ヒルの sr.  Gilbey の 家の 食堂に 主人 夫婦 は 息子 Bobby の 安否 を氣 

づ かって 居る。 想 ふに 主人 は 世間の 目から 見て 尊敬すべき 金 持で あらう、 此の 善良なる 人々 は 習 

レディ ■  チェ ン トル マ ン 

慣 的に 宗敎的 であり、 習慣 的に 責女 紳士で あると 云 ふ 理由から 他人の 弱點を 誇張して よろこぶ シ 

ョ ォの爲 めに ー擧 一. 動お 笑 ひぐ さに されて ゐる。 


505 


女 # の ィ ニン ァフ 


間も無く バ トラ ァ Juggins が Miss  Delaney 別名 Darling  Dora なる 女が 來訪 したと 取り 

吿ぐ、 ドラ は ギルべ ィ 及び 世間 一 般が 貴女と は 呼ばぬ 階級の 女で あるの み. ならす、 ショォ 一 派が _ 

か 、る 蛾 業の. 存在 は 社會の 罪. だと 叫ぶ 職業の 女で ある、 自ら 尊敬すべき 階級に 屬 する ものと して 

滿 足して ゐる樣 子 を 示して ゐる 人々 の 前. に、 その 人々 が 卑しむ 階級の 女 を 連れ. て 來て禮 儀 作法と 

不作法との 安 價な對 照をシ ョォ はゲラ /\ 笑って ゐ るの, だ。, . 

かんたん 

ドラ は簡 短に 初對 面の 挨拶 を濟 して. から ボ ツビ ィは 無事で ある、 これ 以上 安全な 場所 は 無い、 

彼 は 牢屋に 入って. ねる と 云,. ふ。 意外の • 事に 驚く 老夫婦と、 老夫婦の 驚き を ショォ と共に よろこぶ 

ドラと. の會 話が 如何にして ボ、 ソビメ は 牢屋に 入れられ たかを 物語る。 . . 

. 二週間 前の 或夜ボ ツビ ィは 個人 敎授 Hay  Jce 及び ドラと 一 緖にミ ユウ ジック . ホ オルに 行つ 

た 歸途三 鞭の 醉 ひに 浮かれ 心地に なって ゐた。 學生 時代に 百ャ アド 競爭の 選手だった Holy  Joe 

を どうかして 馳け 出させたら 五磅の 手風琴 を 買って やる と 云ふボ ツビ ィの賭 を ドラ は 此の 時せ し 

めようと 思った。, 丁度 町角に 立って ゐた 若い 巡査にから かった あげく その へ ルメット を 叩いた。 

怒った 巡査が ドラ を 捕 へ る 間に Koly  Joe は 果して 急速 力で 馳け 出した。 遙 かの 行 手で 口笛 を 吹 

き 鳴した が、 それつ きり 彼の 姿は稻 妻の やうに 消て しまった。 つかまつ たの はボ ツビ ィと ドラで 


5Q7 


ある。 さう して ドラ は 今な ほ 牢屋に 殘 つて ゐ るボッ ビィの 贖 金 を 乞 ひに その 兩親を 尋ねた ので あ 

つた。 

ギルべ ィ 夫婦 は 此の 意外な 報知に 驚いて、 尊敬すべき 家庭の 息子が そんな 始末に なった のはド 

ラの 罪で ある と 責め ると、 ド ラ は 自分が ボ ッ ビ ィ を 引 張 つたので はなくて ボ ツビ ィの方 か ら 自分 

に 近づ いて 來 たの だ、 家に 引 込んで ゐ るの は 息子に と つて 退屈 極ま る 事 だ つたので はない かと 答 

へる。 更に ギルべ ィ 夫婦が、 決して 退屈な 事 は 無かった 害 だ、 自分 達はボ ツビ ィを喜 こばせ る爲 

めに は あらゆる 事 をして ゐる。 此の上 何も 望む もの は 無いで はない かと 云 ふと、 ドラ は 言下に He 

wants  me と 答 へ るので ある。 

ギル ペイが ドラの 手から 息子 を 救 はう と 思って 手 切 金の 額 を 尋ねる と、 ドラ はそんな 事 は 無用 

だ、 自分と 別れても 其處 いらに 澤山 他の 女が ゐる ではない かと 答へ る。 成程 それ はもつ とも だ、 

それ ぢゃ あお 前 やお 前の やうな 種類 の 女の ゐ ない 所に ボ ツビ ィを やって しま はう と 云 ふと、 ドラ 

そと 

は それで は 世界の 外に やる 他 は 無い と 揶揄す る。 

會 話の やりとりが 持ち 來す 紛糾した 洒落の 面白さに 吾 を 忘れて 多大の 費用 を拂 つて ゐる 作者 は 

ドラ の 背後に かくれて ギルべ ィ をから かひ/ ヽ 通して 幕になる。 


508 


作 女處の ィ ユン マフ 


いひな づけ 

- 第二 幕 は ギルべ ィと 共同で 商賫 をし、 ボ ツビ ィと 許嫁に されて ゐる娘 ま g-saret を 持つ Mr. 

Knox の 家で、 落語に よく あるし くみで、 第一 幕と 同じ 出来事が 起って ゐる。 さう して 最も 安價 

な 對照を 求めて ショォ は、 肥った 白髮の 一 見 福々 しい ギルべ ィに對 して 瘦 せた ごま 鹽の 一 見 粗野 

な ノックス を 出し、 無考へ に 人の い 、ギルべ ィ 夫人に 對 して 考へ 深くて 宗敎 的な ノックス 夫人 を 

出し、 肉體 的に も意氣 地の 無い 息子 ボ ツビ ィに對 して 體カ 強健な 娘マァ ガレット を 出し、 前者に 

配す る ドラに 對 して 後者に 配す る 佛蘭西 人 を 引出した。 

ノックス 夫婦 は 娘 マァ ガレット がー 一週間 前に 家 を 出た つきり 歸 つて 來す、 何處に 如何し てゐる 

かも わからな いので 心配し 切って ゐる。 數 年間 ギルべ ィ、 ノックス 兩家 では 日 を 極めて 食事に 招 

きあつて ゐ たのが 雙方 ともに 子供の 行衞 不明 以来 うやむや のうちに 招待し なくなって ゐる、 ギル, 

べィは ノックス に 息子 は 海岸に 保養に 行って ゐ ると ごまかし、 ノックス はギ ルべィ に 娘 は 叔母と 

一 渚に 田舍に 遊びに 行って ゐ ると 噓 をつ いて ゐ るので ある。 雙方 ともに 先方の 出 來事は 知らない 

ので 自分の 方にば かり 落度が あつたの だと 信じ 切って ゐて、 事が 露顯 たら 息子と 娘の 間の 婚約 は 

もとより すべ て 今日 迄兩 家の 間に 存 した 關係は 終り を 告げる だら うと 心配して ゐ るので ある。 

ノックス は 自分 は 地 E と 尊敬と を 得る 爲 めに 努力した、 店に 働いて ゐる 小娘の 幾人 を 不品行の 


5C9 


かどで 追 出し もした、 然るに 今 自分自身の 娘が 家出 をして 旣に 二週間に なって ゐる、 と 歎いて ゐ 

る。 その 繰言 を 聞き ながら こ れ は 宗敎的 抑制から 態度 に 於て は 平靜を 保って 窓 の 外 を 眺め てゐた 

ノックス 夫人が 突然 叫び 出す。 マァ ガレットが 見 も 知らぬ 男と 步 いて 来て 今 別れの 際の 握手 をし 

て. ゐ ると 云 ふので ある。 ノック スは 妻に せき 立てられて 其の 男 を 捕へ ようと 馳け 出して 行く。 入 

れ違 ひに マァ ガレ ット が馳け 込んで 來る。 績 いて ノッ クス も怫蘭 西の 船乘り Monsieur  Duvallet 

を 引 張って 來る。 ノックス 夫婦 は 此の 男が 娘 を 連れ出し 怪しから ぬ 二週間 を 送って ゐたと 思 ひ 込 

んでゐ て、 その 二週間 娘 は 何 處にゐ たかと 手 きびしく 詰問す る。 すると 佛蘭西 人 は怫蘭 -£ 人の 英 

語で、 マァ ガレット は 此の上 も 無い 安全な 場所に ゐ たと 答へ る。 恰も ドラが ギルべ ィに對 する 返 

答 も 同じで、 斯う 云 ふ 駄洒落 もシ ョ 才の なぐさみの 一 ッ である。 

間も無く 佛蘭西 人 は 別れ を 告げ、 父親 は 事件の 性質から 詰問の 役目 を 母親に 殘 して 退場す る。 

其 處で娘 は 一 伍一 什 を 物語る ので ある。 

一 一週間 前の 或 日 マァ ガレット は Albert  Kail で 催された Salvation  festival に 行った。 歸途 

家路 へ のバ ス に乘 りは乘 つた ものの、 廣ぃ會 場で 多數の 人々 と 天に 導く 黄金の 階梯 を 登り 行く 心 

地で 讚美歌 をうた つた 娘の 心 は 有頂天に なって ゐた。 その ま、 バス に 運ばれて 家に 歸 るの はいか 


510 


作 女 處のィ - ンァフ 


にも つまらなく 思 はれ、 もっと 音樂を 聞き 度い、 もっと 樂 しみ を 求め 度い 心地に なって ゐた。 娘 

は 繁華 を 極める Piccadilly  Circus でバ スを 捨てて Leicester  の 或 劇場に 入った。 其處 

で 彼の 怫蘭西 人と 口 をき いたので ある。 二人 は 劇場 を 出て 舞踏 場に 行き、 マァ ガレット は 浮かれ 

切って 三 鞭 を飮ん では 踊った。 恰も 其の 夜 は オック スフ ォォ ド、 ケムブ "ツヂ の 端艇 競爭の あつ 

た 日で 學生 は醉拂 つて 暴れ 廻って ゐ たが、 その 連中 も その 場に やって 來て 手當り 次第に 器物 を 叩 

きこ はし 初めた。 巡査が 飛び込んで 來る、 格闘が 始まる、 それに 卷き 込まれて 怫蘭西 人 も マァガ 

レット も 巡査と 揉み合 ひなぐ り 合った あげく 警察に 引 張られた。 

母親 は 娘の 話 を 聞き 娘の 行爲を 恥辱と 考へ るが 娘に は ショ才 がつ いて ゐる、 マァ ガレット は少 

しも 悲しんで ゐ ない、 自分 は 些少 も 悪い 事 はしない と 云 ふ。 母が どうして そんな 事に なった の だ 

らうと 云 ふと、 それ は 祈 禱會が 自分 を 有頂天に したの だと 答へ る。 母が お前 は 自分 を 口才 マンス 

の 女 主人公 だと 考へ てはいけ ない と 云 ふと、 自分 は リアリティの 女 主人公で あると 答へ る。 自分 

は 自分自身 を 自由に 置く、 自分 は 父母よりも 強い 事 を 知った、 今迄 自分 を 束縛した もの も 今後 は • 

自分 を 縛る 事 は 出来ない と 叫ぶ。 

しかし あまりに 娘の やり方が 眞 面目に イブ セ ン に 頃いた と 見て と つ て商賫 上手な シ ョォは 直ち 


ラ 11 


に 父親 ノ ックス を 出して 笑 はせ る。 此の ごま 鹽は 事の なりゆき を 別間で 待って は ゐられ ない の で 

ある。 

. 母親 は 娘 はもう 自分 達の 力で はどうす る 事 も出來 ない、 今の 自分 は 娘の 爲 めに 禱る事 さ へ 出來 

ない と 云 ふと、 父親. は祈禱 なんか どうで もい、、 誰 人に も 此の 出來 I を 知られなければ それでい 

しま 

、と 云 ふ。 娘 は 又 それに 答へ て 自分 は 誰 人に も 打明けて 話して 了 はう、 此の 出来事 は 誰 人に も 打 

明けなければ ならない 事^と 云 ひ 張る。 父が 怒って 家 を 出て 行けと 怒鳴る と、 ハイ 何時から でも 

出 て 行きます とほ ん とに 出て 行かう とする の で 父親 は 困 つて 引き止める。 母親 は禱 らう としても 

禱れ ない、 娘 は ショォ の 後援に 氣 強い 顏 をして 立って ゐる。 幕が 下りた。 

面.! 5 を かしく 都合の い、 程度に 於て 紛糾した 一 つの 間 題の うらおもて を 目出度し くで 結ぶ 大 

詰めに 戲曲 中の 人物 を 全部 一 場に 集める あり 來 りの 技巧 は 新聞の 繽 物の 明日 を 待ち かねる 程度の 

觀客を よろこばせる 爲 めに うるさい 程 繰 返 へされる。 ショ ォ ももと より 現代 一 流の 通俗 作者の 事 

であるから 見物 を よろこばせる 事に 拔目は 無い。 

舞臺は 再び ギルべ ィの 家で ある。 ボ ツビ ィがバ トラ ァ、 ヂャ ツギ ンスを 相手に マァ ガレットと 

自分との 婚約 を どう すれば 圓滿に 破談に する 事が 出来る だら うと 相談して ゐる。 ヂャ ツギ ンスは 


512 


作 女 g のィ ニン アブ 


けいれき 

シ ョォの 皮肉 を 盛る のに その 經歷 から 云っても 最も 適當な 型に つくられた 男の 一 人で ある。 前者 

はかり fj と 

がかう すれば どうか ああ すれば よから うと 慣習 的な 謀計 を 持 出す の を 彼 は 一 々パ ラド クシ カルな 

返事で 打破って ゆく。 斯う 云 ふ 型の 男 を ショォ は 常に 好んで つくり 上げ、 自分が 勝手な 事 をし や 

ベら せる 爲 めに つくり 上げた 事實を 忘れて、 その 人間に あらん 限りの 同情 を 寄せる ので ある。 

こんな 問答 最中に マァガ レットが 訪れる。 ショォ の よろこびの 一 ッ として 女 は 何時も 男よりも 

押が 強いが、 マァ ガレット も 此の 例 に^れす ボ ツビ ィは 蛇に 見込まれた 蛙で ある、 マァ ガレット 

の 初めから テキ パ キと 最近の 出来事 を 打明けて 解決 を 求めよう とする 態度に 反して、 見込まれた 

ボ ツビ ィはビ クビク しながら 體裁 をつ くろって ゐる。 さう して 女が 卓の 上に 腰掛ける と、 それに 

並んで 自分 も 掛け 內心は いやいやながら 手 を 廻して 女の 腰 を 抱かう とすると、 マァ ガレット は 手 

酷し く、 いやいや そんな 事 をす るに は 及ばない ときめつ ける。 斯う 云 ふ 順序で 女の 方から、 二人 

はお 互 ひに 好いても 好かれても ゐ なかった の だ、 ただ 許嫁の 義務と して 相愛し あって ゐる やうな 

風 をして ゐ たのに 過ぎなかった 事を觀 客に 呑 込ませる。 

それから 會 話の を かしみ で 笑 はせ ながら 二人 はお 互 ひに 自分 自分の 出来事 を 語り 出す。 その 間 

にも 男より 女 は 大膽に 決定的に しゃべって ゐる。 此の 女 は 男よりも 強いと 云 ふ、 人 を 意外 がらせ 


513 


て よろこぶ ショォ の あくどい 洒落 は、 最後に 二人の 袼鬪 によって 頂點に 達し、 マァ ガレット はボ 

ツビ ィを 捕へ て 卓上に 押 倒し 上から ギ ュ ウギ ュ ゥ 押へ つけるな どと 云 ふくす ぐり 迄 持って行かれ 

る。 か、 る惡 ふざけが 滿 場の 喝采 を 容易に 呼 起す 事 は 夙の 昔に ビネ & の 域 を 超えて 職人 的 作者の 

第一 に位ゐ する ショォ の 萬々 熟知す ると ころで ある。 

これより 先き ドラ の 訪問が あって 顏を 合せて 見る と マ ァ ガレ ットと ドラ は 同じ 留置 所に 入れら 

れて ゐた朋 ばいだった など、 云 ふ 手 も 用ゐら れてゐ る。 

績 いて 佛蘭西 人 もやって 來る。 此の 男が ギルべ ィ の 家に 來 るの は を かしい が マァ ガレットが 此 

の 場に 自分 を 訪問し ろと 前もって 云って あつたの ださう である。 

四 人が 互に 二週間 牢屋に ゐた事 を 話して 打ち解けて ゐる ところに ヂャ ツギ ンスが ギルべ ィ 夫婦 

が 外出 先き から 歸 つて 來 たと 知らせる ので 別間に 逃げ出して 行って 了 ふ。 

入れち がって 老夫婦が 入って 来る。 さう して ショォ の 大好きな 插 話が 數分間 展開され る。 卽 

ち ショォ の 英雄 ヂャ ツギ ン スが 突然 ひま を 貰 ひ 度い と 申し出す。 主人 はしき りに 引止める がヂャ 

ツギ ンスは 自分の 兄が 寂しがって ゐて 家に 歸 つて 來 いと 云 ふば かりで なく、 兄 は 自分が バ トラ ァ 

として 動いて ゐる 事を好まな いと 云 ふ。 主人 は 自分で 働いて 衣食す るの が 男子の 爲す 可き 事で、 


う 14 


作 女處の ィ ニン アブ 


兄に 養 はれる の は恥づ 可き 事 だと 云 ふと、 ヂャ ツギ ン スは それ はもつ とも だが 弟が 兄に 賴 るの は 

なら はし 

自分の 家の 習俗 だからし かたが 無い と 答へ る。 主人が 何氣 なく  Your  brother  isn-t  a  duke, 

you  knew. と 云 ふと、 ヂャ ツギ ンスは 言下に Unfortunately,  lie  is.  Sir. と 答へ るので、 比處 

で 又 滿場笑 ひ 崩れる ので ある。 

どうして 公爵 家の 息子が バ トラ ァほ 住み込んで ゐる のか、 それが 明かに されよう とすると ころ 

しばらく 

に ノックス 夫婦が 尋ねて 來 るので、 說明は 暫時お あ づけになる。 ギルべ ィ、 ノックス 二 組の 夫婦 

あ ひか はらす 

はシ ョ 才の爲 めに 不相變 無慈悲に 愚弄され るので あるが 唯 一 人考 へ., 深い ノックス 夫人 丈 は 今迄の 

自分 達の 習俗 的な 生活に は 意味 も 力 も 無かった 事 を 悟って 来た 事に なって ゐて、 稍々 惠 まれた 人 

になって ゐる。 その 人の 口 を かりて さへ 例の 習俗 篤 倒が 出て 來 るので ある。 又 かと 思 はれる 程此 

の點に 於て シ ョォ はしつ こく 根氣 がい、。 

作者 は 叉 主人 面した 連中が 公爵の 弟と 聞いて から 態度が ー變 して Mr. づけで ヂャ ツギ ンスを 

呼び、 彼が お茶 を 蓮んで 來 ると 主客と もに 席 を 離れて 迎 へ る を かし さな ど を 意地 惡く 見せて ゐる。 

突然 別間から 笑聲が 湧き起る ので、 主客が 驚いて 尋ねる とヂャ ツギ ンスは Pantry で Tea 

Party が あるの だと 答へ る。 又 二 組の 夫婦が 月並 を 云 ひ 合って ゐ ると 更に 風琴の 音 さ へ 聞え て來 


515 


る o 

すつ か o-  , 

直ぐに 一 同が 上機嫌で 飛込んで 來て此 處で戲 曲 中の 傀儡 は 悉皆 額が 合 ふので ある。 さう して 直 

ぐに お 目出度い 大圑圓 が到來 する。 

先づ ノックスが 怫 W 西 人に マァガ レットと 結婚す る氣が あるか どうかと 聞く と、 佛蘭西 人は自 

分 は旣に 結婚して 二人の 娘 さ へ あると 答へ る。 

ドラが 自分 は 何時でも ボ ッ ビィと 結婚す る氣 だと 云 ふと ギ ル ベ ィ が反對 する。 すると ノック ス 

夫人 はボッ ビィは 義務と しても ド ラと 結婚し なくて はいけ ない と 云 ふ。 ボッ ビ ィも 自分 はド ラと 

結婚す る、 若し 許して くれなければ もっと 不名譽 な 事 をして やる、 兵隊に なって しま ふと 駄々 を 

こねる、 ヂャ ツギ ンスが 兵隊になる 事 は 不名譽 ではない と 云 ふと、 ボ ツビ ィ はお 前はバ トラ ァ風 

V- い  くちさが  あ わ 

情 だから 兵隊に なっても 不名譽 ではない かもしれ ない が 俺 は 紳士 だと 口性ない。 母親 は 狼狽て て 

ヂヤ ツギ ン ス に對 して 無 鱧な 事 を 云 つて はいけ ない など、 云 ふ を かしみ も ある。 結局 ヂャ ツギ ン 

スがボ ツビ ィは ドラと 結婚しても 將來 尊敬 さるべき 人と して 立って 行ける と 一 同に 說 くと、 今度 

は ノックス がそれ では 自分の 娘 はどうな るの だと 云 ふ。 それ はマァ ガレット の 自由意志に 任す ベ 

き 事 だ とヂ ャ ッ ギ ン ス は 答 へる ので ある。 


516 


作 女 處のィ ニン ァフ 


それから 彼 は 何故に 自分 はバ トラ ァ として 住み込ん だか を說明 する。 彼 は 曾て 眞 面目な 基督 敎 

徒をバ トラ ァ として 傭って ゐ たが、 或 時 その 男 はヂャ ツギ ンスが 卑しい 階級の 娘と 戲れ たの を 知 

つて 主人 を 叱責した。 主人 は 權柄づ くで バ トラ ァを追 出した が、 自分の 此の 行爲は 毒矢の やうに 

胸に 接った ので ある。 彼 は 自ら 身 を 低く して パト ラァ になった。 今 は その 男に も顏が 合される と 

云 ふので ある。 

其處 でマァ ガレット は ヂャッ ギン スの手 を 取って 古い 二 組の 夫婦に 新しい 一 一組が 出來上 つて 至 

極 く 目. 出度 く 都合 よく 幕になる。 

戲 曲の 性質から 當然 H ピ &ォグ が 無くて はならない。 垂幕の 前に 伯爵が 現 はれて 自分が 期待 レ 

たのと は 打って 變 つた 戯曲だった ので、 これ は 戯曲と 呼ばる 可き もので はない、 これが 藝 術と 呼 

ばる 可き もの だら うか、 と 自分の 娘が か、 る 種類の 戲曲を 書いた 悲しみと 怒りに 震 へ ながら 批評 

家に 訴へ、 彼等の 意見 を 求める ので ある。 

第一に 最も 年少の バン ナルに 此の 戯曲 を どう 思 ふかと 尋ねる と、 彼 はー體 作者 は 誰な の だ、 作 

しかの みならす 

者が 誰 だか わからなくて は 批評 は 出来 無い、 加 之 これ は Comedy なのか Tragedy なのか 

Farce なのか melodrama なのか 眞 面目なの か ふざけて るの かわからない と 云 ふ。 しかし ー體ぃ 


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、戯曲な のか 下らない 戲曲 なのかと 伯爵が 重ねて 聞く と、 若しい 、作者が 書いた のなら 當然ぃ 、 

.戲 曲で ある、 下らない 作者が 書いた のなら 當然 下らない 戲曲 だと 答へ る。 

ガン は 此の 戯曲に はプ P ットが 無い、 舊 式な 舞臺 技巧 を 避けながら 舞臺 上の 慣習 は 守って ゐ る. 

人物 も 公爵 や 百 萬 長者 を 避けて 中流 階級に 取って ゐる、 中には を かしみ も あり、 ショォ の 調子 さ 

へ 含んで ゐる。 作者 はグラ ン ビル *バ ァカァ の 他に ある もの かと 云 ふ。 

バウ ガン はバ ァカァ ではない、 スタイルが 全然 違って ゐる、 先づ 此の 戲曲は 不愉快な もの だか 

ひど 

ら Barrie の 作で は 無い、 英吉利の 中流 階級の 淸敎徒 的 僞善を 暴露しながら 攻擊は 手酷くな く、 

人物 は 何れも 善良で ある、 その上に 並み は づれの 女 を 出して ゐ るから これ は ビネ 口 に 違 びないと 

斷定 する。 

バン ナルは 佛蘭西 人の 長ったら しい スピ イチから 推察して シ ョ ォ だと 云 ふ。 バ ゥ ガン は 之 を 否 

定 して ショォ ではない、 何故ならば 此 戯曲に は 兎に角 熱情が ある、 ドラ は 眞實ボ ツビ ィを 愛して 

ゐる。 繰 返 へ して 云 ふが シ ョォ は肉體 的に も 熱情 を缺 いて ゐ るの だと 云って 承知し ない。 

一般の 批評家 を 代表す るバ ンナル は 直ぐに そっちに 引 入れられて、 そんな 事 は 自分 も 知って ね 

る, ショォ は 知識ば かりで 感情が 無い、 偉大なる 頭腦を 持って 居る が 心臓 を 持た. ない と 同じ だ" 


518 


作 女 の ィ ニン ァフ 


バウ ガン は 更に 又、 此の 戲曲 中の 人物 は それぞれ 性格 を 持って ゐ るが、 ショ 才の戲 曲の 人物 は 

シ ョ ォ 自身の 傀儡に 過ぎな い、 た^ 役者が それぞれ 人間の 相違 を 見せる 丈 だと 云 ふ。 

ショォ の 年甲斐 も 無 い い たづ ら は 止 度が 無く、 海の 向 ふの 日本で は 昔から 舞臺 の 上で 役者 や 作 

者の 名 を せりふに かへ て 愛嬌に する 洒落の あった 事 を 知らない 人の よさが 寧ろ 無 邪 氣に思 はれる 

程で ある。  . 

最後に ファ ン 二 ィも 其の 場に 出て 來て而 して ト 口 ッ タァの 口から 此の 戲曲 はファ ン 二 ィ 其の 人 

の 作 だら うと 云 はれる。 批評家 等 は 手ん 手に 簡略な お 世辭を 述べる。 セ シル. サボ ャ アドが 出て 

來て 役者 達 は 相手の 呼び出し を 待って ゐ ると 告げる ので 一 同 初めて それに 氣が ついて 舞臺の 方に 

行く 事になる。 垂幕が 上る と r ファ ン 二 ィの處 女 作」 中に 現 はれた 役者が すべ て そのままの 姿で 立 

つて ゐる。 伯爵、 サボ ャ アド、 批評家、 ファン ニイ は それらと 握手して 成功 を 祝す。 

伯爵 は 改まって、 戯曲 そのものに ついての 意見 は 如何 あらう とも 演技の 秀拔 だった 事に は 誰し 

も、 一致す ると 述べ、 批評家 は 口 を 揃へ て Hear,  hear! と 叫び、 喝采す るので ある。 さう して 今 

度 こそ ほんと に 幕になる。 

どう 云 ふ もの か 役者の 技藝の 巧拙 は 此の 夜 自分に とって 問題に ならなかった。 ただ 一 人 ギルべ 


519 


ィ 夫人に 扮 した Florence  Hay  don と 云 ふの が spontaneity と Naturalness の 極致に 達した 

親切で 溫ぃ 技藝を 見せて くれたの が 故鄕に 自分 を 待つ 母の やうに なつかしかった 丈で ある。 それ 

は 恐く は 劇中の 人の すべてが 單にシ ョ ォの あやつる 絲 につれ て 動き、 其の 人々 の 性格 言行 及び 事 

件の 紛糾が すべ てショ ォの あくどい 色彩で 一 色に 塗られて ゐて獨 立した 存在 を 持たない ためで あ 

らう。 自然 興味の 中心 は 作者 シ ョォの 上に 集中され るので ある。 

凡そ 社會の 進步は 社會の 誤れる 思想 を絕 えす 發見 指摘して, 行く 事に よって 到達され ると 信じ、 

且つ 藝 術の 爲 めの 藝術を 嫌って 敎訓藝 術 を 看板に する ショォ は Comedy の 使命 は 舊道德 の破壞 

以外に 何も 無い と 云 ふ 結論 を 當然賫 物にして ゐ るので ある。 戲曲は 人生の 寫眞 では 無い、 侗 人の 

意志と それ を取卷 く周圍 との 鬪爭を 展開す る ものである、 故に 當然間 題で ある、 と 彼 は 云 ふ。 け 

れ ども シ ョ ォ の 問題劇 は イブ セ. ンの 問題 提出 劇と は 等しくない。 イブ セ ンが眞 劎に生 一 本に 問題 

を 提出して 世に 間 ふ 時、 シ ョ ォは その 間 題 を 提出す る や 否や 直ぐ さま 自分で それ を 慰み ものにし 

てゐ る。 さう して 奇抜な 解決 を與 へて ゐる。 徹頭徹尾 イブセンに 比して 實際 的で、 ょリ遙 かに 智 

的で 且つ 全然 樂天 的ない たづら つ 子の 所業で ある。 ただい たづら つ 子に して は 如何にも 該博な 智 

識と 鋭い 理智の 判斷を 持って ねる とこが 身上で ある。 


520 


作 女 處のィ - ンァフ 


此の 點に 於て バ アナ アド. ショォ は ウィリアム. ヂ H  H ムスが 評した やうに Convention と- 

Conscience の 相違 を 吾々 の 目の前に 明瞭に 展開す る 丈 充分の 洞察力 を 持つ 人で ある。 しかし 彼 

が 所謂 社會の 誤謬 を 指摘す る 時、 その 眞に 指摘しょう とする 事實の 重大 さ を 忘れて、 かくしても 

かくしきれ ないい たづら から 結果 は 何時も 問題外のお なぐさみ になって 了 ふ。 シ ョォの 看板 廣吿 

は 多少 化粧品の それに 類す るから 責任 を もって 他人に すすめる 事 は 出来ない けれども、 彼が 繰 返 

へ して 云 ふ 彼の 作劇の 目的 を眞に 誠實な 信念で あると むて 見れば、 彼のと る 形式 は その 目的に 不 

適當な ものである。 自分の 主張 を 人に 聽 せる 爲 めに 故意と 通俗な お 笑 ひに 訴 へる ので あると 云 ふ 

シ ョ 才の辯 解 は 到底 信用 出来ない ものである。 

シ ョォは 自分の 戲曲を 見て 笑ふ觀 客の 幾人の 目に 淚が 浮ぶ か を 知り 度い と 云 つて ゐ るが、 如何 

に 問題 そのものが 吾々 の 生活に 密接な 關係を 持ち、 吾々 の 生存に 重大な 意義 を 持つ ものであって 

も、 それが 適當な 形式で 提出され す、 しかも 提出者 自身から ゲ ラゲ ラ笑 ひの 中に 己れ を 忘れて ゐ 

る 時、 どうして 襟 を 正して 考 へる 事が 出來る もの か。 たと へお 上の 御 政治に あきたらぬ 思想 を 含 

しばらく 

んでゐ て も 路上に 貼られた 川柳 落首 は 暫時 行人の 足 を 停める ばかりで 革命 を 惹起す る 力 は 無い。 

ショォ は 全然 イブセンの 嚴 肅を缺 いて ゐる ばかりでなく、 自分が 攻擊 しょうと する 社會 の缺陷 5 


を なぐさみ にし、 叉 それ を戲 曲に しくむ 自分の 腕前 を 限りなく 樂 しんで ゐ るので ある。 表看板 は 

立派な 社會 改革 論者で あるが 實 は社會 の缺陷 を贅澤 になぐ さむ 智識の 上の 成金で ある。 シ ョォが 

「人と 超人」 を 送 つて 批評 を 求めた 時、 人生 は 笑 ひものに する ベ く あまりに 重大で あると 答 へた ト 

ル ス トイの 言葉 を 忘れる 事が 出來 ない。 

じょうだん  にがく 

シ ョォの 此の 人が い ゝと云 へば 云 ふ 可き 戲談 めかし い 心 持 は 其の 廣吿の 大上段で ある 丈 苦々 し 

く、 シ ョ才 その 人 は 好 老爺で あると 知って ゐても 一 人よ がりに つけあがって わめいて ゐ るの は 面 

白くない。 戲曲 作家と して は 全然 シ ョォに 比ぶ 可き 人 だと も 思 はない が 寧ろ 彼の S 苦しい 道德家 

Brieux の 融通の 利かない 態度 を 自分 は 尊重す る。 

シ ョォが 自分 は 曾て 確固した 印銘を 人に 與 へ た 事が 無い、 何故ならば 誰 人 も 自分 を 信じて くれ 

ないから であると 云った のは卽 ち此處 にあて はまる。 しかし ショォ は 斯う 云 ふ 事 を 云 ふ 時 も、 此 

の 誰 人に も 信じられない 事 を 歎く よりも 寧ろ 自分の 詭辯 戲談の 勢力の 偉大 さに 滿 足して ゐる 態度 

が 見える、 愚痴で はない、 自慢で ある。 

シ ョ 才と 自慢と 云 ふ 取合せ は 直ぐに 次の やうな 無益な 想像 を 逞しく せしめる。 

幾年 か 前、 ヘンリイ • ヂ ョォジ の單稅 論に 感激し、 力 アル. マルクスの 資本論 を 聖書の 如く あ 


522 


作 女 處のィ ニン ァフ 


りが たがった 時代の シ ョォは 今日 立派な 邸宅 を 構へ て 自動車 を 驅るシ ョ才 から 見れば、 恰も 我が 

國の實 業 家が 天秤棒 を かついだ 昔 を ほこる が 如く、 ハイド. パァク の 一 隅で 大道 演說 をした 姿と 

肿 せて 何よりも 自慢の 思 ひ 出で あらう。 「ゥ オル レン 夫人の 蛾 業」 を 書いた 心 持 は、 年が年中 赤 

ドレス  こばま 

茶け た背廣 一 枚で、 或 時 は 劇場の 入口で 夜 會服を 着用して ゐな いと 云 ふ 理由から 入場 を 拒れ た 時 

代の 自分の 姿と 共に 僅かに 記憶に 殘る もので あらう。 

卽ち蓄 め 込んだ 金に あかして 奢侈の 限り を盡 しながら なほ 昔からの 口癖で 勤儉 貯蓄 を說く 彼等 

と 同じく * ショォ は旣に ァヂテ H タァ としての 熟 を 失 ひながら、 口癖に なって 昔の せりふ を 繰 返 

へして ゐ るので はない か。 戲曲 作家と して は 初めから 知識ば かりで 感情が 無い と 非難され た 彼 は 

今日に 於て は 更に 益々. Sincerity を缺き つ k ある。 今日の シ ョ ォに 取って は 戯曲の 創作 も 社會主 

義の 演說も 自動車の ドライ ビングと 等しく 彼の Hobby の 一 つに 過ぎまい。 

あらゆる 點 から 見て 彼 は 自作の 戯曲 を 子供ら しく享 樂 して ゐる。 たと へ 皮肉 は 皮肉で あっても 

樂天 的な 心 持から ショォ は 文壇の I」eter  Ran である。 

殊に 「ファ ン 二 ィ の處女 作」 にはシ ョ 才の 子供ら しさが 遣憾 なく 現 はれて ゐる。 殆 んど應 接に い 

とまな く連發 する 洒落 も 詭辯 も、 あらさがしの 根性 を まじへ てゐ ると は 云へ、 子供の 水い たづら 


523 


に過ぎない ので ある。 飛び散る 水の か、 るの は 自分の 顏 である。 

さう して 以前の ショォ に 見た 特殊 の觀 察が 無くなって 極めて 平凡な 常識的な 議論で ある。 しか 

も 人間の 幸福 を Reason の 多寡で 量らう とする 根本 思想 を 捨てない 限り、 ショォ の 饒舌に 自分. 

はうな づく 事が 出來 ない。 

た^ 自分が 非常に 面白く 思 ふの は、 社會 主義者の 通弊と して 人間 を 人間と して 見す、 階級と し 

て 見る 偏見に 陷 りながら もシ ョォは 他の 同 主義者の 老孃 的に ひねくれた ところが なく、 階級 根性 

の 攻擊も 無邪氣 ない くさ ご つ この 心 持から 來てゐ ると 云 ふ 一事で ある。 彼の 皮肉 は 普通人の 思 ひ: 

も 及ばぬ 透徹した 細か さ を 持って ゐ るが、 屢々 彼の 爲 めに 引合 ひに 出される ホ イツ スラァ の それ 

の 如く 肉體 的に 避けが たい 程の 悲痛な 銳ど さは 無い。 

矢張り 人 はい、 に 違 ひない、 と 結局 思 ひながら 自分 は 席 を 立った。 文字に すると 長い けれども 

幕の 下りた 後で 長々 と 其處に 坐って ゐ たので はない、 戯^の 進行して ゐる間 及び 幕 合 ひに こんな 

事 を きれぎれに 頭に 浮べた に過ぎない ので ある。 

觀客は 何れも 「ファン 二 ィ の處女 作」 の わかりい、 戲談 めいた 部分ば かり を樂 しんで 笑 ひつ y け 

たが、 幕が 下りても 未だ 笑 ひ聲は 場內に 漂って ゐる。 しかし 數 時間 狭い 屋內の 人工的に 温められ 


^24 


作 女處の ィ-ン ア^ 


た 筌氣と 人い きれに 蒸され、 觀 劇に 疲れた 人々 は、 舞臺を 見て ゐる間 は みんなの 心が 一 つに 結ば 

れてゐ たが、 今 は それぞれ 別々 の 家路 を 思 ふ 人で あり、 別々 に 今夜の 芝居 を 批判す る 心に なって 

歸 つて 行く。 

自分 も その 間に 押されながら 狹ぃ戶 口から 寒い 戸外に 出た。 非常に 咽喉が 乾いて ゐる。 丁度 何 

處の 芝居 も はねる 頃の 眞黑な 人の 流れに まじって 地下 鐵 道の 停車場に 急ぎながら 途中の パ ァで冷 

ぃ麥 酒を飮 まう と樂 しみながら 步 いた。 

四 辻に 來て 曲ら うとす ると、 恰も ゆき 違 ふ 車馬の たてこんだ 爲め 遮られて 行く 事 も出來 すに う 

ごめいて ゐる 人數の 中に JVliss  W とその 同伴の 娘が もまれて ゐ るの を 見た。 自分 は 片側の 店の 玻 

ス まど  ^け 

璃 窓に すれ/ \ になって 切拔て 行く 一  列の 中に ゐ たから 追 越して しま へば 追 越せる ので あつたが、 

なんとなく 先方の 視線 を 引き 度い 心 持から わざと 愚圖々 々して 人波の 中に 入って しまった。 さう 

して 車馬の 往来に 絕 間が 出 來、 人波が 四 筋の 町に わかれ/ ヽに 崩れる と、 自分が 期待した 通り 二 

人の 女 は 丁度 目の前で、 ホットした 風で 何 かさ、 やきながら 肩 を 合せて 町角 を 右に 曲った。 自分 

も 同じ 道で あるか. らもと よりその 後に したがつ たが、 如何 かして 振り向け ばい、 と 希っても、 二 

人 は 足早に 歸りを 急ぐ ので 签賴 みに なり さう である。 自分 は 人に つき 當 るの も かま はす 故 专5 と 知 


525 


ら ない 風 をしながら 二人 を 追 ひ 越す 手順に した。 

それ は 丁度 自分の 志した バ ァ の 前で はあった が、 その 場の 調子から みすく 見過して しまった。 

けれども 廣く扉 を 開いた その 家の 內 部からの あかり は 自分の 橫顏を はっきり 見せた ので J^ss  W 

は 忽ち 認めて 聲を 掛けた。 

一 寸 帽子 を 取って 直ぐに 二人に 並んで 歩き 出す とその 若い 娘 は 紹介 も 待た す、 責方も !E 喉が 乾 

いて ゐゃ あしま せんかと なれ/ \ しく 聲を 掛けた。 自分 も 咽喉が 乾いて ゐる、 よければ 何處 かで 

一緒に 何 か 水を飮 まう と 云 ふと、 實は今 自分 達 は その 相談 をして ゐ たの だと 娘が 又 答へ た。 けれ 

ども 貴方 はもう ちっと 苦い 水の 方が い 、ので はない かと Miss  W は 承知して ゐ てから かふ。 娘 は 

仰山に 笑った がその 時 丁度 薬屋の 前に 來てゐ たので、 あまり 明るい 電燈の 光りと 入り か はり 立ち 

か はる 芝居 歸 りの 人々 の 手前 急に 姿勢 を 正して 取りす ました 顔の 目尻と 口 もとに 笑 ひの あと を殘 

しながら 娘 は 活潑に 店の 中に 入った。 

其處 いらに 不規則 に 置かれ た 椅子 も 卓子 も 先客 で ふさがって ゐ るので 自分 達 は 片隅 に 立った ま 

、でなければ 詮方がなかった。 

Miss  B は レモン • ソ才 グを飮 むと 云 ひ、 娘 は. チェリイ • アイス ク リイ ム が 好きだと 云 ふ。 自 


526 


ね 女處の ィ ニン アブ 


分 は どっち かと 云 へ ば惡 甘くない ソ才ダ の 方が 好きなん だけれ ど、 その 娘に 贊 成した 方が 嬉しい 

氣 がして アイ スク リイ ム にして しまった。 

一 一人と も上氣 して ゐ るが、 色艷 のよ くない ま iss  B は 油が 浮い て 一 曆 醜くな つたのに 反し、 娘 

は淚に 濡れた やうな 輝き を もつ 大きな 目、 思 ひ 切って うすい 唇 は 紅く 燃え、 何 處か均 齊を缺 い 

た 顔立ちが か へって 心 を ひくので あった。 

麥 藁で ソ オダ を 吸って ゐる Misste の頰 骨の 高い 頑丈な 顏と 並んで、 娘の つまみ. 上げた 鼻の さ 

きに あか リ の 透い て 見えさうな 美し さ を 見せた 横顏を 中心に して 盗み見る と、 五 ッ六ッ 砂糖 漬の 

眞 紅な 櫻坊 をのせ て 桃色の 甘露 を かけた アイス ク リイ ム の 皿 を 左に 持ち、 銀の 小匙 をお  p くと り あ 

げた 右の 小指の しなやか さが 妙に 肉感的に 思 はれた、 先づ ひとつ 櫻坊を 匙に のせて 口に 持って行 

つたが、 うすい 唇 を もれて 小粒の 眞 白に 並んだ 齒 の何處 かに 塡 めた 金の 光る の も 見落さなかった。 

今夜の 芝居 は 面白かった ではない かと 話 掛け、 返事 も 待た すに を かし か つた 動作せ り  ふ を 田 化 ひ 

ひ ま  • 

し 思 ひ 出し 娘 は アイ スク リイ ム の 閑暇に はしゃいで ゐる。 

日本人の 年齢 は 一 寸 わからな いから 自分 を まだ 子供 だと 思って ゐる らしく 姉ら しい 心 やす さで 

親しく 話 掛けて は 面白かった かと 問 はれる と、 如何しても 面白かった と 同意し なくて は ゐられ な 


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か つた。 少しも 濁り の 無い 透明な 聲は 固く 締っ たうす 唇の 動く まに まに 白齒の 間から あふれて 來 

る、 娘 はす ぐれて 早口であった。 

藥屋を 出て 直ぐ 向 ふ 側の 地下 鐵 道の 入口に 行く 時 も 娘 は 先き 立ちに なった。 氣の輕 か 身の 輕ぃ 

娘ら しい。 

いつば い 

車 室の 中 は 時間が 時間な ので 充満の 人で 坐る 場所が 無い、 娘 は オヤ オヤと 云った 表情 をして う 

なづ いて 見せた が、 その 時 其處に 坐って ゐた學 生らし いのが 二人 立 上って 席 を.. 讓 つたので ま iss  B 

と 娘 はやう やく 腰かけた。 

トンネル 

隧道 を 走る 車の すさまじい 音に も か、 はらす 娘 は MissB の 膝 を 叩いたり 手 を 引 張ったり して 

「ファン ニイ の處女 作」 のお さら ひ をして ゐる。 釣 革に つかまって ゐる 自分に はき れん \ に しか 聞 

きとれ ない けれども、 せりふ を覺 えて ゐて それ を 得意の 早口で 口にして は 自分から 笑 ひ を 押 へ か 

ねて ゐ るので ある。 ドラと ギルべ ィ 夫妻との 會 話の を かし さ を 娘 は 最も よろこんだ らしく、 ドラ 

の へらす ロを眞 似して は 自分の 方に 視線 を 投げて 笑 ふ。 四邊の 人が その 笑 ひ 額に 注意す ると 急に 

すまして 手に 持つ ブ 口 グラム を 擴げて それに 眺め 入る ふり をす るが 長く は繽 かないで 叉 ドラに か 

へる、 !Miss  B が 年 役に 目 つきでた しなめ ると 反って 面白がって 繰 返へ すので あった。 


528 


作 女處の ィ- ンァプ 


十數 分の 後 《アバ アド . スクエアに 着き、 ボストンと はう つて 變 つて 家 も 人 も寢靜 まった 學校 

つつま 

町に 出る と 身に 沁みて 夜更け は 寒く、 厚い 毛皮の 外套に 包れ た 娘の 姿 は 急に ち ひさくな つてし ま 

つた やうに 見える。 校 內の揄 の 木立の 下 をぬ けて 行く 時 も 娘 は 叉 自分に むかって シ ョォ はほんと 

に 面白いで はない かと 幾度 もく も 早口に 繰 返へ して は 同意 を 求めた が、 其の 間に 二度、 三度 

Meny,  Mellow  Shaw と 呼んだ。 それが 韻律 を 保って 美しく 響いた。 

メモリ マル •* オル  、 

紀 念舘の 前で 右に 行く 二人 を それ, <\ 'その 家 迄 送って 行かう としたが MissB も 娘 ももう 

ぢ き其處 だから それに は 及ばない と 云って 承知し ない。 自分 は MissB の 宿よりも 娘の 家 は 遠い 

だら うと 推察し :Miss  B を 門口 迄 見送った 後で、 更に 娘 を 送り届ける 重い任務の やうに も 其の 場 

では 考 へられた 空想 を滿 たしたかった ので あるが、 強ゐ てと も 云 ひかね て 別れた。 

左様なら、 左様なら、 と 太く かれた Jsss  B の聲 にっ^いて 娘の ほがらかな 聲が 冴えて 響いて 

一 一人 はさつ さと 闇に 消えて 行った。 

それと は 反對の 左に折れた 自分 は 木立の 暗い 道 を 家路に む^ひながら 芝居よりも 彼の 娘 を 深く 

印象され てゐ た。 

Merry,  IMellow  Shaw, 


529 


Merry,  bellow  Shaw. 

R と L の發 音の はっきり しない にも か、 はらす、 知らす/ \自 かの 唇 は 娘の 聲を眞 似す る。 

い 、響き を 持つ 三 字 を 繰 返へ して ゐる うちに、 たった それ 丈で f の 娘 はヂョ ォヂ. バ アナ アド. 

ショォ の 全體を 批評し つくして しまった やうに も 思. H れて來 た。 

JVTeny,  JMellow  Siiaw, 

Merry,  Mellow  Shaw. 

しま ひに は步 調に 合せて つぶやいた。 

; Meerty,  Mellow  Sliaw, 

Meeny,  Mellow  Sl:aw. 

(大正 三年 三月 五日 —— 途中 休止 II 四 年 七月 八日 稿了ン 


53S 


記の る 見 を 居 芝で リ ぶし 久 


久しぶりで 芝居 を 見る の 記 

滿四 年ぶりで 故 鄕に歸 る 身と なった 時、 自分 は その 四 年の 短かった 事 を 感じた。 

日本 を 出た 時の 自分と、 歸り 行く 今の 自分との 間に、 外觀 的に は 年齢 をと り、 內面 的に は本來 

自分の 持って ゐ たもの が 極めて 遲々 と 成長した ぐけ だ。 何も 目覺 しい 變化は 無い。 

不適 當な 引例 だけれ ども、 中學 時代の い たづら 友 だち で、 中途 退學 して 亞米利 加に 渡った のが、 

六 年た つて 歸 つて 來た 時、 彼 は 停車場に 出迎 へた 自分の 手 を 握って How  do  you  do? と 云つ 

た。 自分 は 驚いて 彼の 顏を 見た ばかりで 一言 も 返事が 出來 なかった が、 忘れた 日本語 を考 へる 風 

をしたり、 英語の 單語を 如何にも 自然ら しく 會 話の 間に 插入 する 彼 を 疑はなかった。 彼が それ 程 

變 つて 来た やうに 見えた からで ある。 自分の 舊友 だと は考 へられす、 全く 新しい 友 だち が 現 はれ 

たやう に 思 はれた の だ。 勿論 自分に は それ 程の 變化は 無い。 

もう 一人の 友 だち は 僅かに 一年の 欧洲 旅行で、 極端な 悲觀 論者だった のが、 極端な 樂觀 論者に 


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なって 歸 つて 来た。 伺 時 迄 君 はそんな 事 を 云って るの だと、 彼の 眼 も 口 も 自分 を 嘲った。 自分に 

はこれ 程の 變化も 無い。  . 

旅の 終に は 自分 は 巴 里に 居た。 周 圍にゐ た 同胞の 多く は、 自分より 先き に歸 朝す る 人達だった 

その 人々 は 自分に 比べ て は 短い 海外の 滯 在だった にも か 、はらす、 日本 も變 りましたら うねえ、 

日本に 歸 つたら どんなで せう、 と 口癖に 云って 居た。 故國の 文物 制度 風俗 習慣、 あらゆる 物事 を 

悉く 目新しい ものと して 受 入れる 事が 出來 ると 云 ふ 期待 を 持って 居たら しい。 それが いかにも 所 

謂 新歸朝 者の 輕 薄な 誇張で あるかの やうに、 取り 殘 される 自分に は 思 はれて しかたがなかった。 

自分 は 此の 數 年の 海外 生活の 間に、 自分が 生れ 育った 國を 忘れた と は 思へ ない。 日本の 風俗 習 

慣を 珍しく 思 ひ 見る 事 は、 思 ひも 及ばない 事 だと 考 へながら、 何等 珍しい もの を 期待せ すに 歸朝 

の途 についた。  • 

シン ガポ オル 

船が II ン ドン を 出て 一 ヶ月 半 後、 新嘉坡 から 俄に 同胞の 客が 多くな つた。 突然 自分の 世界 は狹 

くな つてし まった。 

自分 は 彼等よりも、 少し は 巧みに 英語の 會 話が 出来た 爲に、 生意氣 だと 云って 嫌 はれた。 彼等 

ゆ. A た  きちん  な 5  き ざ 

が 浴衣の 尻 を まくって 甲板 を 横行す る 時 * 整然とした 服装 をして ゐた爲 に、 氣 Li だと 云って 憎ま 


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記の る 見 を 居 芝で りぶ し久 


れた。 醉拂 つて 助平な 話 をし ない 爲に、 交際 を 知らない 奴 だと 云って 排斥され た。 しま ひに は自 

分 を 悪罵 嘲弄す る爲に 徒黨を 組む に 至った。 此處に 到って、 船中 おとなしい 人で 通って 來た 自分 

も、 此方が おとなしければ おとなしい 程 無禮な 態度 を 執る 彼等に 對 して、 遂に 一夜 啖呵 を 切って 

しまった。 さう して 後で 赤面した。 

自分 は 全く 驚いた。 自分の 目の前に 開かれた 世間 は ー變 してし まった。 我が 同胞が これ 程 嫉妬 

深く、 意地 惡く、 野卑であった 事 を 知らなかった の だ、 自分 を 保護す る爲に は邪智 深い 疑念が 必 

要で あると 思った。 正直な 心 を 持って 居て は 身が 危ない と 思った。 成程 自分 は 長い間 故 鄕に遠 ざ 

かって 居た と、 その 時 初めて 感じた ので ある。 

些細な 外見 上の 事で、 しかも 自分の 豫 期しなかった 初めての 驚き は、 上海の 町で 小學 校の 女敎 

員で あらう、 海老茶の 袴 を はいた 束髮の 婦人 を 見た 事であった。 その 婦人 は 別段 醜い 容貌で も、 

しばらく 

みっともない 姿で もなかつ たが、 自分 は 暫時 ふり かへ つて 後 姿 を 見送った。 日本に 居た 頃 毎日 見 

てゐた 女の. 袴 姿が、 これ 程 醜悪な ものだった と は 想像 もしなかった から。 

數 へれば まだ いくらでも 例 を あげる 事が 出來 るが、 こんなつ まらない 事から、 自分 は 自分ら が 

日本に 居た 時には 氣の 付かな か つ. た 事が 澤 山あって、 その 爲に 新しい 印象から 成立つ 故鄕を 見る 


533 


事が 出來 ると 思 ひ 初めた。 

しかしい ざ歸 つて 見る と、 あれこれの 事が 物珍しかった の も 束の間で、 靴に 馴染んだ 足に 足駄 

を はいても 痛く なくなり、 襟 をはづ しても 風邪 を 引かなくなる と共に、 何も 新奇な 事 はなくな り. 

久しぶり の 故鄕が 珍しく も 面白 くもなく なった。 同時に 初めの 間 は 少し 物 騷に思 はれた 此の 故鄕 

に 永住す る 事 も平氣 になって しまった。 過ぎ去った 數 年の 海外 生活 も 別に 長く はなかった と、 叉 

しても 思 ひ 返した。 

無駄な 事 を 書いた やう だが、 友 だち に 誘 はれて 久しぶりで 芝居 を 見た 時 自分 はこれ に 似た 經驗 

をした ので ある。 

劇場の 內 部に 入った 時 自分 は 物珍しく あたり を 見廻した。 芝居が 珍しい と 云 ふ 柄で もない のに- 

行き 馴れた 歌舞伎 座に 親し さ を 見出す よりも、 寧ろ 意外に 目 を 見張った、 無闇に だ だつ 廣く 見え 

ひ る 

る 火の 氣の 無い 場內に は、 八方から 白晝の 光が さし 込んで、 閑寂な お 寺の 氣持 がした。 野外劇 場 

の やうに も 思 はれた。 その 中 を 行儀 惡く ゆきか ふ 客 や 出方が、 狐に つままれて 野原 を步 いて ゐる 

やう だな ど、 無駄な 事を考 へて 獨 りで 笑った。 芝居の 女 客に 特有な、 妙に 落着かないで、 その 癖: 

様子ぶ つた 小投 走りの 姿が、 いかにも わざとら しい を かしみ から 面白かった。 初めて 歐羅 巴の 物 


記の る 見な 居 芝で り ぷし久 


好きが、 日本の 浮世 繪に 描かれた 人物の 珍しい 姿態 運動に 目 を 見張った の は、 自分の 此の 時の 面 

白づ くの 度の 強い ものに 違 ひなかつ たらう。 

後から後から 送られて 來る客 を 見て 居る と、 あらゆる 種類の 人が ゐる。 衣服 ゃ髮の 流行の 一端 

もうかぐ ひ しられる。 狭い ところに 割込んで 坐る のに 窮屈な 洋服 を 着た 男が 非常に 多い。 平土間 

の眞 中に フロック コ オトの 一 群が 居た のに は 驚いた。 その 中に 巴 里の ホテルで 見た 獨乙 仕込みの 

醫學 士のゐ たのに は 更に 驚いた。 

直ぐに 一 番目 「貞 任宗 任」 が あいた。 

漁家と 花の木と Si の 青い 海に 少し は 狭められて はゐ るが、 廣々 とした 舞臺が 曾て 見た 事の 無 

い 程 廣く思 はれた。 これ 程 馬鹿々々 しく 不必要に 廣 ぃ舞臺 を、 自分 は當り 前の ものと して 見た の 

だったら うか。 

自分の 空想 は 叉、 その 靑ぃ 海の 遨 りに 梅 櫻の 唉く 我國の 微妙な 春に 誘 はれて 行った。 時 々何處 

からか、 建てつ けの 惡ぃ戶 のす き 間から 吹き 入る 風が、 風邪 氣の 襟に 氣味惡 く 觸れて ゆく のさへ 

舞臺の 景色と ひ つくる めて、 奥州 外ケ 濱の汐 風の やうに 思 はれた。 

日本 程、 春夏秋冬の 推移の 钿 やかな ところ は何處 にも あるまい。 衣食住の 關 係から も そのう 


535 


つろ ひ を沁々 身にしみ るので は あるが、 歐米を 旅行して、 彼の 國には 冬と 夏 はあって も、 日本の 

春 や 秋に 相當 する 季節 は 無い やうに 思 はれる。 自分の しばらく 居た 北米の 都市 は、 冬 は 寒く 夏 は 

叉 思 ひ 切った 暑さ だが、 春秋 は 短くて 雪 解の 下から 草の 芽が 靑々 と萌ぇ 初め、 見る 間に 並木の 楡、 

柏、 楓 などの 梢は憨 蒼と して、 外套 を脫 いだ 人 は 早く も 額に 汗を覺 える のであった。 歐羅 巴に 渡 

つてから も、 夏、 冬服の ま、 で 通せた。 冬 も あまり 寒くな く、 自分が 亞米利 加で こしら へた 外套 

は、 北極 探險 にで も 行く やう だと 云って 笑 はれた。 從 つて その 間 をつな ぐ 春秋の 推移 も、 あまり 

に おだやかで、 日本の その 頃の やうに 人の 思想 迄 も 支配す る やうに 心 を 誘 ふ もので は 無い。 

自分に は 序幕の 舞臺 が、 たと へ 芝居と して 珍しい もので はない にしても、 久しぶりで 故 國の氣 

候 風物 を HE の あたりに 見せられ、 叉 如何に 昔から 吾々 の 戯曲 は、 自然の 情趣に よって 與味 をつな 

いで 來 たかを 考 へさせられて、 面白かった。 

ー體 吾々 の 生活 は、 いかに 氣候 風物と 密接に 結びつけられて ゐ るか、 日常生活に 於ても いかに 

吾々 が 季節に 神經 質で あるか は、 歐米 人のう か^ひ 知る 事の 出來 ない 事實 であらう。 近頃のお 天, 

氣模樣 は 重大なる 會 話の 材料で ある。 物語 を讀ん でも、 芝居 を 見ても、 何時も 吾々 の 主人公、 女 

主人公 は、 雨に 風に 雪に 嵐に、 その 生涯 を あやつられて ゐる、 か、 る氣 象の 支配 下に、 吾々 の存 


536 


記の る 見 を 居 芝で りぶ し久 


在 は あまりに 心細く 思 はれる 程 だ。 

さう して 此の 氣候 風物に 對 して 特に 細やかな 感覺を 持つ 人々 は 舞臺の 上に 於ても 極めて 巧妙に、 

或は 知らす 識ら すに、 上記の 意味に 於け る 自然 を 背景と して 情趣 を 浮ばせる 技巧 を發 達させた。 

吾々 の 如く 自然に 親しい 生活 をして ゐ ない 歐米 人の 芝居に、 此の 要素 を缺 いて ゐる事 は 當然の 事 

である。 

但し 自分 は 此の 技巧 を條件 無しに 讚稱 する もので はない。 これ あるが 爲 めに 吾々 の戲曲 は繪畫 

的に はなっても、 彫刻 的に、 建築 的に はならない ので ある。 眞に 偉大なる 藝 術の 出現 を 妨げる 可 

憐な 趣味と 云 ふ 可き であらう。 

ぺか 

此の 戲 曲に 於ても、 自分の 面白く 思った の は、 貞任宗 任 兄弟の、 一人 は 大勢の 杭す 可らざる 事 

は 知りながら も、 自分の 尊び 愛して 来た 父祖の 地 を 守って 最後の 一 人と なる 迄も戰 はう と 主張し、 

きの ふ 

昨日に 對 する 熟 愛に 執着し、 自己の 意地に 生きん として 死を擇 び、 他の 一人 は 聰明に も 世の中の 

推移 を 知って、 親 はらから を 捨て、 父の 敵に 歸順 すると 云 ふ、 作者 の^った 對照 ではなく、 此の 

戲 曲の 背景 を爲す 歳時記の 幾 頁が もたらす 淡い 情趣に 他なら ない。 

.  あた 

幕が 引かれて、 漁家の 板廂に 近く 時 を 同じく して 咲き匂 ふ 梅 櫻の 立 木の 邊 りから、 浪打 際に 流 


537 


れ木を 拾 ふ 濱の娘 達の 姿 を 見た 瞬間に、 故鄕の 風物の 戀 しさが ひしひしと 迫って 來た。 その ま、 

幕 を閉ぢ たら 自分に はか へ つて 淡いながら も懷 しい 印象 を殘 したで あらう。 

しかし 次の 瞬間に は 不愉快な 聲 が連續 して 耳 を 襲って 来た、 殊に 女形の 咽喉と 鼻で 無理に 調子 

を 取りつ くろった 窮屈な 聲が 自分 を 苛々 させた。 以前から 女形の 不自然な 磬は嫌 ひだった が、 惡 

どく 耳の 底 迄 こびり つい て來る これ 程 執念深い ものと は 思はなかった。 恰度 上海の 町で 女の 醜惡 

な 袴 姿 を 見た 時の 不愉快 を、 今度 は 耳から 受けた ので ある。 

女形 程 無理の 無い 丈、 男に 扮 する 役者の 聲は樂 だが、 それでも 惡聲の 持主ば かりだ、 一人 二人 

を 除いて は、 聲 によって 快感 を與へ 得る 役者 はゐ ないで はない か。 

ー體 吾々 はどうして かう 聞き苦しい 聲を 持って 生れた の だら う。 蕃地の 民 は 知らないが、 所謂 

文明 國の國 民 中、 吾々 程 不快な 聲を 持つ 者 はない。 倫 敦邊の 料理屋な どで、 醉拂 つた 同胞の 役人- 

軍人、 勤務 人な どが 度 はづれ の高聲 で、 その 地の 人に は 通じまい とたか をく くって、 日本人に 特 

有な、 ところ 擇 ばぬ 助平 話に 舆 じて ゐ るの を 苦々 しげに 見守る 外人 を 見て 赤面した。 彼等の 話の 

內容 はわから なくても、 あの わざとら しい 笑聲、 あの 不愉快な 高聲は 人の 祌經を 苛々 させる に 違 

ひない。 


533 


記の る 見 を 居 芝で りぶ し久 


今、 役者の 咽喉に からんだ いやな 聲を 聞いて、 吾々 がか かる 惡聲の 持主に 生れた の を 恥辱と 思 

つた。 舞臺に 立つ 人 は 少なくとも 發聲の 練習に 努めて 貰 ひ 度い。 聲音 救濟の 一方 法と して は 西洋 

の 聲樂の 稽古 をして みるの も 何 かの たしにな りさう に 思 はれる。 兎に角 勉強 すれば 吾々 の聲 だつ 

て、 少し は 聞きに くくなくなる だら う。 

その 惡聲の 入り まじる 會 話の 間に、 哀れに 優しい 傳說 を、 惡聲の 誰彼が 物語り 始めた。 それ は 

- つし ゎラ あんじゅ  うらみ 

丹 後の 國の 三莊 太夫に、 對王 安壽が 殺された 怨恨が 殘 つて、 丹 後の 者が 入り込む と 南部の 海が 荒 

れ ると 云 ふ 丹 後 波の 傳說 や、 毎年の 秋 渡る 雁が 廣ぃ 海の 上で 疲れた 羽 を 休める 爲に晈 へて 來た木 

ぎれ を、 外 ケ濱邊 に 落して 置く、 翌年の 舂歸る 頃 渚に 殘る木 ぎれ の 多く あるの は、 人に 捕られた 

り 死んだり した 雁の ある 爲 だと 云って、 供養の 爲に その 木 ぎれ を 拾って 焚いて、 諸人に 浴せ しめ 

る 雁 風呂の 話で ある。 かう 云 ふ 懐し い 插話は 自分の 心 を 誘 ふ。 けれども それ は 此の 一 篇の戲 曲の 

構成に は殆 んど關 係の 無い もので、 それ は單に 瞬間に 消える はかない 情趣に 過ぎない 事 は 斷る迄 

も 無い 事 だ。 

正直に 云へ ば 自分 は 此の 戲曲を 此の 作者の ものと しても、 あまり 面白い もの だと は 思 はない。 

附燒 刃ら しいい やみが 他の 作よりも 一 &? 強い からで ある。 


53? 


それ を 演じる 役者 は 如何 だら う。 自分 は 一言 下手 だと 云 ひ 度い。 少なくとも 總體の 聯絡の. 無い 

事 は 誰し もうな づく ところで あらう。 

ー體 丸の 內に 帝國 劇場が 出來 てから、 役者の 組合せに 狂 ひ を 生じた。 羽左衞 門の 油の 切れ か、 

つたの は、 彼の 技藝が 行き 詰った ので は 無くて、 相手が 無くなつ たの だと 考へ 度い。 年が年中 帝 

國 劇場の 芝居の つまらな いのは、 幸 四 郞と云 ふ 大根の 中の 大根が 上 置きに なって ゐて、 他の 役者 

を 殺して しま ふから だ。 その上 近年 は、 大阪の 興行師が 東京の 芝居 迄 も その 支配 下に 持って行つ 

て 目新しい と 云 ふ 事專ー に、 所謂 東西 俳優の 顏 合せ を ふんだん にやる ので、 水に 油 を 注いだ やう 

な 調子の 合 はない 芝居ば かり 出来 上. るので ある。 一人一人 離して 見れば、 かなりうまい 役者の 芝 

居が、 一 人よ がりの 素人芝居に 類す るの は その 爲 である。 舞臺 上の 役者 達の 技 藝を總 合 的に 組織 

立てる 事 を 忘れて ゐ るの だ。 あまりうまい とも 思へ ない 一座で はあった が、 明治座に 孤立して 居 

た 頃の 左圑次 一 座の 芝居が、 存外 面白 か つた 一 事の 如き、 つ いて 學ぶ 可き 生きた 敎訓 である。 

市 川左圑 次と 云 ふ 人が 人格の 人で ある 爲か、 彼の 一座の 人々 は 彼 を 中心とした 強い 結合 力 を 持 

つて ゐた。 舞臺の 上で は 役者 同志が お 互に 一 人 勝手の 芝居 をし ない 丈の 同情と 理解 を 持って ゐた 9 

さう して 岡 本綺堂 氏の 新作 を 演じる のに 最も 適當な 特色 を帶 びた、 實は あんまり 感服し ない 一風 


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記の る 見 を 居 芝で りぶ し久 


變 つた 藝 風に 陷 つてし まった 程、 此の 一 座 以外の 連中と はう つりの 惡 いものに なった ので ある。 

見よ、 我 童の 丹 後 小 次 郞と松 蔦の 貞任妹 松 山 を。 延 若の 兄と 左圑 次の 弟 を。 どっち かと 云へば 

素人臭い 人々 の 間に 羽 左衛門 は繼っ 子の 如く、 更に 歌 六に 至って は、 あまりの 時代錯誤に 吹 出し 

たくなる。 至純の 藝術を 尊重す る 自分 は、 此の 混雜 した 一 座 を 寧ろ 氣の 毒に 思った。 

しっかりした 舞臺 監督の 必要 は、 花道 を步く 役者の 足取り を 見ても 感じられる 害 だ。 

序幕で は 又 五郎の 岩 手 五郎が、 むやみに 力んで 兩手を 突張り、 兩足を ふんばって 豪傑が つて 出 

て來 る。 日本に 居た 時 は氣が 付かなかった が、 海外で 同胞 を 見る と、 かへ つて その 特徴が 明かな 

爲か、 自分 は 役人 軍人と 商人、 官立 學校 出の 人と 私立 學校 出の 人の 姿勢、 殊に 步 きつき に 著しい 

相違の ある 事を發 見した。 卽ち 前者 は 無理に も 威儀 を 保た うとす る 根性が 浸み 込んだ のか、 肩 肱 

を 不必要に 張って、 わざわざ みっともなく 固くなって 步 いて ゐ るの だ。 此の 時の 叉 五郞は その 不 

自然な 姿勢 を 彷彿 させた。 

かと 思 ふと 二 幕 目 返し 義家陣 所の 場で は、 家臣の 一 人が 思 ひ 切って 無技巧に 近代的な 步 きつぶ 

り を麗々 と 花道 長く 示した ので ある。 

二 幕 目 常 光寺 境內の 場に 於ても 自分 は 背景 をな す 情趣と、 仕出しの 出て 來る 瞬間ば かり を 輿が 


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つた。 夜の 鐘樓に 白く 櫻の 散り か、 る 時、 笛 太鼓の 音も賑 かに 嗨し 立てて、 若者 大勢が 踊り狂つ 

て 出て 來る 一 瞬が、 本筋の 怒りに 震 へ る貞 任の 一 生 懸命の 芝居よりも 遙 かに 面白かった。 それが 

ありふれた 景色な の は 勿論 だが、 それでも その 方が 心 を 引いた の だ。 

と は 云 へ 立 廻り は 面白 か つた。 歐羅 巴の 芝居に は 殆んど 吾々 の 所謂 立 廻りに 比す 可き ものが 無 

かしたん 

いやう だ。 決 鬪は果 し 合 ひよりも 簡短を 極め、 格闘 は 立 廻りの 悠長に 比す 可く も 無い。 しかし 時 

に は その 簡 短な 決 鬪袼鬪 が、 かへ つて 眞實性 を 以て 物^い。 たと へば 「ハム レット」 の 大詰 は 見る 

もむ ごたら しく、 左 圑次延 若が いっか やった と 聞く、 彼の 愛蘭 土の 作者 マ アレイが 「長子の 權 利」 

(Birthright,  h>y  T.  0.  Murray) の 兄弟の 激烈な 袼鬪 でも、 ほんとの 一瞬で 兄 は 弟に 殺される が- 

そ  の 瞬間に 自分 は 息が 詰る やうに 思った。 

吾々 の 芝居の 立 廻り は、 これ を 遊戯 化して、 それが たと へ 命の やりとり でも、 一種 立 廻りの 情 

調に 低徊し ないで は 氣が濟 まない ので ある。 その 立 廻り を 面白がつ たの も、 久しぶりの 事 だから 

無理で は 無い と 思 ふ。  - 

義家陣 所の 場 は 面白さう で、 その 實 面白くなかった。 その 理由と して ニケ 條を玆 に擧げ る。 第 

1 は左團 次がう まくなかった の だ、 それに は 相手の 羽左衞 門と 二人が、 互に 取つつ き 場な く 見え 


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記の る 見 を 居 芝で りぶ し久 


た 事 も附加 へられる。 左圑次 は、 默 つて 出て 來て默 つて 舞臺に 坐って ゐ ると、 威 自ら 他を壓 する 

氣持 のい いところ が ある。 傳へ 聞く その 人となりから 想像して、 自分 は それ を 此の 人の 人格に 歸 

して 尊敬して ゐる。 しかし 口 を 開く と あの 不快に 濁った 聲が 邪魔に なり、 動く と 積極的に 下手 だ 

と 思 はせられ る 事が 多い。 此處 でも 芝居 をし ないで 坐って 居る 時が、 一番 立派な 芝居 だ。 

第二に 自分 は 此の 戲 曲に 現 はれる 宗任を 好かない。 分別 臭いい やな 奴 だと 思 ふ。 轉寢 して ゐる 

義家を 見て、 むらむらと 殺 氣を帶 びて 詰 寄った 時 は 嬉しかった。 一刀の 下に 斬って 捨てたら、 正 

義 ではない けれども、 自分 は 彼が 好きになる だら う。 斬り 損じても い 、。 事が 破れた 丈 一 曆 自分 

は 彼に 同情す るに 違 ひ 無い。 彼が 小 悧巧な 事 を 云って、 刀に 掛けた 手 を 放した 時 自分 は 不偸快 だ 

つた。 ビ, t 

大詰 は 叉、 前 二 幕と は 全然 別の 芝居の やうに 思 はれた。 それ は 主として 延 若の 藝 風と、 左圑 次 

及び その 一 座に 長く 居た 人々 の藝 風との 間に 越 ゆ 可らざる 溝の 横た はる 爲 である。 此の 一 幕で は、 

所謂 綺堂 氏の 新作の 味 ひが 全く 抜けて しまった。 

自分 は貞 住の 母 妹 妻の 一人一人が 自害す る 度に 撞く 鐘の音の、 最後の ものが 早く 鳴れば いいと 

思った 程氣 短に なった。 兎にも角にも 引き つづいて 見て 來た 此の 戲 曲が、 大詰に 到って 全然 違 ふ 


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ものに なって しまったの は、 今迄 はだ まかされて ゐ たの だと 云った やうな 氣を 起させた の だ。 

幕が 下りて ホットした。 

友 だち に 面白かった かと 訊かれた 時、 自分 は 主として 東西の 芝居の 相違から 目新しく 思 はれた 

事 を擧げ て、 それ 丈が 面白かった と 答へ た。 さう して それ は、 再び 芝居 を 見、 三度 芝居 を 見れば 

間も無くつ まらなくなる やうな 取る にも 足らぬ 面白さ だ つた。 

その 證據に は 物珍しく 運動場 を 一 迥步き 廻って、 歸 つて やっと 中幕が あいた 時、 自分 はもう 全 

く 新奇 を. 喜ぶ 心から 面白がった 態度に 刖れ、 久しぶりで 見た 爲に 珍しかった 事 も 珍しく なくなり 

全く 長い間 見馴れた 古い 芝居の 心 持と 融合して、 主として 役者の 技倆の 巧拙に 興味が 掛 つて ゐた 

ので ある。 

女形の 聲も耳 馴れて は 左 迄不偸 快で なくなった。 此の 息苦しい 不自然な 聲が、 反って 本緣 付の 

高 二重、 四つ目の 紋 散らしの 幕 や 金 襖の 前に 起る、 思 ひ 切って こん がらかった 忠義 恩愛に のみ か 

か はって ゐる 一 群の 悲劇に は、 それでなくて はならない 聲の やうに 思 はれて きた。 

これ は 所謂 新しい 芝居と 古い 芝居との 異る點 であるが、 昔からの 型に 縛られる 爲、 没 者 役者の 

穿き 違 ひや、 演 勝手がなくて 自然に 調和 を 保つ ので ある。 たと へ 此の 一座が 混雜を 極めた もので 


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お のる 見 を © 芝で りぶ し久 


あっても、 此の 理由から 「盛 綱」 や 「直 侍」 は 「貞 任宗 任」 や 「鼓觀 世」 に 於け るよりも 役者と 役者の 間 

の 脈絡が、 よりょく づ いて ゐる わけ だ。 . 

自分の 心に は 次第に 古い 芝居の 情緒が 蘇って 來た。 物珍し さが なくなつ たと 同時に、 目觸 りな 

事も减 じた。 久しぶりで 芝居 を 見ても 別段 久しぶり らしい 氣 はしない もの だと、 先刻の 事 は 忘れ 

て 落つ いてし まった。 

自分 はた だ 舞臺の 上の 世界、 それ は 長い間の 傳 習が 自然と 作く り 上げた 一 種 微妙な 情緒 を 起さ 

せる 世界に 引かれて 行った。 極端に 安 靜な心 持の 時に 限られる、 淚ぐ ましい 寂し さが うれしく 自 

分 を 包んで しまった。 

ひ& 

「盛 綱」 「直 侍」 は 面白く、 「鼓觀 せ」 が 忌々 しい 程つ まらなかった の も、 此の 懷レぃ 心 持 を 彼 は 只 

管 深く す るのに、 是 はい たづら にかき 亂す爲 で あ る 。 

自分が 一 番目で それば かり を 面白がった 背景 ゃ插 話が 持つ 情趣、 殊に 季節 氣 象が 戯曲 を いろど 

•  ゆき f; ゆ ふべ いり やの あぜみち  げだい 

る 技巧 も 二番目に 到って は 更に 一 曆 適切に、 此處 ではもう 「雪 暮夜 入 谷 畦 道」 と藝 題から 斷 つて ゐ 

る 丈、 或は 雪の 夜の 入 谷の 情趣 そのものが 戯曲の 全體 かと 思 はれる 程 * 筋で はこばれる 人事の 紛 

糾 よりも 主なる ものと して 考 へられる。 若し これが 雪の 夜で なかったら、 此の 芝居 は 想像 も 出来 


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ない 程つ まらない ものに なった であらう。 此處 では それが 旣 にいろ どり ではない のた if 

於て 默阿彌 は 古今 獨步の 純一な 才能 を 持って ゐた 5 だと 云 ひ 切る 事が 出來 る。 : X 

^^きる 1 自分の 身の上に も 積る やうに 思 はれて、 羽 左衞 門 源 之 助 を 他 入で はな、 やうな 

^ ン さで 見 一寸 つた。 

そこに はもう 全く、 久しぶりで 芝居 を 見た 輕浮な面 白が り は 心の 外に 消えて 行って しまったの 

である。  (大正 五 年 十二月 十七 日) 


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L 洶の 夜, の 會名無 


無名 會の ^ 夜の 潮」 

ジョン. メェ スフ イイ ルド の 戯曲 「 ナ ン の 悲劇」 (The  Tragedy  of  Nan,  .hy  Jchn  Masefleld) 

を、 「夜の 潮」 と 云ふ藝 題で、 無名 會の 連中が 有樂 座で やります と 久保田 万太郞 氏が 敎 へて くれた。 

それ は 同氏に つれられて 初めて 鎪町 の枭鏡 花 先生のお 宅へ お 邪魔した 時、 いろいろ 雑談の 間に 聞 

いたので ある。 恰も 先生が 階下に 下りて 行かれた 間に、 自分 は 數年前 ボストンで それ を 見た 時の 

印象 を 話した。 英吉利 マ ン チェ スタァ から 来た ホォ 二 マンの. 一座だった。 

自分 は 久保田 氏に むかって、 「ナンの 悲劇」 は 現代 英吉利 作家の 戲曲中 最もす ぐれた もの、 一 つ 

だと 云 ひ 切って しまった。 

數日 後、 三 田の 山で、 「三 田 文學」 の 編輯に 就いて 編輯 者と 寄稿者と が 寄 合って 相談した 歸途、 

自分 は 久保田 氏 を 誘って 有樂 座に 行った。 

その 芝居 を 見た 頃の 亞米利 加 生活 も そぞろに 想 ひ 出されて 來る。 あの ケムブ リツ ヂのニ 年間 は 


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ほんと に 寂しかった。 ほんと に 話し合 ふ 友 だち もなかった。 時た ま 面白い 芝居で も か、 ると、 氣 

の 狹ぃロ さが 無い 同胞の 學生を 避けて はボ ス ト ン に 通った なさけない 姿、 殊に 芝居 も はねた 夜更 

けの 地下 鐵 道に はこばれて 下宿に 歸る 自分の 孤獨な 姿が、 今更 懐し く 浮んで 來る。 

そんな 囘想を 伴 ふ 「ナンの 悲劇」 を 見る 事 を よろこんで、 みちを 急ぎながら も、 ほんと にい、 芝 

居です よと、 うるさく 久保田 氏の 耳 を 傾けし めた。 いかに 詩人の 描いた 戯曲が、 或 種の 社會 問題 

など を 取扱った 戲曲 などと は 比べ る 事 も出來 ない 程、 飜譯に は 不適 當 であるかと 云 ふわ かり 切つ 

た事實 さへ 忘れ て 居た 程 自分 は いそいそして ゐ たの だ。 それに は 此會の 舞臺 監督で 且 「夜 の 潮」 の 

飜譯 者なる 坪 內士行 氏 は、 永らく 英吉利で 芝居 を專 門に 研究した 人 だと 豫て 聞いて 居た 事 も 自分 

をして その 舞 臺を疑 はせ なかった のであった らしい。 

東洋 軒 で お 辨當を 喰 ベ て もま だ 時間が あ り あまった ので 煖爐 の 側で ぼんやりして ゐ たが、 その 

間に も 「ナ ン の 悲劇」 を ひとり 想 ひか へ した。 

舞 臺はブ リス トル 海峡の 潮の 上って 來る セヴァ アンの 川 沿 ひ の 村で ある。 あの 地方の はげしい 

訛 を 呼 內氏は どんな 日本語に 譯 したら う。 Accident を Acddenk と 訛り、 Flower を vlower 

と發 音し、 H の 響 音に 到 つ て は 殆んど 全く 發音 出來な いやうな 無學 文盲の 地方 訛 を どう 取扱 つ た 


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の だら う。 

Jennv.  us- 11- ardly  ave  the  things  ready. 

Mother.  Company  be  coming-  at  dark. 

Mrs.  P.  Thinw-S- IV  ave  to  t-e  ()ld  your  tollg.ue. 

と 云った やうな 食 話の 一 つ 二つ をぬ き 出しても、 あたり まへ に譯 して は その 人々 を 活かす 事 は 

出来ない のに、 全體を 通じての か、 る會 話の 調子 を 出す 事に 譯者は 如何に 苦心した であらう。 ル 

の 訛の はげしい 會話は 此の 戲 曲の 中の 人々 と は 切り放す 事の 出来ない 關 係に あるの だ。 自分なん 

he は、 どんな 日本語が 一番 適當 して ゐ るか 見當 もっかたい。 飜譯 なんか 怖し くて 手 も 出た V の 

に II と | だ 事ながら 不安に なって 來た 時、 始まり ますと 給仕の 人が 注意して くれた。 

見物 席の 電氣の 消えた 時、 急ぎ足で 入って 来て、 自分 達の 隣に 座った 洋装の 人が あった。 小山 

I 內 氏だった。 挨拶 をす る 暇 も 無く 幕が あいて、 あかるい 舞臺の 電光の 中に、 自分の 期待 を うらぎ 

の つて 烈しい ま 幻 覺の 場景が 無遠慮に 展開され 始めた。 

f 兎に角 坪 內氏も ホォニ マ ン 一座の 演じた 此の 戯曲 を 見た に 違 ひない。 何故ならば 皮相 的に は 舞 

^ 臺 面から 小道具 衣裳 迄 彼と これと 大差が 無い からで ある。 自分 は 特に 皮相 的と 云った。 それ は 卓 


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子 や 椅子の 置 場が 彼に 等い とい ふ 意味で、 しかも その 精祌は 遂に 摑ん でゐ ない とい ふので ある。 

た f 幕が あいた 丈で も 旣に全 體に氣 の 拔 けた 無 祌經な 感じ の す る 事 を 禁じ 得な かった。 

自分 は 坪 內 氏が ホォニ マンの 舞臺 と, 違った 舞臺を 組立 てても 決して 異^ は 無い。 若し そこに 此 

の 戲曲を 活かす 爲 の 用意が 行き渡って ゐ るなら ば、 簡單な 紹介 や 模倣よりも そ の 獨創 的な!! 臺を 

取り 度い。 しかし 今度 は舞臺 監督 は、 彼 地で 見た ま、 の 舞臺を その まゝ 見せ 度い 腹だった らうと 

思 ふ。 それならば 戲曲 中の 人物の 衣裳 小道具よりも 寧ろ 此の 戲曲 そのもの を、 最も 原作に 忠實に 

その 儘 見せる やうに 注意し なければ ならない。 

- すぎ 

先づ 幕の あい た 瞬間 の 自分 は 舞 臺が廣 過 ると 思った。 舞臺の 廣狹は 上演され る 戯曲の 性質に よ 

つて 決定され なければ ならない。 隣に 坐って 居る ので 直ぐ 引合に 出し 度くな る 久保田 氏の 「暮れ 

がた」 を有樂 座で 見た 時 以来、 巧緻の 極致に 達した 氏の 戲曲は 到底 劇場の 舞臺に 於て 演す 可き も. 

のでな く、 あれ は 日本風のお 座敷で 障子 を 通して 來る柔 かい 晝の 光の 中で、 全く 聲を 張らす に演 

す 可き もの だと 思った。 若し 雪 もよ ひの さで -、 も あったら 一 暦よ から-つと 云 つて 作者 久保田 氏に 

笑 はれた 事 もあった。 「ナンの 悲劇」 の やうな 戲曲 も、 もっと 狹ぃ 舞臺で 演ぜられなければ ならな. 

いと S ふ。 さう して 此の 空虚に 廣ぃ 舞臺が 無名 會の 「夜の 潮」 そのもの を 象徴して ゐる やうに 旣に 


55Q 


L 潮の 夜"1 の 會名無 


豫感 された ので ある。 舞臺 が廣 過ぎます ねと さゝ やくと、 小山 內氏 は默 つてうな づ いた。 

入江の 水が 見えません ねと 自分 は 追 掛けて 又 さ、 やいた。 夜の 潮の さして 來る、 野の 一端に ど- 

んより 湛  へ た 入江の 水が、 玻璃 窓の 外の 背景 をな して ゐたボ スト ンで 見た 時の 記憶 をた どった の 

である。 

曾て 文壇に 自然主義の 運動が 起った 時、 その 派の 若い 批評家 は硯友 社の 代表した 一 時代の 文學 

を 皮相 寫實と 呼んだ。 その 批評の あたれる や 否や は 暫く 措き、 無名 會の 「夜の 潮」 を 評する にこれ 

以 上 適當な 言葉 は 無い。 まことに 皮 相寫實 である。 

自分 は 此の 戲曲 を殘 忍凄慘 なる 特異の 抒情詩 だと 思 ふ。 人物の 描寫に 於て は 極めて 客觀 的に 寫 

實 的な 手法 を用ゐ ながら、 一 篇の 戯曲と して は 主觀的 色彩の 濃い 抒情詩で ある。 其處に 此の 戲曲 

の 特徴 も あれば 面白さ も あるの である。 

人物 はすべ て獨 立の 存在 を 持ち 各自の 性格に 從 つて 成長し なくて はならない。 しかし その 人々 

は 作者に よって 生まれた のであって、 路傍で 拾 ひ あげられ たので はない。 だから その 人々 は 各自 

卜 オン  • 

に 性格 は發展 させながら も、 自然に 作者の 持って ゐる 色彩の 調子 を 出す 要素と して 働く ので ある。 

こ の 戯曲の 精神 を 解せ す に演す る 結果が 皮相 寫實 とし て. あ ら はれた ので あらう。 


55  J 


扨て 舞臺 では ミセス • パァゲ タァと 娘の ジ M  ニイが 徹頭徹尾 詩人の 感情 を 無視して 皮相 寫實を 

目檩 とし、 しかも その 方向に 於ても 水平線 上に は 出る 事 も出來 ない、 下手よりも もっと 惡ぃ 癖の 

ある 技藝を 見せ 始めた。 

自分の 氣 にか、 つた 會 話の 飜譯に ついての 自分の 問題 は その 儘に 殘 された。 何故なら、 譯 者の 

選んだ 言葉 は不滿 足だった が、 前に も 云った 通り、 それなら どんな 調子の 日本語で なければ なら 

ないか 自分に は 矢張り 見當 がっかなかった。 たゾ、 もっとも つと 非道い 言葉でなくて は 駄目 だと 

思 ふ。 同時に その 會 話の 飜譯 に、 坪內 氏の 苦心の あとの 少しも あら はれて 居ない 事が 自分 を不偸 

快に した。 

さう 云 ふ 無 神經は 此の 飜譯 劇の 全體を 貫いて 居る。 人間 はすべ て 手輕に 類型的に 解釋 されて ゐ 

る。 パァゲ クァの 女房 は 意地の 惡ぃ 女で ある、 娘 はこ まっちゃ くれたお ちゃつ ぴぃ である、 ナン 

は いぢめ られる 哀れな 身の上の 娘で ある、 と 簡單に 筋 書 的に、 生きた 命の 通って ゐる、 戲 曲の 發 

展 とともに 性格の 發展を 持ち、 その 爲に 更に 新しい 事件の 紛糾 をみ る 有機的 關係を 全然 閑却して 

居る の だ。 かう 云 ふ 風に 藝 術の 作品 を 無慙に 取扱 ふ 無 祌經な 人間 は 心配が 無くて 幸 ひで あらう, • 

と あらす もがな の 冷嘲 も 勢 ひ 心 に 浮んで 來る。 


552 


し 潮の 夜つ の 會名無 


先づ 小作人の 女房の ナ ン に對 する 憎悪 は、 今 吾々 の 目の前に 幕の あいた 瞬間が 示す 一 定の 時に • 

於て、 旣に その 以前から 持 越しの 根強い ものである 事 は 疑 ひもない。 しかし その 娘ジ M  ニイ は そ 

の 時 決して ナ ンを 憎んで はゐ なかった。 前 田 筆 子と いふお 伽芝居の 桃太郞 にで もしたら 面白さう 

た 女優の 演じた やうな、 い たづら つ 子ら しい 云 ひつけぐ ちに 母 そ 怒らせ、 おだてる やうな 端 敵役 

では 無い。 ナ ン の 衣服の かくしから 母親が 取 出した 手紙 を 村の 若者 ディックから 來 たもの だと 云 

つげぐち 

ふ 時 も、 それが 吿 口の 目的です るよりも、 ただ 單に 眞實 ディックの 手蹟 だから ディックからの だ. 

と 云った までぐな ければ いけない。 從 つて 叉 母親が ナン の 衣服 を 汚れた 桶の 中に 投げ入れる のき 

見て は、 母親の 振舞 ひに はら はらして 心から ナン を氣の 毒に 思 ふ 心 持で なければ ならない。 

ジェ ニイが 小賢しい 意地 惡 でなくて こそ、 母親が ナンの 父親 は 絞罪に 處 された の だと 物語る と- 

ころが 活 きて 來 るの だ。  意外な 事實を 聞かされて、 娘が いかにも 娘ら しい 好奇心と 驚きから、 立 

.  こま や 

入って ナン の 身の上 を 聞き 度が る、 そこ に 作者の 描いた 人間の 心 持の 活 きて 働く 微妙 さが 細かな 

技巧で 示されて ゐる。 

ふとした 粗相から 娘が 父親の 祕藏の 大杯 を 床に 落して 割って しま ひ、 泣き 聲を 出して 悲しむ の 

を 母親 はかばって 二階に やって しま ふ、 直ぐ 後に 父親が 人って 來る。 あの 數分 間に は 親と チの間 


55? 


の溫ぃ 情愛が 溢れる やうな 氣持 がする。 ところが 此の 日の 舞臺に 於て は、 始めから 概念的に 善人 

と惡 人を區 別して ゐ る爲、 少しも さう いふ 自然の 心 持が 出て 来ない のであった。 

パ ァゲ タァの やうな、 つまらない、 大杯の 一 つに さへ、 長い間 親しんで 來 たと 云 ふ 丈で、 誇と 

情愛 を 感じ、 それ を 失 ふ 寂し さに 怒り 震へ る やうな 男 は 英吉利 人の 一 特性 を 示して ゐて 面白い、 

こんな 事に 迄 その 地方色の 強く 出て 來る藝 術の 細かい 味 ひに 自分の 心 は屢々 つながれる。 

間も無く 女 主人公 ナンの 出に なって、 香 川 玉 枝と 云 ふ 女優 を 見た。 これが 若い 女優な のかと 疑 

はれる 程 弛んだ、 表情の 無い 顏で、 子供 を澤山 產んだ 女の やうに 身體 にし まりの 無い のが 不偸快 

すぎ  . 

だった。 少し 耳に 響き 過る 聲も メェ スフ イイ ルドの 感觸 をせ: しさう に 思 はれる。 しかし それでも 

パァゲ タァの 女房に なった 田 中 勝 代な どと 云 ふのに 比べる と、 まだし も 癖の 無い のが 取 柄 だ。 こ 

れ は帝國 劇場の やうな ところに ゐた 期間の 長短に もよ るので あらう。 

直ぐに 女房との 對話 になって、 折角 優しい 心掛けで 手助け をしょう としても、 爲る 事な す 事が 

叱られる 種と なり、 淚の 他に は 言葉 も 出ない やうな 心 持に ナン は堪 へようと する、 残忍な 壓 迫に 

作者が 此の 戯曲の 背面に 置いた 陰 慘な心 持から 見る 人 も 胸苦しく、 同情の 淚が 流れて くれ k ば 助 

かるのに その 淚さ へ 出ない やうな 重苦し さ を 感じる 場面で ある。 しかし 戯曲の 理解が 大ざっぱで, 


554 


ただ 概念にば かりたよ つた 結果、 此の 夜の 舞臺に 於て は、 女房 も ナン も 其の 凄い 光景 迄 到る 事が. 

出来なかった。 女房 は 始め か. ら簡單 に 悪人と きめられ、 ナン は 始めから 簡單に 善人と きめられて 

ゐ る爲、 それが 屢々 古い 芝居の 折檻 場の やうに 若い 綺麗な 娘が 意地 惡の 婆ァに 虐待され ると 云つ 

たやうな 對照 色取りの 面白さ を 主にした ものに なって しまった。 玉 枝の ナ ンは 非道い めにあ ふ 事 

を 始めから 覺 悟し、 非道い めにあ ふか はりに は 見物の 同情 を 引い て. 報いられよう とする 根性 を か: 

くす 事が 出來 なかった。 

從 つて ナン の 持って ゐる堅 意地が 少しも 出て 来ないで、 只管 物 哀れに なりたが るので あった。. 

これ は 東西 國民 性の 相違で、 自意識の 強い、 駄目と 知っても 當然 主張すべき 事 は 主張す る 彼等と- 

ナ く 

は反對 に、 吾々、 殊に 日本の 女の あきらめ やすく 境遇に 身 を 任せて は、 せめて 淚 にやる せな レ^. 

濟を 求める 心根が、 どうしても 邪魔 をす るの かも 知れない。 

I その 哀れ さは 新派の 芝居の 悲劇の 女 主人公に 共通な 哀れ さで ある。 その 爲に 二人の 女が 云 ひつ 

t のって、 ナシ は聲も 震へ ながら、 或は 聲も 出ない 程 感情 は 昂進して 來て、 淚を堅 意地に 押 かくし 

t ながら 歎き 怒って 相手 を 詰る ところ、 遂に は 唯一 つの 父の 遺品なる 自分の 衣服 を 引裂かう とする 

ほ 女房に 抗ひ、 衣服の 襟の ちぎれた の を 見て 思 はす 知らす 卓子の 上の 刃物 を 手に して 相手 を 見 詰る 


5 巧 


ところ、 さう して その 刃物 を 叔父に 取上げられ、 一 一言 三 言 捨ぜり ふ を 云 ひ はした が堪 へ 切れす に 

泣く ところ、 泣きながら 亡き 父に かこつと ころ、 さう 云 ふ 哀れ を 通り越して、 殘酷を 極めた 身 動 

きも 出来ない ナ ン がちつ とも 浮んで 來 なかった。 

しかし、 それ もこれ も 若い 役者 達に は 無理な 注文で あらう。 此の 人々 が 曲り なりに も 努力して 

ゐる事 は 充分 認められる。 不幸に してい、 舞臺 監督の 指揮の 下に ゐ ない 爲、 戲 曲の 心 持を會 得す 

る 事が 出来なかった ので あらう。 日本の 新劇 圑の 中で 拔 群の 成績 を擧 げた 自由 劇場の 如き も 役者 

に敎 養が あるから でも あるが、 主として 頭目 市 川左圑 次の 人物と、 戲曲 上演 者と して は歐羅 巴の 

眞 中に 出しても 恥し くない 小山 內薰 氏の 功に 歸 さねば たらぬ。 

これ は 全然 舞臺 監督の 責任で あるが、 ー體に 「夜の 潮」 は 原作に 比して 綺麗 ごとに 過ぎた。 その 

會話 はもつ ともつ と 非道い 言葉 で. な ければ ならない と 前に 云った が、 單に會 話ば かりで た く、 あ 

ら ゆる 點に 於ても つと 思 ひ 切 つて 汚なら しく 不見目で 目 も あてられない やうでなくて はいけ ない 0- 

女房と ナンの 爭 ひの 間に 食物 や 衣服の 事 迄 出て 來 るが、 あそこ なぞ は 如何に ナンが、 或は 此の 戲 

曲 そのものが、 單に 外面 的狀況 のみなら す、 心身の 奥底から 不見目な ものである 事 を 強く 感ぜ レ 

める ところで ある C それが 單に爭 ひ の 方にば かり 重き を 置い て、 その 爭ひ の 背後の 暗い 生涯と 無 


巧 6 


竊 系な ものの やうに 取扱 はれて しまったの は、 偏に 淺ぃ心 入れの 結果で ある。 

それから、 少し 長い !ik になる と 聲を張 上げて 演說 調に なりたがる 悪い 癖が、 所謂 新劇 團には 

ついて^; つて ゐる。 西洋の 近代劇 はすべ て社會 問題の 宣傳 だと 思 ひ 違へ てゐ るの かもしれ ない。 

今朝の 或 新聞に、 「夜の 潮」 は 戀愛は 何よりも 強い 事 を 主張した 戲曲 だと 書いて あつ. たの を 見て、 

か う 云 ふ 批評家 に 紹介され て は 無名 會が 可哀 さう だと も 思った が、 舞臺の 上の 實演を 見る と 多少 

さう 云 ふ 誤解 を 招く の も 無理で 無い と 思 はれる 節が ある、 まさか 坪內氏 はそんな 風に は考 へて ゐ 

や あしまい けれど。 

繽ハて 此の 戲 曲の 中で 自分の 最も 好きな 場面になる。 それ は パァゲ タァの 仲裁で 喧嘩 も 止み、 

ナンが すすり泣きながら も 手助けに 林檎 を 切って ゐる、 物語 を 描いた 油繪の やうな 場面に、 何も 

知らす にジェ ニイが 入って 來る。 ナンが 暫く 退場す ると、 母親 は 娘に、 今宵 ディックが 來 たら ナ 

| ンとー 一人の そぶりに 注意し ろと 云 ひつけて 出て 行く。 さう して 再び 入って 來たナ ン とジェ ニイが 

の 舞臺 に殘. つて、 娘ら しい 會 話の やりとりになる その 少時が 原作で は 堪らなく いい。 

t ナン はま だ淚 せかす 泣いて 居る。 ジ H.  ニイ は それ を 慰めて、 お前の 目 は淚で 赤くな つて ゐ るか 

い ら洗 ふといい と 云 ふ、 お母さん は なかなか 氣むづ かしい 人 だけれ ど、 決して 惡氣で 云 ふので は 無 


557 


い と 云 ふ。 

自分 は 此の 時の ジ M  ニイに は 少しも やましい ところ は 無く、 心から 人間の 温い 情が 湧いて 來て、 

十 ンを 哀れむ 心が 深くな つて ゐ るの だとし か考 へられない。 それ は 直ぐに 他の 刺戟で はかなく 打 

破られる 程の もので は あらう けれど、 若い 娘の 常に 何物に か靑 春の 熱情 を 寄せ 度い 心が 此時こ の 

一 人の 胸に 潮の やうに 漲って ゐ たの だと 思 ふ。 原作 を 讀んで 此の 一 節に 來 ると、 人間の 持って ゐ 

るいい 心が 此處に 強く 溢れて ゐ るの を 感じて 胸 も 轟く。 さう して 更に それが 繽 いて 起る ジ M  ニイ 

ねたみ 

の輕ぃ 嫉妬 や、 後に 來る ナンの 運命の 暗 さ をー署 明かに する ものであると 考 へる。 だから 無名 會 

の 筋 書が 語る やうに、 ジ H 一一  ィ はパァ ゲタァ の 女房と 「 一 緖 になって ナ ンを追 出さう と 計る」 娘 だ 

と は 思 はない。 成程 ジ H  ニイ は ナンの 悲劇 を かもす 重大な 要素に 違 ひない。 又 事件の 進涉 につれ 

て、 ナン を 憎み も 厭 ひもす る 感情が 心の 閟を 越え もしょう。 けれども 彼女に は 意識的に ナン を 謀 

計に 陷し 入れよう とする 深い 陰謀 はな か つた。 始めから 惡 人の 系統に 此の 娘 を 入れて しまったの 

てっとりばやす  - 

は 手 取 早 過ぎて 淺 はかで ある。 人が 事件 を 生み、 事件が 人 を 生み、 事件が 人 を 生み、 人が 事件 を 

生む 複雑な 交互 作用 を 全然 無視 して ゐ るので ある。 

きも あらば あれ  いき/ \ よみが へ 

遮 莫、 ナン は 今む す ぼれ た 心に 情の 露 を 受けて 活々 と 蘇り、 ジ M  ニイに 對 して は 少しの 隔て 


558 


I^fl の 夜1 の #■ 名 M 


も 感じ なくなって、 心の 內に祕 めた あらゆる 事 を 打明けて 悔いない 心に 驅ら れてゐ る。 親切で 優 

しくて 可愛らしい お前 を 見る と 何もかも 話して しま ひ 度い と 進んで 云 ふと、 ジ M  ニイ も 今 は 全く 

子供ら しい 無 邪 氣な氣 になって、 他人 も 自分 を 綺麗 だと ほめて くれるな どと 答へ て、 互に 抱 合 ひ 

もし かねな い 心 持になる ところで ある。 

ナンが ジ M  ニイに いい 人の 有無 を 訊ねる と、 いい 人? 私 はま だ 誰も 無い と 答へ る。 まだない 

のかと 繰返して 訊ねる と、 誰と いって 特別の 人 は 無い と 云 ふ、 此の 邊の會 話 は 技巧の 自然 を 極め 

ながら、 その 時 その 人 を 明瞭に 彷彿させる。 

そ の時ナ ンはジ M  二 ィを 抱い て 接吻し、 さう して 自分の 胸に 想 ふ 人はデ ィ ック だと 云 ひ 切る の 

いまし 

で, 豫て さう と は 知りながら もジ M  二 ィの 心に は 今更 押へ 切れぬ 輕ぃ 嫉妬が 湧いて 来て、 今が た 

ナ ンに對 して 持った 心 持 を 忘れ、 ナ ン の 立 去る の を 待ち かねて 次の間の 母 を 呼んで 吿 口す るので 

ある。 その 微妙に 動く 心 持 を 推察す る 事が 出来ないで、 ただ 無闇にお 家騷 動め かした のが 無名 會 

の 「夜の 潮」 であった。 

いづれ にしても 自分の 期待した 震 へ る 程い い 幕切れが ただ 筋 を賣る ありふれた 芝居の 序幕に 類 

したの は殘 念な 事だった。 


559 


一 一幕 HI の ディックと ナ ン の戀 語り は隨 分演雞 いだら うと 豫 想され た。 頻々 と 出る 外國文 學の飜 

:譯を 見ても、 男女 色模様の 場面に は必す 吹き出し 度い やうな 文句が 繽出 する。 小說 だった か 戯曲 

だった か、 誰の 作 を 誰が 譯 したの かそれ も 忘れて しまったが、 兎に角 男が 女の手 を 取って 息 も は 

すみながら 云 ふ 一 百 葉に、 「私が 貴方 をお も ふと 云 ふ 事 は、 許される 事 だと 考 へても 差 支へ 無いで 

せう か」 とい ふの があった。, 一 體 に舞臺 以外の 實 際に 於て 男女の 色模様に 西洋の やうな 芝居が か 

りの 型が 完成して ゐ ない 爲か、 控へ目 をい いとする 吾々 の 目に も 耳に も * それが 日本人の ロカら 

出る 時、 日本人の 身振りで 見せられる 時、 どうしても 滑稽に 思 はれる。 此の 一座の 人々 は 單に洋 

服 を 着た ばかりで、 身の こなしの 研究が 届いて ゐ ない 爲、 一層 を かしくな つたの だ。 敢て ナンに 

^した 人ば かりで なく、 女房 も 娘 も 仕出しの 末に 到る 迄、 女 はすべ てし よ ぼしょ ぼした 內 股の 步 

きつき が、 裾の 廣ぃ 洋服に うつりが 惡 くみつと もなかった。 

世間話から 次第にお も ひ を 述べ、 しま ひに は 女の手 を 取って 無理に も 接吻しょう とする。 女 は 

自分の 父 は 絞罪に 處 された 人に 嫌 はれる 身の上で あると 打明けない では 粲が濟 まない ので、 それ 

を 拒む 氣も 一方に ありながら、 遂に は 自分から も 接吻 を 要求す る、 ああい ふ 風に 四圍の 面倒 を考 

堂に入れない 一瞬 迄 烈しく のぼり 詰めて 行く 經過 は、 少なくとも 現在 吾々 は 持って ゐ ない 心 持 だ- 


560 


し 潮の 夜つ の 會名無 


くどき もんく 

此時 見物が 笑った の は 笑 ふ 見物に はもつ と 技巧的な ロ說 文句し か 想像 出來 なかった ので あらう。 

同じ 理由から、 沈み 切った 身の上ながら、 しかも 強情に 己れ を 信じる 堅 意地な ナンの 戀が 燃え 

て來 ると ころ を、 香 川 玉 枝 は 優しい 哀れ を專ー に 心掛けた。 身の上に からまる 陰影が、 此の 色彩 

の 濃い 場面に も, まつ はりついて ゐる凄 さが 全く 浮ばなかった。 

それから、 これ は坪內 氏に 限った 事で はない が、 人名 は その 傣呼 捨てに する 方が いいと 思 ふ。 

ディックが ナ ン ちゃん ナ ン ちゃんと 呼ぶ の はいかに も 耳 障りだった。 曾て 文 藝協會 で イブ セ ン の 

「人形の 家」 を やった 時、 今 は 死んだ 土 肥 春 曙 氏が ノラさん ノラさん と 呼ぶ、 その ノラが 野良犬の 

ら  • ァク セン 卜 

野良の 良に 思 ひ 切って 抑揚 をつ けた 發 音だった 事な ども 思 ひ 出された。 

此の 場に 出て 來る 仕出しの 男女の 中に、 たった 一 人身 體 についた 洋服 を 着た 姿の いい 人 を發見 

うしろ 

した。 珍しく 洋装の 似合 ふ 綺麗な 人 だと 思って その 人に 視線 を 誘 はれた。 人の 背後になる のでよ 

く 見えない。 あれ は 西洋人で すかと 聞く と, H  H と 久保田 氏 はうな づ いた。 はたの 女達が づんぐ 

りした 外科 病院の 看護婦の やうな のば かりなので ー曆 際立った ので も あらう が、 黑 すんだ 靑天鵞 

絨の 服が、 人々 の うすっぺらな 夏着の 間に あたり を拂 つた ものであった。 しかも その 人 は 目の前 

の ナンの 悲劇 を 他所に、 無 邪氣に 芝居 ごっこ をして ゐる やうに 二 コ 二 コ して ゐた。 これ は 舞臺監 


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. 督の惡 い 洒落の 一例 だと は 思った が、 それでも 腹 は 立たなかった。 あまりに 醜悪な 他の 女優 を 見 

る 不快 さに 對 して、 此の 人 は 一 服の 淸涼劑 だった からで ある。 倫 敦邊の 大店の 賫 子に でもから か 

つて ゐる やうな 輕ぃ心 持が 湧い て來 る。 かう したい たづら を 坪 內氏は よろこぶ 人らしい。 

むくろ 

三 幕 目の あいた 時の ナン は旣に 潮の 底に 横た はった 心に 淚も 涸れ 盡 した 骸に 等しい。 人生の 慘 

苦の 一 切 を 一 身に 荷った 一 少女に は 一 筋の 希望 も惠 まれなかった。 絕 望の 極に 達した ナ ン の 心 を 

玉 枝に はう か^ひ 知る 事が 出来なかった。 玉 枝の ナ ン はな ほ機會 さへ あれば 人の 袖に 鎚 らうと す 

る 心 弱い 女に 過ぎなかった。 

さっき 

思 ひも 掛けぬ 浮氣な ディックが、 先刻 は 自分の 友と して 抱きしめて 接吻した ジ M  ニイと、 人々 

の 前で 婚約の 手 を 結び 合 ふの を 見て、 男 を 詰る 怒りに 震 ふ ナン はま だし もで あるが、 三 幕 目の ジ 

H  ニイが ガッ ファ ァに勸 める 病死した 羊の 肉の パイ を、 強ゐて 迫って ジ M  ニイ に 喰べ させ、 ジェ 

ニイ を 恨み 詰り 呪 ふ 凄慘を 極めた ところ は、 自分な どの 心 弱い セ ン ティ メ ンタ リストに は 到底 想 

ひも 及ばす、 描いて 描け ない 特異の 詩境で ある。 自分 はこれ 程^い 藝 術の 作品 を 他に 多く 知らす- 

これ 程の 殘虐を 冷々 と 眺めて 作 中に 些か も 同情 を 加 へ なかった 作者の 態度 を 比類 少ない もの だと 

思 ふ。 


562 


L 潮の 夜"1 の 會名無 


此の 全體 としての 思想に 於て 強い 主觀的 色彩、 換言すれば 作者の 好む 色 合 ひで 塗りつぶした 詩 

を 想 ひつ、、 しかも 個々 の 人物 を あるが ま、 に客觀 的に 描き出した、 それが 不思議に 調和して 特 

異の 一 戲曲 となった ので ある。 

此の 陰 繫な息 も 出来ない 胸苦し さを覺 える 詩境の 暗靜を 破って 役人と 牧師の を かしみ になる。 

此處丈 は 作者 も 筆が 滑り 過ぎた。 それ を 演じる 方 も 亦、 こ、 が 技倆の 見せ場 だとば かりに、 やか 

ましく はしゃいで しまった。 萬事控 へ 目に 控へ 目に と 心掛けた ホォ 二 マンの 一座 さへ を かしみ に 

なった。 要するに 原作の 不備な ので あらう。 

扨て 最後に 最も 難物 だと 思った の は、 此の 會の 統領と 目され る 東儀鐵 笛の ガッ ファァ である。 

數十年 前 の 過ぎ去った 日に 死 んだ戀 人 の 面影 を 今 も 忘れす、 そ の 面影 を傯ぶ 事ば かりに 生きて ゐ 

る やうな 老樂師 は、 ナンの 悲劇 を 描き出す 背景で ある、 背景の 色 は暗慘 たる 夜の 潮の 灰色で なけ 

れ ばなら ない。 ホォニ マンの 一座の、 潮の 底から 出て 來た 水浸しの 人間で も獸 でもない やうな 感 

じの した、 彼の 不見目な 姿 を 忘れない。 彼の 言葉に は 深い 意味が あるの か、 或はた f うは 言に 等 

しい もので あるか、 誰に も わからない のでなければ ならない。 彼 は 彼 自身の 幻想 を つぶやいて ゐ 

るに 過ぎな いの だ。 


563 


鐵 笛の は 小利 巧な 非 似豫言 者に 類した。 自分の 神祕 めかした 言葉に 誘 はれて ナン は 死に ゝ 行く 

の だと * 結果 を豫 測しながら 滔々 としゃべ つて ゐた。 彼 は ガッフ ァァの 幻 を 語る 言葉が ナンの 死 

の 背景 をな し、 ナンの 死 を 暗示 すれば 足る 事 を 忘れて、 自分自身が 表面に 現 はれなければ 承知し 

なかった。 彼の 出現に よって 舞臺 は陰慘 になら す陽氣 になった。 彼 は 一つ 一 つの 言葉の 表面の 意 

味から、 自分 は 神祕を 語って ゐ るの だと 考 へて ゐ たか もしれ ない。 しかし 舞臺 上の 結果から 云 へ 

ば 彼 は 此の 戯曲 を 通俗に し、 散文 化した 連中の 中の 亘魁 であった。 

失望し 切った 自分の 目の前に 幕 は 下りた。 食事 前 だと 云 ふ 小山 內 氏と 一緒に 食堂に 行って、 自 

分 達 は 珈琲 を飮 みながら 話 をした。 椅子 を 並べて ゐ ながら、 自分 は 久保田 氏に 對 して 合 はせ る顏 

が 無い やうな 氣 がした。 あれ 程 自分が 昂奮して い、 芝居 だい、 芝居 だと 云 つたの が羞 しくて しか 

たが 無い。 自分な どよりも すっと 細かい ところ 迄 芝居の わかる 相手 だから 一 署氣 がさす ので あつ 

た。 

自分 は 平氣を 装って 小山 內 氏と 外國の 芝居の 話な ど をして ゐ たが、 心の中で は 坪 內士行 氏に だ 

まかされ たやうな 氣 がした。 自分が 全く 氏 を識ら すに 眞 面目な 戲 曲の 研究者 だと 思 ひ、 買 ひかぶ 

つて ゐた罪 を 棚に あげて、 自分の 作った 不愉快に 惱ん だ。 矢張り Typhoon の 仕出しに 出る 柄 だ 


564 


ほの 夜つ の 會名無 


なと、 心の中で 當 りちら した。 

後に まだ オット ォ •  H ルン ストの 戲曲 を巖谷 小波 山人が 翻案した 「村夫子」 と 云 ふ 喜劇が あって- 

その 原作 は 小山 內氏 にきく t 面白い もの だと 云 ふ 事だった が、 叉 だまされ るに 違 ひない し、 元來 

他人の 作品 を飜 案す るな どと は失禮 だと 思って 見ない 事に した。 

歸り ませう 歸り ませう と 自分 は 皆 を 促して 戶 外に 出た。 これから 帝國 劇場に 行く と 云 ふ 小山 內 

氏に 別れて 二人つ きりに なると、 愈々 自分 は 久保田 氏に 面目ない やうな 氣 がした。 

なんだか 瘤に 障った から、 足下の 小石 を 思 ふさ ま 蹴 飛して やったら、 堀割の 水に 落ちて とぼん 

ち ひさ  J 

とした 音を立て たが、 小く 波紋 を 描いて 沈んで しまった。 

霜月の、 友 だち に 別れと もない 心寂しい 夜であった。 (大正 六 年 一月 二十日 稿 了) 


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々人の 卓 食 


食卓の 人々 

今年 二月 亞米利 加へ 行った 若い 友達から、 つい 此間繪 葉書が 來た。 マサ チュ セッ州 ケムブ リツ 

ヂの 公園に 今 も 枯れない 有名な 楡の 大樹の 色 刷の 寫眞 は、 私に は殊の ほかな つかしい ものである- 

曾て は 私 も 同じ 繪 葉書に、 感傷的な 旅の 歌な ど を 書いて 方々 に 送った 事が ある。 西 曆壹千 七 百 拾 

五 年 七月 三日、 ヂ ョ ォヂ. ヮ シ ン ト ンが はじめて 亞米利 加 軍の 總 指揮官と して 劍を 執った の. が 其 

の 楡の樹 の 下 だとい はれて ゐる。 其の 邊は 私の 散歩 區域 だった。 學 校の ゆきかへ りに、 幾度 その 

樹下を 過ぎた か。 昨日の 事の やうに 思 はれる けれど、 指 を 折って 見る と 十五 年の 昔 だ。 い たづら 

に 年 をと つた 自分 を 顧みて 感慨な きを 得ない。 

しかも 其の 繪 葉書に は 意外な 事が 書いて あった。 

— -. I is! 略 

先日 或 人の 家に 招かれて 行きました 席上で、 あなた を 知って ゐ ると いふお 婆さんと 中年の 


567 


紳士に 逢 ひました。 私 は 拙い 言葉で あなたの 近狀を 話し、 二人 は あなたの 學生 時代の 事 を か 

はるが はる 聞かせて くれました。 何時も 食卓 をと もに された 方々 ださう です。 惜ぃ 事に は 名 

前 を 忘れて しま ひました。 否、 正直に 申せば、 紹介され た時聽 取る 事が 出來 なかった のです- 

何故 聞 返 さなかつ たかと 只今で は 後悔して ゐ ますが、 聞 返す の ば失禮 では 無い かと 其の 時 は 

あしから チ 

考 へたので す。 私の 例の 引 込 思案でした。 不惡。 

I 後略 ——• 

讀 終った 時, 私の 想像に は澤 山の 人の 姿が ラッシュ • ァヮァ の 停車場の 景色の 樣に 浮んで 來た 

誰 だら う。 葉書の 事 だから 略した のか もしれ ない が、 私に とって は その 人の 顔の 特徴 か、 身 振の 

そ \  くち をし  -- 

癖で も 書 添て くれた ならと 口 惜く思 はれる。 何時も 食卓 を 共に したと いふの だから オック スフ 

ォォド 街 十六 番 館に 住んで 居た 人に は 違 ひ 無い の だが …:.. 

さう 氣 がっくと、 雪白の 卓 布に 覆 はれた 長方形の 食卓 を 圍んで 談笑す る 人々 の 姿と 共に、 十五 

年 前の 自分が、 旣に 古くお つて 斑點の 出た 映 畫の樣 に、 明滅しながら 目の前に あら はれて 來た。 

私が 亞米利 加へ 行った の は 壹千九 百拾贰 年-の 秋で ある。 土地の 面積に 比して 人間の 數の 少ない 

ひろびろとした 丘 や 野原 は 一面に 黄葉して、 甘酸い 香が 浮動して ゐた。 その 香から ナショナル • 


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々人の 卓 食 


リイ ダァの 紙の 匂 ひ を 思 ひ 出した。 私 は、 くさり かけた 果物 を 好んで 喰べ るが、 その 香 は 直に 亞 

米 利 加の 落葉の 頃の 追憶に 誘って 行く。 

一週間 紐 育 を 見物して、 私 は ケムブ リツ ヂに 行った。 その 町に 在る ハァ ヴァ アド 大學 に學 ぶの 

が 私の 當 面の 目的であった。 ゥェ ン デル 街 十九 番地の デ ネシャ とい ふ 家の 二階の 一 窒を 借りた。 

寡婦と、 息子と、 娘と、 親戚の 婆さんが 貧しく暮らして ゐて、 私の 外に 數人 6 止宿 人が ゐた。 

其の 邊 のなら ひで、 デネ シャの 家で は 一切 食事 を させて くれないのに は 弱った。 巴 里 や 紐 育の 

すぎ  • 

やうに、 ー步 おもてへ, 出れば、 びんから きり 迄 あり 過る 程 飲食店の ある 繁華な ところな らば、 外 

で 食事 をす るの も かへ つて 面白い が、 ケムブ リツ ヂと來 て は、 大學 前の 大 通に 數軒 ある 丈で、 學 

校の 裏手に あたる 私の 宿の 近邊は しもたや ばかりで 日用品 を 賫る店 も 無い 位 だから、 珈琲 を飮む 

うち さへ 見當ら なかった。 その上に 私の 學資は 極めて 乏しかった。 とても やりきれない 一定 額 を、 

月々 紐 育の 日本人 經營の 某 商店から 送って 吳れ た。 その 金額 は" 日本 をた つ 前に、 亞米利 加 じこ 

みの 二三の 先輩が、 先づ 此の 位なら 大丈夫 だとい ふ 意味で きめて くれたの である。 その 人達の 渡 

米した の は 何れも 十餘年 前で、 當 時の 物 價は檩 準に はならない 害な の だが、 若い者に は 成るべく 

金 を 持たせない 方が よいと いふ 親切 も手傳 つたの だら うし、 又 昔と 今の 違 ひ を はっきり 認める 事 


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はむ づ かしい から、 その 人々 は 何の 懸念 も 無く 進言した ので あらう。 父 は 勿論 滿 足して、 在 紐 育 

三十 餘 年と いふ 人に 息子の 學资 監督 を依輯 したので ある。 

亞米利 加へ 着く と 直に、 私 は それ 丈の 金で は 不足 だとい ふ 事 を 知った。 當 時の 私 は、 本 を購ふ 

事と 芝居 を 見る 外に は 何の 贅澤も 求めなかった。 生來 身に つける 物な ど は どんなに 粗末で も平氣 

だ。 瘦 我慢 も 強い 方 だ。 けれども、 その 定額で は 苦しかった。 それで 紐 育の 監督者に 增額を 申出 

たが、 何の 同情 も 無く はねつけられた。 恰も 私より 一 足 先に 日本へ 歸 つた 或 富豪の 息子が、 在米 

中 同じ 人の 監督の 下にあって、 氣前 よく 金 をつ かひ 散らした ところ、 後に なって 日本の 親から 苦 

情 を 云 つ て來 たとい ふ 事件が あった さう だ。 もとより その 富豪な ど 、 は 財力に 於て 比較に ならな 

いの だし、 旁々 つましく やらせようと いふ 監督者の 肚 だった に 違 ひ 無い が、 いまし むる に 聖書と 

論語 を 引き、 儉 約の 德を 諄々 と說 かれた。 

そんなら、 遠方ながら 父に 對し、 條 理を盡 して 增額を 迫る 外 は 無い と 思 ひ、 長文の 手紙 を 認め、 

あまりに 貧しい 暮らし をして ゐて は、 短時日 を 有 效に勉 學の爲 めに 利用す る 事が 出來 ない と申玆 

つたが、 待に 待った 返事 は、 在 紐 育の 先輩の 言に きけ とい ふ 一言だった。 

さう いふ 懐 都合 だから、 學 校の 事 は 二の次に して、 何とかして 安く 喰 ふ 事を考 へなければ なら 


570 


々人の 卓 食 


なかった。 學 生の 食堂で は滿 員の 理由で 斷られ た。 爲 方が 無くて、 大學 前の 飲食店へ 三度々々 通 • 

ふ 事に した。 最初 は 何も わからな いので、 稍 大きい 家に 入り、 人並に 肉汁から 魚と 順 を 追って 註 

文した が、 忽ち 月末 迄續 かない 事 を 知って、 次に は クイック • ラ ンチ など、 いふ 看板. の 出て ゐる 

家の 常客と なった。 給仕 人はゐ ない。 註文した ものと 洋刀肉 叉を兩 手に 受取って、 空席 を 見つけ 

. て 腰かける。 電車の 乘替 切符の やうな のに 値段が 書いて あって、 それに 鋏 を 入れて 貰 ひ、 食事が 

濟ん で歸る 時に、 出口で 支拂 ふので ある。 主要なる 肉類の 料理 は 四 五 種類し かない。 そ. れ さへ 贅 

澤 だと 思って、 サンド ウイ ツチ、 ドォ ナッツ、 林檎の. ハイな どで 腹 を ふくらせ、 珈琲 か 紅 • 茶を飮 

んで濟 ませる 事 も あるので ある。 安い もの 安い ものと ねらって 註文す るので、 肉が 肉の ま、 の 形 

を 保って ゐ る 料理 は 口にする 事が 出來 なかった。 昨日の 主要 品 を 挽肉に したり 叩いたり して、 ま 

る. めて 煮た やうな 物 を 選ばなければ ならなかった。 粗食の なさけな さは 身に 沁みて、 或晚 生血の 

した、 るビ ィフ. ステ H キ の 夢を見た 時 は、 夜半 寢臺の 中で 涙ぐんだ。 

その上に、 大學前 迄 行く の は隨分 遠かった。 學 校の 授業の 早い 時 や、 日曜の 朝な ど は 大概 食 を 

拔 いた。 天 氣の日 はま だし も 我慢 出來 るが、 雪の 深い 頃 はかなはなかった。 零度 以下で 耳が 凍つ 

て ちぎれた など、 いふ 噂の 聞かれる 土地 だ。 吹雪の 中 を、 たった 一片の トォ ストと 一 杯の 珈琲の 


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爲 めに、 滑る 足下 を氣 にしながら 遠く 迄 行く の は 馬鹿々 々しかった。 

オック スフ 才才ド 街 十六 番館は 最初から 私の 目 を 引いた。 芝生に 圍 まれた 二 ユウィング ランド 

風の 質素な 木造家屋の 入口に 「食堂」 とい ふ 札が か 、 つて 居た からで ある。 恐らく は學 校の 食堂よ 

り も 高い の だら うと 思って、 私 は 扉 を 叩く 勇氣が 無かった の だ。 けれども、 その 家なら 學 校と 下 

宿との 中間に あって 萬 事 便利 だから、 支拂の 心配 さへ 無いなら ばと、 遂に 意 を 決して 訊ねて 見た。 

呼 鈴 を 押す と、 肥った 女中が 出て 來た。 

私 は 日本から 來た學 生 だが、 食事 を させて 貰 ふ 事 は 出来ない だら うかと きくと、 一度丈なら 斷 

るが 毎日 来るなら よろしい と 云 ふ。 いくら だとき くと、 一週間 五 弗 五 拾 仙 だとい ふ、 胸算用 をし 

て 一 寸 躊躇した が、 結局 その 家の 客と なった。 

極端な 猪首が、 他人の 首 を 持って 來て すげ たやうな 形で、 そのく せ 透き通る やうに 色の 白い 赤 

毛の 女中 は、 大變 親切に 扱って くれた。 日本人 は 柄が ち ひさいので 一般に 子供 极 ひされる が、 私 

も たかだか 小學 生か 中學生 位に 見られた らしい。 幼い 者 をいた はる 様な 態度 だ つた。 

食堂 は 二つあって、 廣ぃ 方に は學 生が 二十 人ば かり 賑 かに 話しながら 喰べ てゐ た。 女中 は其處 

をの ぞいた が、 滿 員と 見て とって、 奥の 方の 室へ 案內 した。 此の方 は稍狹 く、 長方形の 食卓に 十 


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々人の 卓 食 


人 分の 椅子が 置いて あった。 その 一 つに 私の 席 を とってくれた。 九 人の 目が 一 時に 私に そ、 がれ 

た。 年 をと つた 女が 四 人 まじって 居た。 私 は默禮 して 席に着き、 氣 まり 惡く麵 麴を嚙 つて ゐた。 

額 色の 違 ふ 事、 言葉の 不自由な 事から 起る ひけめが、 舌に 来る 胡椒よりも 強く 感じられた。 

あなた は 何時 日本から 来ました かと、 隣席の 人が 物靜 かに 訊いた。 二言 三 言 話して ゐ たが、 私 

に は 聞き とれない 事が 多く 頓馬な 返事ば かりした。 後々 迄 此の 人の 言葉 はき、 とりにくかった が、 

すぎ 

それ は 舌が 長 過る からだと わかった。 

一 汁 一 皿に 菓子と 果物と 珈琲と いふ 粗末な 食事で は あるが、 大學 前の ラ ンチ オンより は遙 かに 

ゆたかで、 私の 食に 對 する 不安 は 稍 救 はれた。 その 日から 足 かけ 三年、 私 は その 家で 三度の 食事 

をした。 

亞米利 加の 朝の 食事 は 濃厚で ある。 吾々 の 食堂で さ へ、 ォ才 トミ ルかコ オン. フレ H クスの 後 

に は、 一 週間に 二度 位ビィ フ. ステ H キが 出た。 さう でない 時 は 玉子 か 魚の 料理で、 外に 果物と 

珈琲が つきものだった。 麵匏と 珈琲で 濟 ます 佛蘭 西風の 朝飯に 比して 非常な 相違で ある。 晝は朝 

よりも 粗末で、 大概 は 冷肉だった。 夜 は 肉汁の 次に 一 皿 出る の だが、 何時も 二 品 用意して あって、 

その 中で 好きな 方 を 選ぶ 事に なって ゐた。 料理の 變化は 少なく、 毎週 殆んど 規則正しく 循環して 


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來 るので あった。 たと へば 月曜が ビィ フ. ステ H キか蒸 魚の どっち か を 選ぶ 事と すると、 人 曜 は 

蒸 魚と &ォ スト. ビ ィフ、 水曜が &ォ スト • ビィフ と燒 魚、 木曜が 燒 魚と コ n ッケ とい ふ 風で、 

次の 週 も 亦 月曜 はビィ フ • ステ H キと蒸 魚の とりあ はせ となる ので ある。 金曜日に は 必す魚 を 喰 

ベ、 土曜日に は ボストン. ビ インスと 稱 して 豆の 煮た のが 定式だった。 口の 惡ぃ學 生が、 ポスト 

ン の 名物 はボ ス トン • ビ インス と 足の 太い 娘 だと 私の 耳に さ、 やいた。 

食卓 を 共に する 人 は 左の 顏觸 だった。 


ミス • ライアン 

ミス • ウイ. ルス ン 

ミセス • カァ ペン タァ 

ミセス • ハンコック 

ハンコック 

ダ ッ ヂ 

セ ィャァ 

失 名 


幼稚園の 先生 

女子 體操學 校の 先生 

大學の 事務員 

未亡人 

未亡人の 一 人 患 子 

大學 工科 助手 

大學圖 書 館 事務 a: 

學生甲 


574 


々人の 卓 食 


失 名  學生乙 

此の 中で、 名 を 忘れた 二人の 學 生の 外 は、 みんな 十六 番 館に 窒を 借りて 住んで ゐる 人だった。 

ライアン は 幼稚園の 先生で、 白髮 のお 婆さんだった。 十六 番 館に 一 番長く 居る ので、 自ら 幅 を 

利かせて ゐた。 食卓の 上手、 宴會 ならば 主人の 坐る 場所に 着いて、 十六 七の 娘の やうな きん/ \ 

響く 聲 でさかん に 喋べ つた。 特徵の ある その 聲は、 生れつき 咽喉が 弱く、 樂に聲 の 出ない の を 無理 

に 調子 を 張る 爲め らしかった。 冬の 塞い 頃、 咽喉に 濕布 をして ゐる 事が 多かった。 體の 弱い 爲め. 

に 結婚し なかった ので は 無い かと 思 はれる ところがあった。 

あの人 は 胸に 病氣が あるから 用心し なければ いけない と、 ふだん はいかに も 親し さう に 口 をき 

く ハンコ ック のお 婆さんが 眉 を ひそめ、 身 震 ひして 見せて 私に 注意した。 

幼 兒を扱 ひ 馴れ、 それが 癖になって しまった、 め、 ライアンが 人に 接する 時 は、 大人が 子供に 

向 ふ 時の 殊更 努めた やさし さ を 示した。 殊に 私の やうに、 年が 若く 柄が ち ひさくて 子供ら しく 見 

え、 且 言葉の 不自由た 異國 人に 對 して は、 恰も 幼稚園の 生徒で でも ある やうに、 猫 聲で 話した- 

機嫌 上戸で * 神經 質で、 不圖 した 事に も 自分の 祌 經に惱 まされ、 席に ゐた \ まれなくなる やうな 

事 もあった。 


575 


ボ ス ト ン 附近の 人に つきもの &  、 自分 達 は 二 ユウィング ランド の 人間 だとい ふ ほこりが 強く、 

他の 地方から 来た 者に 對 して、 內心 侮蔑の 芽 生 を 育て、 ゐる癖 は 免れなかった。 酒と 烟 草の 害 を 

說く 事に 熟 心で、 私に も それ をた しなむ かときく から、 烟草は 稀に ふかす ばかり. だが 酒 は 好む、 

ケムブ リツ ヂが 禁酒 地な ので 困って ゐ ると 正直に 答へ たら、 ちょつ ちょっと 舌 打 をして. 鼻 目 鏡 

の 上に 皺 を 寄せ、 日本で は 子供の 時から 飮 むかな ど、、 それが 未開 國の 風習 かとい ひ 度 さうな 樣 

子だった。 

烟草 好きの ダッヂ が、 食後 は必す 樂む烟 管に 燐寸を 擦る と、 忽ち 烟を 手で 拂ひ ながら、 席 を 立 

つて 二階へ 上って しまった。 

ウィルス ンは四 人の 中で は 一番 若かった が、 それでも 四十 は 越えて ゐた。 近くの 女子 體操學 校 

. の 先生で、 私の 宿の 娘ル I スも その 生徒だった。 これが ライアンと 向 ひあった 下座の 首席 を 占め 

てゐ た。 がっしりと 肥って、 何 代 か 前に 黑 人の 血が まじつ て^も ゐ さうた 濁った 顔色 をして ゐ た。 

ま は W  はなす S 

眼の 廻に 深い 皺が うす 汚な く 幾重に も 刻まれ、 鼻梁の 太い 鼻、 肉の厚い 唇、 二重 あご、 いかり 肩、 

背部に は 贅肉が つき 過ぎて ゐた。 ライアンと は 反對に ふとい 聲で、 小言 を 云 ふやうな 話 振だった。 

私は此 女の 隣に 席を與 へられた の だが、 最初のう ち は 口 をき いて 旲れ なかった。 不愛想で、 日本 


576 


ネ 人の 卓; i: 


をし へ 2 

人な どに は 何の 興味 も 持って ゐ なかった。 後に 私が 敎 子の ル I スの 家に 居る 事 を 知って から、 少 

し は 愛想 もよ くな つたが、 人前 だからといって 特に 努める 氣を 全然 持 合せない 女だった。 それで 

も 何となく 人 を威壓 して、 食卓の 談話の 中心 は、 ライアン か此 女だった。 尤も 機嫌の よくない 時 

は、 始 から 終 迄 一言 も 口 をき かなかった。 

力 アベ ンタァ は、 ティア ンと 同年 配で、 善良 そのもの 、様な 人だった。 學 校で 如何い ふ 仕事 を 

して ゐる のか 知らないが、 亞米利 加で 一番 知識 階较 のかた まって 居る とい ふ ほこり tsi ち、 男 も 

女 も 何 か 磨の か、 つた 理窟 を 弄ばなくて は 幅の 利かない 土地柄に 似す、 此人は 全く 無學 らし かつ 

た。 その 爲 めに 他の 連中に 一目置き、 かへ つて 相手に されない 傾向 を 助長した。 仲間 は づれの 形 

となって ゐる爲 め、 毛色の 變 つた 赵には 親しく 口 をき いた。 殊に 他の 連中の ゐ ない 時 は、 中 村 歌 

右衛門 や 尾 上 菊三郞 型の、 頰邊 の. 下の 方の ふくらんだ 顏中を 笑に して 話した。 兩親も 兄弟 姉妹 も 

ゐる 日本 を 離れて、 こんな 遠方へ 出て さぞ かし 寂しいだ らうと か、 よく 大學の 講義が わかって 感 

心 だと か、 まるっきり 十七 八の 子供 扱 ひだった。 

すっと 前に、 ォザキ と 呼ぶ 日本の 學生を 知って ゐ たが、 その 人が 日本人の 友達と 電話で 話 をし 

てゐ るの を 聞いて、 母音の 多い 言葉 を大曆 美しい と 思った。 何でもい、 から 日本語で 話して ごら 


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ん なさい など、 眞顏で い つた。 

私が タウ シッ グ敎授 の經濟 原論の 講義 を聽 いて ゐて、 その 助手に よって 行 はれる 試驗に 出る 時 

など は、 どうして 試驗が 受けられ るの だら うと 不思議が つて ゐた。 はっきり 口に は 出さなかった 

が、 私の 會 話の 下手な のから 推して、 本 もろく には讀 めまい、 講義 は 勿論 わかるまい、 答案 は 書 

けないだ らうと 心配して くれたの である。 

答案の 戾 つて 来る 頃に は、 點數 はどうだった とうる さく 訊いて 私 を 閉口 させた。 最初の 試驗に 

は、 八十 點 から 九十 點の 間だった と 思 ふが、 B とい ふ點 だった。 善良なる 此の 御婆さん はすつ か 

あ 喜んで、 我が 事の やうに 他の 連中に 吹聽 して、 一 曆 私を惱 ました。 經濟 原論 は 曲り なりに も 一 

度 a 本で 卒業して 來 たの だと 說 明しても 承知し なかった。 日本の 經濟學 と 亞米利 加の 經濟學 と は、 

"ひとつに ならない と 思つ. てゐ るら しかった。 - 

, 日本と いふ 國は 何處 にある のか、 地圖で 探した が 見つからなかった など、 云った。 その 時 は 傍 

から ハ ン コ ックが 口を出して、 日本 は 日 淸戰爭 前 迄 は 支那の 屬國 だった ので はない かと 質問した。 

日 數も餘 程た つてから だが、 すっかり 馴染に なって、 力 アベ ンタァ と 私と 一 一人 丈が 食卓に ゐた 

拿が あった。 その 時、 どうい ふきつ かけから か 身の上 話 を 始め、 夫に 死なれた 不幸 をな げき、 い 


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々人の 卓 食 


かに その 夫が 自分 を 深く 愛した か、 いかに 夫が よき 人で、 すべての 人に 愛され たかを 繰返して 話 

して ゐる うちに、 次第に 言葉に 情熱が 籠り、 感に 迫って 微かに 聲に 震へ を帶 びて 來 たと 思 ふと、 

はら はらと 落淚 した。 

ハ ン コック 老 夫人 は 一 番の 年長で、 ち ひさくし なびた 御婆さんだった。 亞米利 加の 女の 中に も、 

こんなにき やしゃな 人が ゐる のかと 驚かれる 程 か ぼ そかった。 その 癖、 目 も 鼻 も、 殊にち ひさい 

唇 も、 まるみ を もった 額 も、 うすい 耳朶 も、 まるで 小娘の やうに 若々 しかった。 顏色は 蒼白く、 

それが 暑い 日に はぼう つと 紅くな つた。 子供の する 御伽 芝居の 御婆さんの やうに 可愛らしかった。 

_ つら  . , 

一人息子の ヂ ャック は瓢簞 面で、 市 川 荒次郞 によく 似て 居た。 少々 甘ち やんで、 新聞に 出る 位 

の 社會の 出来事 さへ 知らす、 年中 流行 唄 をうた つたり、 舞踏の 眞似 をしたり して みんな を 笑 はせ ■ 

てゐ たが、 それでも 女學 校の 音樂 の敎師 をして ゐ ると いふ 事だった。 いったいに 惡 ふざけ を輕蔑 

する 此の 地方の 氣 分の 爲 めか、 或は 此處に 集まる 人が 氣むづ かしい のか、 折角 ふざけても 相手に 

されない 事 もあった。 こんな 人間に 音樂 がわ かるの かしらと 私 は 常に 不思議に 思って ゐた。 

けれども、 此 親子の 仲の い、 のに は 感心した。 母親 は 息子の 甘 ちゃんた る 事 を 認めす に、 たぐ 

たぐ 善良 無邪氣 なる 若者で、 且音樂 の 天才 だと 思 ひ 込んで ゐた。 ヂャッ クは六 歳の 時に 旣に 完全 


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に 洋琴 を彈 いたと 度々 私に 話して きかせた。 

ハンコックと カァ ペン タァと は 割合に 仲よ しで、 力 アベ ンタァ は 自分に 子供の 無い の をな げき、 

しきりに ハンコ ックを 羨し がって 居た。 此の 一 一人 は、 自分 達よりも 確かに 學問も 識見 も あり、 お 

まけに 氣の 強い ライア ンと ウイ ル ス ンに對 して、 消極的の 同盟 を 形づくって ゐた。 結婚した 事の 

無い 女 は 物事に 同情が 無い など k ひそひそ 話して ゐる事 もあった。 

ダッヂ は 工科の 助手だった。 傲慢な 男で、 家柄の い 、とい ふの が 自慢だった。 脊は 高くな く、 

骨太に 堅く 肥った 赤ら顔の、 亞米利 加 人に は 珍しく 笑 はない 男だった。 何事 も 思 ふま、 に 振舞つ 

て 周圍を 顧みなかった。 外の 者 は 遠慮す るのに、 平氣で パイプ を ふかして 烟草 嫌の ライアン を惱 

ました。 外の 者が たしなめても 頓着し なかった。 此の 男 は 最初、 日本人の 事をヂ ヤップ * ヂャッ 

プと いふので * それ は輕 蔑の 意 を 含む ものと 思 ふが どうかと 詰 間して やったら" 自分 はさう は 思 

はない、 簡單 明瞭で 此の方が 便利 だ、 しかし 君が いやがるなら 今後 は 改めても い、 と 答へ た。 

ダッヂ は 私の 宿に ゐる 二人の 工科の 助手 を たづね て 来て、 私の 部屋に も 寄って 行った。 日本の 

茶道具と 浮世 繪が ほしいの だが、 十 弗 位で 取 寄せて くれない かと 云った。 そんなら 日本へ 賴んで 

ほし 

やらう と 云 ふと、 もう ひ丄 つついで に 頼み 度い, ヨシ ワラの 耮が 欲い とい ふ。 枕繒の 事で ある。 


5S0 


々人の 卓 食 


彼の 友達で 曾て 日本へ 行った 男の 持って ゐ るの を 見て、 奇抜な 構圖に 感服し、 自分 も 是非 一本-ど 

求め 度い とい ふので あった。 これ はう ちに 頼む わけに はいかな いから、 後日 日本へ 歸 つたら 買つ 

て 送って やる と 約束した。 ^し 私 は 此の 約束 を 今 も 忘れない の だが、 一 二 友人に 買 入の 事 を賴ん 

で 置いて、 しかも 未だに 約を果 さない。 

セィ ャァは 最初の 日に 私に 口 をき いた 男で、 圖書 館に 勤めて ゐた。 父 は 田舍の 牧師 だとい ふ 事 

で、 此の 人に も 牧師 臭いと ころがあった。 胸のう すい、 ひょろひょろした 體で、 白子の やうに 頭 

髮も 皮膚 も 白かった。 前に も 書. いた 通り 舌が 長過ぎて、 口 をき く 時に 無益に 大きく 唇 を 動かさな 

ければ ならない のであった。 食堂 第一 の讀 書家で、 一同から 何でも 知って ゐる 人と 見られて ゐた 9 

但し 何を專 門に 學ば うとい ふので は 無く、 何事に もまん べんな く 興味が あるら しかった。 圖書館 

に 勤めて ゐ るの も、 勉強が 出來 ると いふば かりで 無く、 いろいろの 種類の 本の 部類 分 をしたり、 

すぐ  I 

探し出した りする のが 面白い のであった らしい。 人が 政治 を談 じれば 直に 相手に なり、 人が 演劇 

を 論じれば 自分 も 負けて ゐ ない。 繪畫音 樂スボ ォッ、 何でも ー說を 出し、 且又 各種の 話材を 充分 

に 持って 居た。 牧師の やうに 技巧的に 低い 調子で 話した。 步く時 も壯年 者ら しくな く、 擦 足の や 

うに 靜 かだった。 


581 


此の 人 は 話 をして 一 番 面白かった。 先方で も 私 を 子供で ない と 見て とって、 いろいろ 質問した „ 

或 時 は、 圖書 館に ある 日本の 本で 如何なる 部類に 屬す るか わからない のが あるから 見て くれと 云 

つて 持って来た。 誰が 寄贈した もの か、 水 戶常磐 公園 圖 誌と いふ 本だった。 

浮世 繪な ども 少し は 實物を 見た 事が あって、 その 制作の 方法 を 質問され た。 話の 中で 農々 ハイ 

P シ イジ H とい ふ 人名 を 口にする のが 私に はちつ とも わからな か つたが、 書かして 見たら Hiro. 

shige とつぐ つた。 

い、 人だった が、 齒が惡 いの か 蓄膿症 か、 口中の 臭いのに は 辟易した。 

名 を 忘れた 學生甲 は、 法律 を學 んでゐ た。 父 は 辯護士 で、 自分 も その 職 をつ ぐの だと 云って ゐ 

た。 私が 宿から 食堂へ 通って 來る途 にある 學生 寄宿 舍にゐ て、 一緒に 歸る 時に 寄って 行けと 勸め 

られ、 數次 その 部屋に 遊びに 行った。 良家の 坊ちゃんで、 亞米利 加 人ら しくない 內氣 で、 話 をす 

る 時 自然と 顏が 紅くなる やうな 人柄だった。 十六 番 館の 食堂に は餘り 長く ゐ なかった。 私が 名 を 

忘れた の も その 爲め であらう。 

學生乙 は 紐 育の 銀行家の 息子で、 ひどく 贅澤な 我儘 者だった。 こんな 食堂の 飯が 喰へ る もの か 

とい ふやう に、 肉片な どに は 手 も觸れ す、 麵麴 と野茱 ばかり 喰べ て さっさと 歸 つて 行った。 自分 


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々人の 卓 食 


は 野茱が 好きだ、 一切 野菜 丈に しょうかと 思 ふ, 日本人 は本來 菜食主義 だと 聞いて 羨し いと 思つ.、. 

てゐ るが ほんと かな ど、 云った。 

その 頃 ボストンの 新聞に、 世界的 有名な 人で 菜食主義者 だとい ふの が 列記して あった。 それが 

話の きっかけだった と 思. ふ。 新聞の 記事 は噓 らしい と 思 ふが、 大體 次の やうな 事 を 書いて ゐ たの 

である。 

題 は 「有名なる 菜食主義者」 とい ふので、 サラ • ベ ルナ アル、 マダム. レヂ ヤン、 クレオ • 

ド. メロ ォド、 バ アナ アド. ショ ォ、 ァ ウギ ュ スト. ロダン、 メ  H テル リ ンク 夫人な どの 名 も あ. 

つた。  - 

. 何故に 人が 菜食主義になる かとい ふと、 宗敎 上の 見解から 來る もの、 健康の 爲 めの もの、 容姿 

を 美しく しょうと する もの、 嗜好、 纖 細なる 神經 等を數 へる 事が 出来る。 現在 菜食主義者 は 日に 

ま. し 殖えて 行く。 英吉利の 如き 肉食 國中 殊に 肉 を 多く 喰ふ國 でさへ、 著しい 勢で 菜食主義が 擴ま 

りつ., ある。 英國 特有の 僂 麻 窒斯に は 肉食が よくなくて 菜食が よいと いふ 醫 家の 說が發 表された 

か、. :0 である。 

-.、 多分、 現今 世界で 一 番 有名な 菜食 論者 は、 禁酒禁 烟 をも勵 行す るバ アナ アド . シ ョ ォ であらう- 


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皮ズ 肉類の 味 を 好まない ばかりで 無く、 虐殺され る 四 足獸の 死骸 を 喰 ふの だと 想像す ると、 不潔 

野 蠻非藝 W 的なる 事に 堪へ 難くなる とい ふので ある。 それ 故 野菜 果物 穀類 を 常食と し、 時には 僅 

かに 三本の バナ、 と 冷水です ませる 事 も ある。 しかも 丈 高く、 筋骨た くまし く、 血色よ く、 淸澄 

なる 眼光 を もち、 若々 しく 力の 漲る 歩きぶ りで ある。 

サラ . ベ ルナ アル は、 傾き か、 る 齢と 共に 首 や 腰に 贅肉が つき 過ぎ、 昔の 美しい 姿 を 失 ふ 事 を 

怖れて 菜食主義 となった。 それ 以來 姿態の 美は衰 へす して 寧ろ 若返り、 頭腦は 明晰と なり、 祌經 

は安靜 になった と 聞く。 此の 人 は鷄卵 さへ 喰べ ない。 それ は 形 こそ 違へ 生物に 外なら ないから で 

ある。 

レヂャ ンも 年と 共に、 むかし 巴 里の 人氣を 集めた 役々 を 演じる のに 不 似合な ほど 肥ったので、 

之 も 菜食主義 となった ので ある。 此の 人 は 頗るつ きの 贅澤 やで、 殊に 食事 は 善美 を盡 した もの だ ■ 

つたが、 藝 術の 爲 めに はか へ られ ない と 云 つ て斷然 肉食 を廢 したので ある。 

巴 里の オペ ラの踊 子と して 有名な ク レオ. ド. メロ ォド は、 適度の まるみ を帶 びた すんなりし- 

た からだつきで、  殊にち ひさい 顏と 細い 首が 踊 子と して 申 分な く、 幾多の 畫 家の 描く ところと な 

つたが、 近年 次第に 肉が つき 過ぎて 來た。 舞臺に 於ても 昔日の 如く 輕 快で なくなり、 畫家 ももて 


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々人の 卓 食 


はやさ なくなり、 ブ ウル ヴァァ ル の繪 葉書の 賫 行も惡 くな つた。 昨日に ひき か へ て 流行 兒で なく 

なった。 突然 彼女 は 身 を かくして、 行方が わから なくなった。 永い 間 死んで しまった かの やうに 

人々 の 目に 觸れ なかった。 しかし、 再び 彼女が 現 はれた 時 は、 又もとの 通り 若々 しく、 嫋々 たる 

姿と なって 來た。 巴 里の 人氣は 以前に 倍した。 彼女 は 菜食主義 を實 行した ので ある。 

ロダン は 肉類 を 口にしない 時の 方が まの 儘に 仕事が 出來 ると 知って から 菜食主義 となった。 

メ  H テル リンク 夫人の 菜食 は 思想 を 深く し、 心の 動き を こまやか にし、 教智は 澄み わたると 云 

つて ゐる。 

その外 セルビアの 皇太后、 ギリシャの 皇女、 亞米利 加の 學者 政治家、 支那の 外交 家な どの 名前. ■ 

と、 その 菜食主義 となった 理由が 書いて あつ. た。 

食卓の 話題に はもって 來 いだった。 バ アナ アド. ショ才 は 兎に角と して、 外の 連中が 菜食主義 

だと は 一寸 受取れ なかった。 新聞が 大げさに 話 を 面白く したの だら うと 思った が、 無駄話 好の 亞 

米 利 加 人の 事 だから、 めいめいの 意見 ものべ 立てた。 私 だって 野菜 は 好きだ けれど、 それば かり 

喰べ る やうな 贅澤 は出來 ない とい ふ 女 もあった。 

紐 育の 銀行家の 息子 は、 その後 間も無く 此の 食堂に 來 なくなった。 彼 は 小柄で はあった が 男ら 


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しい 美靑 年であった。 一昨日 は 女の 友達と 何 處其處 へ 自動車 を ドライブした とか、 昨日 は 誰某の 

家の 舞踏 會へ 招かれた とか、 さう いふ 種類の 話ば かりして ゐ るので 餘り 好かれて ゐ なかった が、 

金 持の 息子 だとい ふ 事で、 一種の 尊敬 も 受けて ゐた。 體操學 校の 先生 ウィルス ンは、 外の 者に は 

不愛想だった が、 此の 若者に 對 して は、 自分の 敎 子の 中の 美しい の を 紹介して やるな ど 上; ム つて 

ゐた。 

, 食卓の 給仕 をす るの は、 廣ぃ 方の 食堂 は苦學 生で、 吾々 の 方 は 女中 エセルだった。 西洋人に は 

珍しい 獅子鼻で、 此の上 も 無く ふきり やうな 女だった。 何處 の田舍 から 來た のか、 字も讀 めない 

やうな 人 問だった が、 性質 は 極めて 善良だった。 

十六 番 館の 主人 ゲ H ヂは、 日燒 のした 顏に 皺の 多い、 百姓ら しい 風采の ぢ いさんだった。 朝, 

市場に 食料品の 驻 文に 行く 外に は 用が 無く、 暑い 時 は ポオ チに搖 椅子 を 出し、 寒い 時 は窒內 で、 

パイプ を 口から 離さなかった。 天氣 がい 、とか 惡 いと かいふ 事の 外に は會 話に も舆 味が 無い らし. 

く、 全く 餘生を 後生大事 にして ゐる 丈の 人だった。 ,..:..  . 

ゲ H ヂ 夫人 はぶく ぶく 肥りの 大女で, 年中 笑顔 を 見せて ゐ たが、 心臟が 弱く、 て」^! > 傻., 込んだ。 

一人息子の ヂョ ォヂは 跛だった。 畫 家になる の だと 云って 始終 繪を 描いて みたが、. ほんた うや 


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々人の 卓 食 


修業 をした 事が 無く、 ひどく 通俗な 審美眼し か 持って ゐな いので, 看板 繪の域 を 出なかった。 亞 

米 利 加 人ら しく、 一  人前の 畫家 になって 紐 育へ 出て 金 をた める とい ふ 事 を 何よりの 希望と して ゐ 

た。 兩親は 此の 息子 を 可愛がり、 描いた 繪を 人々 に 見せて 自慢した。 行末 ひとかどの 畫 家になる 

^信じて ゐた。 

その外に 一人、 臺 所で 料理 をす る 主婦の 手傳 をしたり、 拭 掃除 をす る年增 女が ゐ たが、 これ は 

分 を 守って、 人前に は 出て 来なかった。 

私の 生活 は 軌道の 上 を 走って ゐた。 朝起きて 着物 を換 へる と、 直に 十六 番 館へ 行く。 おきまり 

の 朝飯 を 喰べ て、 授業が あれば 學 校へ 行き、 おければ 宿に 歸 つて 机に むか ふ。 正午に なると 叉 十 

六番 館へ 行く。 おきまりの 晝飯を 喰べ て、 授業が あれば 學农へ 行き、 無ければ 宿に 歸 つて 机に む 

かふ。 夕方に なると 叉 十六 番 館へ 行く。 おきまりの 晚飯を 喰べ て 宿に 歸 つて 机に むか ふ。 

それが 一年 を 通じて 殆ん ど變ら なかった。 雨の 降る 日な ど は、 宿 を 出る 足 も 心 も 重かった。 ど 

お ち 

んな 土砂 降で も、 傘 を さ、 ない 風習 だから、 懵子 のつ ばからした、 り 落る 雨に 顏を打 たれ、 レテ 

あざらし 

ィ. メ エド の 體に合 はない 外套 を 海豹の 肌の やうに づぶ濡 にして かよった。 

膝を沒 する 雪の 上 を橇が 通って 氷砂糖の 堅さに なった 時 は、 道 を 横切る 足下 も 危なく、 冷い 風 


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に 刺戟され て淚が 出て 來た。 別に 悲しい 事 も 無い の だが、 淚 を^め ようとす る 心の底に 故鄉 の景 

色が 浮び やすかつた。 

十六 番 館の 扉 口で 窄を拂 ひ、 雪 を 落して、 人工的に あた、 めら. れた 窒^に 入る と、 俄に 身- 2: に 

血が 通って、 質素な 食事ながら 「家」 を 感じた。 

其處で 食事 をす る やうに なって 間 も 無い 時だった が、 晝 飯の 時に ライアンに 案 2: を受. j; た。 そ 

の 日の 午後 :■  二階の ライアンの 部屋で お茶の 會 をす るから 來 いとい ふので あった。 先方で は、 同 

じ 食卓の 人 を 呼んで、 毛色の 變 つたの 丈 を 除外す るの も 面白くな いと 思った の だら うが、 馴染の 

うすい 私 は その 厚意 を 喜んで 受けた。 

裏の 空地に 面した 二階の 一室で、 寢臺、 衣裳 戶棚、 机、 本箱な どの ごちゃごちゃ 並んで ゐ ると 

ころへ、 同宿の 者の 外に ライアンの 同僚 だとい ふ 女が 二人 加って、 身動き も 出来ない 位 だ, つた。 

女達 は 階下から 借りて 來た 椅子に 腰かけ、 男 は 寢臺を 利用したり 壁に 倚り か、 つた ま 、でゐ るの 

もあった。 酒精 洋燈で 湯 を 沸かし、 レ モ ンを 浮かべた 紅茶と、 粗末な ビスケット や キヤ ン ディ 類. 

を勸 めて、 客よりも 主人が、 いかにも 嬉し さう に 喋って ゐた。 

十二月、 耶蘇 降誕 祭に は、 私の 食卓に 女の人 達からの ささやかな 贈物が 載せて あった。 私 も 心 


5sa 


ばかりの しるし をした。 生憎の 大雪だった が、 家々 の 窓に は蠟燭 がと もし つらねられ、 橇の 鈴の 

:1 昔 も 何時もよりも 冴えて 響く やうに 思 はれた。 

此の 國の春 は 短 かかった。 香料の やうに こまやかな 雨" ソ才ダ 水の やうに さは やかな 雨が 晴れ 

れんぎ よう 

ると むう つと 蒸せる 土の 臭 ひがして、 見て ねる うちに 芝生 は綠 になり、 連翹 が^き、 サフランが 

哚く。 並木の 楡、 柏、 橡、 枫は 一 齊に萠 出す。 女の 肌 は 薄い 雪白の 絹に つ つまれて ゐる ばかりで * 

踵の 高い 靴が 石 だ たみを 踏む 音 も、 際立って 速くなる。 吾々 の 食卓に も、 色の 深い、 香の 強い 切 

花が 盛られる。 

私の 宿から 十六 番 館へ 行く 途中の、 雑木林 をぬ ける と、 白い 石造の 宗敎學 校 を 遠くに 望む 廣ぃ 

草原が あった。 草 は 日本の よりも 柔 かく、 手足 を 襲 ふ 小蟲も 少なかった。 私 は 食後 直に 宿へ 歸ら 

すに、 短い 春を惜 みながら、 綠の 中に ぶつ 倒れて ゐる 事が 多かった。 

日本の 晚春 は、 深い 哀れ を まのあたりに 見せて、 靜 かに ものうく 移って 行く が、 亞米利 加の 春 

. 食 は 性急で ある。 吾々 の、 レが 自然と ひとつに 融けて、 散る 花に も 觸れて 傷む やうな 事 はない。. 忽ち 

.^ 急行列車の 勢 ひで、 幅廣ぃ 夏の 天下になる。 

ハ 學 校が: If みになる と、 學 生の 充滿 して ゐた町 も 俄に 人氣が 無くなって 森閑と する。 夕立が 蟻の 


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群 を 洗 ひ 流した 後の やうに さつば りと、 町の 幅が 廣 くなる。 十六 番館 も、 暫く は 人の 出入が 少な 

くなる。 ハンコック 母子 は 海邊へ 避暑に 行き、 力 アベ ンタァ は メインの 田舍の 妹の 家に 行って し 

まった。 吾々 の 食卓 も 入齒の 落ちた 形に なった。 

けれども、 大學の 夏期 講習が 始まる と、 各地から 聽講 生が 集まって 来る。 その 半分 以上 は 女 だ 

つた。 十六 番館 でも、 夏 中 留守になる 人の 部屋に 新 顏を迎 へた。 中部から 来たと いふ 親子と、 西 

部から 來 たとい ふ 若い 女が、 五 n 々の 食卓べ つらなる 事に なった。 母親 も 娘 も ひどく はで 好みで" 

着物の 型から 身に つける 一切の 色彩が、 一脈の 粗野な 趣 を 添へ ながら 力強く 新鮮だった。 金 持の 

未亡人で、 學 校敎師 をして ゐる 一人娘が、 講習 會に 出席す るのに くっついて 来て、 此の 地方 を 見 

物しょう とい ふので あった。 娘 は、 二十 三 四 位、 丈 も 幅 も 共に 大きく、 むき 出しの 腕 は眞白 だつ 

たが、 顏の 血色の 勝れて. い、、 髮も眼 も 漆黒な 女だった。 大きな 眼鏡 を かけ、 鼻 は 低い 方だった 

が、 眞 紅な 唇の きつい 線と 口 尻, の 黑子が はっきりと 顏の 特徴 を つくって、 後期印象派の 肖像 畫に 

でも ありさうな 近代的の 魅力が あった。 何時も 食堂へ あら はれる 時 は、 稍々 濃厚な 化粧 をして 來 

た。 何處 から 見ても 學 校の 先生 をして ゐる樣 子 は 無く、 カウ • ボ オイと かけ 落 をす る 地主の 娘の 

風姿だった。 


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々人の 卓 食 


西部から 來 たとい ふ 女 は 二十 五六の、 黄色人種に 近い 皮膚 を 持つ 人だった。 希腦の 彫^の 女の 

: 額で、 整 ひ 過ぎて あま 味が 足りなかった。 亞米利 加の 女に は 珍しく 無口で、 食卓の おざなりの 冗 

談 などに は、 決して 笑顏を 見せなかった。 著しく 特殊の 皮膚の 色の 爲 めか、 輕 快な 心 持 を 持たぬ 

爲 めか、 始終 身邊に 陰影が あった。 これ も田舍 の女學 校の 先生 だと 云 ふ 事であった。 みなり も 質 

素で、 一時 代 遲れた 型の もの を 身に つけて ゐた。 

若い 女が あら はれた ので、 食卓 は 俄かに 活氣づ いた。 二人の 學 生と、 ヂャッ ク* ハンコック は 

ゐ なかった から、 ダッ ヂとセ ィャァ の舞臺 だった。 御婆さん ばかり 相手に して ゐる 平生と はう つ 

て變 つて、 聲も 態度 も 緊張して ゐた。 無愛想 極まる ダッヂ も、 牧師 臭い セィ ャァ も、 見榮も 外聞 

も 無く 媚びた。 二人とも、 最初 は 社交的な 中部から 來た娘 をめ あてに レてゐ たが、 ダッヂ は 間 も 

無く 西部から 來た 女の 方に 方向 を轉 じた。  • 

僕 はぁゝ いふ 浮氣 つぼい 女 は 嫌 だ、 家庭的の 女が 好きな の だと、 一 をお としめ、 他 を ほめて、 

あけすけな 口 をき いた。 彼 は、 妻になる 女 を 見つけたら、 學校を やめて、 收入 のい、 會 社に 勤め 

ると、 常々. 揮ら す 云って ゐる 程あって、 一 日 も 早く 相手 を 見出し 度かった らしい。 

兎に角 男 達に とって は、 夏期 講習 會の 開かれる 事 は 一 の 希望だった。 ダッ ヂとセ ィャァ は、 去 


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ハ 牛の 講習 會に 出席した 女、 一昨年の 講習 會に 出席した 女の 事な ども 思 ひ 出して、 互に 嗒 しあった。. 

今年 こそ は、 とい ふ 期待 は 無理 も 無い のであった。 

ライアンと ウィルス ンに とって は、 新来の 客 は 面白くなかった。 長い間 一 緖にゐ る 若い 男 達が、 

曾て 一 度 も 自分 達に は 示さなかった 優しい 態度 を 執る の を 見て は 愉快で はない。 その 人々 のゐな 

い 時には、 棘の あるかげ 口 をき いた。  • 

矢 張 二 ユウィング ランドの 人達と は 違 ふ、 二 ユウィング ランドの 女 は、 着物 は 質素で も その 心 

のま ことが 光って ゐる など、、 年甲斐 も 無く ライア ンが 3S. 奮す ると、 ウィルス ンも 調子 を 合せて、 

お、 あの 若い 娘さんの 衣裳の 好み は 如何で せう、 私が 若し あ、 いふ 色彩の 物 を 身に つけたら、 き 

つと 頭痛が して 堪 へられな いに 違 ひ 無い など、 可愛くない 事 をい ふので あった。 

二人の 男 はそんな 事に は 頓着し なかった。 恰も 春と 秋の 或 期間に 於け る 犬の 如く、 活潑に 又 憂 . 

鬱に、 絶えす めあての 人の 姿と、 その 幻影 を 追って ゐた。 

日本の やうに、 世話 好の 仲人が 巧妙に 組合 はせ て災れ る 便利な 風習が 無い ので、 戀 愛に もとづ 

く 自由結婚と いふ 美名の もとに、 醜く あへ ぎ 悶えなければ ならない ので ある。 私 は、 一概に 日本 

め 結婚 を 野蠻だ と 思って ゐる 外國人 に、 外國の 結婚 も 決し て 自由 にして よき 選 擇の行 はれない 事 


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々人の 卓 食 


を屢々 指摘した。 昔の 王様の 如く、 天下の 美女 を 集めて 勝手に よりどり 出来る やうな 結構な 身分 

ならばい ざしら す、 さう で 無い 限り は、 ゆきあたりばったりぶ つかった 男女が、 いっしょになる 

のが 事實 である。 私 はまの あたりに、 結婚し 度くても 相チが 無くて 困って ゐる 幾多の 男女 を 見て、 

我國の 仲人 制度の 極めて 穩 健の 美風なる 事 をお もった。 

夏 も 終に 近づいた が、 ダッヂ もセィ ャァも 努力の 甲斐な く、 講習 會 はおし まひに なって、 め あ 

ての 人 も ちりぢりに 此の 地 を 退散した。 氣短 かの グッヂ は、 西部から 來た 女に 結婚 を 申込んで 斷 

られ たとい ふ 噂だった。 本人 は、 あの 女 は 心臓 を 持って ゐな いなど、、 惡ロを 云って ゐた。 

新學 期の 始まる 頃になる と、 町に は又學 生が 出水の やうに 四方から 姿 を あら はし、 十六 番館も 

賑 かにな つた。 吾々 の 食卓に は、 三人の 新顔が 加った。 

ミ ス . プラット  女學 校の 先生 

ホ ウス  雜誌 「青年の 友」 記者 

レド ファン  宗敎學 校學生 

此の 中で、 前の 二人 は 十六 番 館に 部屋 を 借りた 人で、 後の 一人 は、 私 同様、 他所から 食事 丈し 

に來 るので あった。 


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ミス • フラットの 年齢 は 想像が つかなかった。 頭髮も 眉毛 も眞白 だが、 顔 は 若々 しく はり 切つ 

て、 血色 もよ く、 割合に 短い スカ アト を 着け、 踵の 高い 靴 を 穿いて、 元氣 よく 足 を 運んだ。 その 

白 髮の爲 めに、 一寸見に は 五十 以上に 見える が、 たかだか 四十になる かならない 年配ら しかった。 

眞靑な 瞳の 艷 5 と 濡れて ゐる服 は、 西洋人に は 珍しく 眼 尻が 釣 上り、 鼻 は 際立って 高く、 それが 

ソォセ H ヂの やうに 何 處迄も 同じ 太 さで 延びて ゐた。 負ん 氣を 示す 堅く 一  文字 を 引いた 口から、 

男性的の 聲が 角張って 出て 来た。 些か 月並で は あるが、 天狗のお 面に よく 似て ゐた。 何事に も 意 

見 を 持って ゐて、 且 他人 を 自說に 服 させなくて は 承知の 出来ない 根性が 強かった。 

例の 通り、 二 ユウィング ランドの 傳統的 精神 を 偉へ 守って ゐ ると 確信して ゐる ライアン を はじ 

めと して、 女達 は 此の 侵入者の 論 爭癖を 嫌った。 

チヤ アル ス • ホウ スは 頑丈な 體軀を 持つ、 元氣 のい、 靑年 記者だった。 廣ぃ 額、 高い 鼻、 堅く 

結んだ 口、 すべてが 正直な 性格 を 表示して ゐた。 あまりに 正直で、 それが 時には 強情の 形 をと る 

爲め、 瞬間 的に は 面白くな く 思 はれる 事 も あるが、 一般に 誰から も 好かれる 人間だった。 

レド ファン はホ ウスの 學校 友達で、 宗敎學 校の 學 生に は 違 ひない の だが、 別段 祌學に 深い 與味 

を 持つ ので も 無く、 將來 牧師に ならう と考 へて ゐる わけで も 無かった。 うまい.: H 事も疾 いから、 


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々人の 卓 食 


もう 少しの 間學 生々 活 をして ゐた 方が い、。 それに は 月謝の いらない 宗敎學 校が 一 番 よから うと 

いふ 程度の 吞氣な 人物だった。 強度の 近視眼で、 短く 太い 鼻の 尖 は 上 を 向き、 おまけに 猫背と い 

ふ 頗る 風采の あがらない 男だった が、 少しも 毒の 無い 好人物で、 みんなに 愛された。 

正直 ー圖 で、 曖昧な 事 を 嫌ふホ ウスに とって、 なるやう にし かならない と 悠長に 構へ て ゐるレ 

41 ま 

ド ファンの 態度 は、 時に じれったくて 堪らない ものであった。 度々 いひ あ ひ をした が、 仲の い、 

事 は 無類だった。 レド ファン はホ ウスの 子供つ。 ほい 眞 正直 を 好み、 ホウ スは レド ファンの 悠々 迫 

ら ない 心境 を、 內心 ひそかによ しとして ゐた。 

その 頃、 ハ ァヴァ アドの 學生將 棋俱樂 部から、 日本の 將棋を 知って ゐ るなら 敎 へて くれと 賴ま 

れて 二三 度 出かけた 事が あった。 亞米利 加の 學生閒 に は 西洋 將棋 がさかん に 行 はれ、 HI ル對 〈 

ァ ヴ ァ ァ ド の 對校 試合 も 催された。 

將 棋を敎 へに 行った 事 を 食卓で 話す と、 ホウ スは ひどく 乘氣 になって、 自分に も敎 へて くれと 

いふ。 早速 私の 宿へ 伴って、 紙片で 駒 をつ くり、 一般 規則 を敎 へる と、 もとく 西洋 將棋の 素養 

が あるので、 直にの みこみ、 生来の 一 本氣で 夢中に なって しまった。 それが きっかけ になって、 

^と 彼と は 大の冲 よしに なった。 


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間も無く ホウ スは, 「日本の 將棋に 就て」 と 題す る 一 文 を 「靑 年の 友」 に 載せた。 

又、 秋が 廻って 來た。 落葉樹の 多い 町の 景色 は、 晴れた 曰の 空に 金粉 を 撒く やうにか^ やかし 

かった.。 それが 時雨に うたれ て 腐れ、 果實の 香 を 漂 はせ るので あった。 

不意に、 ダッヂ は 十六 番館 を引拂 つて 郊外に ー戶. を 構へ た。 案內 をう けて たづね て 見る と、 さ 

きに 私が 賴 まれて 日本から 取 寄せた 錦繪 をべ たいち めんに. 壁に 掲げた 客間で、 同じく 渡來 した 茶 

器 をつ かって、 私の 母が 心 を 添へ た綠 茶に 砂糖と 牛乳 を 加へ て 出した。 かねての 望み通り 妻を迎 

へる 事に なった ので、 學校を やめて 瓦斯 會 社の 技師 長に 就任した のであった。 どうい ふ徑路 で、 

相手 を捉 へた か、 私 はき、 もらした。 

私 は その 前の 年に、 第 一 著作 集 「處女 作」 と、 第一 一 著作 集 「その 春の 頃」 を 出し、 ひきっ^ き 「一二 

田 文學」 と r ス バル」 に 時々 作品 を 載せて 貰って ゐ たが、 私が 小說 作家 だとい ふ 事 は、 同じ 大學に 

學ぶ 日本人に も 知らせなかった。 知られる 事を好まなかった。 それ は 私の はづ かしがり である。 

私に は 文壇 生活 は 無かった と 云って 差 支ない が、 處女 作を發 表して からの 文學 生活 も旣に 十六 年 

に 及んで ゐ るのに、 未だに 人が 私の 前で、 私の 作品に 言及す ると、 ゐた、 まれない 氣 がして 爲方 

が 無い。 人に ほこる 丈の 作品が 無い からで も あらう が、 ひとつ は 性分で ある。 


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々人の 卓 食 


ところが、 誰から 傳 はった のか、 私が 小說 作家 だと 知った 1 日本人が、 私の 食卓の 者に 之 を 喋 

つた。 それから 後、 人々 の 私に 對 する 興味が 深くな り、 著しく 態度が あらたまった。 殊に その 日 

本人が、 素人 一流の 大袈裟で、 曾て 私の 作品なん か 讀んだ 事 も 無い のに、 無責任に ほめ 立てた の 

である。 忽ち 四方から、 長 篇小說 か 短篇 か、 どうい ふ 題材 を 取扱 ふか、 本の 賣行 はどう だと. か" 

さまざまの 質問が ふり か 、- つて 來た。 こんな 小僧々々 した 若者に、 小說 なんかが 作れる のか しら 

日本人の いふ 小說 とい ふの は、 歐羅巴 や 亞米利 加で いふ 小 說とは 違 ふので は 無いだら うかと 考へ 

迷 ふ顏色 を、 露骨に 見せて ゐる 者が 多かった。 

私 はすつ かり 參 つてし まつ. て、 食事が 濟 むと そこそこに 退散しょう とした。 すると 後から 聲を 

かけて、 天狗の 御 面の プラットが 追 かけて 来た。 一寸 二階の 自分の 部屋 迄來て くれない かとい ふ 

ので ある。 

狭い部屋に 膝 をつ き 合せて 腰かける と、 プラット は 傍の 書棚から 一冊の 本 をぬ き 出して、 これ 

は 自分の 書いた 採 偵小說 だが、 紀 念の 爲 めに やる から 讀んで 批評 をして くれと いふ。 私 は 愈々 閉 

口して、 探偵 小說に は餘り 興味 を 持たない と 相手の 心 持な どに は 頓着な く 答へ たが、 どうしても 

承知 しないので、 その 一冊 を 貰って 歸 つた。 ありふれた 人殺しの 小說 で、 どの 一 頁に も 興味 を感 


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じる 事が 出來 なかった。 本 は 今 も 私の 本箱に あるが、 二度と 讀む氣 はしない。 

その後 間も無く、 ホウ スは 少年 向の 短篇 小說を r 靑年の 友」 に 載せた。 彼 はかね て小說 作家たら 

ん とこ 、ろざして ゐ たの だと 云って、 處女 作の 發 表に 昂奮して ゐた。 

犬 を 愛する 靑 年が、 山に 銃獵に 行き、 誤って 泥沼に おっこちる。 もがけば もがく 程から だは 沈 

んで 行く。 犬 は 主人 を 救 はう とする けれども、 力が 及ばない。 日が 暮れて 星の 夜と なる。 結局 犬 

は 主人 を殘 して 村へ かけつけ、 村人 を 引 張って 來る。 朝、 しらじらと あけ 行く 山頂の さに 小. 几の 

聲 しきりなる 頃、 來援の 手に 主人 は 救 はれる とい ふ 筋 だ。 むかし 「少年^ 界」 で 讀んだ 話に も かう 

いふの があった。 少年に 讀 ませる の だとい ふ 事 を、 徹頭徹尾 念頭に 置いた 型通りの 御 話で ある。 

私に は 面白くなかった。 . 

しかし、 ホ ウスの 目的 は 話の 筋に は 無い。 細かい 自然 描寫を 行って、 想像力の 畳 富な 少年の 心 

を 秋の 山野に つれて 行かう とい ふの だ。 正統派に 屬 する 健康な 文章に 自信 を 持って ゐた。 彼 は、 

破格の 文章 を 少年 雜 誌に 載せる の はよ くない、 何事に も 染み 易い 年少者に は、 正しき 修辭法 以外 

の 悪癖 をつ け 度くない と 云って ゐた。 私 は 些か 顏が 赤くな つた。 我が 日本の 文壇で は、 正しい 文 

章 は卽ち 古しと いふ 誤った 先入 觀 念が はびこって ゐる。 わざと ひねったり、 わざと 訛ったり して 


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々人の 皁貧 


それが 新しい と 信じる 惡 傾向が ある。 そんな 新し さは 一時の 事で、 忽ち 腐って しま ふに 違 ひ 無い 

の だ。 . 私 は 少年 雜誌 編輯 者と しての ホ ウスの 心 懸に贊 成した。 

ホウ スは ナサ 二 エル. ホ才 ソン を 最も 崇拜 して ゐた。 手 取 早く かたづける 亞米利 加 特有の 「小 

說 作法」 とか 「如何にして 小說を 作る ベ きか」 とい ふやうた 本 を、 一 生 懸命に なって 讀 んでゐ たが、 

その後 短篇 作家と して 認められ たとい ふ 噂 をき いた。 

私の ケ ムブ リツ ヂ 生活 も、 一 日々 々とおち つき を 見出して、 二度目の 正月 を迎 へた。 金の 乏し 

い 事 丈 は 辛かった が、 次第に 馴染の 深い 人 も 殖えて 来た。 一生 此の 地で 暮らして もい k やうな 氣 

も 起きて 来た。 けれども、 私に は歐羅 巴へ 行き度い 氣 持が 更に 強かった。 . . 

.亞 米 利 加の 短い 春 は、 舞踏 をす る やうに 叉 廻って 来た。 私の 好な ライラックの 花が、 家々 の 垣 

根に 強烈な 香 を 立て、 窓に 吹 入る 風 迄 も 匂 ふ 頃の 學校 町に は 別れと もなかつ たが、 夏の 始に、 思 

ひ 切って 紐 育へ 向って 出立した。 

宿の 御婆さん は 深く 歎いた。 娘の ル ウスが. 學校を 卒業したら、 もう 一度 加奈陀へ 行き、 其處の 

女學 校の 體操 敎師 になる 害 だから,、 自分 も 一緒に 行く 積り だが、 二度と 逢 ふ 機會は あるまい、 お 

前に は 外に 申 分 は 無い が、 いくら 勸 めても 基督 敎徒 にならない のが 氣 がかり である。 自分 達 は 死 


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んで. から 天 園に 行かれる が、 基督 敎 徒で 無い 者 は 同じと ころへ は 行かれな いと、 淚を 流して ロ說 

いた。 

十六 番 館の 人達 も、 それぐ 別れ を惜ん だ。 女 は、 老も 若き も區 別無く 淚と いふ 武器 を 持って 

ゐる。 傲 頑なる 體 操敎師 ウィルス ンを 例外と して、 みんな 淚の 餞別 を くれた。 主婦 ゲ H ヂは、 自 

分と 息子 ヂ ョ ォヂの 寫眞を 記念に くれた。 

私 は 一 夏 を 紐 育で 過した。 不意に 起った 歐羅 巴の 大戰 爭の爲 めに、 見合せ た 方が よいと いふ 人 

もあった が、 巴 里も陷 落す る惧れ はない と 見込が ついた ので、 もう 一度 フォ オル • リヴァ を 夜船 

で 下り、 秋の ケムブ リツ ヂを 訪れた。 

一週間、 十六 番 館の ホ ウスの 部屋に 同居して、 叉しても 淚の 餞別 を 受けた。 

それつ きり 私 は 亞米利 加 をた つたので ある。 

最初の うちこ そ 時折た よりもして ゐ たが、 さるもの は 日々 にう とく、 遂に クリスマス 狀 さへ 出 

さなくな つ た。 

中で、 一番 長く 文通して ゐたホ ウス は、 私が 巴 里に ゐる 頃に 結婚した が、 間も無く 亞米利 加が 

獨 逸に 對 して 宣戰 を布吿 すると、 直に 義勇兵と して 銃劍を 執った。 戰 地へ は 行った か 行かない か 


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々人の 卓 食 


知らないが、 正直 一 圖の彼 は、 最もよ き 兵士であった であらう 

私 は 大正 五 年に 日本へ 歸り、 現在 も 勤めて 居る 會 社に 職 を 求めた が、 その 翌年の 秋 突然 レド 

ファンが 會 社の 玄關に 姿 を あら はした。 上 を 向いた 低い 鼻 は 笑の 皺の 中に 消えて しま ひさうな 上 

機嫌で、 固く 握手 を か はした。 彼 は 何等の 計畫も 無く、 日本に 何 か 仕事が あるなら 幸 ひだと 

位の 呑 氣な考 で やって 來 たのであった。 ホテルへ 着いて" 私の 名 を 云って 調べて 貰 ひ、 やう やく 

此處に たづね て來 たの だと 云った。 

東京に は 二週間ば かり ゐ たが、 すっかり 日本が 氣に 入って しまった。 日本の 酒もう まい、 喰べ 

る 物 は 鰻 も 天婦羅 も 刺身 も 結構、 就中 鳥 鍋 は 何よりの 好物に なった。 鍋 を 買って 歸 つて、 たった 

1 人の 母親と 食卓で 樂 むの だと 云って 居た。 何事に も 拘泥し ない 性質 だから、 旅人 だか、 永年 日 

本 馴れた 人間 だか わからなかった。 料理屋の 大廣 間で、 お 酌と いっしょに 踊 も を どった。 

彼 ま 十六 番 館の 消息 を もたらした。 古い 顏 ぶれの 食卓 は 今 も 大體變 り は 無い が、 ミス • プラッ 

トは 先年 避暑地で 變 死した。 畫家 になら うとい ふ 跛の ヂョ ォヂ が、 或る 山間の 溪 川の 邊に 天幕 を 

張って 寫生 をして ゐ る ところへ たづね て 行き、 探偵小説の 作者 もしば らく 共に 住んで ゐ たが、 一 

日 高い 絶壁の 上から 墜落して 死んだ。 それが 自殺 か、 過失 か 判明 しないと いふ 事だった。 


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ホ ウス はしき りに 雜 誌に 短篇 小說を 書いて ゐる。 旣に 男の子の 親に なった とい ふ 事だった  g 

レド ファン は 日光と 京都 を 見物 するとい つて ゐ たが、 それから 如何い ふ 旅程 をと つたの か 私 は 

知らなかった。 吞氣な 男で、 決して 葉書 一 枚 さへ 寄越さなかった。 

間も無く、 私 は 勤務先の 命に 依って 大阪の 支店 詰と なった。 數 箇月 後、 はじめて 京阪の 春に 接 

した 頃、 叉 不意に レド ファンが あら はれた。 彼 は 一度 亜米利加へ 歸り、 今度 こそ は 日本で 仕事 を 

見つけようと 計畫 して 再び 渡來 したので あった。 私は會 社の 仕事が 忙しかった ので、 次の 日曜日 

に 京都の ホテルで 落 合 ふ 約束 をして 別れた。 しかし、 その 日曜日に 私が 都 ホテル を たづね ると、 

その 客 は 昨日 勘定 を濟 ませて 立った、 多分 奈 良へ 行った の だら うとい ふ 帳場の 話であった。 相 も 

變ら ぬ風來 山人に、 私 は 腹 も 立たなかった。 奈 良へ 行った のなら、 叉 大阪へ 立 寄る に 違 ひ 無い と 

思って 心待ちにして ゐ たが、 それつ きり 彼の 消息 は 無くて、 旣に十 年た つた。 恐らく は、 日本に 

い、: H 事 を 見出さす、 亞米利 加へ 歸 つたので あらう。 

とう 

月日 は素晴 しい 勢で 過ぎて 行く。 我が 食卓の 人々 も、 中には 御婆さんが 多かった から 多に 死 

ん だの も あるで あらう。 私 は、 はからす も 若い 友達から 来た 椿 葉書に 誘 はれて、 むかしの 人の 面 

影 を 描いて 見た。 そして、 友達に は 次の やうに 返事 を 認めた。 


々人の 卓 金 


拜 w、 ワシントンの 楡の 木の 繪 葉書な つかしく 存候 小生 を 記憶 するとい ふお 婆さんと 中 

年の 紳士が 誰なる か 是非とも 知り 度 あの人 か 此の 人 かと 其 後の ベ つに 想 ひ 迷 ひ 居候 就而雜 

誌 「三 田 文學」 九月 號に 「食卓の 人々」 と 題す る 一 文 を 寄稿 致 候に 付 不日 出 市の 上 は 御 送り 可 致 

候 間 御 一 讀被下 度 其の 人々 の 中の 誰と 誰に 御 逢 ひなされ しか 御 一 報 被 下 候 は y 此の上 も 無き 

よろこびに 候 (大正 十五 年 八月 三日) 


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後記 

本書に 收錄 した 作品 は、 長 篇小說 「倫 敦の 宿」 及び 作者 自ら 隨 筆と 呼ぶ 「伊太利 亞の 女優」 他五篇 である。 悉 

く 先生が 大正 三年から 大正 五 年までの 外 返 中に 取材され た 作品で ある。 元来、 先生の 隨筆は 「貝 穀 追放」 に總 

括す ベ きで はない かとい ふ 意見 も 出た が、 旣に單 行 本 「貝殼 追放」 の 刊行され た 以後に 於ても、 これらの 作品 

にー隨 筆」 の 文字 を 冠し、 他の 著作 集に も收錄 されて ゐる 事實に 鑑み、 殊に r 隨筆」 とい ふ 項目 を その ま X 保存 

する 事に、 編纂 實行 委員 會 に 於て 決定 したので ある。 

「倫敦 の 宿」 

第 一 部 「英京 維, 記」 は 大正 十 年 一 月 號卽ち 復活 前の 「三 田 文學」 (第 十二 卷. 第 一 號. } から 大正 十 一 一 や」 へ 月號ま 

で 連載 さ れ た ものである。 大正 十一 年 四月 號 所載 の 原稿 末尾 に 「英京 锥記 は 完結の 積り でした が 家內に 取 込 

が 出来て 意ゃ果 す 事が 出来ませんでした 讀者と 編輯 擔當 者に 御 詫び 致します。 作者」 と 附記され て あ る が、 

後 續 いて 二 ヶ月 後に 完結 を 見た。 後 、外遊の 收穫 たる 作品 集 「葡萄酒」 (大正 十 一 年 十月 十八 日. 東光閣 書店 發 

.1 行) に收錄 されて ゐる。 


1 


第: 一 部 「都 塵」 ii 復活 後の 昭和 七 年  一 3 號 「三 田. K 學」 (第 七卷 • 第 一 號) から 昭和 八 年 四月 號 まで 連載され た- 

これ より 先、  昭和 七 年ヒ月 長男 優藏君 出生 父と なられた 先生 は、 同 八 年 一、 一月 明治 生命 保險 株式 會社 取締役に 

選ばれ 總務 主事 を 兼務し、 社務 愈々 繁忙 を 極めた 中に、 書き 進められた ものである。 先生の 四十 七 歳の 春で 

あった。 , 

長 篇小說 「倫敦 の 宿」 (昭和 十 年 五月 二十 一 日 • 中央 公論 社) 上梓の 砌り、 「英京 雜記」 を 第 一 部と し 「都 塵」 を 

第二 部と して 一 卷 とされた。 

「伊太利 亞の 女優」 

大正 三年 十月 號 「三 田 文學」 に發 表。 先生 留學 中に 取材した 作品 集 「亞米 利加紀 念帖」 (大正 九 年 七月 五日 • 

國文堂 書店 社發 行) に 收錄。 

r 口 バ アト ソン 一世一代」 

大正 三年 十 一 月號 nn 田 文學」 に發 表。 前記 「亞米 利加紀 念帖」 に 收錄。 

「ファン 二 ィの處 女 作」 

大正 四 年 十月 號 「三 田 文學」 に發 表。 「亜米利加 紀 念帖」 に 收錄。 

「久しぶりに 芝居 を 見る の, 記」 

大正 六 年 一月 號 「三 田 文學」 に 「觀劇 雜感」 の 題名で 發表。 前掲の 題名 は 傍題で、 「^米 利加紀 念帖」 に 收錄の 


2 


記 後 


際、 改題され たもので ある。 

「無名 會の 「喪の 潮」」 

大正 六 年 二月 號 「三 田 文學」 に 同じく 「觀劇 雜感」 の 題名で、 前揭を 傍題と して 發表。 「亞米 利加紀 念帖」 に收 

錄。 

「食卓の 人々」 

大正 十五 年 九月 號 復活 ニニ 田 文學」 (第 一 卷 • 第 六號) に發 表。 創作 集 「月光 集」 (昭和 四 年 十 一月 五日 • 大 岡 

山 書店 發行) に 收錄。 

「倫敦 の 宿」 の 校訂 は 原稿 を原據 とし、 その他の 作品 は 揭載雜 誌 及び 單行本 を 照合した。 经 假名、 措 辭の不 

統一 は敢て 補正せ ず、 當 時の 先生の 慣用され た 原形 を 再現す るに 努めた。 

校正に は 八 木 三郞、 荻野忠 洽郞、 平 松 幹 夫 三 君の 助力 を 得た。 (和 木淸 三郞) 


3 


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配給 元 1^1^ 瞬き i 日本 出版 配給 株式 會社 


昭和. h 六 年 t 月 t '五 日 印刷 

昭和 十六 年 十月 二十日 發行 


水上 瀧太郞 全集 六せ 

會 費參圆 


東京 市 神 田^ 一  ッ捣ニ 丁目 H 番地 

發 行者  岩波 茂 維 

, 東京 市 神 田 E 銪町三 丁! H 十一 番地 

印刷者  白 井赫太 M 

東京 市 祌田區 一 ッ橋ニ  丁目 一 1 一番 地 

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